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mansongeの「ものぐさ本舗」第10〜14号
鶏林(ケリム)望見
--韓国人の歴史:「近代」を失い、奪われた「国民国家」--
「鶏林」とは「ケリム」と読み、新羅の都だった慶州の一地名である。そこは、もと「始林」(シリム)と呼ばれた樹林であった。鶏鳴に導かれてそこで見出されたのが、金の櫃(ひつ;はこ)に入った閼智(アルジ)であった。すなわち、後ちの新羅の世襲王氏となる金氏始祖である(「金」氏は金櫃に由来する)。これが鶏林の由縁であり、王家金氏始祖の降臨地であることから、新羅国全体の雅名となった。それがさらに以後も半島王朝の雅名として引き継がれたわけだ。そこを日本から望み見ようという企画が「鶏林望見」である。
(一)序
「韓国」あるいは「朝鮮」という言葉に、日本人であるあなたは何をまず思い浮かべるであろうか。世間ではご承知の通り、日本の扶桑社制作の歴史教科書をめぐって、韓国や中国で囂々(ごうごう)たる非難が沸き起こり、また小泉首相の靖国神社参拝もあり、何かと喧しい限りである。1988年のソウル・オリンピックのとき、「初めてだけど懐かしい国」という韓国旅行を誘うCMコピーがあったことをご存知だろうか。
その通りなのである。私は残念ながら実際には渡韓したことはない。しかしながら「ニッポン民俗学」で朝鮮には何度も旅をした。そこで感じてきたことは、まさに「日韓同祖論」であった。とは言っても、短絡した考えを抱いているわけではない。もしたとえそうであったとしても、互いにもう思い出せないくらい昔のことであり、いまは別々の国であり民族であり、いまさら同祖論とはアナクロニズムであることは十分承知している。
それはともあれ、つい近日までは両国関係の改善を精力的に進めてきていたはずの韓国がなぜこれほどまでに「歴史問題」に固執するのかが、日本人たる私には分からない。私はそれで、かえって「韓国」なり「朝鮮」なりに改めて興味を持った。そこで、韓国人が捉える「朝鮮の歴史」というものをあれこれ考え、読者とともにその理由なり背景なりを探ってみることにしたい。なお、ここでの「朝鮮人」と「韓国人」はほぼ同義で、区別なく用いたい。
▼歴史とは現在を語るものである
「歴史」とは逆説である。失われた記憶を取り戻すことが回想なら、「民族」=国民(ともに"nation")の記憶を取り戻すことが「国民史」という歴史かも知れない。偉人伝の幼少時代がしばしば将来を示唆するエピソードで彩られているように、私たちの歴史も現在に予定調和するように過去は再構成=「創造」(想像)されている。一番向こうの過去からこちら側に順に積み重なって来ているものが歴史ではない。回想と同じように、現在からはるか過去の方向に向かって伸びているものが歴史である。
日本や中国の国民史と同様に、韓国あるいは朝鮮のそれもまたそういう歴史である。しかしながら「朝鮮史」という国民史は、1945年8月15日の光復節(注)から48年の南北国家分立までのわずか三年間の幸福な時間のためにあるように、筆者には思える。そんな国民が、自分たちがいかなる「民族」であり、どのような過去を歩んで来たかを存在証明しようという切ない回想が朝鮮史である(少なくとも筆者は、これからそういうものとして述べようとしている)。
(注)大韓民国での祝日名で、日本の植民地支配から解放されたことを祝う日である。朝鮮民主主義人民共和国では「解放記念日」と言う。「8月15日」とはそれほどの日なのである。
朝鮮史をよくご存じない方にも、そのごく概略だけでも知ってもらおうというつもりでいる。しかし、すべてをバランスよく書くわけにはいかないし、もとより筆者にそれほどの知識も力量もなく、偏ったものに成らざるを得ない。あらかじめご容赦を頂くとともに、ご自分でも眉に唾をつけながら斟酌頂きたい。朝鮮史理解のポイントは、筆者の考えでは、古代史と近代史にある。だから、そこを中心に述べるつもりだが、どうなることやら。いつものことながら、保証の限りではない。
▼近代という「青春時代」を奪われた歴史
まず、筆者の結論めいたものから述べよう。朝鮮人は日本人によって「自立の時代」を永久に奪われてしまったのだ。人間個人にとって「自立」とは、ふつう自我に目覚める青春期に体験するものだ。現代国家にとっては、「近代国民国家」というものを自ら作ったときがそれに当たる。朝鮮史の近代の開幕は1860年代とされるが、それは1910年の大日本帝国による併呑によって幕を閉じられた。つまり、朝鮮にとっての「明治維新」は日本によってあらかじめ奪われてしまったのだ(中国では1911年に「辛亥革命」として「成人式」が挙行されている)。
これが根本トラウマである。これは「明治維新」を持つ日本人には理解できない痛みである。日韓併合に至った朝鮮側の未熟さはもちろんあったが、ともあれ永久に「自立の時代」=「朝鮮人による近代国民国家樹立の機会と時間」は奪われてしまったのである。併合の中でも新知識や技術を蓄え、解放後の国家のための準備はそれ相応に出来てはいただろうが、「自分たちの近代」という時代は失われていた。言わば、「青春時代」に自ら大人に成ることを奪われ、気がつけばすでに大人に成っていたようなものである。
さて、国家が「近代」において見出さなければならないものは「国民」であった。それが朝鮮では「民族」であると規定されている。別稿で何度も述べたように、実は「民族」とは虚構である。しかし、「青年」であった戦前日本、辛い「青春時代」を過ごした中国などと同様に、朝鮮人も「国民」と「民族」とを混同して理解しようとする。そして、現在につながる過去はすべて「民族」すなわち国民(nation)の歴史であったと思おうとし、そのようなものとして、過去の歴史を回想するのである(注)。
(注)「国民国家」から生み出されたのが「民族」概念である。つまり、民族が国民国家を作ったのではなく、国民国家の正統化のために民族概念がある。なお、有名なスターリンの「民族」定義とは、ロシア語「natsiia」(国民)の日本語への翻訳語にすぎない。「民族」とは、日本国民が「日本民族」の歴史的存在証明のために造語した日本製漢語なのである。
(二)「民族」の「始まり」について
▼檀君を始祖とする古朝鮮
では、朝鮮の「始まり」について述べよう。朝鮮史は「檀君(ダングン)神話」から始まることになっている。檀君というのは『広辞苑』によると、「朝鮮の開国神話で、天命によって降臨した、古朝鮮の開祖。名は王倹。檀樹の下に降臨した天帝の子恒雄(ファヌン)と熊女(ウンニョオ)との子。平壌に都し、1500年間統治したという。朝鮮民族の始祖・象徴とされ、檀君を崇拝する民間宗教もある。韓国で一時使用された檀君紀元の元年は西暦紀元前2333年。」とある(「一時」とは、大韓民国の初代大統領・李承晩政権下でのこと)。
お分かりのように、日本では神武天皇の役割だ。これが韓国の「国定歴史教科書」にちゃんと載せてある。「古朝鮮」というのは、半島に前漢の植民地である楽浪郡など四郡が置かれるまでの時代を言う。紀元前二世紀の終わり頃までである。朝鮮人はしばしば「朝鮮民族は五千年の歴史と文化を持つ」と言うが、その論拠がこの檀君紀元なのである。古朝鮮の領域は、後ちの中国満州のおよそ南半分と現北朝鮮の北半分にほぼ相当すると同教科書には図示されている。
朝鮮史ではこの古朝鮮がすべての前提である。「朝鮮民族」はかつてこの領域にあり、やがて半島すべてに拡がったというわけだ。だから、高句麗人はもちろん、渤海人もまた、初めから「朝鮮民族」なのである。古朝鮮の記録は、古代日本と同様、中国にしかない。そこでは、周が箕子という殷人を「朝鮮」王に封じた(箕子朝鮮)とあり、次いでその国を衛満という燕(今の北京を都とする分封国)人の武将が襲って奪い、新王朝(衛氏朝鮮)を開いたとある。これを前漢の武帝は倒し、四郡を置いたのだ。
▼「古朝鮮」史を「国民史」と言えるか
わが紀記の建国神話が本当に古来からの言い伝えではないように、建国神話とは意外にも、歴史と同様、作られたものである。たとえ史実の投影があろうとも、せいぜい成立期のその一昔前程度のものにすぎない。檀君神話が顕在化するのは高麗時代のことで、蒙古来襲の十三世紀に僧侶の一然が著した史書『三国遺事』にその神話は初めて明確に語られる。奇妙なことにそこまでの間には、高句麗・百済・新羅が鼎立した三国時代や約260年間の統一新羅の時代が寡黙に横たわっている。
韓国教科書の言い分はこうだ。さすがに実在とはしないが、「檀君」に擬せられる王が生まれるほどに朝鮮文明は十分に熟しており、しだいに古朝鮮王朝として成長していったと。だから、中国文献に登場する伝説の「箕子」とは実は朝鮮人であったか、古朝鮮の一部を担った「中国人」(注)であろうと。また、実在と認めてよい衛満は確かに燕に居たが、「民族」的には朝鮮人であったろう。なぜなら、王都(平壌か)へ入場のとき、「朝鮮民族」の風俗をしており、それに「朝鮮」という国名も引き継いだのだから、と述べる。
(注)これも現在から逆算した奇矯な言い方ではある。たとえその「中国人」を「漢民族」だとしても、現在の漢民族ではないのだから。
「民族」(nation)とは、実は近代国家(nation-state)を前提とした言い方である。まあ、そこまでは言わないまでも、古代人がそのまま現在の国民になったとは言えない。わが日本でも、長らく中央政権に従わなかった関東以東の「毛人」や「蝦夷」は、少なくともその時点では日本「国民」(nation)と呼べないであろう。だから、古代日本史とは正確には日本列島地域史であって、決して日本「国民史」ではないのである。同様に、古代朝鮮史とは朝鮮半島及び満州地域史として理解しなければならない。
にもかかわらず、朝鮮人はなぜ「檀君」を、そして「古朝鮮」を持ち出すのか。言うまでもなく、「朝鮮」の望ましき「始まり」を語りたいがためである。「朝鮮」は中国文明とは独立にあり、かつ現国土よりも広大な領土を有する「民族」であったと語りたいがためである。揚げ足を取るようで心苦しいが、檀君紀元とは中国の堯舜神話の堯帝即位年から弾き出されたものである(注)。それに、古朝鮮の版図とは「朝鮮民族」ではなくツングース族の拡がりであり、それはかえって「民族」の起源について馬脚を晒してしまっている格好なのである。
(注)全くわが神武紀元と同様、後世の操作によって作られた代物である。そうしなければならなかったことは、「朝鮮」への中国文明の影の深甚さを逆証明する。
▼三国時代から新羅統一まで
檀君建国−箕子朝鮮−衛氏朝鮮の後ち、前漢による四郡設置である。この植民地が現平壌やソウルあたりの半島主要部を支配・経営している頃、周辺地域では諸族が古代国家に向けて成長していっていた。南満州の扶余(ブヨ)、そこから分立したと言われる高句麗の二国が北にあり、半島東部には沃沮(オクチョ)や東ワイ(トンイェ)があった。そして半島南部には辰(チン)が成長していた。そこからは三韓(馬韓・弁韓・辰韓)が、さらに百済・加羅(駕洛)・新羅が登場する。
後漢の衰えとともに、特に高句麗の活動が活発になり、燕地−遼西(遼川西域)−遼東(同東域)−朝鮮領を結ぶラインで激突が始まる。後漢末の豪族・公孫氏、それに替わった魏、次いで晋も、楽浪郡南部を帯方郡に再編するなど維持・再建に努めたが、313年ついに高句麗によって中国植民地は滅ぶ。こうして満州東南部から半島北部までを領有することになった高句麗の前に現れたのは、半島南西部の馬韓領域を統一した百済、そして南東部の辰韓領域を統一した新羅であった。この三すくみの情勢を三国時代と言う。
中国植民地の時代がわが列島では弥生時代におよそ相当する。そしてこの三国時代は古墳時代にほぼ平行してあり、676年の新羅による統一で終結する。当初、最も強大な高句麗が優勢で、倭国は加羅(任那)問題や百済支援などで、渡海して高句麗とも戦ったという。しかし実はこの三国時代は中国の混乱がそれを可能にさせたものであった。強国・高句麗の背後に、ついに統一を成し遂げた隋、さらに唐が迫る。
結局、半島を制したのは唐と連合と結んだ新羅であった。この情勢を受け、わが国では645年に大化改新が起こり、663年には百済救援のため援軍を送るも、白村江で唐・新羅連合軍に大敗を喫して、とうとう百済は滅亡する。わが国ではさらに672年に壬申の乱と激震が続く。668年には、高句麗も連合軍によってついに滅亡。新羅は植民地再建を画策する唐を果敢に半島から駆逐し、676年に半島を単独統一する。
▼「朝鮮」と「韓」という問題
ここで「朝鮮」と「韓」ということを考えておきたい。奇しくも、現在の北朝鮮は「朝鮮人民共和国」、そして南朝鮮は「大韓民国」という国名である。「朝鮮」という名は、すでに述べたように実は中国あるいは北方系のものである。それに対して「韓」は「三韓」の通り、朝鮮半島南部に発する名である(現在の南北分断の現実がこの記憶を改めて呼び起している模様で、互いに「韓」あるいは「朝鮮」は禁句であると聞く。例えば、韓国では「朝鮮史」とは言わず「韓国史」と呼ぶ)。
実はこれは、まさに「朝鮮民族」の生成そのものに関わる構図なのである。「朝鮮民族」とも「韓民族」とも言われるが、どうして北方の「朝鮮」と南方の「韓」がイコールなのであろうか。ひとまずの解答としては、三韓の一国である新羅が半島統一を初めて成し、最長で最後の王朝が李氏の「朝鮮」王朝であったことをあげておこう。しなしながら、問題の本質はそうではない。「朝鮮民族」とは何であるかという問題なのである。
朝鮮(韓)人も日本人もモンゴロイドである。詳しい出所は不明であるが、日本人は縄文人と弥生人との混血人種であろう。同様に、朝鮮人とはツングース人と韓人との混血人種なのである。つまり、「朝鮮民族」とはいくら早くとも新羅による半島統一以降の融合産物と言わざるを得ない(注1)。そういう意味で、扶余人や高句麗人は、それに渤海人も「朝鮮人」ではない。まだ、北方ツングース人の段階である。もしも強引に彼らを「朝鮮人」と言い張るなら、仇敵であったはずの女真・満州人(注2)も「朝鮮民族」とせざるを得ないと思うがどうだろうか。
(注1)朝鮮語もそういう産物の一つである。朝鮮語は、日本語と同様に「中国」語(漢語)の核と吸引力によって初めて実質的に形成された言語と考えるべきだろう。
(注2)渤海はツングースの靺鞨(まっかつ)人の国で、後ちに女真人と呼ばれたが、彼らが朝鮮に攻め入った金や清の王朝を興した。
別稿でも述べたのだが、韓人(注)とは華南からやってきた古アジア人である(彼らこそ、列島へ水稲耕作を運んだ弥生人でもある)。少なくとも北方ツングース人とは全くの別族である。北方と南方とのせめぎ合いから「朝鮮民族」は誕生した。これで良いのである。現代の南北の呼称論議は歴史的な問題ではなく、すでに融合して誕生した朝鮮人を反歴史的に解体・分解しようとする実質無効の政治的攪乱(かくらん)であるに過ぎない。
(注)念のために申し添えておけば、百済人、加羅人、統一以前の新羅人もまた、そのままでは「朝鮮人」ではないということだ。
(三)統一新羅と高麗王朝、そして再びの朝鮮王朝へ
▼三つの統一王朝と日本の時代区分
新羅による統一以降を整理しておこう。日本史に比べて、朝鮮史の政治区分は明解である。易姓(えきせい:王族の姓がかわる)革命の王朝交替であるからだ。
- 金氏による統一新羅(676〜935年、259年間) 王都:金城(現慶州)
- 王氏による高麗(918〜1392年、474年間) 王都:開京(現開城)
- 李氏による朝鮮(1392〜1910年、518年間。ただし、1897〜1910年は「大韓帝国」の国名) 王都:漢城(現ソウル)
統一新羅の時代は、わが奈良時代と平安初期に相当する。なお、新羅と平行して、旧高句麗の北領部には渤海国(注)があった。新羅と対立しながら、大陸文明の一国として、わが国とも親交浅からぬものがあったことを付言しておく。次の高麗は、平安から鎌倉時代にほぼ相当する。元寇はこの時期のものだった。そして李氏の朝鮮は、何と室町から江戸時代を越え、明治43年に至る王朝である。豊臣秀吉の朝鮮侵攻から日韓併合まで、同一王朝下での出来事なのである。
(注)699年、旧高句麗人(高句麗遺民)と連合した靺鞨(まっかつ)人が唐を押し退けて建国した。当初、震国と称した。むずかしい問題だが、人種的にはともにツングースで、筆者にはその違いはむしろ建設した国家から来ているように思われるのだが。
▼統一新羅の時代
新羅の領域は、実は半島北端には至っておらず、平壌も唐の支配下にあった。現国境線は李氏王朝のときに定まった。新羅の統一以来、朝鮮人の主張はかつて高句麗が領有した南満州までが朝鮮領土だというものだ。王朝国家が言うならまだしも、現代朝鮮人がこう言うのは、結局、檀君の古朝鮮の領域に淵源する幻想である(それは新羅と渤海を合わせた以上のものを望むことだ)。別稿で述べているが、そもそも王国や王朝に「国民」は存在せず、その領土も「国民」のものではない。主権者は各々の王であり、領土はもちろん領民さえもその王たちの私有物である。
それはともかく、勝利者たる新羅は飛躍的に拡張した領土と領民を、骨品という身分位階制度に基づく新羅貴族たちに論功行賞として分け与えた。そして唐王朝にならい、中央集権的に支配しようとする。しかし平和はやがて貴族社会を固定化させ、統一から百年経った八世紀後半からは、中央で王族金氏を中心にした王権を争う殺し合いが始まる。次いで、地方では貴族の収奪に耐え切れなくなった農民たちの暴動が頻発していく。
こうした動きと結び付いて、地方豪族が育っていった。十世紀頃になると、とうとう王を僭称する者が現れる。それが旧百済の故地である武州(現全羅道)地域を制した「後百済」と、旧高句麗南領を制した「後高句麗」である。新羅王権はもはや王都周辺の地方勢力と堕した。これを「後三国時代」と言う。それにしても、豪族たちの命名に注目願いたい。これは単に前の「三国時代」を意識したものだけだとは思えない。統一新羅に溶け込んだかに見えた「百済」や「高句麗」はどっこい生きていたと言うべきだろう。真の統一や融合への道は遠く険しい。
付け加え的で申し訳ないが、新羅の文化について一言。国教とは布告されなかったが、新羅文化の背骨は同時期の日本と同様、仏教である。よく言われることであるが、朝鮮文化は長らく日本文化の兄(注)であった。その一例を挙げておく。日本の華厳宗総本山は東大寺であるが、その華厳宗は新羅華厳宗の流れを汲むものである。かの、お水取り(修二会)も新羅仏教文化の匂いに満ち満ちている。
(注)ただし、親である中国文化を仕入れるための、である。ここに日韓の古代文化理解の齟齬のもとがある。このあたりのことについては、稿を改めて考えてみたいと思っている。
▼高麗の時代---「三国(二族)融和」問題
高麗は、後高句麗(泰封国)下の一豪族であった王建が、918年にそれを乗っ取って建てた国である。後百済を大敗させた高麗に、935年ついに新羅王は投降する。翌年には後百済も滅ぶ。時に936年、統一高麗王朝の始まりである。大陸に直接隣接する半島は、いつも大状況の中に置かれることを強いられている。後三国時代も、大唐の衰退が背景にあったと言えよう。その弛みに満州では契丹人の国が膨張し、渤海はこれに滅ぼされる(注)。中国に侵入した後、彼らは遼と名乗るが、それは高麗にも襲いかかって来た。
(注)渤海人たちは多く高麗に逃げ込んだ。これでもって、高句麗人→渤海人→高麗人という「朝鮮人伝説」がつながったわけだ。
この高麗史こそ、受難の涙史と言ってよい。1000年前後には契丹に王都まで侵略されるがこれを跳ね返して、かえって半島北端まで奪取し、長城を築いている。しかし12世紀に入ると、今後はその遼を滅ぼしながら、女真人(金)が襲う。高麗はこれに服属している。さらにその金を滅ぼして、蒙古人が襲いかかってきた。30年ほどの抗戦の後ち、高麗はついに蒙古の支配に屈する。その強圧的な属国化は約100年に及んだ。
この高麗時代にはいくつかのポイントがある。朝鮮史の曲がり角であったが、内外の困難で曲がり切れずに次の李氏の朝鮮にバトンタッチした感はあるが。まず「高麗」という国名であるが、これはもちろん「後高句麗」を踏まえたものである。ここには明らかに南部の韓族であった征服者・新羅への「高句麗人」としての対抗心がある。中国同様の科挙制が採り入れられるが、これは新羅人以外の貴族に官途を開くためである。その一方で、新羅貴族を取り込み、また新羅諸制度も継承されていた。
この「三国(二族)融和」問題は、朝鮮史を貫き、現在の南北間の齟齬的感情にまで至っているように思える(わが国の東西文化対立もそうだが)。新羅末に中国から本格的な風水思想が入ってくる。この基本は都城地理や古墳玄室内壁画での、東西南北の四神相応などとしてご存知だろう。道教的なものは東アジアで盛んだが、日本では暦の六曜など陰陽道として、朝鮮では霊的地理の風水説として現在も根強く民衆に信じられている。
太祖王建は十ヶ条の遺訓を残したが、その八番目にこの風水説に基づき、現全羅道地域は地形が「背逆」の相にあり人民の心もまたそうだから、そこからは人材を登用してはならない、と説かれてあった。これは風水だけによるものではなく、高麗統一時に、後百済が最後まで抵抗した記憶もあったことだろう。ともあれ、旧百済人末裔たちは以後、地域差別を受け続け、中央官職から排除されてきたことは事実である(注)。朝鮮史を貫く農民暴動も、実はこの全羅道地域を中心に起こることが多く、また最も強盛であった。その「伝統」は、日清戦争を呼び込んだ東学農民戦争までに至る。
(注)それは、当地出身の金大中氏が現大統領に就任するまで続いていたと言ってもよいほどだ。この地域間の感情対立は、選挙時の各候補者への支持地域を見れば一目瞭然である。なお、全羅道差別とは別に、東北部の咸鏡道への地域差別等もあった。両地等への差別は李朝にこそ本格化する。
▼高麗の時代---蒙古の襲来と支配
高麗の項で思わず長くなっているが、もう一つ述べておかなければならないのは、蒙古支配前後によって変化していった政治と思想の流れである。太祖王建の遺訓の第一条には、仏教帰依が説かれている。護国仏教である(わが国との平行現象と言ってよい)。そこに費やされたエネルギーの膨大さは、いまも海印寺にあり世界遺産に指定されている仏典彫板『高麗八万大蔵経』に残されている。この事業は三次にわたっているが、北方からの外敵襲来に見合うものであり、文字通り仏教の功徳(霊力)によって国を護ろうとした営為であった(先述した『三国遺事』もこの頃の成立だ)。
しかし一方で、儒教経典に基づく科挙を始めていることからも分かる通り、早くから儒教も採り入れられており、文武官僚(両班)たちは儒者化していた。1135年には、妙清という僧侶が西京(平壌)で、仏教解釈と風水説から西京への遷都を強く主張して反乱を起こした。これに対して、文官儒者の金富軾らは反対し、翌年ついに武力制圧した。こうして、前代の仏教と次代の儒教との対立が始まった(文官と武官の対立もある)。なお、新羅建国から書き始められる、朝鮮初の史書『三国史記』はこの金富軾によるものであり、自身の新羅金氏の血脈が高麗王族に流れ込んでいることを証明しようとするものであった。
相次ぐ内憂外患は武官の力を高める。ちょうどわが国で武士による鎌倉幕府が開かれたように、同時代の12世紀末には、武官崔氏による政権が誕生する。このまま歴史が進めば、以降の日本のような分封国の時代が訪れたかも知れない。しかしそこに蒙古が襲来する。たまたま今NHKの「大河ドラマ」で「蒙古襲来」が日本初の国家存亡を賭けた大変な戦いとして描かれているが、笑わせてはいけない。日本は対馬や壱岐、北九州沿岸を暫時襲われただけのことである。
1232年、崔氏は王都対岸の江華島に王家と官僚を引き連れて逃げ込んだ。これからが凄い。本土の領民には徹底抗戦を命じ、蒙古軍はこれに応えるかのように数次にわたり半島を南北しながら略奪・殺戮をほしいまま繰り返した。その間、島の中では何が起こっていたか。何と、武官崔氏と文官たちとの党争である(これこそがもの凄い!)。文官が勝利し、1259年に太子(明年、元宗となる)は蒙古に行き、降伏した。
その後の約100年間、高麗王は「宗」の称号ではなく「王」を名乗らされ、かつ蒙古皇帝の娘を王妃とさせられていた。日本侵攻への従軍も、蒙古への完全なる服属下での出来事である。その支配の長さは、鎌倉幕府の滅亡年を越えてある。しかしその苦難のほとんどは領民が背負い込んだ。「事大主義」の高麗貴族は中国王朝となった元へ臣従することで自らの利益を守ろうとする。王も見方を変えれば、皇帝の婿となったのだからと(事実、モンゴル人の血は王族に流れ込んだのである)。
▼朝鮮の時代へ
高麗末期の悲惨さは、両班たちが統治ではなく党争を政治だとして微塵の疑いも持たなかったことだろう(これは次の李朝でも同じだが)。朝鮮は伝統的に中央集権の国である。しかしそれもこの頃には崩れ、すでに大地主化していた寺院とともに貴族たちの私荘園が拡がっていた。結局、どんな世であれ自分の利益になりさえすれば現状維持でよしとする親「元」・仏教派の旧貴族支配層と、ともあれ現状打破を求める親「明」・儒教派の科挙官人や新興層との対立へと収斂していく。
大状況はまたもや流動し始めていた。ようやく元は衰退し始め、中国では白蓮教徒の紅布の乱が膨れて、そこから朱元璋が現れ、モンゴル人を北へ追いやり、1368年に明を建てる。一方、半島では南部沿岸を中心に倭寇による被害が拡がっていた。これに当たり大功を立てていたのが、やがて朝鮮王朝を開くことになる武官・李成桂であった。高麗貴族はこの大状況に対してどうしたのか。元と明のどちらを「大」とするかの「事大主義」党争である。
李成桂は親元派に指示されて、蒙古と連合して明を討つため、鴨緑江まで進軍する。しかし情勢を深く読んだ李成桂はその中州で取って返して、開京へ攻め込み、親元派の王と貴族を追放した。かくして、親明・儒教派の世となり、1392年ついに李成桂は禅譲を受けて、自らの王朝を始める。太祖である。国号の「朝鮮」は、もう一つの候補「和寧」(李成桂の出身地である半島北端部・咸鏡道南端の永興の別称)とから、明皇帝に選んでもらったものである。これは中国と関係の深い「朝鮮」を選び、独立色の強い「和寧」を避けたとも言える。
(四)李氏の朝鮮王朝
〈第4代・世宗〉
▼文治集権の王朝国家
さて、李朝である(注1)。いまの日本人の基本気質、例えば「島国根性」や「県民性」は江戸時代の所産ではないか、とよく言われる。これに対し、いまの朝鮮人の基本気質を決めたのは、ずばりこの李朝時代である。ここでの影響の大きさに比べれば、高麗までの歴史なんてほとんど無視してもよいくらいである。その「遺産」は南北境界線を越えて、いまも厳然とある。それは大政治から小生活まで覆い尽くす「儒教」である(注2)。ともあれ、この王朝の性格について述べよう。
(注1)この章で何を書くか(=何を書かないか)は案外むずかしい選択ではある。迷った挙げ句、以下のようにごく何点かに絞り込んだが。
(注2)「儒教」とは、日本でのような「儒学」(学問)ではない。ある「宗教」や「道徳」としてのそれである。本稿では国民気質に染み込んだ儒教は取り扱わないが、いずれ別に考えてみたい。それに、儒教の人間普遍主義はキリスト教なぞの似非ヒューマニズムに比べ格段の文化主義であったが、これについても別途考えたい。
朝鮮は、儒教それも朱子学を国教とする文人国家である。しばしば非難のタネとなる「事大主義」すら、もとは『孟子』の一節に由来する。孟子は、自分の国を保つ小国の知恵として「以小事大」の礼を説く。その例として、殷を討つ前の周・大王が北狄たる匈奴に事(つか)え、また、嘗胆(しょうたん:苦い胆をなめる)して報復を誓う越王・勾践(こうせん)が南蛮たる呉に事えたことを挙げている。要は、名を捨て実を取ることができるのが、智者たるわが朝鮮だという自負をここで担保したのである。
文人国家というのは、科挙官僚国家であり、かつ武官に優越して文官(合わせて両班)が支配した国ということである。朱子学を含めて諸制度は中国のもののアレンジであるが、文治主義と中央集権制が強かったことに特徴がある。官僚は全三六階級から成り、大きくは十二階級ごと上中下の区別があり、高級官僚は上位の「堂上官」が占めた。身分は世襲であり、両班(=地主)、中人(実務官僚)、良民(農工商)、賤民(奴婢他)の四階級があった。
政府は「議政府」と呼ばれ、日本の律令国家平安王朝の「太政官」に相当する。中央官庁(六曹)や全国行政区分(八道)等もほぼ同様に考えてもらってよい。違いは日本では次に戦国時代と呼ばれる分封国家段階に移行しようかというこの15世紀に、改めて強固な「律令国家=王朝」を築いたことである(これ自体は中国でも同じで、いや中国に見習っているのだから当然なのだが)。そして大陸用の中央集権制を、中国に比べて狭小の半島で額面通りに徹底するとどうなるかという「実験場」と李朝は化した。
地方長官はほぼ一年任期で転々とした。在地勢力とさせないためである。高麗後期に拡がっていた私田はすべて没収され、官僚には公田が支給された。その田は王都漢城のある京畿道内にすべてあった。田地はしだいに世襲田となり公田制は崩れていったが、それ以上の経済活動は厳しく統制され、中央政府に対して一定の自立的な力を持った地方の政治勢力はついに現れることはなかった(注)。それから、徹底的な文治主義は、時とともに国家の軍事力を痩せ細らせていった。
(注)ハングル文字を創制した最盛期の名君・世宗(在位1419〜50年)に仕えた儒者・申叔舟(シンスクジゥ)の手になる日本研究書『海東諸国記』によれば、室町期の大内・細川・山名氏などの大名たちは「幕府」に対しての「独立勢力」に見え、日本は将軍の支配する統一国には見えなかった。
▼儒者の党争の始まり、夷たる倭人と胡人の襲来
日本の南北朝を合一させた足利義満は、明皇帝の臣下になることにした。そして朝鮮とも国交を回復した(1404年)。奈良時代末の779年に新羅との使節交換が途絶えて以来、実に625年ぶりのことであった。それからしばらくは国家間では泰平が保たれる。すると朝鮮では何が起こるか。まず、王位纂奪劇などがあった。そして、そう、両班の党争である。仏教が敗退し、武官が敗退した後は、儒教文官同士の党争が残っていたからだ。殺し合いの政争は、国家整備が終わった15世紀末から開始された。士林や儒林と呼ばれた彼らは、初めは「東人」と「西人」に二分し、その後小分裂を繰り返し、王朝の滅亡まで党争を続けた(注)。
(注)党争の本格化は16世紀後半以降である。分派を挙げれば、南人、北人、大北、小北、骨北、功西、清西、少西、老西、…。また、各派が信奉する名儒を祀る「書院」という儒学所が各地に建てられ、これを介した荘園が徐々に拡大していった。
そうした貴族たちの「眠り」はいつも外寇によって破られる。中央の京畿道では平穏無事であったかも知れないが、日本は戦国時代に入り、ますます倭寇が朝鮮や中国の沿岸地帯を徘徊していた。豊臣秀吉が織田信長に代わって天下統一に乗りだした頃、満州では後ちの清を建てる女真人がヌルハチに率いられて活動を拡げていた。朝鮮では、秀吉軍の侵入を言わば「大倭寇」と捉えている。これを「壬辰・丁酉の倭乱」と呼ぶ(「壬申の乱」などと同様、朝鮮の事件は「干支」がつく)。
ご存知の通り、加藤清正や小西行長らが「活躍」するのであるが、上陸してわずか三週間で漢城が、二ヶ月で平壌が陥落した(注1)。これには日本軍の勇猛さ以外に、朝鮮側に二つの理由がある。民心の乖離と国軍の貧弱さである。少なくとも平壌陥落までは、日本軍はほとんで抵抗を受けていない。それどころか、漢城の民衆は役所に火を放って奴婢証文を焼き捨て、また王・宣祖が平壌を捨てて逃げるときには石を投げつけている。ともあれ、宗主国・明の軍事力(特に大砲)と義兵決起、それに高級文官からは侮蔑された武官の英雄・李舜臣の水軍によって、王朝は危機を脱する(注2)。
(注1)日本軍が漢城へと駆け上った道は、皮肉にも李朝が室町幕府の使節が行き来するために指し示した平和の道であった。
(注2)日本と朝鮮は、徳川家康が1609年に対馬の宗氏を通じて国交を回復している。江戸時代の「通信使」はその賜物である。しかしその復交時の使節は「回答兼刷還使」(国書への回答と「倭乱」時の捕虜送還のための使節)であり、朝鮮側は日本への疑心をもって国情視察を兼ねて使節を送り出していた。朝鮮国内へも、先の轍を踏まぬように釜山までに留め、それ以上の進入を許さなかった。「倭乱」以降、日本は油断ならぬ凶暴な「倭夷」という記憶が、近代での「仮洋夷」(洋夷モドキ)視への伏流となって流れ込んでいる。
倭人が終われば、胡人である。胡人とは女真人であり、彼らは全満州を糾合し「後金」と名乗った。その頃、朝鮮では何が行なわれていたか。そう、党争である。1627年、後金は朝鮮に侵入する。この時は、兄弟的関係に入るということで和を結んで引き上げた。その後、後金は蒙古平原を征服して「汗」(カン)の称号を受け、自ら中国皇帝として「清」と国名を改めた。その通知を朝鮮に送るが、明のみを「皇帝」とする「尊明排清」の親「明」派によって、国書は拒絶された(これは後年、日本が差し出した「天皇」の「皇」の字が入った開国通知を拒絶した論理と同一である)。
これに怒った清は大軍をもってたちまち漢城まで攻め込み、四面楚歌となった王・仁祖は降伏した(1637年)。以後、朝鮮は清に事大の礼を取ることを強いられることとなった。これを「丁卯・丙子の胡乱」と呼ぶ。その後、三国関係は安定するが、そうなるとどうなるかは言うまでもない。そして、これら五十年ほどの間に起きた争乱で、誰が最も重荷を背負い込んだのかも言うまでもないだろう。近代の幕開きまで、党争と民衆暴動が延々と繰り返されるのである。
「小中華意識」について触れておこう。「漢族」の明による中国(中華)は「夷狄」たる満州族の清によって、1662年に完全消滅する。中国人よりも中国人であった朝鮮両班は、中国が消えた今よりは朝鮮人が中華を担うと自負した。かくして政治的には清に事大し、思想的には中華として君臨する「神州」と朝鮮はなった。清に服属を強いられたときから抱え込んだこうした矛盾は、それから200年を経た近代においてこそ、屈折して噴出せざるを得ない運命にあった。
(五)朝鮮の近代、あるいは近代の中の朝鮮
▼王朝末期の朝鮮
ようやく「近代」を叙述するところまで来たが、ここまで辛抱強くお読み頂いた方々はいかなるご感想をお持ちだろうか。ご憤慨の向きや初めて知って驚きをお覚えの方もいるだろう。先述の通り、前近代史とは「国民史」ではない。王朝史であり、それは文化を含めて、主として支配者たちの内外興亡史である(異質の両者を無理やりにつなごうとするのが「民族史」という神話である)。だから、統治に「成功」した王朝国家には、下克上や地方割拠などの社会変化は無用なのである。
19世紀後半の段階での李朝について整理しておこう。まず改めて確認しておくが、日本が明治維新を果たした直後に出会った朝鮮とは、西欧諸国や日本が経験した「封建制」なぞを経ない「王朝国家」だった(中国も同じ)。言わば、後醍醐天皇の建武新政が成就して、再び律令王朝国家がそれからずっと続いていたような政治状態だったわけだ(誤解のないよう急いで付言しておくが、わが江戸時代と同様、政治停滞と社会進展の遅滞とは必ずしも並行するものではない)。
次に、まもなく500年にも及ばんとする中央集権と文治主義であるが、これらは中央志向と地方分断、それに両班の急増と軍隊の弱小化を生み出していた。現在のソウルは一千万人以上が住む大都市で、韓国の全人口の実に25%を占めているが、これは李朝期からの延長なのである。また、他に比べ、ソウルでのホワイト・カラー(現在の「文官」)就業への集中も目立っている(注)。中央がすべてを決定していた李朝では、地方はそれぞれタテに中央につながり、つながろうとしていた。後ちにも触れるが、それが義兵の蜂起にまで貫かれ、ついにヨコに連帯した抵抗や独立運動にまで成長することができなかった。
(注)次に書くことからも含めて、韓国人には実業蔑視の傾向が今もある。特に自営的な商工業に就き続けることには心理的な抵抗があるらしい。日本的な「何代にも続く職人」なぞは侮蔑の対象であっても尊敬のそれにはならないのである。ある意味では、朝鮮人とは古代ギリシャ市民のように「働かざる人」である。
また、両班でなければ仕官できない閉鎖性は、いつしか「自称」両班を急増させていた。17世紀までは総人口のせいぜい7%だったものが、19世紀後半期には49%にもなっていた。人口の半分が「支配階級」の国家なぞ前代未聞である。ただし、両班=任官ではなく、多くは仕官浪人であった。両班自身は他の生業に就いてはならず、それがためにまた任官をめぐっての中央までタテにつながる党争を激化させていたのだ。
軍事力については本稿でも散見してきた通り、元来は隋を撃退した高句麗、唐を排除した新羅はもちろん、その後も結局は屈服したとは言え、最強のモンゴル帝国とも戦ってきた尚武の国である。しかし、国際安定と国内での文官優越主義は、武官や軍隊の軽視を極端にまで押し進め、日本を含めた近代欧米諸国に出会ったときには、最早、自力で国家防衛できる軍隊は存在しなかったと言うに等しい状態だった。それが「宗主国」清に、またある場合には日本やロシアに庇護や後見を求めなければならなかった理由である(注)。
(注)近年の、例えば金泳三政権が「文民政権」ということを強調したのは、「文民統治が正統政権」という李朝の歴史が国民の無意識的な受容の前提になっているからである。また、軍事軽視は現役政治家を含めた社会上層子弟の「兵役拒否」としていまも続く。
本節ではもう一つだけ述べたい。それは「実学」である。形而上学たる朱子学に対して、制度論や技術論など経験的・実証的な「形而下学」たる学問の流れを言う。17世紀以降に盛んになり、開化運動の一つの源流となった。特に「北学派」(西洋人も出入りする清の都・北京から先進文物や技術を学ぶという主張から他称された)の実学者であった朴趾源(パクジウォン)の孫が、後述の朴珪寿(パクキュス)である。また、実学とは中人階級(実務官僚)の学問でもある。彼らは開化運動を媒介することになる。
▼以降のアウトライン
ここで、これ以降の猫の目に変わる政局について見通しを与えておきたい。いくつかの軸がある。主軸になるのは、支配層内での「衛正斥邪」(尊華・鎖国攘夷)対「開化・独立」の流れであろうか。非支配層や地方では農民運動、農民を巻き込んだ地方儒生による義兵運動が起こり、中央上層へ錯綜した圧力が掛けられる。さらに、国外からは清と日本とロシアが当事者として李朝末期の王室を激しく動揺させ、それらすべてを他の欧米諸国が取り巻いて、朝鮮のためではなく自国権益のためにその動向を注意深く監視していた。
鎖国攘夷策は1876年、日本への開国によって破れて、近代化への試行錯誤が始まる。しかし82年の旧軍反乱を機に、宗主国・清の干渉が強まり、頭越しに日清の相克が深まる。中央上層での政治闘争に農民闘争が加わり、「革命」情勢はいよいよ錯綜し、干渉者日清両国は勝手に戦争を始める。これを勝ち抜いた日本のやり口に対して、義兵が蜂起するが、統一行動にまでは至らない。一方、国王はロシア公使館へ逐電してしまう。自らの西方政策の貫徹にはもはやロシアを排除するしかないと腹を括った日本はロシアに戦争を挑み、ついに朝鮮(大韓)を併合してしまう。
近代日本は確かに侵略者となってしまうが、初めから「狼」であったわけではない。津波のように押し寄せる欧米列強から、揺籃期にある近代日本をいかに守るかが至上命題であった。その一つが中国との宗属関係を断ち切った朝鮮の中立化あるいは友好国化であり、その前提として自国防衛のできるだけの近代化があった。最悪のシナリオは、中国にしたように欧米列強(とりわけロシア)が朝鮮を食いちぎってそこを軍事基地化し、その近接の地から日本に襲来することであった。西郷隆盛らの「征韓論」とはそういう焦りであった。
▼大院君の執政---「衛正斥邪」の時代
1860年、第二次アヘン戦争とも呼ばれる対清侵略のアロー号戦争は、英仏軍が首都北京を占領し、屈辱条約を呑ませることで終結した。同年、ロシアが沿海州にまで進出し、朝鮮国境と接境した。また、フランスが策動するカトリック信仰の布教も盛んであり、言うまでもなくこれは侵略の尖兵として活動していた。しかし中央は外戚による勢道政治という腐敗の中にあった。63年、王家傍流の高宗(併合直前まで在位)が即位し、これで外戚がかわった。そしてこの国家的危機に際し、65年、王の父・興宣大院君が摂政に就く。
大院君は「名君」であり、同時に「暗君」であった。大院君は、私的土地所有を拡げて農民を搾取していた腐敗両班と不良儒生の温床であり、各地に乱立していた書院を大整理し、民衆の喝采を浴びた。また、両班内の党派や出身地による差別を撤廃し、自らのための人材を抜擢した。それから、豊臣軍によって焼失したままであった王朝のシンボル景福宮の再建を、財政逼迫にもかかわらず、多くの人民を使役して強行した。間違ってはならない。これらはすべて王朝専制の復古政治であり、中央集権的君主制の強化であった。その方向で国難を乗り切れるという浅慮であった。
対外政策にそれは明白となる。66年以降、カトリック教徒への大弾圧を始めた。9名のフランス人神父が処刑、8000人以上の信者が惨殺された(注1)。同年、アメリカのシャーマン号が通商を求めて平壌に、またフランス軍艦が報復に江華島に向かうが、それぞれを撃退する(注2)。これが「衛正斥邪」の思想である。正(=儒教)を衛(まも)り、邪(=異教)を斥(しりぞ)ける。中華の正統たる朝鮮を正としそれ以外を邪とし、華夷秩序を守ることである。ここから「攘夷」が出る。しかし、それ以上に致命的な問題は、客観情勢を峻拒している自己中心的な世界観である。
(注1)いまソウルの中心地に建つ明洞聖堂(カトリック教会)は、1897年5月の完成である。ちなみに「崇儒排仏」の李朝では、仏教僧侶は弾圧されてついには賤民扱いとなるが、17世紀前半からは漢城の都城内への出入りも禁止されていた。その撤廃措置は1895年のことである。
(注2)欧米列強の案外あっさりとした撤収は、他の戦略地域(例えば中国)に比べて緊急性と重要性を優先的には感じていなかったからである。しかし日本にとって「朝鮮問題」は戦略的に第一優先事項であった。
近代化を進める「仮洋夷」日本の修好(開国)要求国書は、先述のようにその「華夷秩序」をはみ出す形式であるが故に拒否された。中国のみを「皇帝」とする華夷秩序では「天皇」は「日王」であったのだ(注)。そんな字句にこだわるようなことは止め、実を取った議論と政策を進めなければいけないと主張したのが、開化派の開国論者・朴珪寿である。にもかかわらず大院君は、朝鮮以上に混乱していてそれどころではない清に臣下の礼をとり、外交政策の指南を求めた。こうして大院君は朝鮮近代化の一機会を喪失してしまったのである。
(注)この「日王」という呼称は、「華夷秩序」とは無縁なはずの戦後も、そして表音文字ハングルが全盛となり「皇」の漢字を気にすることのない現在でも一部で続けられている。
▼日本による開国から清による再属国化まで
1873年、大院君は王妃(閔妃)の外戚閔氏によって降板させられる。勢道政治の復活である。日本はこの機を捉えて、朝鮮に開国を迫る。東アジアにおける権益に対して多大の関心を持つアメリカは、シャーマン号以降も何度か開国要求を試みていたが、未だ達することが出来ずにいた。日本は「洋夷」アメリカの支持を得て、「ペリー提督の故知にならう朝鮮の平和的開国」に邁進する。事実、釜山や江華島への「砲艦外交」(砲撃)と、宗主国・清を牽制することによって日本は朝鮮の開国に成功するが、この考えは「倭夷」の「仮洋夷」への変貌と断じるに足る。一方の朝鮮は、旧知「倭夷」との近代的形式による「旧交」回復にすぎないと高を括っていた。
76年、ともあれ開国した朝鮮は日本と清に外交使節や留学生や視察団を送り、情報収集を行なって近代化策を学び始めた。また、日本の要求で79年に釜山、80年に元山、遅れて83年には仁川(現在は国際空港がある)を開港する。閔氏一族は保身以外に主体的な国策をついに持たなかったが、政権は守旧派を抱えつつも、ひとまずは開化派主導でゆるゆると進み始めた。しかし、根本的には清への事大主義は続き、これは95年の日清戦争後の下関講和での宗属関係解消、さらに97年の「大韓」の「皇帝」宣言まで自ら克服できなかった。
81年、旧軍から80名を選抜し、近代軍としての訓練を日本軍教官の下で始めた。このとき、国軍は旧式銃を持ったわずか二千数百名であった。82年、この新軍設置への危惧やこれまでの不満が旧軍兵士の中で爆発し、漢城で暴動を起こす。これに民衆や新軍までが呼応し、官庁や閔氏の屋敷、日本公使館を襲撃し、王宮に乱入した。壬午軍乱である。反乱軍は復古派の大院君を呼び戻し、摂政に復帰させた。これに日本は軍艦を繰り出し対処に乗り出すが、その前に、排除された閔氏政権が宗主国の清軍を王都に招き入れたのであった。
清は暴動を鎮圧した後、大院君を天津に拉致・抑留し、閔氏政権を復活させる。清はその後も首都・漢城を軍事制圧し、さらに宗属関係を明記した近代的な通商条約を結ばせ、中国式の近代化に導いた(注)。ここに日本が意図した、朝鮮の清からの独立と日本主導の近代化策は頓挫する。一方、政界内では従来の「党争」ではない、初の近代的「政治的対立」が生起していた。これまで朝鮮の政治とは、開化派も含めて「王朝政治」の振れの範囲内にあったのだが、これに異を唱える政治的勢力「独立党」が登場したのだ。
(注)このときの駐朝大使は袁世凱である。なお、このあと欧米列強とも次々に修好条約が締結されていった。
▼独立党のクーデタ---政治の近代改革への試み
独立党とは、金玉均(キムオッキュン)、朴泳孝(パクヨンヒョ)、徐光範(ソグアンボム)らを指す。ちなみに、事大開化(体制内改革)派にとどまった政治家には、金弘集(キムホンジプ)、金允植(キムユンシク)、魚允中(ヲユンジュン)らがいる。開化・独立党への流れは、実学に発する。前出の朴珪寿、また中人階級の実務官僚である劉鴻基(ユホンギ;医師)と呉慶錫(オギョンソク;訳官)らの薫陶を受けたサラブレッドたちが、独立党の金玉均や朴泳孝らである。なお、彼らは福沢諭吉にも直接、自主・独立の意義を教えられていた。
84年、金玉均らはついにクーデタを決意する。日本の後援を期待していたが、対抗する清がベトナム問題でフランスと戦争中であったからだ。金玉均は後ちに決めつけられたような「日本党」ではなかった。英公使や米領事とも盛んに意見交換し、世界情勢を見極めている。欧米は、朝鮮半島へのロシア南下を清と日本が防ぎ、これを英以下が支援するという態勢を望んでいた。金玉均はこうした列強のバランスの中での中立独立を企図していた。事実、この時点で日本が朝鮮を単独支配できる力はなかった(注)。
(注)日本は、依然「眠れる獅子」と目されていた清との直接対決を慎重に回避していた。また、日清戦争勝利後も、三国干渉に従わねばならなかったように、半島周辺での日本のプレゼンスは列強には叶わぬ程度のものであった。
日本公使の支援を受けながら守旧派の閔氏高官を殺害・排除した金玉均らは、新政治綱領を発表する。上からのブルジョア(近代市民)的政治改革であった。ところが、袁世凱ら率いる1300名の清軍がその日の午後には王宮に進入してきた。百余名の日本兵はなす術なく撤退し、王を清側に引き渡した朴泳教(パクヨンギョ)や洪英植(ホンヨンシク)らは清軍に殺害され、竹添日本公使を始め金玉均や朴泳孝らは漢城を脱出し、仁川を経て日本へ逃走した。これが甲申政変である(注)。
(注)以上(以下もそうだが)の相次ぐ政変劇は、日清両国や朝臣たちが全くの独断専行でしたことではない。ほとんど一々、たとえ形ばかりであろうとも王の裁可を仰ぎ、それに基づいての行動なのである。残念ながら、そこには微塵も叡慮(王として国の行く末を思う主体性)が見られない。もちろん、王を取り巻く閔氏一派については言うべき言葉を持たない。
かくして自主独立改革路線の芽は、内外の「協働」によって摘まれた。事件は一応、日清両国軍が半島から撤退する痛み分けの天津条約(85年)で収拾された。すると閔氏一族は、今度は昨年に修好条約を結んだばかりのロシアに接近を始める。ロシアはアフガニスタンでイギリスと衝突していた。ロシアの東アジアへの南下を怖れる英軍は、半島南方の巨文島を占領し、これに備える。宗主国・清の李鴻章は、閔氏牽制に大院君を帰国させるとともに、朝鮮監視役として袁世凱を送り込んだ。時間は、清とロシア(91年シベリア鉄道建設に着手)のにらみ合いのまま推移していく。
▼甲午農民戦争と日清戦争
甲申政変から自主独立へ向けてはほとんど無為の十年を経た1894年、金玉均は上海に渡航するが、そこで閔氏派刺客の手にかかり暗殺され、その死体も「親日派」(国賊の謂)として切り刻まれ晒されるという凌辱刑を受ける。その翌月、甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、その戦火は日清戦争に飛び火していく。
東学とは、1860年に慶尚道慶州の没落両班・崔済愚(チェジュウ)が創始した天人一如を宗旨とした教えである。それは西学たる天主教は言うまでもなく、支配学たる儒学儒教をも異端とする、東国朝鮮農民のための「朝鮮教」であった。60年前後に高まっていた社会的危機感を受け、民衆的基盤に拠る啓示として立ち現れた。東学は武闘を否定したし、目指すところは身分制度を宗教的に止揚した平等社会の実現であった。しかし教祖は「左道乱正」というまさに儒学のみを正学とする異端の罪で64年に処刑された。これを第二代・崔時亭(チェシヒョン;二人は親子ではない)が受け継ぐ。
異端であった東学農民は、地方官吏や悪徳両班から絶えず不当な収奪と迫害を受けていた。これへの抗議と教団合法化を求める集会を幹部が92年に開き、数千の農民が各地から参集した。次いで、王への直訴団が王宮に参じ、同時に日本他の各国公使館には「斥倭洋」の書が掛けられた。翌93年の集会には実に二万の農民が全国から参集した。そして集会はしだいに異国排斥運動への熱を高めていった。政府は集会に威圧と懐柔をもって臨み、解散を促していた。
94年、全羅道一郡主の不当徴税に対して、怒り心頭に発した教団一幹部が一千名の農民を率いて郡衙(役所)を襲い、逃げ遅れた役人に懲罰を与えた上に、農民に武装させた。政府は特使を送り説得に当たらせるが、この対応に不満を持った農民がさらに蜂起し、一万名に膨れ上がった農民軍は政府軍800名を破り、全羅道都・全州を占領する。堪らず閔氏政権は清に鎮圧を要請するが、先の天津条約により、清とともに日本も軍を進めた。
政府はここに農民軍の幣制改革案(一部反封建改革を含む税制法制改革要求)を容れて、両者に和約が成立し、農民軍の撤退が始まった。次は日清両軍である。しかし同時撤兵は日本によって拒否された。日本軍は居座り、朝鮮の政治改革を断固要求した。この十年は日本を変えていた。日本はある決意をもって、半島に出兵していたのである。改革への具体策は出ず、ついに日本軍は王宮を占拠、閔氏一派を追放、海軍が清と交戦を開始(日清戦争勃発)、大院君を執政に据えて金弘集内閣を成立させる。これがたった五日間の出来事である。
日清戦争下、東学農民軍は「斥倭斥化」(日本と開化の拒絶)を掲げて第二次蜂起を起こすが、日本・政府連合軍によって掃討されてしまう。95年、日本の勝利に終わった戦争講和が下関で行なわれ、この条約第一条に清・朝の宗属関係の廃棄、すなわち朝鮮の自主独立が明記された。日本は長年の念願の一つをやっと叶えたわけだ。しかし皮肉なことに、この対清勝利において、かえって日本の半島政策の変質が露わになる。以後、日本は朝鮮の保護国化を進めていくのだ(注)。
(注)嘘だと思うだろうが、日清戦争中時点でも日本は朝鮮の保護国化の方向をあらかじめ決めていたわけではなかった。閣議記録によれば、陸奥外相提出の四案のうちの一つがそれであったが、政府として明確な選択は出来ていなかった。
▼甲午改革の挫折
金弘集内閣は、96年に金弘集ら自身が民衆に打ち殺されるまで四度にわたり組閣された。94年からの、甲申政変を引き継ぐ一連の政治近代化への努力を甲午改革と称する。上手くいけば立憲君主制となるはずのものだったと思う。これが自主独立の最後のチャンスであった。しかし高宗を頂点とする守旧派の抵抗は大きく、第二次内閣には海外亡命中であった旧独立党の朴泳孝と徐光範を呼び寄せもするが、そこに三国干渉が起こり、日本の後退が余儀なくされる。遼東半島の返還は、代償としてロシアの進出を意味していた。
第三次内閣ではロシア後援のもと、閔氏派が勢力を回復していた。またも手詰まりとなった日本政府は武官・三浦公使を送り込む。短絡に閔氏=閔妃としたのか、三浦は日本人グループを使嗾し、閔妃を殺害してしまう。ともあれ、閔氏派と親露派を排除した第四次内閣が成立する。このあと布告された政令の一つに断髪令(儒教に反する重大行為)もあった。ここに国母殺害と開化反対が結びついて、「衛正斥邪」を唱える地方儒生が農民を巻き込んで義兵として各地で立ち上がり、反日武力闘争となっていった。
この情勢を見て、親露派はロシアと結託して高宗をロシア公使館へ遷した(ここから断髪令の中止も発せられた)。万事休す。金弘集は自ら望んで漢城街頭で、それに魚允中も打殺され、金允植は配流された。こうして、独立党は愚か開化派まで抹殺され、朝鮮の自主近代化は事実上ここに終焉した(無知からとは言え、自ら閉ざしたのだ)。ロシアの保護国化への道をよろよろと歩み始めた朝鮮では、開化派の流れをくんだ最後のともしびとでも言うべき『独立新聞』なるものが96年に発行され、独立協会が結成される(実はこの新聞による近代化運動は、福沢諭吉が支援した『漢城旬報』に始まる)。
独立協会は甲午改革を継承する自主独立や近代改革を講演会等でも訴えて市民運動的な啓蒙活動を行なうが、そのような基盤のない一般民衆からは遊離した存在にすぎなかった。それでも彼らは、農民を巻き込んだ義兵運動を起こせる儒生たちとは決して手を組もうとしなかった(統一戦線の不在)。しかしながら、立場を問わず沸き上がる自主独立へのナショナリズムは王を動かして、97年には王宮への還御、さらに自ら「皇帝」となり「大韓帝国」の成立を宣したのであった。ここにようやく形の上では朝鮮は「独立国」となった。
なお、政府批判を続けた独立協会は98年、弾圧によって壊滅するのであるが、その批判の一つとは王と政府がロシア公使館にあったとき、鉱山や鉄道といった国家利権を密かに欧米列強に売り飛ばしていたことに対してであった。日本は転売によってだが、そこから鉄道に関しては日露戦争までに三つの利権を得ている。京仁鉄道(漢城−仁川間、1900年開通)、京釜鉄道(漢城−釜山間、1904年開通)、京義鉄道(漢城−遼東へ通じる義州間、1905年開通)である。この三つの鉄道によって、日本はロシアと戦い、朝鮮を支配・併合するのである。
▼日露戦争から大韓併合まで
98年、三国干渉の分け前が清から配分される。そのうち、ロシアは当の遼東半島で旅順・大連を租借する。別にイギリスは九竜半島等を租借している。1900年、義和団事件が起こり、列強連合軍がこれを鎮圧するが、その後もロシアだけは満州に四千の兵力を駐留させ、以後実質占領状態に入る。1902年、ロシア南下阻止で国益が一致した日英は軍事同盟を締結する。同年、シベリア鉄道が完成し、南進政策のインフラが整う。幾度かの直接交渉も決裂し、1904年、日本軍が旅順港内のロシア艦隊を攻撃し、日露戦争に突入する。
戦争必至の段階(事実、その翌月に開戦)になって、朝鮮は「中立」を宣言した。これには日露両国はもちろん、アメリカも承認せず、日本は漢城に軍を進め、事実上保護国化を認めさせる議定書を調印させる。戦争は翌年の日本海海戦で日本の勝利で終わるが、その講和条約は米国大統領が仲介しポーツマスで結ばれた。実はこれは「出来レース」である。東アジア侵略に出遅れたアメリカは、朝鮮開国以来、自らの代行者・尖兵として日本の行動を承認・後援していたのである。この日本によるロシアの満州からの駆逐もアメリカが望む所であったのだ(注)。
(注)イギリスも日本による朝鮮の保護国化を承認していた。戦争後も、第二次同盟が継続された。ところが、この直後の満州鉄道共同経営問題から、満州地域における国益は相反するようになり、ついには日・米英戦争に至る。ここには、一つの戦争(国益の実力による争奪構図)が次の戦争(国益の対立構図)を招くという構造が如実に見て取れる。
1905年、米英の支援を得た日本は戦争終結後、改めて保護条約を朝鮮と締結するが、そのやり方は朝鮮政府の閣僚一人一人に剣をもって迫り、呑ませるという異常なものであった。こうして韓国総監府が設置され、初代総監に伊藤博文が就任する。それに対して、最大の反日勢力である儒生が農民を組織し、またも義兵として立ち上がる。一方、愛国啓蒙運動と呼ばれる諸団体が独立協会を引き継ぐ国権回復活動を展開する。しかしその階級的限界性や党派性、その末路まで独立協会と同じだった。各団体は民衆からは遊離しており、また大同団結して統一戦線を生み出すことはないまま、弾圧されていった。
1907年一月、日本公使館が総監府となり、三月には列強の駐韓公使は撤収する。六月、オランダ・ハーグで開催の「万国平和会議」に、高宗の密使が「日本による韓国の主権侵害」を訴えようと突如現れるが、議長国ロシアは外交権のない韓国人の出席を拒否した。日本は政府に抗議し、高宗は自ら退位し、七月に最後の純宗が即位する。さらに、保護国化をいっそう進める第三次協約が結ばれ、その秘密条項に基づき、八月からは大韓国軍の解散を行なった。
反日義兵軍は旧軍兵を受け容れ、これと合流して運動は高揚期を迎える。日本側資料によれば、反乱は全国でのべ十四万名以上の兵力をもち、戦闘は2800回以上にわたった。対する日本軍は実は数千名程度だったが、義兵は地域党派ごとの小部隊で戦っており、各個撃破されていった。義兵もまた地域を越えたヨコへのつながりを持てず、大同団結は出来なかったのである。1907年、一度だけ一万名規模の義兵軍が漢城に迫ったことがあったが、そのときは総大将の父の訃報が入り、儒教に従う孝行息子は躊躇なく戦線を離脱し、服喪のため帰郷してしまった。
さしもの反日義兵も1909年には日本側の掃討作戦によってしだいに退潮を迎えるが、それがテロ戦術に走らせ、前総監・伊藤博文は凶弾に倒れた。翌10年、日本は大韓帝国をついに併合する。もちろん「対等合邦」なぞではなく、吸収合併したのであった。大韓皇帝は再び「王」となり、大韓は「朝鮮」に戻った。総監府は朝鮮総督府となり、第三代総監改め総督には陸軍大臣兼務の寺内正毅が就き、駐在憲兵司令官であった明石元二郎(注)が警務総長となり、武断総督府が発足したのであった。
(注)この明石元二郎とは、日露戦争前夜のヨーロッパで日本勝利のためのあらゆる攪乱工作(例えば、レーニンを始めとする反ロシア帝政を標榜する政治集団やテロリストへの資金提供など)に当たってその勇名を馳せた同氏のことである。
(六)言葉足らずの終章
▼主は飼い犬に似ていき、やがて滅ぶ
日本の「近代」を開いた明治政府の軍事を含んだ外交とは、こうして見ると「朝鮮問題」であったことが分かる。維新直後の開国国書や征韓論から始まり、その一つの結末である朝鮮併合が成った二年後に、明治時代は終焉するのである。犬は飼い主に似ると言われるが、逆もまた真ではないか。乱暴な喩えだが、大日本帝国の最期は大韓帝国のそれに似ている。自らを中華ならぬ「神国」と見なし、「大東亜共栄圏」という華夷秩序を夢見て、南蛮たる「鬼畜米英」を「洋夷」として戦っていた。
朝鮮実学派の思想は言わば「和魂洋才」であるが、日本の近代化が欧米文物を採り入れることによって成ったことを忘れ、英語を「敵国語」と断じてその文化を学ぶことすら禁じるようになったとき、客観事実を無視した精神主義が生まれ、あるがままを直視できない独善主義の虜となってしまう。「仮洋夷(=欧米モドキ)になった近代日本も洋夷(=欧米)との矛盾の中で滅び、東アジアに禍を招くだろう」との儒者・柳麟錫(ユインソク)の予言は真実となったのである。李朝の弊はわが日本も犯した弊である。
▼三・一蜂起
1919年、高宗が逝去するが、その死は日本人が毒殺したものだという噂がまことしやかに広まった。その葬礼が三月三日に挙行されることになっていたが、その二日前の三月一日、京城と名を改められた都市で「独立宣言書」が突如空高く舞い上がった。民衆は「独立万歳」の歓声を上げ、その声はたちまち全国に波及していった。朝鮮が始まって以来の、党派と地域を越えた全国民的な国権回復要求運動であった。初のナショナリズムの宣揚であったと言ってよい。
この三・一蜂起には、これまでの運動すべてと、様々な改革に倒れた死者の魂が流れ込んでいる。朝鮮の諸戦線は、日本に併合されることによって、ようやく大同団結することが出来たのであった。遅かりし、あまりにも遅かりし…、と慚愧せねばなるまい。思想と、政治や現実は違うものである。しかし李朝の政治家=両班=儒学徒には、常に理論的正義(思想)しかなかった。彼らは決して卑怯者ではなく、頭の固い愚か者だったのだ。
▼失われたものを求めて
実は、朝鮮(韓国)人にはいまも何もない。近代革命と自主独立はついに成らずに併合に至ったが、日本の敗戦、つまりは「光復」(=解放)も突然に天から降ってきた。亡国の中で「日本人」として連合国と戦った朝鮮に「戦勝国」の名は与えられることはなかった(サンフランシスコ講和条約にも参加していない)。その「独立」も他のアジア諸国と違い、アメリカやソ連を始めとする連合国がもたらしてくれたものだった。朝鮮の主権は未だ米ソの掌中にあった。国連による一時的な信託統治案が出るが、またも朝鮮の政治家たちは「正義」に固執してしまう。結果は南北国家の分立となり、さらに朝鮮戦争を招いてしまった。
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は李朝時代に逆戻りした「王朝」国家となってしまい、金首領への「孝」を第一としている。中国への「事大の礼」も続いていることはご承知の通りである。南朝鮮(大韓民国)では、高麗の一時期以来の軍人政権も経験したが、その恩(経済成長)も忘れ、いまは文民統治時代だと自画自賛している。政治的に中国を「宗主国」とできない韓国では、かつての「以小事大」ではなく「以大事小」がそれに取って代わって続いている。
江戸時代、中華たる朝鮮から通信使が倭夷に使わされていたが、言わばこれをいまも続けているのである。「逆事大主義」とでも言うべき「反日」や「克日」こそ、中華たらねばならない韓国アイデンティティーのモノサシである。自ら「中心」であるためには必ず「周辺」が必要であるが、日本は韓国の現代的華夷秩序の「夷」なのである。韓国人にとって「失われたもの」とは「自主独立」であったはずだが、何も持てままの今、いつのまにか北朝鮮と同様に「王朝」を探そうとしているかに思われる(注)。
(注)韓国人によって記述された韓国史とは、韓国の現代的「華夷秩序」から見た世界の通時的解釈と言わざるを得ないだろう。そこでの日本の役割はいかに朝鮮が「中華」であったかという引き立て役あるいは悪役であり、いまもそうなのである。
▼エピローグ:1995年の風水
1995年、韓国は光復五十周年を迎えた。記念すべき年だ。金泳三政権のときであったが、歴史の「立て直し」や「清算」を掲げて、政府事業として旧総督府の撤去や景福宮の復元などが始められた。そのうちの一つに「鉄杭除去」もあった。鉄杭とは、「日帝(注1)がわが民族精気を抹殺するために全国の名山のあちこちに鉄杭を打ち込んで地脈を断っ」ていたというもので、これを「1995年二月から全国で実態調査を行い、百十八本の鉄杭を確認し除去作業を行った」と、何と政府公式刊行物(注2)に載せてある。
(注1)「日帝」とは「日本帝国主義」という意味だろうが、韓国では略語ではなくてこのままで使われる固有名詞である。
(注2)『変化と改革---金泳三政府国政五年資料集』(全四巻。1997年12月発行)
陰陽師系の魔人が地脈の竜の頭や尾を打ち、関東大震災を起こしたなぞという話などもある、荒俣宏氏の『帝都物語』を地で行く代物である。これがいまも韓国人に生き続けている風水地理説なのである。念のために申し上げておくが、除去された鉄杭とは山中での安全のための手すりや足場であったり、測量のための三角点設置に打ち込まれたものなどである。
人間とは「科学」や「論理」ではない。日本人がある程度まで迷信の徒であるように、韓国人もそうであって何の不思議でもない。むしろ学ぶべきは韓国(朝鮮)人の民俗であろう。我流に言えば、「チョウセン民俗学」である。いまだ解決の光りさえ見えぬが、日韓の「歴史」問題も、そのままの歴史問題ではないことだけは確かである。
[主なネタ本]
(参考)
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