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田村隆一詩集『四千の日と夜』

沈める寺

 全世界の人間が死の論証を求めている しかし誰一人として死を目撃したものはいないのだ ついに人間は幻影にすぎず 現実とはかかるものの最大公約数なのかもしれん 人間にとってかわって逆に全事物が問いはじめる 生について その存在について それが一個の椅子から発せられたにしても俺は恐れねばならぬ 現実とはかかるものの最小公倍数なのかもしれん ところで人間の運命に憂愁を感じ得ぬものがどうしてこの動乱の世界に生身を賭けることができるだろうか ときに天才も現われたが虚無を一層精緻なものとしただけであった 自明なるものも白昼の渦動を深めただけであった

 彼はなにやら語りかけようとしたのかもしれない だが私は事実についてのみ書いておこう はじめに膝から折れるように地について彼は倒れた 駆けよってきた人たちのなかでちょうど私くらいの年ごろの青年が思わずこんな具合に呟いた「美しい顔だ それに悪いことに世界を花のごとく信じている!」

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