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田村隆一詩集『四千の日と夜』



 繃帯をして雨は曲っていった 不眠の都会をめぐって
 その秋 僕は小さな音楽会へ出かけて行った 乾いたドアにとざされた演奏室 固い椅子に腰かける冷酷なピアニスト そこでは眠りから拒絶された黒い夢がだまって諸君に一切の武器を引き渡す 武装がゆるされた 人よ 愛せ 強く生を愛せ

 ドアの外で 新しいガアゼを匂わせて雨は再び街角を曲り 港へ 薄明の港から暗黒の海へ
 唇は濡れた やがて僕の手は乾いた さよなら 女は僕とすれちがって出ていった ドアの外へ ひとりの背の高い男が雨に濡れながら僕を待っている 生きるためにか死ぬためにか ドアを隔てて僕らは弾丸を装填する
 祝福せよ 孤独な僕らにも敵が現われた 鏡の中で僕の面貌は一変する 鳥肌たつ生のフィクション! ドアの外へ 不眠都市とその衛星都市 七つの海と巨大な砂漠 夏のペテルスブルグから冬のパリへ 女は激烈に唄った まだ愛してる まだ愛してる そして東京 秋! 世界は僕の手で組み立てられ アンテナの下で夢みている この時 ソナタ形式による覚醒の一瞬間を 諸君自らに問うがいい……あたしは願う 死ぬことの自由を 拍手が起りはじめた 僕は椅子から立ち上る 母さん!

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