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田村隆一詩集『四千の日と夜』



 指が垂れはじめる ここに発掘された灰色の音階に

 息を殺せ 無声音を用いて語れ……愛は性器と死者との不協和音による黄昏のごとき表象なのだ 雨の日の彼女は美しい その秋の夜明け 彼女は黄金の微笑を招く 不意に俺は背をむける 眼底から落ちる青! ああ死はすでに俺に親しい 彼の卑猥な沈黙と神聖な分解作用について俺は目撃した 目撃することは体験することなのだ はじめに叫喚をともない次第に tu にはじまる呼びかけに変ってゆく過程を俺は知ったのだ ときに彼はよく喋べることもあった それは秋から冬にかけて 水色の首府に霧のたちこめるとき 思考を拒絶せよ それは時間を所有することだ 時間から脱出せよ 全身で感じることのできるせつない空間へ 感じるのだ 身をもって思想を感じることなのだ 指が垂れはじめる ここに発掘された灰色の音階に 音は俺の指で選ばれた その音は純粋物質であって一切の腐敗性物質から俺は引き離した 結合が生れた なにか言っておくことがあるか 二十五年 廊下や中庭で母がしきりに俺を呼んでいる どうやら tu に変ってきたな 俺たちの青春が満たされることを決して祈るな 泣け 泣くならば父のごとく 泣くならば父のためでなく

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