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田村隆一詩集『四千の日と夜』

予感

 午後は不意に訪れる 彼は個人として椅子の底に押しこめられる 手はだらりと垂れさがって 世界は翳ってくる 世界の悩みが彼を一個人に追い込む 世界の悲しみが彼の両の眼を抉り出す その傷口のようにドアがひらかれて そのまま過去に通じてしまうような気がする
 窓からぼんやりと彼の生れた街が見える 街には雨が降っている この二十年間 戦争と戦争との間に雨は地上を濡らしている 街はいくども形を変えた そして彼の幼年時代の記憶の街はこの街から拒絶されている かつて母は美しく祖母もまた現世に生きねばならぬ 過去はドアを無言でぬける そして未来の一部分につながってしまう 雨は時間につきあたる 彼の眼前で雨は負傷する 繃帯を! ありふれた中年の男がありふれた黒い蝙蝠傘をさして過ぎる

 どうしようか ひらかれたドアをぬけて夥しい手が彼の肩の上に やや力をこめて冷い唇が彼の唇にかさなる情熱のない接吻 そして痛ましいことだが彼は心から歓喜を味わう

 きみは俺を殺しに来たのだ

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