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田村隆一詩集『四千の日と夜』

一九四〇年代・夏

世界の真昼
この痛ましい明るさのなかで人間と事物に関するあらゆる自明性に
われわれは傷つけられている!
犬のように舌を垂らして
「一九四……年
 強烈な太陽と火の菫の戦線で
 おれはなんの理由もなく倒れた だが
 おれの幻影はまだ生きている」
「おれはまだ生きている
 死んだのはおれの経験なのだ」
「おれの部屋はとざされている しかし
 おれの記憶の椅子と
 おれの幻影の窓を
 あなたは否定できやしない」
われわれはこの地上をわれわれの爪でひっかく
星の光りのような汗を額にうかべながら
われわれはわれわれの死んだ経験を埋葬する
われわれはわれわれの負傷した幻影の蘇生を夢みる

彼女の眼は崩壊と滅亡だけを瞶めてきた人の悲劇的イロニイでみちている
彼女の耳は沖の彼方のあの難波人の叫喚だけを聴くばかりである
彼女の文明は黒い その色は近代の絵画のなかにない
彼女のやさしい肉欲は地球を極めて不安定なものとする
彼女の問いはあらゆる精神に内乱と暴風雨を呼び起す
彼女の幻影にくらべればどのような希望もはかない
彼女の批評は都会のなかに沙漠を 人間のなかに死んだ経験を 世界のなかに黒い空間を覚醒する そして
われわれのなかにあの未来の傷口を!

わたしはこれ以上傷つくことはないでしょう なぜなら
傷つくこと ただそのために わたしの存在はあったのだから
わたしはもう倒れることもないでしょう なぜって
破滅すること それがわたしの唯一の主題なのだから

雷雨! われわれの永遠の夏は彼女の歯で砕かれる

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