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田村隆一詩集『新年の手紙』
人間の家
たぶん帰りは遅くなるだろう
おれはそう言って家を出た
おれの家は言葉でできている
古い戸棚には氷河が
浴室にはまだ見たこともない地平線が
電話からは砂漠と時間が
食卓の上にはパンと塩と水
水のなかには女が住んでいる
女の眼球からヒヤシンスの花が咲いている
女もまた暗喩そのものである
女は言葉が変るように変るものだ
女は猫のようにきわめて不完形だから
おれにはその名前さえ知るすべがない
たぶん帰りは遅くなるだろう
べつに商談やクラス会があるわけじゃない
おれは氷の電車に乗り
螢光色の地下道を歩き
影の広場を横切って軟体動物の
エレベーターに乗る
電車のなかでは菫色の舌 灰色の唇
地下道では虹色の咽喉 緑色の肺
広場では気泡状の言語 その言語による情報 その情報による情報
形容詞 ありとあらゆる空虚な形容詞
副詞 野卑で貧弱な副詞
名詞 退屈な退屈な名詞はいくらでもあるのに
どこを見たって動詞がない
おれが欲しいのは動詞だけだ
未来形と過去形ばかりでできている社会にはうんざりしたよ
おれが欲しいのは現在形だ
ドアを開けたって部屋があるとはかぎらない
窓があるからといって室内があるとは言えないのだ
人間が生きたり死んだりする空間があるとは言えないのさ
これまでにもおれは
おびただしいドアを開け
ドアを閉めて
おれは出ていったよ
べつのドアから入るために
ドアの向側にどんなみごとな新世界があると言うのだ
なにが聞える? あの楽園の向側から
水の滴る音
鳥の羽音
岬の岩に砕かれる潮騒
人間と獣物たちの呼吸音
血の匂い
そういえば
もうずいぶん長い間
おれは血の匂いを忘れていたものだ
一つの叫びに沈黙の集中するところ
針の尖端
ゴムの手袋をはめながらゆっくりと外科医が近づいてくる
おれは眼をひらき眼をつむる
眼のなかに落ちてゆくもの
両の手を翼のようにひろげて
髪の毛を逆立て
暗黒と暗黒をつなぐつかのまの光りの空間を落下しつづけるもの
おれは酒場のテーブルからゆっくりと立ち上る
おれが帰ろうと思ったのもべつに政治的信念や宗教的信条によってではない
おれはただこの眼で見たいのだよ
人間の家の崩壊を
おれの言語の解体を
むろん おれの家はきみの言葉でできていない
おれの家はおれの言葉でできている
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