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田村隆一詩集『新年の手紙』
紅色の渚から
この渚には
人の足跡はもう消えてしまった
烏と犬の足跡と
口と肛門が永遠の環になっている
あの軟体動物の夢の分泌物が
不透明な貝殻となって
沖の彼方から渚にむかって
這い上ってくるばかりだ
ときには驟雨もあった
夜 黒い水平線を稲妻が走ることもあった
ぼくらの時代が感覚的な時代なら
ぼくらは耳を手でふさいで聴かねばならぬ
ぼくらは眼をとじて見なければならぬ
晩年のムンクの自画像を見て
ぼくはぼくらの時代の漂流物が散乱している
紅色の渚を帰ってきた
病める生というものはない
生そのものが病んでいるのだ
裸足の青年がひとり
むこうから歩いてくる
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