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田村隆一詩集『新年の手紙』

灰色の菫 順三郎先生に

67年の冬から
68年の初夏まで
ぼくは「ドナリー」でビールを飲んでいた
朝の九時からバーによりかかって
ドイツ名前のビールを飲んでいると
中年の婦人が乳母車を押しながら
店に入ってきて
ぼくとならんでビールを飲んだりしたものだ
アメリカン・フットボールのスコア・ボードが
花模様の壁にぶらさがっていて
腸詰がそのそばでゆらゆらしている
金文字で1939年創業と酒棚に入っている
この北米中西部の大学町なら
老舗しにせのほうだ
1939年はW・H・オーデンが
ニューヨークの五十二番街で
「灰とエロス」のウイスキーを飲んでいた「時」だ
その「時」は燃えて燃えて燃えつきて
世界は灰になった

「ドナリー」の夜は
アメリカの髭の詩人や中国の亡命者たちと
ぼくはむやみに乾杯したものだ
世界が灰になったおかげで
ぼくらはもう生きた言葉を使わなくてもいい
経済用語と政治的言語とで
夜はたちまちすぎて行くのだから
詩と神さまは死んだふりをしていればいいのである

今年の春
ぼくは「ドナリー」にふらっと入って行った
ぼくにとっては三年ぶりだが
「ドナリー」のおやじにとってはつい昨日のことだ
髭の詩人や亡命者たちはもういないが
スコア・ボードだってブランクのままだ
勝者も負者もいないとは
いささか淋しいが
おやじの仏頂面はたのもしい

さて
ビールにはもうあきた
裏口からそっと出て行こうか
ギリシャの方へ
バッカスの血とニンフの新しい涙が混合されている
葡萄酒を飲みに
「灰色の菫」という居酒屋の方へ

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