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田村隆一詩集『新年の手紙』

海の風

  その一

人間の肉体が悲しいのは
第一次世界大戦までのことである

そのあとは雑音を出す機械となって
うつろな悲鴨を穿る物質となって

あらゆる心象が破壊された
心象が破壊されたところから

イマジストの運動がはじまったのは
ずいぶん皮肉だが 眼に見えないものは

存在しないのである 耳に聞えないものは
存在しないのである

  その二

この夏は
海にむかって地図と書物をひらいたまま
レイテ島における壊滅した第一師団の運命をぼくはたどることになった

レイテ島は
ぼくにとって地図の上にしか存在しない島である
そこではどんな海の風が
夕焼けが
どんな涙が血と汗が

「量」によってしか語られない「質」の経験というものはじつに爽快である
ならば生者の証言は一面的である
「死者の証言は多面的である」と「レイテ戦記」の作者はエピローグで断言する

よろしい
海の風はぼくの一面を吹き泡けて行くだけである

  その三

台風は
わが獣性とともに北方に去った

今朝 ニューヨークから
詩の雑誌がとどいた

表紙には Fall Issue とあって
人間の悲惨を主題としたアメリカ人の詩が

いっぱいつまっていたよ Autumn より
Fall にふさわしい哄笑の詩

成熟するなかれ どこまでも落ちよ
この下降感を昧うべし そして

落ちた わが庭の梨の木から
三十箇の果実と二百枚の枯葉が そして

落ちた わが手から死せる言葉が
十四行の詩が

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