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田村隆一詩集『死語』
夜間飛行
はげしい歯痛に耐えるために
高等数学に熱中する初老の男のエピソードが
「魔の山」という小説のなかにあったっけ
そして主人公の「単純な」青年の葉巻は
マリア・マンチー二
どうして葉巻の名前なんか
ぼくはおばえているのだ 三十三年まえに読んだドイツの翻訳小説なのに
ぼくも歯痛をこらえながら詩を書いてきた
歯痛に耐えるため(にと云うべきかもしれない
ところがぼくの詩ときたら
高等数学とちがって
歯痛をかきたてるのだ 歯痛には
いつも新鮮な味とひびきがあって
生れたときから何回も経験してきたくせに
この痛みの新鮮さに
いつもぼくは驚かされる
暗い海面に
白いパラシュートが二枚
ただよっている
「夜間飛行」という外国映画の遭難のラスト・シーンだが
この映画を見たのだって
ぼくが「少年」のときだった
「南方飛行」という映画もおぼえている
北アフリカの砂漠の上を
複葉の飛行機が
縞模様の砂漠の皮膚に 大きな影をおとしながら
鳥のように飛んでいるのだ
歯痛がはげしくなっくると
ぼくは
ぼくの小型飛行機に乗っている
視界がゼロなんだから夜間飛行にきまっている
たしかベッド用に女性がつける香水にそんな名前があったけれど
いま 匂ってくるのはマリア・マンチー二のけむり
いま ぼくの限に見えるのは暗い闇のなかでただよっている
二枚の白いパラシュート
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