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田村隆一詩集『死語』
噴水へ
西風にさからって
太陽が沈む地平線にむかって一直線に
飛ぶ
あの小鳥は「鳥」のなかで飛んでいるのだ
深夜に吠える犬
ぼくらの耳にきこえない危機の徴候
ぼくらの目に見えない恐怖の叫びにむかって
凍りつくような声で吠えている
あの犬だって「犬」のなかで吠えているのだ
それなら
ぼくは「人間」のなかで生きているのか
ぼくの肉体は「動物」だが
心は「動物」よりも鈍感なのさ
鮎川信夫の初期詩集を読んでいたら
「名刺」という短い詩があった
「明るいガラス管の中で
バラ色の手に名刺が
蝶のやうに跳ね返った
ポケットに捕へたのち
眼が覚めた
一すぢの血が
名刺を通過したが
バラ色のそれは
骨のかたちを残して去り
白い灰となり
皿に落せば貝のひびき
ドアを抜け出て
噴水へ」
この詩をはじめて読んだのは
ぼくが十六歳のときだ
世界はまだ
絶望的に明るくてぼくは「ぼく」のなかで生きていた
ぼくの肉体は動物よりももっと動物的だったし
心は「動物」に属していた
ぼくの目には「言葉」を媒介しなくたって
太陽が沈む地平線がくっきりと見えた
ぼくの耳には深夜の通行人の足音
ぼくのやわらかい皮膚には
「観念」の力をかりないでも危機と恐怖のいぶきが感じられたっけ
自いカードに一筋の血が通過した瞬間
世界は灰になった
ぼくは「ぼく」から抜けだして
一九三九年秋の
ヨーロッパとアジアの
噴水へ
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