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田村隆一詩集『死語』

触角をのばして

「時ちて」
という言葉にびっくりしたことがあった
まっ暗な渋谷の夜
黄色い裸電球の光りの輸のなかで
友人がひらいた聖書の一ページ
その聖書も黄色いビニールの表紙で
進駐車(占領軍と日本語では云わなかった 進駐軍専用の電車や汽車の胴体には
The Allied Forces と書いてあったような記憶がある
The Occupation Army だったかしら)
その進駐軍から恵まれた黄色い
聖書の一ページを読むと
肺病の友人は
ビタミンの注射液を
口のなかに流しこんだ
「ぼくは教会かダンス・ホールの
どっちかを選ばうと決心したんだ この二者択一を
きみはどう思う?」

まっ暗な渋谷の夜から夜がなくなるまでに
三十年かかった
むろん 肺病の友人は
教会もダンス・ホールも選ばなかった
まっ暗な夜を失ったおかげで
ぼくらは二者択一の特権まで失いつつある

「時満ちて」という表現には
いまでも驚かされる
時が膨脹し また
時が収縮するのは
たしかにこの肉眼で見た 時が満ちるのは
潮が満ちるようなのなのか
すでに時が満ちつつあるのなら
ぼくの魂だって
すこしは形象化されているのかもしれない
稲村ヶ崎の潮だまりで見つけた
褐色の体に白い斑点を散らし
触角をのばして這いまわる
一匹のアメフラシ

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