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田村隆一詩集『死語』

十字路と消えた詩の一行をめぐる会話

 詩を書こうとすると手がふるえるのだ 鳥の舌みたいにね

 小鳥のふるえる舌については きみはすでに詩を書いている あのときは手はふるえなかったのかね

 手を意識しなかったもの 手の意味がわからなかったのだ 詩は眼で聞き 耳で見るものと思いこんでいたからさ

 じゃ 手はどうなんだ きみのその痩せた手は

 この手か この手にはべつに意味なんかないさ 人間の頸を締めたこともなければ 癩者の手を握ったこともない

 すると ウィスキー・グラスをにぎってきただけか

 たぶん そうかもしれない それからほんの少しの土と灰をかき集めたことはあったな 火と水は苦手だ

 女はどうだ

 あまり熱心じゃない ぶよぶよしたもの ぐにゃっとしたもの ぬめっとしたものが嫌いなのだ

 きみは男色家か

 女よりもっと気持がわるいね 男は 観念的で攻撃的でしかも弱い その弱さもじつに神経質で自己中心的だ

 人間はどうなんだ 人間存在は

 面白いね こんなに笑わせてくれるものは この世にないよ ほかの諸生物は正確すぎる あやまちを犯してくれないからな だから 鯨も羊もヒヨドリも人間みたいに笑わたい むろん人間だって 月や太陽を笑いの対象にはしないがね 人間が笑うのは人間だけだ

 よくそんなんで 二本の足で立っていられるな

 だからときどき転ぶじゃないか 石に躓くように言葉に躓くことだってあるのさ 今年の三月 ぼくはオールド・デリーの十字路を歩いていた バスがとまって老人がおりた その瞬間 白髪のインド人が転んだんだ あおむけに倒れてヒョロ長い黒い脚をバタバタさせている ぼくは東京から着いたばかりで オールド・デリーの十字路を歩いていた 正午だったな 燃える太陽が頭上にあって インド人の白衣と白衣の群れと 影のない世界が 一瞬 静止したんだ ぼくの咽喉に 胃の脇のあたりから笑いがこみあげてきて 自分でもどうしておかしいのか その理由が分らないくらいおかしくなって

 倒れた老人はどうした

 だれかが助けおこしたさ 老人はブツブツ云ってたが ケロッとした顔で雑踏のなかに消えてったよ それにしても どうしてあんなにおかしかったのかな

 なに 新宿や銀座だったら きみは足もとめずに通りすぎただろうよ デリーに長く滞在していたら やはり一瞥もくれなかっただろう 東京からデリーに着く 世界が一変する その瞬間に バスから老人がころがり落ちる 長くて黒い足と白衣 そこできみの手がふるえるというわけさ

 なるほど ぼくの手がふるえるのは笑いの発作だというのか

 手が見たんだよ 世界が一変するのを 眼で見ようとするから あるいは眼で見たと思いこむから ぼくらはとんでもない場所に出てしまうのさ きみがオールド・デリーの十字路を歩いているようにな

 そういえば あのとき 影という影が消えてしまっていたっけ 太陽がぼくの頭上に

 そのとき 手は夢のなかを旅しているのだ 消えた詩の一行を見つけるためにね

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