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田村隆一詩集『死語』

青い十字架

 ゴルコンダというインドのワインを飲んで そのワインは赤だったから その刺激的なタンニンの味が ぼくらの舌を形づくり 太陽と葡萄の結晶物 不定型で流動的な結晶物は やがて咽喉部の暗い通路を まがりくねって降りて行くと

 カジュラホの棘のある灌木の野も村も暗くなって 空には満天の星 ぼくらはホテルの芝生に出て デッキ・チェアのような布張りの椅子に腰をおろして

 インディアン・キングズを吸いながら 頭上の星座を瞶めていると 青年は指をさしてオリオンの三つ星の延長線上の方角を指さして その斜線のはるか下のあたりに ぼくらが出発した一つの国 弓状の小さな列島 一つの都市 その都市の国際空港があるはずなんだと呟いて

 ぼくらといっても 青年とぼくの二人だけで 二人の話を立ち聞きしてくれるような探偵はどこにもいない 「犯人は創造的な芸術家だが 探偵は批評家にすぎぬのさ」と書いたG・K・チェスタートンの「ブラウン神父」には

 神父に化けている大泥棒のフランボーとカトリックの坊さんが 満天の星の下で たった二人だけで教義問答にふけるのだ むろん このときは フランスの名探偵ヴァランタンが大きな木のかげで 二人の話を立ち聞きしていて批評家の役割をはたしてくれるのだが

 「……中世の人が天は不滅なりと云ったのは、こういう意味だった」とブラウン神父が言葉をむすぶと 神父に化けた大泥棒はそれを受けて
 「そうですな、たしかに現代の不信心な連中は自分の理性に訴えましょう  だが、誰だってこの無限の宇宙をながめれば、われわれの頭上のどこかに、理性がまったく不合理である宇宙がなきにしもあらずと感じるでしょうが」
 「いいや」とブラウン神父  「理性はつねに合理的なものですよ  もっとも地獄に近い辺土リンボ、あの呪われた世界の涯であろうと、理性っていうやつは合理的なものですさ……理性と正義心は、もっともかけ離れた、もっとも孤独な星さえもとらえる……」

 ぼくらの心は インドのワインで燃えていたから創造的な芸術家 つまり批評家も立ち聞きしてくれない泥棒になるよりほかになかった インドの星を瞶めているうちに

 青いサファイアの十字架を狙って 神父に化けた大泥棒 その正体を見破ったカトリックの坊さんが云ったっけ  「あんたは理性を攻撃したではありませんか。それはよこしまな神学でな*」

 太陽がのぼり 青い十字架は消滅する 内なる芸術家も批評家も行方不明になって ぼくと青年は 神々と動物と性とがはげしく呼吸しあい 空にむかって歓声をあげながら墜落して行く高塔寺院の方へ

 *G・K・チェスタートン著 福田恆存・中村保男訳『ブラウン神父の童心』創元推理文庫より

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