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田村隆一詩集『死語』

破壊された人間のエピソード

心が眠りたいのに
肉体がさめている

肉体は眠ろうとしているのに
神経がその棘をつき出している
こういうときはウイスキーを水で割って
すこしずつ水で割って
まるで毒を飲むように飲んだものだが
毒は血液の細い河を旅するのだ
一連十四行の旅の詩を

読んだことがあった
酔いどれ船というフランス近代詩の翻訳だったが
ぼくらの日本語もずいぶん旅をしたものだ
ぼくらはその日本語で造られたおかげで
どんな旅をしたのだろう

近代日本語はたしかに旅をしたが
その言葉によって造られた人間は
どんな地平線と水平線を見たというのだろう
ぼくらが連れだされた世界は
死者と死語と廃墟にみちていて

死んだふりをしている人間さえいない
肉体とは不思議なものだ
インドのベナレスからカルカッタ行の夜汽車に乗った
冷房装置のついている客車で
ウイスキーを飲んでいると
裸足の車掌が
おそるおそるチョコレート色の顔を出した
「ウイスキーを少しいただけないでしょうか」
手には大きなコップを持っている
悪夢のようなインドの夜のなかで新しい悪夢を見るために
この車掌には寝酒がいるのだろうか

ベナレスでは
火と土と水と空気のなかを旋回しながら
人間が天に帰って行くインド人の旅を
見た
そのガンジス河の河口の一つ
カルカッタというヒマラヤの神々の汚物でできている
大都会にたどりついたら

ぼくは怖しい話を聞いた 夜汽車を狙う
集団強盗が出没していて乗客から
金や宝石を奪いとると
ピストルを面白がって撃つそうだ
ピストルを撃つ
弾丸が獲物の肉体を貫通する
肉体に穴があいて
赤い血が噴出する
獲物が悲鳴をあげる

それが面白くてしようがないのさ
人間が獲物に変身することだって痛快なんだ
あの夜汽車の車掌がウイスキーをもらいにきた意味がやっとわかってきたぞ

ウイスキーにしようか
ジンにしようか
ジンは孤独な酒だというから
一人旅ならジンがいいかもしれない
ぼくらの旅は
荒廃の国からはじまって荒廃の国へ
帰って行くのだから
夜汽車の車掌が悪夢を見ないために新しい悪夢を見る
ウイスキーのほうがよさそうだ

電話のベルが鳴り
長い長いサナダ虫のような電話線で
人間は
人間の言葉で
喋っているが

おたがいに理解しあったためしがないじゃないか
誤解に誤解をかさねて
ぼくらは暗黒の世界から生れ
暗黒の世界へ帰って行くのさ
一条の光り
その光りの極小の世界で
歩きつづけている
ぼくらの
奇妙で
滑稽で
盲目の
旅の

エピソード

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