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田村隆一詩集・補遺

恐怖の研究

10

針一本
床に落ちてもひびくような
夕暮がある
卓上のウィスキーグラスが割れ
おびただしい過去の
引出しから
見知らぬカード
不可解な記号
行方不明になってしまった心の
ノートがあらわれてくる
これは
光りと影の世界
写真のネガの世界
K大外科病棟のカルテのファイル
蘭の葉脈のような血管が
灰白色の河流をつくり
皮膚と皮下脂肪は暗黒の世界を
いだく
ゴムの手袋でさわるのにふさわしい
だるい感触
合金のナイフとピンセットで
さぐるのにふさわしい
燗熟した肉
それが死せる心をいだいている肉なら
どんなパンが想像できるか
きみの好きな詩人にたずねてみたまえ
乳色の血のながれから
どんな葡萄酒が眼に見えてくるか
きみの好きな絵描きにきいてごらん
ああ
意味がほんのすこし入ってきただけで
いかなる近代都市も粉砕されてしまう
光りがごくわずか入っただけで
ネガの世界は崩壊する
床からピンがはねあがる
乳色の河流は血の色にかわり
なめらかな皮膚の下に
死んだふりをしていた心があらわれる
窓がひらく
乱暴な音をたててドアがあき
だれかが出て行く
あるいは
だれかが入ってくる

9

心が死んでしまったものなら
いくらよみがえらせようとしたって
無駄なことだ
かれを復活させるために
どんな祭式が
どんな群衆が
どんな権力が
どんな裏切り者が
どんな教義が
どんな空が
どんな地平線があるというのか
たぶんブリューゲルだったら
重力よりも重い色感で
大きな橄欖樹を黙々と描いたかもしれない
空白をつくるためだ
空白によってしか答えられないからだ
空白の遠近感がどうしても欲しいからだ
空白のリズムをききたいからだ
ところで
行方不明になってしまった心なら
あっさり埋葬するわけにはいかない
死亡認定書も
火葬許可書も
偽造するのにぞうさはないが
心を偽造するわけにはいかない
たぶんモーツァルトなら
一本のフリュートがいるだろう
一本のフリュートで
巻毛の少年は旅に出るだろう
一本のフリュートで
あらゆる生きものの国々をさまようだろう
あらゆる渇きから
少年は単一な夢をさがし出すだろう
たぶんミロなら
単一な夢に
単一な色彩をあたえるにちがいない
単一な色彩から奔放な線がうまれ
やがて線と線とが交叉し
点と点とが共鳴し
ある中心にむかって
豊饒な領土を描き出してくれるにちがいない
あらゆる生物が生れ
あらゆる生物が死んでいった
黒い土
黒い土はおもいきり翼をひろげ
空と地平線を分割するにちがいない
ときには
驟雨がくるだろう
あるいは雷鳴もともなうだろう
稲妻が空間をつらぬき
無数の海豚は交接し
巨大な鯨は紅色の潮を吹くだろう
しばしば
象牙海岸に貿易風がおくりこまれ
アンリ・ルッソーの
暗緑色の樹木が繁茂するだろう
東方にはまだ名づけられない星がきらめき
その光りが地上に達するまでに
ヨハネの
ジョン・ダンの
ボードレールの
マラルメの暗喩がうみだされるだろう
これらの暗喩によって
数億の日と夜はわかれ
数万の日と夜は調和と秩序をもち
おお
ぼくの心のなかでは
四千の日と夜が戦うのだ

8

日と夜のわかれるところ
日と夜の調和と秩序のあるところ
日と夜の戦いのあるところ
それは
一本の針の尖端
無名の星の光りにひかる針の尖端
歴史の火の槍
ふるえる槍の穂先

7

塔へ
城塞へ
館へ
かれらは殺到する
かれらは咆哮する
かれらは掠奪する
かれらは凌辱する
かれらは放火する
かれらは表現する
かれらはあらゆる芸術上の領域を表現する
白熱のリズムを
増殖するイメジを
独創的な暗喩を
危険な直喩を
露悪的なマニフェストを
偽善を弾圧するもっとも偽善的な芸術運動を

6

ほんとうにものが見たいなら眼をえぐりたまえ
ほんとうにリズムがききたいなら耳を切れ
イメジとイメジをむすぶものは王の権力
イメジからイメジをうみだすものは天使の栄光
服従は奴隷の歓び
享受は被支配者のひそかな愉しみ
それゆえに
王は民衆より偉大でなければならぬ
それゆえに
頭上の天使はあらゆる王より強大でなければならぬ
地上の全批評家は消え失せよ
歴代の王の眼を見るがいい
彼らの眼は数千年まえからえぐられている
眼は石のなかにある
天使の耳を見てみたまえ もし
きみにきみ白身の天使が見えるなら
耳は翼のなかにある

5

ふるえる翼
ふるえる舌
K大病院の裏庭で
ぼくは野鳩の桃色の脚を見た
ふるえる舌
裂ける舌
信州上川路の開善寺の境内で
ぼくは一匹の純粋な青い蛇を見た
ふるえる舌
美しい舌
秋風の六里ヶ原で
ばくは桜岩観音は出会った

4

針一本
おちているところ
光りはどこからでもくる
闇は野鳩の声のなかに
蛇の華麗なデザインのなかに
桜岩観音の手のなかに
ある

3

角笛から
ホルンヘ
ブロックフレーテから
フリュートヘ
楽器の歴史は光りと闇のもの
行方不明になってしまった心の
空白ヘ
モーツァルトからドビュシーへ
角笛から
ホルンヘ
ブロックフレーテから
フリュートヘ

2

光りはリズムヘ
闇は器楽的形態へ
心を追いつめるのだ
猟師が獲物を追うように
飢餓が野獣を追うように

1

針一本あるところ
沈黙がある
頭上の天使のさえぎるところ
ふるえる舌がある

搭が見える
罪を犯すにはわれらの人生は長すぎる

城が見える
罪を償うにはわれらの人生は短かすぎる

魂は形式
角笛から
ホルンヘ
ブロックフレーテから
フリュートヘ

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