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田村隆一詩集・補遺
林の中
「先日、世界のパイロット会議で、」と、ある婦人は書いている
「ある機長が、ハイジャックを防ぐ唯一の方法は、断じて、ハイジャッカーたちの要求をいれないことだ、という発言をしていて、私は心をうたれました。……」
それから、「しかし」がくる
「しかし、恐らくこのパイロットは、他人に死ね、と言っているのではないのです。……」
また言う、
「私自身は、この機長さんの判断の道づれになって、飛行機もろともぶっとばされることを承認します。誰かを道づれにしそうな時は軽々とは動きませんし、誰かに私の考えを強制しようとも思いません。しかし事が、そのような考えを持つ機長と私だけなら、食事や水もさし入れてもらうことはありません。」
たしか数十ぺージまえに、この婦人は、人間が黙すべきときの状況を語っている。問いも答も成りたたない場合、人間が歩いて行く道を。ぼくは、二日酔の指で、そのぺージをさがしたが、なかなか出てこない。たしか、林の中、林の中の道を歩くと、彼女は語っていた。どうしようか、ぼくらの林、林の中、林の中の道。
彼女に電話をしたが、留守番の男が出てきて、
「いま、韓国に行っています」
と云った。
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