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田村隆一詩集・補遺

都市論

 W・H・オーデンは云う  「すなわち、名誉を重んじる人間が、必要とあらば、そのために死ぬ心構えをしていなければならない半ダースあまりのもののうちで、遊ぶ権利、とるに足りないことをする権利は、決して小さな権利ではないということである。」
 夕方、農夫がするトランプ遊びも、詩人が食卓で書く詩も、共同体をはなれては不可能なゲームである。そして、ゲームであれば、ルールがあるだろう。そのルールやロゴスの自由を保証するものが共同体であり、そういう共同体こそ、農夫や詩人にとって、真の意味の「都市」なのである。したがって、経済効率と情報だけが支配する「都市」は、名誉を重んじる人間、つまり「個人」が生きることはできない。彼は、ホモ・ラボランス(労働人)であると同時・・に、ホモ・ルーデンス(遊戯人)でもある「個人」から「数」へ、つまり、無名の一員、消費者か生産者かに類別されて、「公衆」に還元されてしまうだけである。オーデンは、社会の巨大化と、マスメディアの異常な発達によって、シェイクスピアが描いた古代的世界には絶対に見られなかった現代特有の社会現象、キルケゴールが「公衆」と名付けた、奇妙な集合体を定義して、つぎのように云う  
     暴徒は能動的である。それは粉砕し、殺し、自己を犠牲にする。公衆は受動的である、あるいは、せいぜい好奇心がある程度だ。それは殺しもしなければ、白已を犠牲にもしない。公衆は、暴徒が黒人をなぐりつけている間、あるいは警察がガス室に入れるためにユダヤ人を逮捕している間、傍観しているか、目をそらすかである。
 詩人と都市の関係は、不可分というよりも文明としての有機的な関係である。詩人と都市とが有機的に結びつかない以上、ぼくらの文明は、詩人も都市も持たないことになる。

 きみに食卓があるか? 夕方、トランプをしたり詩を書いたりする死者の食卓が?

 *オーデンの言葉は中桐雅夫駅『染物屋の手』より引用しました。

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