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田村隆一詩集・補遺

消えた地平線

朝 目をさますと
地平線が消えている
それでも
とにかくぼくは洗面室におりていって
白毛まじりのひげを剃る
西洋剃刀にはいつも冷い光りがあって気持がいい
剃刀の刃の細い線 鋭角の分水嶺が
ある二つのものを
たえず分割する たとえば饒舌と沈黙 瞑想と観察 宗教的詩と金融資本的散文
ぼくはタオルで顔をぬぐい
皺という皺にクリームを塗りつける
それからゆっくりと歯をみがき
ブラシが歯の裏側の間を摩擦すると
きまって胃の腑あたりがせりあがってきて
ぼくは目に涙をためる
むろん悲しいわけではないが
肉体が悲しいということは事実である
肉体は政治に隷属し心は工ロスに隷属しているというのが
ぼくの最近の信条だが
この信条だってあてになるものではない
ふたたび狭い階段をのぼり
ぼくは寝室の窓から外を跳めるのだが
昨日までたしかにあった地平線は
消えている

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