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田村隆一詩集・補遺

溶ける山

草原の地平線から
太陽が姿をあらわす
その瞬間 飛び交う無数の鳥
鳥の群れ そして不動の禿鷹
岸辺から
ガンジスの流れに傾斜している石段には
人間の裸体がうごめき ひしめいている
裸体だからこそ人間だということが分るのだ
かれらが(むろん ぼくをふくめて)衣服を身につけると
たちまち人間は消滅する
若い女性は原色の木綿のサリーをまとったまま水中に身をひたし長い黒髪を流れにまかせて褐色の水で口をすすぎ紅いジャスミンの花や黄色い花々をヒマラヤの神神に供している
男たちは腰布だけで全身水中に没しやがて水から姿をあらわすと裸体に聖なる灰をまぶし布を石段にたたきつけて洗いはじめるその洗い水で目を洗い口をすすぎその褐色の
あらゆる排泄物と汚水は
紅い花びらを無数に浮かべ
仔牛の死骸とともに
ベンガル湾にむかって
ゆっくりと旅して行くのだ

ぼくは正午の夢から目ざめると
高原の長距離バスに乗った
真昼だというのに霧にとざされていて
標高一六〇〇メートルの風景は埋没してしまっている
やがて白根の火口ぐちにバスがたどりつくと
霧ははれて硫黄のガスがぼくらをふたたび夢のなかに埋没させる
ぼくらといっても
灰色のバスのなかには中年男の運転手とぼくのふたりだけ
テープレコーダーが回転していて
この火山の上空は硫黄ガスのために鳥も飛ぶことはできません
という女性ガイドの声

じゃ あれはいったいなんなのだ?
一羽の鳥 鳥のようなもの
風にさからい
ガスに巻きこまれながら
飛んでいる鳥のようなもの

運転手は大きく肩で息を吸いこむと
ギアを入れた

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