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奈良県宇陀地方にみる
天理教伝道の特質


これは天理大学宗教学科の卒業論文として、地元宇陀地方の天理教伝道について研究し、まとめたものである。当時、学生として独自に調べた内容であり、本来ではない内容が含まれている可能性もある。そのことを温かくご理解いただき、訂正や気になるところは、ご意見をお寄せ頂けると有り難い。

 立教158年(1995年、平成7年) 橋本 道雄

序説

私は奈良県の宇陀郡大宇陀町に生まれ、今日に至るまでこの地域の中で生活をしてきた。天理教の教会で育った私は毎月のように、おぢばがえりし、今こうしておぢばの学校で学んでいる。ふと思案してみれば、私が現在こうして結構に過ごしているのも、初代の信仰のお陰であり、更に言えば、道の先人たちによる宇陀地方の伝道があったからである。今日、天理教の教えは国の内外に伸展しているが、これとて、こうした道の先人たちが計り知ることの出来ない苦労の中、一歩一歩、伝道の土台を作り固められた結果である。
 当面の研究は、私の故郷宇陀地方の伝道についてである。この地は特におぢばより、それほど距離の離れていない地域でもあり、おそらく、教祖の御在世当時からお道が伝えられていると考えられる。高野友治氏の文献によれば「宇陀高原の信仰がどこから入って来たかさだかではない。恐らく、桜井から宇陀へ来る途中の忍阪村から伝わったのではないかと思われる。忍阪には、教祖の実の妹が嫁いでおり、教祖が、文久以前と思われるが、そのころに忍阪村に御滞在になり、不思議なおたすけをなされておったという話が伝わっている。」とある。つまり、宇陀地方の人々は半阪峠を越し忍阪村を通って桜井に出るから、その道々で教祖の不思議なたすけの事を聞き伝えたと考えられる。
 また、これに関連付けて天理教宇陀分教会の資料集成部の先生の話によれば、その教祖の実の妹の娘に当たる人が宇陀の細川という家に嫁いでおられたようである。そうした事から考えてみると、教祖と最も関係の濃い人々によって最も早い時期に教祖の不思議なたすけの話が説かれていたと考えられる。
 そこで、それに関した資料を探したところ、山沢為次氏の『教祖様御傳稿案(八)』という文献を手に入れることができた。それによると、「御教祖は妹桑子の嫁いでいた忍阪の西田家へは、御足を運ばせ給ふことが度々であった。桑子も中山家へはしばしば往来した。」とある。更に、教祖との行き来があった桑子には四男一女の子供がおり、その唯一の娘たねについて、「弘化二年生まれで、幼少のころから教祖様に可愛がられた人で、後に宇陀の細川家に嫁してなほと改名す。」とある。また更に、宇陀に嫁いだたねと、その祖母である教祖との間柄について、「御教祖はこの種子をこよなく愛された。忍坂から帰るときには、「遊びにおいで」と必ず仰せられた。時には自ら連れて帰って添寝さへ遊ばした。然し、種子は寺子屋に通うようになった後は、この御教祖の御心を拒むようになった。その理由は、学問が同窓よりも遅れるのを口惜しく思ったからである。すると教祖は、“そんなことはわしが教えてやる”とて無理に連れて帰られた。それほど愛されている種子は、その後不安の胸を抱いて寺子屋に行った。その時、自分でも不思議で堪えられなかった。どんな事でも一度耳にすればぐに記憶が出来た。それで、どんなに他に遅れていても、容易に取り返しが出来たばかりでなく、不思議な事には御教祖の御側に長く滞在したときほど記憶力はいよいよ勝って行った。」とある。 これらの事柄が事実であるとするならば、宇陀地方に嫁いだとされる教祖の孫たねは非常に早くからの信仰があり、教祖との関係が深かったことを明らかである。したがって、宇陀の細川家に嫁いでからもお道の信仰は誰よりも熱心であったとされ、宇陀地方伝道の先駆けであったことが確実とされる。
 こうしたことから考えると、天理教伝道の初期において、宇陀地方の信仰が重要な地位を占めており、信仰は出屋敷村よりも早かったのは事実である。しかも後に、今の敷島大教会の前身である心勇講の中心的存在になったのも、宇陀の信者であり、彼らがきまって白いパッチをはいてつとめていたことから、天理教信者の間では「宇陀の白パッチ」という異名を付けられ、注目の的になったのである。
 私には当時の人々の神一条の精神と、お道に対する深い情熱を感じるが、その裏がわには言葉では言い尽くせないほどの苦労があったのではないかと思う。そこで、今回この宇陀地方について地域研究をし、宇陀特有の地理や文化の中にあって当時の伝道者たちはどのように伝道していったのかを見ていきたい。おそらく、その中には宇陀地方の天理教伝道の特質が見いだされると考えられる。その独特の特質について研究をして行きたいと思う。 その方法論を述べると、まずこの宇陀地方の地理について研究をしたい。宇陀地方とは宇陀郡の総称であるが、この本郡は現在六町村から成り立っている。ここにその町村を挙げておくと、大宇陀町、榛原町、菟田野町、室生村、曾爾村、御杖村の六地域である。この地域にはそれぞれ町史、又は村史が出ており、それをもとに、宇陀地方の地理の特徴について調べることにする。
 次に、その地方独特の文化について調べるのであるが、特に伝道と深いかかわりを持つと考えられる昔ながらの行商を中心として見て行きたい、これについては現在残っている物もあり出来るだけ直接に調査し、その歴史と様態を天理教伝道がなされた時代と照らし合わせながら探ってみたい。
 そうした宇陀地方の人文地理について理解したうえで、実際に伝道者がこの宇陀地方においてどのような伝道を繰り広げたのかを研究し、特有の伝道とは何であるのかを論じて行きたい。また、ここではそれぞれの伝道者について教会史などを基礎として、その足取りをたどるつもりでいるが、どうしても明確にならない部分においては、宇陀地方の教会の方から話を直接聞く予定である。
 こうした方法に従って進めて行くつもりでいるが、その中で、現在の宇陀地方の信仰に至った実態を知ると共に、本教の教勢をあらゆる角度から考察していき、今後の布教活動において何等かの参考になれば良いと考えるのである。


第一章 宇陀地方の地理と文化

【第一節 宇陀地方の地理】
 伝道史を研究するに当たって大切なことは伝道地域の理解である。そこでまず、当面の研究対象である宇陀地方が、どのような地域であるのかを、地理的文化的視点から調査し、宇陀の地域性を明らかにして行きたいと思う。 始めに地理的概観から述べることにする。 奈良県は昔から大和と呼ばれており、古くから国中、山中、南山、奥という地域区分が用いられてきた。国中は奈良盆地、山中は大和高原、南山は吉野山地、そして奥が宇陀山地であり、その中でも東部の山地を奥宇陀、西部の盆地を口宇陀と呼んでいた。そしてこの地域を今日では宇陀郡の総称として宇陀地方と呼んでいるのである。全体的な地形を簡単に述べておくと、北には初瀬川河谷と宇陀川河谷とがある。又その間には、西峠があり、大和から伊賀、伊勢に通じる古くからの、また今日では近鉄大阪線や国道一六五号線が通じる重要な交通路になっている。西には奈良盆地や紀ノ川河谷を隔てる竜門山地があり、北から音羽山、経ヶ塚山、熊ヶ岳、竜門岳と言った八百から九百メートル級の山々がそびえ、それぞれの間には女寄峠、半坂峠、針道峠、三津峠が通じている。『日本書紀』に記されている男坂はここの半坂峠を、又女坂は針道峠に当てられていることで有名である。南には竜門山地の南に東西に延びる中央構造線があり、これに沿って、紀ノ川やその支流が流れ、内帯と外帯とに分けられている。東北は伊賀盆地、東南は山地が連続して伊賀に続き、布引山地に及んでいる。
 このように山地と盆地から成り立つ宇陀地方は更に現在六つの町村で形成されている。宇陀盆地には低い丘陵にへだてられながら大宇陀町、菟田野町、榛原町があり、宇陀山地には、高見山や国見山に代表される一千メートルを越す山々に隔てられながら室生村、曾爾村、御杖村がある。これら六地域もこの研究の視野に入ってくる地域であるので、それぞれの地理について述べておくことにする。 まず、大宇陀町から見て行くことにする。宇陀郡の西方に位置するこの地域は、松山盆地を中心とする地域で二大東西交通路に接していないが、両交通路を連ねる宇陀川上流の谷と吉野川支流の谷が南北に走り両者を連絡する線上にあり、更に奈良盆地より直接、今日の女寄峠である半坂に連絡し、奈良盆地、宇陀地方、吉野地方を結ぶ交通の要地として、経済的にも発展して来たと言える。この地域の四周を見てみると、西方は今日の桜井である多武峯村と境を接し、西方竜門山地の障壁も北西部は低くなり桜井より栗原川の渓谷頭は半坂の小峠、女寄峠のとして主要道路が通じた。
 この地域は元々松山町とこれを取り巻く神戸村、政始村、上竜門村からなっていたが、この四つの町村は昭和十七年に合併し今日の大宇陀になったのである。
 この地域の交通について文化地帯の奈良盆地と宇陀地方、吉野地方、伊勢方面との交通の要路にあたり、人々の往来、物資の交換、文化の交流などの通過地域や結節地点として重要な役割を果たした。神武天皇の東征の物語りに伝わるように宇陀より平坦部へ出る道は男坂女坂を用いたとされ、古代よりの交通路としてこの地域の北西部にある各峠道が利用されたと考えられる。これは地形的に土地が割合平らな盆地をなし、周辺も多くは丘陵であるため宇陀地方、吉野地方、伊勢方面からせの道が自然と松山周辺に集まり易かったと考えられるからである。こうした道を一つ一つ見て行くと、まず松山街道がある。この街道は主に三線あり、北より女寄峠、半坂の小峠、宮奥の大峠である。いずれも奈良盆地との交通に使われたものであるが、特に最も多く使用されたのは半坂越の道である。半坂は神武紀の「男坂」の地であると伝えられ、松山から奈良盆地に出る近道として栄えたのである。松山から川向、小附を経て半坂に至り小坂を越え、急坂を栗原に下り、忍阪を経て桜井に達するもので、この峠道は伊勢街道に続いて交通量が多く、人々や物資の漏斗口の如き働きをしていたのである。又この峠には当時、茶屋があり「宇陀の半坂小峠の茶屋で泣いて別れたこともある」と馬子歌にもうたわれたり、「天下泰平往来安全」と刻まれた燈籠が古来から残されているのも、この道が重要な道であったことを示していると考えられる。一方、大峠も飛鳥地方に至る近道として利用した人も少なくない。この道は針道峠とも称し、宮奥から熊が岳と竜門岳を越し多武峯方面に出るもので、神武天皇紀の女坂という説もある。この道は、特に岡寺の初午に厄除けのために参る人々の参道であり、又宮奥に産出する薪炭がこれを利用して搬出されたことでも知られている。
 次に大和から伊勢への参宮街道となった伊勢街道とも関係が深く、直接この地域を通っている訳ではないが、東西街道を結ぶ南北街道が通じていた。この道は先程の松山街道の延長と見るべきもので、二線あると考えられる。一つは松山を通る古い伊勢街道で榛原と三茶屋を結ぶもので、榛原から野依を経て下竹で半坂峠の道と合流し、川向から松山に入り、南に出て関戸峠を越え栗野から三茶屋に達する。ここで伊勢街道と交叉し熊野街道と接続しているのである。この街道は宇陀地方と伊賀方面に通ずる主要街道でもあった。一方桜井からの松山街道もこの街道と連絡し、宇陀、吉野地方と物資の交流が行われた。中でも熊野灘の鯖が桜井魚市場に運ばれるのに大いに利用されたようである。
 もう一つは古市場を経て鷲家に達するもので、松山で伊賀街道から東方に別れ、岩清水、才が辻を経て岩崎で榛原からの街道と合流し、古市場を通り佐倉峠を越え、鷲家に出るのである。ここで伊勢街道と交叉し、吉野方面に通じたのである。このように三茶屋や鷲家を通る伊勢街道は古くからの東西の重要路として知られ、この地域の松山も物資の交流の通過路になっていたということが分かるのである。
 次に菟田野町であるが宇陀郡の南部に位置し比較的集落の発達した盆地地域である。地形的には南縁近くに中央構造線が東西に走っており、吉野川渓谷より東方三重県節田川渓谷を連ねる構造谷が生じ、大和と伊勢を結ぶ東西交通路をなしている。一方北方、宇陀山地の北部には桜井、初瀬より榛原を経て東北名張に続く構造谷があり、これも又大和から伊賀、伊勢を結ぶ重要な交通路である。この地域は両東西交通路に挟まれた所であるので、両者を連絡する使命をもつ南北交通路が古くより発達した所である。そしてこの中心地でもある古市場は古くから奥宇陀や吉野と関係が深く、地方経済の中心地となって発達している。
 菟田野町は元々宇太村と宇賀志村の両村からなっていたが、地形、経済、交通等密接な関係があり、人情風俗も類似していたので。昭和三一年に合併し現在の菟田野町になったのであるが、宇太村は平地が割合多く、付近の経済の中心地古市場をもっており、その南隣の芳野川、宇賀志川上流地域である宇賀志村では、山地が多く林産が豊かであった。
 この地域の交通についてであるが、文化が開け始めたころより、伊勢方面の交通路がおおく利用され、人々の往来、物資の交換、文化の交流など通過地域や結節点として重要な役割を果たした。この地域の中心である古市場はちょうど南北の伊勢街道の中間に位置しているので、四方より道は古市場に集まり、交通と共に商業の中心地ともなった。西方は大宇陀町松山を経て桜井その他の奈良盆地へ、北方は榛原にでて伊勢街道に連絡、東北は内牧に通じ伊勢街道に、東北は芳野川をさかのぼり東吉野の谷尻、平野を経て高見越伊勢街道へ、南方は宇賀志、佐倉を経て東吉野村鷲家に至り同じく伊勢街道へ、更に西南へは大宇陀町の下品、田原を経て吉野町三茶屋にでて上市方面に通づるものがあった。このいづれの道も古市場より放射状に出ているが、相互に連絡し伊勢街道を連絡し、又は奈良盆地へ出る重要な道路としての使命を有した。中でも高見越伊勢街道は参宮街道とともに、この地域へ熊野地方よりの魚類の移入路となっており、桜井魚市場へ熊野海岸の魚類を特に一塩した「熊野鯖」をかついで通ったのである。またこの地域の魚屋が高見峠まで出向いて、売買を行った話も伝わっている。
 次に榛原町であるが、宇陀郡のほぼ東北の方角に位置している。地形的には奈良盆地と伊賀盆地の中間の口宇陀盆地に位置しており、海抜三千米余の高原状の小盆地とその間に丘陵が起伏している。更にこの地域を横切る東西の構造谷は古くから大和と伊賀伊勢の東国とも結ぶ街道として開け、近世の伊勢参宮街道、最近の近鉄大阪線もこの通谷を利用し、名実共に近畿における東西交通の要衝である。このように自然的環境に恵まれ、大阪、奈良、京都の文化と伊賀、伊勢の東国文化の交流地帯となり、衣食住など生活風習も両者の漸移地帯になっているとも言えるのである。
 この地域の中心地にもなっている榛原は地理的に恵まれた核心部位置する集落で、昔の伊勢参りの道筋としては本街道と青越道の分岐点にあたる宿場町として栄え、現在も地方交通経済の中心となり宇陀地方の門戸となっている。
 榛原盆地の周辺、諸支流の渓谷、更に山腹の緩斜地などには昔ながらの農山村が散在している。その家々は奈良盆地影響を受けた大和棟であるが伊賀方面の影響もあり、その中間性を示していると言える。
 榛原町は元々榛原を中心にその周辺の農村より成り立っていたが、交通経済の密接関係な伊那佐村及び朝倉村の笠間安田地区と昭和二九年に合併、続いて山地が多く森林業の盛んである内牧村を昭和三〇年に合併し現在の榛原町となっている。
 この地域の交通は古来から現在に至るまで一貫して変わっていない。つまり奈良盆地、大阪平野と伊賀盆地、伊勢経平野を結ぶ廊下的地域として名実共に関西における交通の要衝である。殊に古くから我が国の経済の中心として栄えた大阪、永く政治の中心として重きをなした奈良や京都、早くから国民的信仰のひとしお厚かった伊勢との中間にあって、両者の結節点に当たるこの地域は交通に関してかなり重要な位置にあると言っても良い。その中でも古くからお伊勢参りで親しまれて来た「伊勢街道」は大海人皇子が挙兵に当たり吉野から松山付近を通り榛原から伊賀領に入ったことで知られている。その後、都が奈良から京都に移されてから明治年代に至るまで、三つの伊勢街道が利用されたと考えられる。一、北街道(奈良から大和高原を横断し、笠間峠を越えて伊勢へ) 二、南街道(上市から高見峠を越え、伊勢へ) 三、中街道(「伊勢本街道」とも称される)これら三つの街道の内、中街道がこの地域にとって縁が深く、当時から中街道の宿場町として賑わって来たのである。ところで、この中街道の足取りの記録として、京都から奈良街道、大阪から暗峠を越えて奈良につき、丹波市|三輪|初瀬|榛原|高井|諸木野|田口|山粕|菅野|神末を経て伊勢の田丸に出るというルートが残されている。一方、青越道は榛原の萩原という所でこの中街道と分かれて三本松経由で伊勢にでる街道もあり、この地域が両ルートの分岐点になっており、伊勢街道の要衝になっていたことが明らかである。
 次に室生村であるが、宇陀郡の北部に位置し、北の東辺は三重県と接している。地形的には宇陀山地から大和高原にまたがっている。又、奈良盆地より宇陀山地の北部を経て伊賀伊勢に通ずる重要な東西交通路にも当たっているので、人文現象も奈良盆地より宇陀山地、大和高原を経て伊賀盆地に漸移する特色を示しているのも、その位置が重要な原因をなすものである。中でもこの地域の東部の集落は三重県の名張と近接しているため、古くより経済関係が非常に密接である。逆に西部は、宇陀郡の榛原に接し伊勢街道によって結ばれ、更には、大阪方面に道が延びているため、交通上経済上の関係は深いものであると考えられる。
 この地域の交通は、地形上からも、古来東西交通の要地にもなっており、宇陀山地の北部から大和高原の東南にわたる宇陀川の谷を利用した重要街道の通過地帯となっている。これは先に述べた榛原町と同じように、廊下的特色を示しており、大阪や奈良京都や伊勢との交流が盛んに行われていたものと思う。特に伊勢街道の宿場町が多く設けられていたと考えられる。
 やはり、この地域にも先に述べた伊勢街道が主道となっており、三つのコース内、伊勢本街道つまり中街道が通っている。この街道の利用は「伊勢参り」が発端となっているのであるが、村々で伊勢講と称する講を組んで老若男女が団体で参詣し、沿道には宿屋が出来たようである。その沿道が通るこの地域も宿屋や茶屋が立ち並び賑わいを見せた。現在も村のあちこちに古い石の道標が立ち、昔の要路であったことを物語っている。 
 次に曾爾村であるが、宇陀郡の東北部に位置し、室生村と同じく三重県と接している。地形的には宇陀山地の東部で室生火山群に属する美しい火山地形からなっている。この山地は近畿中央地区の一部で奈良県と伊賀盆地との中間山地にあり、しかも伊賀盆地に隣接している。そしてやはりこの地域も伊賀伊勢に通ずる重要な東西交通路をもっており、人文現象が宇陀山地を経て伊賀盆地に漸移する特色を示しているということができる。現在は交通の便も良くなって来たが、かつては火山群と渓谷の目立つ地域であった。それは、室生火山群の間を越えて、天下の勝地「赤目四十八滝」の渓谷に出るコースが開けているのに対し、東方の一部が三重県一志郡美杉村に接しており、その境には室生火山の倶留尊山の山嶺がこの地域の太郎生との間に聳え、交通を妨げている事からもわかる。
 この地域の交通は地形的にも伊賀伊勢方面との関係が深くあったように考えられる。確かに山地内の人々にとって不便は免れることはなかったが、古くから峠を越え近隣地域には足を運んでおり、特に当時の商業の中心地である名張などとの交通が盛んに行われていた。その街道となったのが東西に山を越し大和と伊勢を結ぶ伊勢本街道である。青越道との分岐点に当たる榛原で本街道を選ぶものが多く、奈良盆地や大阪方面の参宮客の宿泊地として賑わいを見せたのである。この地域にはもう一つ重要な街道として名張街道が残っている。別名椿井街道とも呼ばれ、中央部の横輪川の谷を西北に登り、椿井峠を越え、滝川の上流椿井谷に出て、北に下り、名張に出るもので、名張と物資の取引をするための道として重要な街道になっている。
 次に御杖村であるが、宇陀郡の最東部に位置し、更には奈良県としても最東部に当たるのである。地形的には宇陀山地の東部、室生火山群、高見山地、布引山地がこの地域に属しており、節田川から吉野川に続く渓谷は東西の方向の西南日本中央構造線が走っている。これは人文現象も古来大和と伊勢両国を東西に結ぶ重要交通路になっており、経済、文化、風習等も三重県と関係が深いことを示しているのである。特に、その中でも三重県の美杉村と非常に関係が深く、伊勢への通過路として美杉村の太郎生を経ることからも、経済関係が深くあったと考えられる。
 この地域の交通は、地形からも分かるように、高見山地と室生火山群の山がちな地域であるから、一般に不便であることは免れない。しかしながら、その位置が三重県にも突出していることから、伊勢、伊賀方面との交通関係が深かったとも考えられる。その代表的街道はやはり伊勢街道でこの地域を通っているのは本街道で大和と伊勢を結ぶ重要な役割を果たしていたのである。先に述べたように榛原の分岐点には「右いせ本かい道・左あをごえ道」と刻した道標が立ち、ここで人々は本街道か又は青越道を選んだのである。そしてほとんどの人は本街道を選んだと言われ、その道が通るこの地域は宿屋や茶屋で賑わったのである。 
 このように六地域について地理的な視点から見て来たが、いずれの地域も山地や盆地に属し、特に山地地帯である室生、曾爾、御杖の三村は当時としても生活のしやすい地域ではなかったようである。そのため盆地地帯の大宇陀、菟田野、榛原に集落も多く人口も集中していたのではないだろうか。しかしながら、この地域全域を通る伊勢街道が宇陀地方の交通経済を支え、外から又は内からの情報道として利用されていたことは間違いないと考えられる。更には、この街道が大阪、京都と伊勢を結んでいることから、商業、文化、習慣といった方面では他の地域よりいち早く関係をもつことが出来たのではないだろうか。又、ここで本街道(中街道)と称する伊勢街道がよく利用されたことがよく分かるが、そのルートとして考察すると、大阪、京都方面の人々が必ず丹波市を通っていることが分かる。丹波市は現在の天理市の前身地域の中心であり、おそらく天理教の伝道にも何等かのかかわりをもっているのではないかと考えるのである。
 それでは次に、このような特色ある宇陀地方にどのような習慣があり、その中でどのような人々の暮らしがあるのかを文化的視野から考察して行くことにする。

【第二節 宇陀地方の文化】
 ここでは宇陀地方にみられる文化について考察しておきたい。それは伝道地の文化は伝道活動推進の過程で、直接又は間接に関わりをもつと考えるからである。つまり、昔からの伝統やその地方の生活習慣が時には障害となり、時には助けにもなることが多いからである。いわゆる、伝道における文化的適応についての研究である。
 文化と言っても、ここでは商業、及び仏教の信仰について述べておきたい。商業については、宇陀地方が元々古い行商の地として栄えて来ていることに注目したい。地理的状況からも分かるように、この地方は山地と盆地に囲まれている。したがって、人々の生活は限られた街道を川を渡り、峠を越えながらという形で成り立っており、文化的交流もその筋道によって果たされて来た。そういった意味では、その街道がこの地の商業の中心的役割をしてきたと考えられる。特に、行商においては、多くの行商人が幾度となくその街道を往来し、土地所の人々とのコミニケーションが行われていたと考えられるのである。そしてそうした中で、お道の話が徐々に伝わって来たとも考えられるのである。
 次に仏教の信仰については、古くから伝来しており、今日宇陀地方に残る多くの寺院がその歴史を主張している。事実、天理教がこの地方に伝道されたのは、仏教の伝来より随分後である。突然現れ、凄まじい勢いで伝道された天理教は、仏教徒にとってはおそらく良い存在ではなかったであろう。そうした意味では、天理教の伝道は仏教側にとっても障害であったであろうし、同時にお道の伝道にとっても仏教の信仰は大きな障害になったのではないかと考えられるのである。
 しかしながら仏教は宇陀地方の人々にとって、親々の代から信仰がされており、生活の中の一部になっていたと思われる。そこで、宇陀地方の文化的な存在である仏教の信仰について調べておきたい。
 以下、宇陀地方の文化的特色について考察することになるが、まずはじめに、宇陀地方の歴史的背景に触れておきたい。
 宇陀地方は古代から阿騎野呼ばれ、絶好の狩猟場として有名である。「軽皇子の安騎の野に宿りましし時、柿本朝臣人麿の作る歌」で知られ、「東の野に炎の立つ見えて、かえりみすれば月傾きぬ」という歌が詠まれ、その情景を今に想像することが出来る地である。また、大和と伊賀の国境に近く、紀ノ川、熊野川河谷に通じる道筋もあり、「菟田血原」「菟田高倉山」といった、建国神話の発祥の舞台として、古事記や日本書紀に現れていることでも知られる。中世になると「宇陀三人衆」「宇陀三家」「宇陀三将」などと呼ばれる秋山、沢、芳野の三氏が伊勢の一志郡多気に本拠をもつ北畠氏の配下にあって勢力を拡大し、今日の大宇陀、榛原、菟田野の三町に勢力をもたらしていたと考えられている。そして近世に入ると、幕藩体制の元、織田信雄が城下町を本格化し、松山城下町を成立させ、その後織田長頼の代になって二万八千石余、一町百六村を支配したが、元禄八年に松山藩が廃藩となり、以後天領となって明治に至っている。 今日もその当時の城下町の町並みが残っており、商業が発達して来たことを知ることが出来る。
 それでは、第一にそうして発達して来た商業などについて見て行くことにしよう。
 宇陀地方の商業は前にも述べたように、行商が主であったと考えられる。行商とは、それぞれの土地で作られたもの、又は採取したものを土地所に売りに歩く、いわば交易であり、そうした仕事をする人々を行商人と言った。奈良新聞社の当時の宇陀地方の行商の調査によれば、小間物、反物、呉服、生魚、熊野サイラ、一塩鯖、薬、昆布、炭などが行商によって売り買いされ、衣食住のもろもろの生活物品がほとんどであったと考えられる。もう少し詳しく見ていくと、魚の行商では、「熊野鯖」が有名であり、毎日のようにあらゆる生魚が宇陀地方に入って来ていたようである。生魚は紀州、熊野灘で捕れ、海辺ではらわたを抜き取り、一塩したものが多く、伊勢街道である高見峠を行商人が天秤に担いで運んで来たらしい。そのほとんどは桜井の魚市場に出されるものであるが、宇陀地方には多くの得意先があり、その家に行商人が置いていき、どこの家でもその日置かれた魚をおかずにしていたそうである。つまり、その日の食事は魚屋任せであり、強い信頼関係が宇陀地方の人々とも持たれていたと考えられる。更に菟田野町史によれば、その地域の魚屋が高見峠まで出向き、そこで売買していたとも伝えられている。また、この地域に長年暮らす私の知人によれば昔より保存食として「柿の葉ずし」といって、にぎりの上に鯖を乗せ、柿の葉に包み込んで押しずしにするこの地方にしかない名産であるが、この鯖も熊野鯖が使われ、あまりにもおいしいので今日保存食としてではなく、「大和の柿の葉ずし」として全国に出廻ったということである。また、私の住む地域には昔から古い習わしがあり、村の祭りや何か祝い事がある時にはきまって「酒塩」というものを作る。作り方は簡単で、熊野鯖を数時間かけてじっくりと炭火で焼き、大きな器に乗せてその上から沸騰した酒を一気にかける。そのままの状態で順番に村の人々に振るまわれるのである。私も一度吟味したことがあるが、味は格別なものである。このように特産や古来からの習わしに成る程魚が盛んに宇陀地方に入り、それを売りに歩いた行商は宇陀の人々にとって、なくてはならないものであったと考えられる。
 次に薬の行商について見てみると、今日でも宇陀地方では「置き薬」と称して、それぞれの家に薬業者が保管用の薬を配達しているが、元々これは「大和の売薬」として発展したものである。現在、それは高取町が中心となって大きな薬会社を経営しているが、その歴史をたどれば、大和は古くから薬草に富む地として知られており、西暦六百十一年にはこの宇陀地方でも薬草狩りをしたという記事が残されている。これが売薬として成立したのはそれからかなり後の十八世紀ごろになる。売薬の行商は普通二つのタイプに分けられ、一つは「呼立売薬」といって薬効を吹聴しながら行商して歩くものと、もう一つは「御免売薬」といって奈良奉行の免許を得て店頭で調整販売するものである。宇陀地方では前者の行商人が出入りしていたと考えられる。今日そうした売薬の足跡を残すものとして宇陀郡松山に「森野薬草園」が残されている。森野藤助によって開かれたこの薬草園には約二百種の薬草があり、日本薬園史上でただ一つ旧状を保存している貴重な史跡である。また、その中でも宇陀郡神末村では「かたくり」を発見し、後にそれが「吉野葛」となって全国的に有名な宇陀の薬菓子として各地に出荷されている。特にこの葛は近畿はおろか県下でもこの宇陀の二軒でしか製造されておらず宮内庁御用達の店として、特に大阪方面に売りに出されたらしい。現在、この薬草園の外に薬草料理、薬草風呂などが観光名所の一つになっているが、このような薬草園を築くのにはかなりの年数をかけており、売薬の行商もそれと共に栄えて行ったと考えられる。
 この他に炭も宇陀地方の産物であり、この炭を行商人は松山は勿論のこと、桜井から八木、高田、丹羽市の方面に売りに歩いたようである。その道は半阪が主な街道であり、炭のほかに柴や割り木も売りに歩いた事が確認されている。
 また、食事に欠かせない塩などは大阪方面から剣先船に積まれて大和川を遡ってきたものでそこから宇陀の村々に売りに出されたということである。
 このように、あらゆるものが行商人の手によって売りに歩かれ、村の人々にとっては、日常の生活が色々な行商と密接に結び付いていたと考えられる。一方、行商人にとっては宇陀の地理が自分の仕事場であり、特に第一節でも述べたように、宇陀地方を通る伊勢街道を初めとする、主要街道は彼らにとっても、また人々にとっても大きな交易の場となっていたと考えられる。更には、行商を通じて、色々な人々との交わりがあり、天理教伝道においても、それは大きな役割を示していたと考えるのである。
 次に仏教の信仰についてであるが、そもそも宇陀地方は神仙思想を古来から浸透しており、『日本書紀』や『万葉集』『懐風藻』などからもそのことが伺える。したがって古くから人々の間では信仰の意識は根付いていたと思われる。
 仏教が宇陀地方に伝来したのは、八世紀初頭であるとされており、国内の各地と比較すると少し遅れて流入していることになる。そんな中、菟田野町駒顧の駒顧廃寺はこれまでの調査で最も古いことが確認されており、その寺の瓦は岡寺や地光寺跡などの山岳寺の瓦と同じ形式のものを使用しているとされている。
 こうして宇陀郡全域に仏教が浸透して行き、次々と寺院が建てられるようになったのである。明治時代に入る前には寺院数は宇陀郡全域で二百二十カ所あったとされている。しかし、明治五年から明治七年までの間に、無住、無壇を理由に廃寺になった寺院が多く、明治二十四年には約半数に減ってしまったのである。しかし、それでも約百近い寺院が残っているのであり、今日の宇陀地方の信仰を支えて来たのである。
 そうした寺院を宗派別に調べることにすると、まず浄土真宗が上げられる。寺院数は五十四カ所あり、宇陀郡内で最も多く、また逆に廃寺になった寺院は少ないのが特徴的である。特に、大宇陀町調子にある歌歎寺は有名であり、本願寺の抱寺にもなっている。同地域の下本にある道標の北面には、「左いせ、吉好尼御塚」と記され、榛原町西峠付近にも「左きつこうによ」と記された道標が残されていることからも、近在のみならず、広くその信仰を集めていたことが伺えるのである。 次に融通念仏宗である。寺院数は浄土真宗についで多く、十八カ所ある。しかし、明治初頭では七十五%が廃寺になっていることから、かつてはかなりの数があり、信仰者が多かったことを示している。中心的な寺院は大宇陀町西山の光明寺で和州七か寺大末寺の一つに数えられている。
 次に禅宗である。寺院数は十三カ所で、大宇陀町春日の法正寺や岩室の徳源寺が中心になっている。これらの寺院は織田氏やその家臣の菩提寺となっており、その周囲には飛来寺、慈恩寺、千眼寺、法性寺が配置され、領主層とのかかわりの中で形成されたことを特徴にしている。 
 次に浄土宗である。寺院数は五カ所あり、その中心をなすのが大宇陀町大東の慶恩寺である。寺伝によれば、文治二年、俊乗坊重源上人開基、大仏殿の再興にあたり、その試みとして当寺を建立したと伝えられている。
 次に真言宗である。寺院数は十一カ所であり、大宇陀町栗野の大蔵寺が中心寺院になっている。上方四国八十八カ所の第二番札所になっており、寺伝によれば、聖徳太子が用明天皇の勅命を受け、奈良盆地から吉野に入る要路の一つである竜門の地に僧侶の学問所となる寺院を建立したのが、はじめであるとされている。
 次に日蓮宗である。寺院数は二カ所であり、大宇陀町松山の長陵寺が中心寺になっている。寺伝によれば、江戸時代の初めに福島掃部頭が松山城裏鬼門祈願所として再建したと伝えられている。
 以上、現在に残る主要な宗派を取り上げ、それぞれについて調べてみたが、ほとんどが大宇陀町を中心として宇陀地方全域に広まって行ったものであると考えられる。しかしながら、その後ほとんどの宗派が半分以上の廃寺を生じさせてしまうことになっている。これは先でも少し触れたように、明治五年頃から急速に増加している。それは、明治新政府の影響も多く受けていると思われる。政府は明治元年に神仏分離令を発し、神の名に菩薩や権現などの仏の称号を用いることを禁じいのである。そして、神社内に置かれていた仏像、仏具や、反対に寺院内にある神社関係器物を取り除くように指示したのである。この令は必ずしも仏教を廃絶させようというものではなかったが、この後数年にわたって宇陀地方は勿論全国的に廃仏の嵐が吹き、仏教界はこれまでもっていた特権を失い、大きな痛手を被ったのである。おそらく、こうしたことが元となって廃寺が宇陀地方には多くなったと考えられるのである。
 天理教が宇陀地方に入って来たのも、明治の初頭であると考えられている。当時仏教がこうした痛手を被り、かなりの危機感を感じていたと思うが、天理教からの影響はどうであったのだろか。突如現れた天理教が、勢いある伝道を進めていたことは、仏教側にすると大きなプレッシャーになり、危機感はより倍増していたのではないかと考えられる。おそらく、そうしたことから天理教に対する反対攻撃の観念は一層高まり、宇陀地方の天理教伝道の大きな障害になったのではないかと思われる。
 これまで、第一章において宇陀地方の地理と文化について確認して来た。確かに、おぢばとそれほど距離のないこの地域にも地理的に、また文化的にあらゆる特色があることが分かった。それは一言では語れないものであるが、その内には何か宇陀地方に生きる人々の生き様が浮き彫りのように見えて来たような気がする。その中でも、明治維新と共に人々は活気づき、政治的意識が強調されつつある中、お道の伝道の芽が出始めたことが注目される。次は、この宇陀地方で、誰が、どのような伝道を繰り広げたのかを見て行くことにする。 


第二章 宇陀地方の伝道につとめた人々

【第一節 加見 兵四郎】
 それでは、このような地理的文化的に特色ある宇陀地方において、どのような人が伝道し、また、それがどのように繰り広げられていったのかを研究して行くことにする。
 私自身が調査した所では、この宇陀地方には、いろいろな人が伝道しており、その功績は今日の天理教伝道の中で土台となるような役割を果していることが分かった。しかし、その反面、彼らの道中には、私達には想像することも出来ないほどの計り知れない苦労があったことを忘れてはならない。この宇陀地方においては、第一章で述べたとおり、おぢばよりそれほど離れていないとはいえ、多くの山地に囲まれ、文化的にもそれほど発展していたとは言えない。その意味では伝道上、かなりの苦労は免れなかったであろうと思う。これから述べて行くのは、まだ天理の天の字も知らされていなかった宇陀地方に、親神様の教えが始めて伝えられ、地理的に、又文化的にも特質を持つこの地方において、特にその初期の伝道をし、宇陀地方伝道の土台を作り上げた人々を挙げ、彼らの伝道が、この地域性とどのような絡みを持っていたのかについて研究して行こうと思う。
 尚、当文面に挙げる地名は当時(合併前)の地名を使用する。
 まずはじめに、加見兵四郎について見て行くことにする。彼は今日の東海大教会の基礎を造り、初代会長としてお道の中で彼の名を知らないものはない。しかし、彼のそれまでの道中を振り返るとき、その苦労は計り知れないものであり、特に、彼が初めて伝道し多くの人々をお道へと導いた宇陀地方は、彼なしに語ることは出来ないと考える。
 加見兵四郎は天保十四年九月八日奈良県磯城郡朝倉村大字笠間にて父宗治郎、母たみの間に生まれた。彼が六才のとき家族とも笠間を離れ、母の実家である宇陀郡の野依の家で二カ月ほど居候し、その後間もなく妹きくが誕生するが、父母は事情で離婚することになり、兵四郎は父方の笠間で、妹のきく母方の宇陀の野依で生活することになる。この時点ではまだお道は入ってきてはいない。家庭の事情で家族が離れ離れになったものの、宇陀郡の隣村の笠間とそれほど距離のない野依との間では、常に行き来はあったものと思う。 後に父は九才の兵四郎を残したまま、家を出て行き、行方不明になる。一人残された兵四郎は天涯の孤児になり、どうすることも出来ないつらく苦しい環境の中を世の辛酸をなめて暮らして行くことになったのである。彼は暮らしを立てるのに農山稼ぎ、古道具商、呉服商などしていたが、小間物の行商が板につき、宇陀地方へも小間物を売りに歩いたようである。
 その頃、唯一の身内である妹のきくは結婚して宇陀郡の松山に移り住んでおり、兵四郎にとってもたった一人の頼りある存在であったようであるが、東海大教会の大教会史である『東海の道』によると、妹のきくが兄の苦労を偲んで申したことに「この世の中には自然を動かす大きな不思議な力がある。それは神様の力や。庄屋敷の神様にお参りしたらどうや。」とある。これが明治元年のころのことであるから、きくはかなり早い時期にお道を知っていたということになる。きくの信仰がどこから来たものであるかは、どの文献にも書かれていないが、私が序説で述べた教祖の実妹の娘たねが、宇陀に嫁いでいたことが確実であるので、おそらく、宇陀で長年暮らして来た妹きくの耳にも教祖の不思議なたすけの話が、入って来ても良いと考えられるのである。
 しかしながら、このころには兵四郎の耳にも、うっすらとお道の話が伝わってきていたに違いない。それを確信したのが明治五年のことであり、『東海の道』によると、「この年の5月奈良見物に四、五人村の若い連中と行った帰り、庄屋敷に立ち寄り教祖に出会い、不思議な話を聞いた。」とある。そして翌年の春、宇陀郡政始村大字守道の奥峯林平の末女つねを妻にし、つねの懐妊初産の許しを庄屋敷に戴きに行き、その年の十一月に長女を無事出産している。
 それ以来、兵四郎はお道熱心になり教祖の元へ通うようになったのである。それと同時に、大和地方への布教が始まり、特に式上郡、宇陀郡、十市三郡を中心とし、「生壁の兵四郎」という異名をとるようになったのである。明治七年、その布教によって最初に入信したのは宇陀郡伊那佐村澤の柳沢半治郎であったという。その後、家族共々宇陀郡上新町に住むようになったのであるが、ここに移り住んだことで、宇陀地方における伝道がより一層活発になったのではないかと考えられる。また、彼は小間物の行商をしていたからこの仕事を一つの伝道手段にしたのではないかと考えられるのである。そうした過程で、明治十四年に隣村出屋敷村の山本与助の妻いさが大病を患っていたのを親神様の御守護によって助けて戴いた話を山本宅で直接聞いた。それに感銘を受けて道一条になることを決意したのである。そのことを高野友治氏の文献によれば「加見氏が出屋敷村の山本宅で、山田伊八郎氏のお話しをしているのを聞いた言うのは、加見氏が小間物の行商に立ち寄ったときのことではなかろうかと思う。」とある。つまり、それまでの彼の伝道は、行商であちこち廻りながら宇陀地方の人々にお道を伝えて行ったものと言って良いだろう。事実、彼の布教によって多くの人々が助けられたのだが、そのたすけ話の中にも、宇陀郡拾生村の直助のかんの大病のおたすけ、又上新町の子供がきん玉を腫らしてどうにもならないところを、兵四郎の布教によって、不思議なたすけを見せられた話などが伝えられている。
 そうした彼の布教が続き、明治十七年にはこの付近の伝道者が中心となって、それ以前に作られた講社を一つの講に結成使用という話が持ち上がった。そこで、倉橋村出屋敷から上村吉三郎と上田音松、又宇陀の西山からは森本治郎兵と小西定吉、そして宇陀の笠間からは加見兵四郎が集まったのである。この時の講社の数を見てみると、出屋敷の講社が七戸に対して、宇陀地方の講社は三十戸もあり、そのうち兵四郎が作った講社は二十四戸であった。そして後に彼は二十九戸の講社を作ったのであるが、余りにも数が多く講中の布教がとどかなくなり、講内のお道熱心な者を選び、手分けしてそれぞれの講を受け持ってもらうことにしたのである。それが明治十九年の事であり、『東海の道』によるとその振り分けは次のとおりである。
 第一号 今井、野依村講社
     受け持ち加見兵四郎
 第2号 駒顧、岩清水、才が辻、守道、
     宇賀志講社
受け持ち奥峯吉治郎
 第3号 松山町、栗野、柳、三茶屋、黒木     関戸講社
     受け持ち四郷徳三郎
 第4号 澤、大貝、山路講社
     受け持ち柳沢半治郎
 第5号 見田、別所、大沢、大神、
     芳野講社
    受け持ち峰畑為吉
 第6号 安田、笠間講社
     受け持ち大浦伝七
 第7号 榛原、福地、長峯、淘汰地、赤瀬     山辺講社
     受け持ち福井茂七
となっている。
 元々これらの講社を兵四郎が一人で布教したとするならば、数の上でも大変なものである。そこで、それぞれの講社名がその土地所の地名にちなんでいるとすれば、彼の足取りを知ることが出来る。
 明治時代の宇陀地方の地図の上でその地名を確認して行くと、まず第一に宇陀地方の西部に固まっていることが分かる。つまり、それは現在の榛原町、大宇陀町、菟田野町一帯であり、当時から地域的にも栄えがあった集落である。人口も多かったことから考えてもそれは納得出来るところである。第二に街道沿いの地域に集中していることが注目される。一つは松山を通る南北の古い街道の伊賀街道で、宇陀地方の北部と南部に位置する伊勢街道を結ぶ。それは榛原-五津-野依-下竹-五十軒-川向-関戸峠-栗野-牧-三茶屋を通り、熊野灘の魚を輸送する重要な街道とされていた。もう一つは松山より古市場を経て鷲家の方へ延びる佐倉峠越の街道で、松山-岩清水-才が辻-岩崎-古市場-佐倉峠-鷲家を通り、伊勢街道と交叉している。松山へ東西からの物流の交流が行われ、特に熊野灘でとれた鯖を桜井魚市場へ運ぶ重要な街道になったのである。そして最後にもう一つは古市場から榛原の方へ向かう街道で、古市場-別所-澤-大貝-栗谷-井足-榛原を通る。これも又北部と南部の伊勢街道を結ぶ重要街道になっている。
 これら三つの街道沿いに兵四郎が作った講社がいずれも点在し、布教の上でこの街道がかなり重要な役割を示していることが分かる。 兵四郎はこれを一人でこつこつと幾度となく歩き、「生壁の兵四郎」と異名を付けられたとおり、隣の壁が乾くの待つことなしに次から次へと布教を繰り返していたことが確認される。
 しかしながら、この度の新しい講の結成においては、これだけ多くの講社を作ったにもかかわらず、講元を上村吉三郎が受け持つことになっている。この事情に関して、批評があるかもしれないが、ここでは触れずにいこうと思う。
 相談の結果、それぞれの講社が一丸となり、心勇んでつとめたいという思いから、心勇講と命名し新たな出発を迎えたのである。更に宇陀地方での布教が身についてきた兵四郎は、明治十九年に伊勢の多気村から初めて招待を受け、布教に出たのである。このころまだ伊勢の方にはほとんどお道の布教はされておらず、初めてお道の話が伊勢の方に入ったのはその一年前の明治十八年のことであった。
 ちょうど御杖村から南方へ行くと伊勢の国の波瀬村がある。この村に床屋をやっていた藤田という人がおり、以前から身体の調子が悪く、伊勢街道の南街道つまり高見越道を経て、佐倉峠を越え、当時名医で名高い磯城郡下尾村の内藤病院に見て貰いに行っていた。その帰途、宇陀を過ぎて、佐倉峠の頂上で休憩していると、向こうから魚屋がやって来たのである。前でも述べたように、当時熊野灘で捕れた魚は、一塩ふって篭に入れられ、天秤に担がれて高見峠を越え、佐倉峠を越えて宇陀地方に運ばれていた。その魚屋と一服して語るうちに「病気ならば、今評判の天理さんに拝んでもらいなはれ。」とすすめられ、宇陀の松山の山本吉松を紹介され、そこで神様の話を聞き、庄屋敷の教祖の元へ参詣したのである。波瀬に帰ったころには不思議と身体の調子がよく、元気になっていたという。これが初めて伊勢への天理教伝道のきっかけとなったものであるが、この魚屋は山田寅吉といって兵四郎の親戚筋に当たり、兵四郎より話を聞いて入信している。また山本吉松も兼ねてから兵四郎によって入信したものであり、吉松は常々、波瀬に布教に行っていたが、教理的にも十分ではなかったので、兵四郎を初瀬に招待することになったのである。
 兵四郎はこのことがあってから、熱心に伊勢の布教につとめるようになったのである。そのルートはやはり高見越道を行くことが多かったようで、特に伊勢の国の多気村へ訪問は、宇陀から高見峠を越え初瀬村、川俣村を経て油谷峠を越え、多気村に出たようである。伊勢街道として盛んに利用されたこの街道もその道程は短くはない。しかし、兵四郎は熱心に布教を続け、一度家を出れば短くて半月、長くて半年は布教に歩いたという。
 また、『東海の道』によれば兵四郎の姿は正に薬売りのような恰好をしており、布教された人々は兵四郎が通るたびに拝んだという。おそらく、長年行商生活をして来た彼にとって、歩くことはそれほど苦にならなかったことかもしれない。しかし、そんな中も兵四郎は苦労の道を求めて行った事が伺われる。小西定吉の妻いえは兵四郎のことを「いつも汚れた羽織りを着、胸紐は紙で結んであった。それでも兵四郎さんはいつも笑っておられた。」と言っている。当時、赤貧のさなかでありながらも、彼は人から一切の礼も受け取らずつとめ、自分の子供に履かす下駄さえ布教道中で捨ててあるものを拾い集め使用したそうである。
 これだけお道に徹底した兵四郎は明治二十年にお授けを戴き、それ以後も布教に熱が入り、後の明治二十三年には兵四郎の持つ講社は一千四百十一戸という大講社になっていたという。そうした多くの講社によって心勇講から城島分教会に昇格し、教会設置の運びとなったのである。兵四郎の持つ信者は笠間、野依への設置願いを希望していたが、思案の末、倉橋村に設置が決定し、その運びとなったのである。そんなときも兵四郎は「人は前から頭を下げられるよりも、後ろから拝まれるような人になれ。」と信者を勇まし、自分自身も天理を全うしていったのである。
 その後、兵四郎は東海大教会の初代会長としてつとめきり、この道の大きな基礎を作り上げたのである。しかしながら、彼は人生の半生以上は宇陀地方で暮らし、宇陀の地理と文化の中で溶け込みながら、しっかりと伝道の足跡を残し、宇陀地方の伝道につとめたのである。
 正に宇陀の伝道は加見兵四郎なしには語ることは出来ないと言えるであろう。

【第二節 山田伊八郎】
 今日、教内でも大きな教勢をもつ敷島大教会は元々心勇組と言う山田伊八郎を講元とする講から始まっている。その心勇組は後に心勇講と改められ、出屋敷と宇陀地方の講社を一つにまとめられていったのであるが、当時その中でも、宇陀地方の信者の勢いは非常に熱烈なものがあり、「宇陀の白パッチ」と異名をとるほどのものであった。
 その頃の、勢いは現在も敷島大教会の部内の宇陀地方の教会や信者の中で燃え続けている。
 これだけの宇陀の信者を導き、また自ら宇陀地方へ出向いて布教し、人々の信頼を一挙に集めた山田伊八郎について、宇陀地方の伝道とのかかわりを焦点に合わせながら研究して行くことにする。
 山田伊八郎は嘉永元年三月十四日、十市郡倉橋村出屋敷にて父伊平、母タカの長男として生まれた。山田家は元々豪族の子孫で、雇用人も多く裕福であった。伊八郎も恵まれた環境の中、勉学に努める機会も多く、周囲の人々からの信頼が厚かったようである。更に、大変親孝行で信仰熱心で両親の信仰もあって融通念仏宗を信仰していたのである。そのような信心深い伊八郎は縁あって明治十四年、大豆越村の山中忠七の娘こいそを嫁に貰うことになった。彼女はそれまで教祖のそばでお仕えしており、この結婚について教祖にお伺いしたところ、教祖は講社名簿を眺めながら「南半国はまだ道がついておらん、南半国道弘めにだす。」と仰せになったと伝えられている。
 その後、伊八郎は義父からお道の話を聞き、天理教を信仰するようになり、その年には同村で兼ねてから信仰のあったものが組を結成することになり、心勇組と名付け、伊八郎が講元としてつとめることになったのである。 また、妻こいそがをびや許しを頂き、不思議な御守護を見せて頂いたのをきっかけに、伊八郎とこいその布教が始まった。翌年明治十五年には分家の山本いさが長男を出産後、病に悩まされ足腰が立たないようになった。しかし、伊八郎らの懸命の布教と、忠七の扇の伺いによって御守護頂き、この不思議な助けによって、お道は一気に広まって行ったのである。特に、宇陀地方ではこの不思議な話がきっかけとなって入信者が一気に増加したのである。 
 『山田伊八郎傳』によると、この話は伊八郎から事情たすけを頂いた上田音吉から宇陀郡西山村の森本治良平へ、また心勇組内の布教師から栗原村、忍阪村等へ、助けられた山本いさは実家の笠間村、神戸村の麻生田、上宮奥、百市へと次から次へ伝えられ、心勇組の信仰は飛躍的に伸び広まったのである。
 この広がりの力は総てが伊八郎自身の布教によるものであるとは限らないが、彼を講元としている以上、道の広がりと共に彼の足もその方面に向けられていたことは確かであると考える。
 特に、この年に宇陀地方へ急速にお道が伸びていることは明確であり、出屋敷と宇陀を結ぶ街道が多く利用されたと考えられる。この街道は松山街道と呼ばれ、その交通路として主として三線あり、北より女寄峠、半阪、宮奥の大峠である。心勇組によって布教された地域を当時の地図のうえで確認してみると、麻生田には女寄峠を、忍阪村、栗原村には半阪を、宮奥には大峠を利用したものと考えられる。それぞれは当時の伊勢街道に匹敵するほど交通量も多く、人や物資の交流が盛んであった。特に、大峠などは薪炭を峠越しに搬出するために利用されたらしい。
 『山田伊八郎傳』によると、伊八郎もよくこの松山街道を利用して宇陀、吉野、上市、川上、北山方面に布教し、特に半阪峠が常の街道であったとされている。その布教の過程に次のような話が残されている。伊八郎は宇陀から吉野にかけての布教のときは、半阪を越えてから伊賀街道を南に進み、宇陀郡神戸村関戸を経て行くのであるが、その時はいつもその村の有名な講元である田中徳三郎の家に立ち寄り、四、五日ほどそこに滞在し、おたすけや教理の伝承につとめていた。ある時、その家に滞在していると、小角峠に暮らす人が突然飛び込んできて、イロリに落ちた子供を助けて欲しいという。伊八郎は早速その人の家にいき、ほとんど危ない状態になっている子供におさづけを取り次いだところ、不思議な御守護を頂いたということである。そしてこのことがあってから、彼がこの地に訪れたときには村人が皆集まり、伊八郎の背中を拝んだということである。
 伊八郎は宇陀の布教において、特に西部の伊賀街道を利用しながら南の方へ歩き、何日もの日数をかけてこつこつと布教して行ったものと考えられる。そしてこれは彼の教祖から任された「南半国道弘め」の使命を全うしようとした行動でもあるとも考えられる。
 こうして、心勇組の信仰が安定して来ると、おつとめの出来る者を増やそうと、明治十六年、おぢばより先生を迎えてお手直しを実施するようになった。一回目、二回目は出屋敷村の信者がそれを受けたが、三回目以降は他村在住の信者も受講している。宇陀の信者も西山村の森本治良平ら三十五人が伊八郎より直接お手直しを受けている。
 明治十八年、心勇組の拡大の話が持ち上がり、上村吉三郎、上田音松、加見兵四郎、小西定吉、森本治良平らによって相談がなされた。その結果、上村吉三郎を講元とする心勇講が結成されたのであるが、何故かここには伊八郎の名前は挙がっていない。上村による心得違いの行動があったものだとされている。この事情については、ここでは触れない。
 いずれにしても新しく大きくなった心勇講において、伊八郎の布教に対する思いは前と変わらず、以前よりも増して熱心につとめたのである。そして、その翌年明治十九年心勇講の一団、三百名程がておどり練習の総仕上げとしておぢばに参拝した。ところが当時はまだ官憲の迫害が厳しいときで、本部の先生からも「教祖に御苦労がかかるのでお帰り戴きたい。」との言葉を頂いた。しかし、それでは気が済まぬと門前の豆腐屋という旅館で賑やかにおつとめをはじめ、その声を聞かれた教祖は「心勇講はいつも熱心やなあ。心勇講は一の筆や。」という結構なことばをおかけ下されたのである。このとき集まっていた信者のほとんどは宇陀地方の信者であり、このとき宇陀の信者がきまって白のパッチを履いていたことから、「宇陀の白パッチ」と呼ばれるようになったのは有名な話である。
 しかし、この信者たちの信仰への熱烈な思いは一転して教祖に最後の御苦労をおかけしたのである。このとき、伊八郎は参加していなかったが、この事情を聞き、自分の不徳の為だと自らを責め、初代講元としてさんげの道を通ろうと誓ったのである。現在もこのさんげの道は続いており、毎月十五日には宇陀地方の信者は元より、敷島大教会につながる信者が早朝からおぢばに集い、廻廊ひのきしんをさせて頂いている。私もほとんど毎月、このひのきしんに参加させて頂き、当時の教祖の御苦労を忍ばさせて頂いている。
 そして、明治二十年人々の思いとは逆に教祖はお身をお隠しになり、人々に落胆を与えたが、本席様を頂いたことで、また信仰生活に活気を取り戻して行ったのである。
 この年の三月には宇陀郡菟田野町古市場から御杖村菅原に至るまで、三日間の道路の改修ひのきしんとして心勇講から三十四名が参加している。このころは、あちらこちらで道路の改修が行われていたが、伊勢街道でもあるこの道は利用率も非常に高く、地域の人々にとっても有り難く思われていたと考えられる。
 こうして心勇講もだんだんと信者の心を寄りもどし、伊八郎にとっても前以上の布教への熱意が高まって来たのである。そんな中、心勇講の教会設置の気運が高まりつつあった。この時、宇陀郡神戸村野依の地に教会設置の計画が持ち上がったのである。それは熱意ある多くの宇陀の信者の希望でもあり、伊八郎らによって布教された宇陀地方の人々が、かなり熱心であったことの現れであるとも考える。そこで立木の買い入れや竹縄などの寄進を募り始め、準備は段々と進んで行った。 しかし、他地域の講元達が反対をし、宇陀地方への教会設置が取りやめになり、かわって式上郡城島村に設置することになった。これはそれぞれの講元が相談した結果、地域の教勢の中心として、式上郡が良いと判断したからである。しかし、逆にこのことを信者の信仰心から言えば、宇陀の信者が心勇講の中でも中心的役割を果していたと考えられる。  明治三十二年、伊八郎はおさしづより城島分教会二代会長に任命され、新たな真をもって栄えて行ったのである。そして後に教会名を「城島」から「敷島」に改正され、更に明治四十二年には敷島大教会に昇格したのである。
 その間に、教祖三十年祭があり、本部の神殿ふしんの打ち出しがあった。本部員の増野正兵衛先生より「敷島は宇陀、吉野、高見山に近いところに部内教会があるから、ふしんの献木をしっかり頼む。」とお話し下され、伊八郎も献木の心定めをさせて頂いたのである。この献木については、宇陀地方も大きなお徳を頂いた。後に述べる御杖村の敷島部属大勢分教会は特にこの献木活動に対して中心的役割をつとめている。こうしたことから宇陀山地が広がる室生、曾爾、御杖村の山々が敵地とされたのである。
 伊八郎の日誌によれば、木材の買い入れ先として「宇陀郡神末、同菅野」と記している。また宇陀地方の献木の伊八郎宛の書簡によれば「当所においても諸方駆け廻り、八本見付けさせて頂き、|略|之が運搬に付いては土持ちに帰らせて頂く可き人夫を募集して、途中御木引きとして賑々敷く運搬させて頂く|略|当村大字神末に於て元にて九尺強廻りの木を一本見付け、献木させていただかんとして|略|。」と書かれている。つまり、御杖村の神末、菅野が宇陀地方からの献木地の中心とされており、宇陀山地での信者の出入りが多くあったと考えられる。このことは今まで、宇陀地方の西部の宇陀盆地地域が布教師達によって多く伝道されたのに対し、山地として地理的にも出入りの困難な、宇陀山地地域への伝道が一転して高まり、信者の増加につながったのではないかと考えられる。
 更に、前述の書簡に出ているように、集められた献木の運搬について途中御木引きをして運搬されたようで、このことについて、私の父の話では、宇陀地方の信者や山仕事をしている人々によって、人力で運ばれたらしい。つまり細い丸太を何十本と街道に並べ、大木を滑らすようにして伊勢街道を運搬したのである。 
 この献木活動の結果、宇陀地方からは柱材四本、長押高梁二十本を献上したのである。更に、こうした形のふしんを通して、伊八郎を真とする宇陀地方の総ての信者は勇み立ち、心のふしんにつながったと思う。また、同時に、宇陀地方の伝道においても、信仰がほぼ全域に行き届いたと考えて良いのではないか。 伊八郎は初期の伝道において、宇陀地方単独で布教し、多くの信者をつくった。そして晩年は敷島大教会二代会長として大きな功績を残し、宇陀の信者にとっても、心置きなく頼れる存在であったと思う。それは「南半国道弘め」の教祖の言葉をいつも心に刻み、下向きな心で通った伊八郎の神一条の精神に外ならないと考られる。
 同時に、そうした彼の信仰心は宇陀地方の伝道の広がりに、大いにつながりをもっていたと思われる。

【第三節 才加志市松】
 この人は前節に述べた山田伊八郎と共に心勇講に大きく貢献し、現在の敷島大教会直轄の大勢分教会の前身を築きあげた人物である。 彼の入信のきっかけは元々心勇講の誰彼に導かれたのではなく、たまたま一人の行商人からお道の話を聞き信仰を始めたものである。そして、その後市松の住む御杖村とその隣村である曾爾村は、彼の布教が元となって広められたと言って良いだろう。
 ここでは山々に囲まれ、非常に伝道の手が行き届きにくい宇陀山地に自らが歩み、宇陀地方の東部に伝道を実現した才加志市松について研究しておく。 
 市松は安政三年に宇陀郡御杖村土屋原で才加志宇蔵とうのの長男として生まれた。彼の家は代々農業を営み、かなりの豪農であり、山林も多く所有していた。市松はその中で育ち、浄土宗の熱心な信者としてお寺の壇家総代をつとめ、村の会計も受け持っていた。したがって、賢くずば抜けた人であり「奥宇陀の太閤さん」と人々から呼ばれてていたようである。
 しかし、才加志家は代々短命のいんねんで父宇蔵は市松十九才の時に出直すという辛い道中をたどっている。
 彼は二十二才で分家のよねと結婚し三人の子供に恵まれながら暮らしていた。
 そんな明治十七年ごろ、河内出身の仏壇なおしの行商人が宇陀地方の村々を廻っており、才加志家は寺の壇家総代をしていた関係上、その行商人に泊まってもらうなどして世話どりをしていた。
 ちょうどその時、市松はその行商人から庄屋敷に不思議なお産の神様が現れて、安産は元より、どんな病でも助けて頂けることを聞いたのである。この行商人については未だ誰であるのか不明である。しかし、河内から御杖村に来るには、伊勢本街道を利用しており、途中丹波市を通過していることから、そこでお道の話を耳にしたものであると考えられる。 更に『大勢分教会史』によれば市松は隣家の主婦の産後の患いを助けて頂こうと、その行商人に数日間宿を提供し、毎晩その行商人から隣家の主婦と共に神様の話や、身上かりものの話を聞かせてもらったという。そして一週間目にその主婦は不思議な御守護頂いたとある。
 そうした意味から考えると、その行商人は当時としてはかなりお道に詳しい人物であり、単に噂を伝えただけではなく、大きな伝道者としての使命を果たしていると思う。しかし、その行商人は当時天理教に対して迫害を加えていた仏教の関係者であり、宇陀地方で仏壇なおしをしていたのであるから、信仰面を考えると理解し難い。しかし、他面から見れば、それだけお道の勢力が強かったとも考えられる。
 ところで、この不思議なおたすけを目のあたりにした市松は、教祖に会おうと早速御杖村から庄屋敷まで十三里の伊勢街道を渡ってお礼参りをしたのである。そこで教祖に「お礼はどうさせて頂きましょうか。」と申し上げたところ、教祖は「礼はいらん。隣り近所にふれて廻りなされ。」と言葉を下されたのである。市松はこのことがあってから道一条の決意をし、同時にお道の伝道に身を捧げる決意をしたのである。
 また、彼は元々自分が短気である性分を悟り、信仰を始めてからは短気を直す決心をし、荒い言葉を出さぬようになった。更に、昼働いて夕暮れから伊勢街道をひたすらおぢばに向けて歩いたという。十三里という長い道程は幾重の苦難を彼に与えたが、その姿を見ていた御杖村の人々は、市松にたすけを求めるようになり、市松の話を聞いて次々と不思議な御守護頂き、お道に入信するものが増えて来たのである。
 御杖村菅野に住む笹尾辰吉もその一人である。身上をたすけて頂いたことから、お道熱心になり、市松と共に御杖村付近の布教につとめている。高野友治氏の文献によると、笹尾辰吉の信仰は、長田八吾郎の伝道を受けた北山の行商人から来たものとされている。それに対して、市松の信仰は、それよりかなり早くからあったのであるから、同村に住む辰吉は市松の布教によるものとも考えられる。 明治二十一年には、両者共におさづけの理を拝戴し、それからの御杖村の伝道は急速に広まりを見せている。『大勢分教会史』によれば、「市松の熱心なにおいがけにより、御杖村土屋原はもとより、近隣の菅野、神末、桃俣、曽弥の村々に信仰する者が増える。」と記されている。おそらく、御杖村の伊勢街道沿いは汲まなく布教されていたと思われる。 また、こうした布教によって導かれた信者たちは、集団で御杖村から庄屋敷までの距離を徒歩でおぢばがえりするようになった。特に、その団体の熱心な信仰心の上から、おぢばから「親切講」という講名を頂き、市松はその講の中心人物としてつとめたのである。 一方、そのころ心勇講の信者も宇陀地方からおぢばに向けて幾度となく、団参をしており「宇陀の白パッチ」という異名をとって注目を集めていた。そうした行動は、親切講の信者との接触を与え、同じ宇陀地方に暮らす教友であること、また当時天理教の迫害の多い中、世間の反対を押しての信仰を進めるためにも、両講が一つに力を合わた方が良いのではないかという話が持ち上がった。そこで親切講が心勇講に合流することになったのである。
 このことで市松の信仰も今まで以上に心強くなり、伊勢街道を東へと熱心な伝道が続いたのである。そのため近村一帯のほとんどの家は改式信者になり、その道は山を越えて、三重県にも延びたのである。おそらく伊勢への道は、前節によると加見兵四郎らが中心となっていたと考えられるが、御杖村が伊勢への玄関口になっていることから、市松らの布教も相当なものであったと考えられる。事実、市松についていた笹尾辰吉は、松阪大教会の前身をつくるに至ったのであるから、それは明らかであると思う。
 御杖村の信者の熱烈な信仰が増す一方で、明治二十三年の城島大教会の神殿ふしんがはじまると、市松はその建築用材を総て引き受け、御杖村土屋原の大滝山の区有林から、用材を搬出することを定めた。宇陀郡一帯の信者はそのために毎日御杖村に集まり、大八車で昼夜なくひのきしんに明け暮れたのである。その勢いは土屋原村中の三年越しの米、味噌を食べ尽くすほどのものであったと伝えられている。それだけの宇陀地方の信者の教勢が凄まじかったのであるから、御杖村の人々は勿論のこと、その用材を運び込む伊勢街道付近の未信者の人々にも自然と伝道されたのではないかと思う。
 明治十九年の入信者の地区を調べると、御杖村土屋原、菅野、神末、桃俣、曾爾村塩井、室生村山粕、三重県多気村、太郎生村が挙げられている。そして、明治二十九年までの十年間でその地区の入信者は皆おさづけの理を拝戴している。また、当時結成された講社講元は土屋原講元笹尾辰吉、桃俣講元中子菊松、神末講元中川宇市、葛村講元土井貞次郎とされている。こうしたことから考えると、御杖村だけではなく、曾爾、室生村を含む、宇陀山地地帯は、市松による布教が大半を占めていたと考えても良いだろう。しかしながら、山々が多く集落が少ない、また、交通路の発達していないこの山地地域において、容易には伝道されなかっただろうと思う。ましてや苦労の中の伝道であったことは変え難い。
 しかし、その苦労によって、初代会長才加志市松を真とする大勢支教会が御杖村菅野に設立を果たしたのである。その後、この支教会には五十三人の住み込み人を抱え、それぞれが東京、千葉、北海道、名古屋、茨城など各方面に、単独布教につとめ、大勢支教会にとって大きな布教の功績を残すことになったのである。
 明治四十年になると、教祖三十年祭の打ち出しがあり、本部神殿ふしんの打ち出しも同時にされた。
 そのころ、市松は御杖村蛇谷区有林を教会本部に買収して頂く世話取りをしていた。その元は、当時、御杖村では県道開削の事業を始めていたが、その費用が不足したため、区民側から蛇谷山を天理教で買収して貰いたいと、市松に申し込んで来たのがきっかけである。蛇谷山は周囲六里にも及ぶ密生林であったが、これだけの区有林を天理教に買収するように申し込んで来たのであるから、当時の御杖村役所及び、県道開削事業にとって天理教の存在は、かなり大きなものであったと考えられる。
 そうしたことから市松の世話取りによって、初代真柱様に相談したところ、お許しが出、教会本部で買収して頂くことになったのである。これは、天理教の地域的貢献にもなったのであるが、更に、本部ふしんの打ち出しがなされたことからこの蛇谷山の七十万才(一才=一寸角四米)が切り出され、巨額の木材は本部神殿の御用材に使われたのである。この時も、宇陀地方の信者が一同に切り出しひのきしんに参加し、かなりの賑わいを見せたのである。このことは、第二節の山田伊八郎のところでも述べたとおり信者、未信者関係なしに宇陀地方挙げてのひのきしんであったろうと考えられる。そして、現在の本部の北礼拝場はこの時の、用材が使われているのである。
 大正時代に入ると、以前に各地に単独布教に出たものたちが、信者をつくり、大勢の道は、関東地方にまで延びるようになった。そんな中関東から、おぢばに帰って来る信者も増え、その間の汽車賃よりも、出屋敷の敷島大教会から御杖村の大勢分教会に行くほうが費用が高くつくという話題もあったという。それは、この宇陀地方が交通が発達しておらず、当時伊勢街道を人力車で行き来していたことを示している。そんなとき市松は「お道を通らせて頂くには、無駄足のように思っても理にかけたら、近道と思うことが遠道になるのやで。」と、不便で遠い山奥にある大勢分教会まで、足を運ぶその真実が大切であると諭したのである。
 彼は六十七才で出直したのであるが、彼の通って来た道は、宇陀地方伝道において土台的な役割を果たしている。御杖村、曾爾村、室生村にこれだけ活発に道を広めた市松の伝道は、村の壇家総代をつとめ、村の会計をもこなすことで人々からの大きな信頼を受けていたこと、また教祖から言われることを信念で貫き通し、豪農でありながら、所有の田地田畑や財産を総て投げ売り、体ひとつで苦労の中の布教を貫き通した姿に、人々が自然と彼の元へ引き寄せられたものだと考えられる。 以上のように、宇陀地方の伝道の上で手の届きにくかった宇陀山地の布教を果たした才加志市松も、宇陀地方にとって欠かすことの出来ない人物であると考えられる。

【第四節 講を元に活躍した伝道者たち】
 前に述べたように、この宇陀地方はほとんどが加見兵四郎、山田伊八郎、才加志市松らによってはじめて伝道され、お道の種が蒔かれたと言っても良いだろう。しかし彼らの単独の布教だけによって、今日の宇陀の教勢が出来上がったのではない。彼らによって布教され、お道の話を聞いた者や不思議な御守護を頂いた者が、自らが一人の伝道者になり、付近への布教につとめたことも忘れてはならない。
 当時、信者が増えて来ると、その地域ごとに信者のより所として、また伝道の発信地として講が設置され、その講を足場にして人々は布教してまもったのである。勿論、宇陀地方も例外ではない。兵四郎、伊八郎、市松らがそれぞれの地域に講を設け、明日の布教への発信地とした。それと同時に、講元を中心として集った信者たちは、彼らの心に沿って、それぞれと宇陀地方全域への伝道を目指してつとめたのである。
 そこで、この節では、文献をたどりながら宇陀地方の講の信者たちの伝道について、考察しておきたいと思う。 
 まず、宇陀郡の中心勢力になって発展して行った西山講について見て行きたい。この講は宇陀地方の講の中では、最も伸び広がり、多くの信者の寄り所となり、今日の宇陀分教会の前身になったものである。講元の森本治良平は山田伊八郎によって事情を助けられた上田音松によって神様の話を聞き、入信している。出屋敷の山本いさの足の悩みの不思議な御守護が、宇陀地方の伝道のきっかけともなったが、その山本家から妻が嫁いでいることもあって、神様の御守護を目のあたりにし、かなり早くから信仰していたものと考えられる。元をたどると、彼の入信は上田、山本からのものである事、また西山村が伊賀街道沿いにあることから、おそらく山田伊八郎の影響が強かったものと考えられる。どちらにしても彼は西山を拠点に、加見兵四郎や伊八郎が布教していた時期に、西山付近を布教していたものと考えられるのである。
 彼の布教態度はどういったものだったか。高野友治氏の文献によれば「明治十五年ごろ、加見兵四郎が宇陀の上新町に住んでいたとき、お寺の説教日に伺ったところ、坊さんが盛んに天理教の悪口を唱えていたというが、それは森本氏、及び信者に対する反対攻撃ではなかったかと思う。この想像が本当ならば、当時森本氏の布教活動が表面的で猛烈なものではなかったかと思われる。|略|当時における両者の関係は、森本氏を「表大工」とすれば、加見氏は「裏鍛治屋」の役ではなかったかと思う。」とある。つまり、彼の信仰は熱烈なものであったと思われ、当時の宇陀地方において迫害を受けながらも、兵四郎らと共に真正面から布教につとめていることが伺える。
 また、森本家の裏の丘には、小西定吉の家があり、定吉の妻が妊娠したとき、治良平からをびや許しの話を聞き、教祖の元へ行ってをびや許しを戴いている。その後、定吉も持病の肺病を助けられ、一家を上げて熱心になり、西山講においては筆頭的立場を果たし、心勇講においても欠かすことのできない存在になったのである。そのことを高野友治氏の文献では「この小西家の熱心さが、宇陀全般の信仰に活を入れたもののようである。というのは、それも出の信者の殆どは貧しき下層の人々であった。ところが小西氏は、この付近で名の通った家柄であり、当主の小西定吉氏が、命懸けの熱心さで、警察の攻撃を恐れず、断固としてやり抜く熱意は、当時の宇陀の信者にとっては百万の味方を得たような気持ちであっただろう。」とある。
 しかし、当時の天理教への迫害を恐れずに通った彼の姿は、逆に教祖へ御苦労をお掛け申し上げることになったのである。それは明治十七年の事、定吉がおぢばに参拝して帰路、三昧田のあたりで和服姿の男の尋問を受け、「ちょっと庄屋敷まで用事があったので行って来ました。」と弁解したが、懐中から御供とお息の紙を発見され、直ちに丹波市分署に連行された。そして同時に、教祖にも丹波市分署に御苦労をお掛け申したのである。これを起点に定吉は教祖へのざんげの思いで、生涯をたすけ一条に身を捧げる決意をしたのである。教祖へ御苦労をお掛け申したことは、今日でも宇陀の部内が、年に一度徒歩でおぢばにさんげ参りという形で行っている。
 このように、色々な迫害のなか、治良平と定吉は宇陀地方の布教の中心的役割を果たし、宇陀の教勢をまとめていく存在であったと思う。彼らが伝道し、置かれた講社の地域を調べると、神戸村本郷、迫間、芝生、半阪、黒木、内原、小附、岩室、松山、川向、五十軒となつている。おそらく、加見兵四郎や山田伊八郎らと共に伊賀街道、松山街道を伝道していたものと思う。また『宇陀分教会史』によれば、高見山を越え、伊勢方面への布教にもつとめており、西山講を中心として、宇陀地方は勿論、広範囲に亙っての伝道であったことが考えられる。
 更に、心勇講結成の時には、最初の談じ合いの際にも、彼らの出席があり、おそらく大きな原動力にもなっていたものと思われる。 次に、この西山講の分講として、半阪村の半阪講と守道村の守道講があった。半阪講の講元は峯岡長治郎という人で、その信者で嬉河原に森口宗八という人がいた。どちらも熱心な信者になっている。彼らに関してはどこから道がついたものかは、未だに不明である。ただ、忍阪村の教祖の実妹の家から伝わっている説が強いとされ、もしそうであれば加見兵四郎と同じ時期、あるいはそれ以前に宇陀地方で布教していることになる。
 しかしながら、彼らの伝道も大きな役割を果たしている。その一人森口宗八は猟が好きで、元々宇陀地方が狩猟場として名が通っていたことからも、毎日のように猟のために山々を廻っていたようである。そのことが元となって嬉河原付近をはじめ、宇陀のあちこちを布教し、吉野地方にまで伸びている。今日の敷島大教会の直属部内である吉野郡上市の上市分教会の前身は、宗八の布教によるものであり、吉野地方への伝道はこれが最初であるとされている。
 宇陀山地を点々とし、道なき道を歩いた宗八の伝道は、宇陀地方の容易に布教出来ないところまで、自ら進み道を広めて行ったと考えられる。
 西山講の近くに松山というところがあり、当時は経済的にも商業的にも宇陀地方の中心であった。ここに山本吉松と山田寅吉という人がいた。彼らは加見兵四郎によって布教され、熱心になった者である。
 山田寅吉はこの宇陀郡松山で魚屋を営み、昔からの宇陀地方特有の行商として、毎日ように高見峠、佐倉峠を越えて熊野灘から魚を、天秤にかついでは宇陀に運んでいた。ある時、寅吉は宇陀から吉野へ越す佐倉峠の頂上で、波瀬村の藤田清三郎に出会い、身上で病んでいることを聞き、神様の話をしたのであった。そして松山の山本吉松を紹介し、その後、おぢばに参拝した藤田は身上をすっきり御守護頂いたということである。そして、これが伊勢方面の伝道のきっかけともなったのである。 それから何度か山本は伊勢の波瀬へ布教に歩くようになったが、教理的に十分でなかったので加見兵四郎を波瀬に迎え、一緒に布教したのであった。その後、兵四郎によって多くの信者ができ、今日の東海大教会への道が開けたのである。
 しかしながら、伊勢街道を渡り、はじめて宇陀地方から伊勢への伝道に望んだ吉松の信仰は、かなり大きなものであったと考えられる。同時に山田寅吉もお道の信仰をもち、魚売りの行商を通じて熊野灘の長島まで歩いていたことから、吉松が伊勢に入る前に、伊勢街道を中心とする、宇陀地方や伊勢地方への布教がされていたのではないかとも考えられる。尚、ここで述べたことは、第一節の加見兵四郎の所でも触れているが、山本、山田個人を考えたとき、兵四郎や山田伊八郎と同じ時期に宇陀地方の伝道に携わっているので、再度詳しく述べた。
 松山の北部に、野依というところがあるが、明治十九年、宇陀地方の信者たちが、喜納金を募って、おぢばに献納したところ、教祖の赤衣を宇陀郡の信者にお下げ下さり、ここ野依の鴨池源四郎宅に法安した。大病人が出ると、鴨池宅に連れていき、その赤衣を戴かせるとたちまち御守護頂いたということであった。それが元となり、この野依を中心に噂が広がり、多くの人々が赤衣による御守護を頂いたのである。これも宇陀地方の伝道にとって大きな役割を果たしていると思われる。尚、この赤衣は今日東海大教会に祭られている。それについて、宇陀の信者と加見兵四郎との間にやりとりがあったとされているが、この事情に関してはここでは触れない。こうして西山を中心に講社共に信者の数が増えて来ると、明治二十三年、西山の山岡辰三郎宅に参り所を設置して、神様をまつり、人々の寄り所としたのである。敷島大教会の『直属教会史』によれば「この年の三月には不思議な出来事があった。ある日の午後三時頃、天から霞のような言い知れぬ不思議な三尺回りの白煙が山岡宅の中庭に降りて来た。青葉の茂っている梅の古木にその白煙がかかり、やがて梅の葉がベタベタにぬれてしまった。それを嘗めると、甘く飴のようなネバネバしたまるで甘露のような味であった。この不思議な出来事は誰ゆうともなく伝わり、約二百人程の人が集まり、この不思議な葉を嘗め尽くしてしまったので、この梅の古木が枯れてしまった。」とある。これに関して、甘露のようなネバネバしたものが何であるかは分かっていない。しかし、この出来事があってからお道が追々と伝わり、信者もより一層増え、参り所の拡大にもつながったそうである。
 この不思議は出来事にしろ、また前に述べた赤衣の御守護にしろ、人による布教ではなく、誰彼となく、噂を聞いた人々が自ら集まり、その御守護を目のあたりにして、信仰しはじめたものだと考える。つまり、宇陀地方の伝道が必ずしも伝道者によって総て行われたのではなく、親神様、教祖の直接的な御守護によって道を伸ばされているとも思う。
 赤衣と言えば、もう一つ宇陀地方で頂いた人がいるという記録が残っている。それは宇陀郡榛原町下井足の高田清平という人である。東和分教会史によれば、「明治十八、十九年頃、上井足の高田清平が教祖から赤衣を戴いている。これは元治元年のつとめ場所建設のとき、屋根の杉皮を御供えしたからだと語り伝えられているが、ともかく相当古くからの信仰と見られる。」とある。
 この記録が事実であるとするならば、清平の信仰は、加見兵四郎や山田伊八郎以前の信仰になるのであるが、この人についての詳しい資料は残っていない。ただ、清平は明治二十一年におさづけの理を拝戴し、明治二十三年には心勇講の上井足村講社の講元をつとめている。何故心勇講に合流したのかは不明であるが、彼自信の信仰は元治元年の頃にあったのであるから、宇陀地方では最も早いものであったと考えられる。これは私自信の推測であるが、清平がつとめ場所のふしんに協力したということは、飯降伊蔵との接触があったものと考えられる。どうしてこの接触が成り立ったのかというと、隣村に室生村があるが、その村の向渕に飯降伊蔵の実家があり、ちょうど庄屋敷と向渕と結ぶ道程の中間点に上井足村が位置している。文献等には伊蔵が室生村にかえって布教したという事柄はどこにも載っていないが、両点を結すぶ伊勢街道、伊賀街道において何等かの形で、伊蔵と清平の接触があったのではないかと考えられるのである。あくまでも推測であるので明確に出来ないのは残念であるが、その証拠として赤衣を頂いていることは、宇陀地方の伝道が歴史的にかなり早かったことを物語っているように思われる。
 この上井足を含む榛原町は加見兵四郎の出生地でもあることから、彼によって多くの人々にお道が広まったのであるが、その中でも笠間の大浦傳七は家族の身上手入れから、兵四郎によって導かれた一人である。彼は、後に笠間村講社の講元をつとめ、榛原町近辺の布教に専念したのである。内牧村自明の奥立ユリは身上を宇太村見田の峯畑為吉にたすけられ、入信しはじめて内牧村を布教するようになっている。
 この二人は互いに力を合わせ、宇陀地方の伝道につとめている。記録によると明治二十八年の教会設立願いを打ち出したときには、朝倉村笠間、安田、神戸村口今井、五津、榛原町萩原、上井足、足立、下井足、雨師、福地、長峰、内牧村自明、赤埴、伊那佐村栗谷、石田、山路、大貝、池上、政始村藤井などの地域が彼らによって布教されており、地理的に見てみると榛原から宇太村の古市場に出る街道、榛原から松山に出る伊賀街道、榛原から御杖村に続く伊勢本街道、榛原から室生村に続く伊賀街道など、ほとんど榛原を中心に放射状に伝道されていることが明確である。 こうして後に大浦傳七を初代会長とする東和支教会が設立し、後に敷島大教会直轄部内の東和分教会が設立されて行ったのである。 今日、榛原町には東和分教会のほかに、赤瀬分教会がある。この教会も敷島大教会の直轄部内教会として古くからの信仰があり、宇陀地方の伝道にとっても、その初期の功績はあると考えられる。
 宇陀郡榛原町赤瀬で生まれた井上佐七は磯城郡初瀬町の井上家に養子に行った。
 明治十九年頃、赤瀬の生家に盆の里帰りをしたとき、同村で昔から佐七を可愛いがってくれていた北原ワサが医者から手放されて、二、三日の命であることをを聞き、早速たずねワサの枕もとで十二下りのておどりをさせて頂いたところ、ワサは不思議な御守護を頂いたのである。このことが赤瀬の地域にお道が広がる元となったのである。
 しかしながら、佐七の信仰がどこから来たものなのか、またどこで十二下りのておどりを覚えたのか、未だに不明である。私の推測では、佐七が初瀬に養子に行っていたのであるから、おそらく山田伊八郎の系列の布教者によって道が伝えられたのではないかと思う。特に明治十五年の山本いさの不思議な御守護の話は周囲の地域に火薬の火のように広がったと伝えられているので、その近村である初瀬も例外でなかったかと思われる。また、そのころより、伊八郎は「ておどりたすけの布教」を強く進め、心勇講は「おかぐら組」と呼ばれるほど十二下りのておどりを徹底的に稽古し、その手直しの日時を決めては、本部より先生を招いていたという。おそらく、その活動が何等かの形で佐七に伝わったのではなかろうかと考える。
 しかしながら、彼の布教によって、不思議な御守護を目のあたりにした赤瀬の人々は彼を信頼し、何時となく、佐七を初瀬まで迎えに行っては彼にたすけを求めるようになった。そして十二下りのおつとめも、同時に人々が習うようになり、二十数人の人々が十二下りのおてふりの習得を目指したという。
 佐七による布教は、『赤瀬分教会史』によると山辺三、福地、萩原、内牧、小鹿野、角柄等に広まっていたようである。こうした地域の人々によって教勢もだんだんと大きくなり、明治二十五年には佐七を講元とする赤瀬出張所が設立され、今まで以上の伝道が繰り広げられたのである。
 その後、神殿を榛原町長峯に移転することになり、そのひのきしんに大勢の信者が参加したのである。その時の様子を『赤瀬分教会史』では「農繁期には、赤瀬方面の信者が榛原の町に出掛けるとき、長峯の辰己の前まで瓦を出し、山辺方面の信者が榛原の町から帰りにそれをもって現地まで運ぶという具合であった。」と記されている。長峯の教会が建設されたときには、伊勢街道青越道が常に利用されていたことからも、宇陀の北部地域である三本松村あたりへも、道が広まったと考えられる。
 ただ、三本松向渕の飯降伊蔵の実家である飯降家は伊蔵によってお道が伝えられたが、地域の事情のため、上之郷大教会の部内である白石分教会の布教師によって、お道につながっている。それについては次章で述べることにするが、宇陀郡の北部の山辺郡より三本松村付近が伝道されているとするならば、伊勢街道青越道を榛原方面まで南下していたことは十分考えられるのである。私の祖父は上之郷大教会の役員及び資料集成委員であるので、その件について尋ねたところ、一般にはどの文献に書かれていないが、やはり、赤瀬分教会は元々上之郷大教会の系列にあったようである。おそらく、白石分教会の布教師と赤瀬分教会の布教師が伊勢街道青越道を通じて何等かのかかわりをもっていたと思う。つまり、宇陀地方の最北部である三本松村地域はこれらの布教師によって道が付けられたものだということである。
 最後に宇陀地方の東方で、才加志市松と共に伝道をつとめた宇陀郡御杖村菅原の笹尾辰吉と、彼に道が伝わる元となった長田八吾郎について述べておく。文献によれば吉野郡北山の行商人が御杖村に入って道を伝えたという説がある。その説が有力とされているのは、明治二十一年ごろ初瀬に住んでいた心勇講の長田八吾郎が南海の方に布教に出ており、彼によって、その途中の北山の地方も布教されている。そして、更にお道の話を聞いた北山の行商人によって御杖村の辰吉に伝わったとされているからである。これが事実とされるのであれば、おそらく長田八吾郎もこの宇陀地方を歩き道を伝えているであろう。
 八吾郎は元々宇陀地方で学校教師を勤めていた。あるとき彼の受け持ちの生徒の母親が病に倒れたことを聞き、その生徒の家にも足を運んでいたところ、お道の布教師もその家におたすけに来ており、神様の不思議な御守護を目のあたりにしたのである。その母親というのが、足の病に伏せていた出屋敷の山本いさであり、訪れていた布教師は山田伊八郎であったのである。
 それからというもの、八吾郎は宇陀の麻生田、宮奥などに布教に歩くようになり、後には三重県の南牟婁郡に布教に歩き、現在の南海大教会の前身を築いたのである。そして同時に、彼は北山への伝道と共に、御杖村への布教をしていたと考えるのである。
 そしてそれに導かれた辰吉は、この御杖村付近を中心に布教し、明治二十二年には伊勢の一志郡をはじめ、飯南郡へ入って布教し、これが今日の松阪大教会の前身にもなっているのである。
 したがって、八吾郎や辰吉の伝道は宇陀地方のそれ程発展していない東部の地域にとって、貴重な存在であったろうと考るのである。 以上、これまで加見兵四郎、山田伊八郎、才加志市松らによって入信した人々や、またそれ以外の経路で入信した人々が、自ら立派な一人の布教師になり、兵四郎らが実際に布教出来なかった地域も、彼らの手によってくまなく布教されたのである。
 それぞれがそれぞれの信念をもち、宇陀地方の伝道に生涯を賭け、幾多の苦労を乗り越え、神一条の心を貫き通し、宇陀地方の地理、文化に溶け込みながら、伝道したことは明らかであるとされる。同時に、それぞれの足跡が宇陀地方に残され、それぞれの伝道の特異性を知ることも出来たと思う。
 そうした意味から最後に、彼らによって繰り広げられた、宇陀地方の天理教伝道の特質的なものについて研究して行くことにする。 


第三章 宇陀地方にみる天理教伝道の特異性

【第一節 地理的制約からみる】
 これまで、宇陀地方の地域的特質の中で、それぞれの伝道者がどのように布教し、お道を広めて行ったかについて研究して来た。
 そこで、これらの研究を基礎にして、この地域の天理教伝道の特質について考察して行くのであるが、他の地域の伝道と比較したとき、おそらく同じような地域で同じような伝道の軌跡が見られるかと思う。しかし、宇陀地方の独特な地域性は私の研究的関心を引き付けてはなさないのである。この地を伝道した人々は因縁あって引き寄せられた人々であり、私にとっては、やはり特別な存在なのである。だから、そうした心情をも背景にもった研究であることを前以てことわったうえで、本題に入って行くことにする。
 まず、はじめに地理的背景と天理教伝道について考察することにする。宇陀地方は第一章で述べたように、おぢば近くに位置しているが、山地と盆地によって成り立ち、一千メートル級の切り立った山々と、その間に形成された河谷が目立つ地域である。そんな中で古来から利用されて来た、街道や峠が人々の重要な生活路とされてきた。それと同時に伝道者にとっても、それが伝道の主要な道とされ、常に往来していたことは明らかである。 特に、宇陀地方では村々で伊勢講と呼ばれる信仰を基盤とする講が組まれ、年に一度それぞれの村で選ばれた人々が、「ええじゃないか」の呼び名の元、伊勢神宮参拝をしていた。現在もこの習慣は残り、私の住む地域も年に一度、地域で選ばれた人がバスや電車を利用して伊勢参りを行っている。
 しかしながら、当時は徒歩であったので、そうしたところから発達したのが伊勢街道と呼ばれる交通路である。この伊勢街道には三経路(青越道・伊勢本街道・高見越道)あり、宇陀地方を東西にまたがっている。当時の人々にとって、この伊勢街道は信仰街道として、また東西からの情報路として利用されていたのであり、宇陀地方の主要街道と言っても良いだろう。更に、地域どうしの交易が発達して来ると伊勢街道は勿論のこと、伊勢街道に接続する交通路も発達して来た。それが松山街道であり、また伊賀街道であったのである。これらの街道は当時、物を売り歩く人々、いわゆる行商人にとっての仕事道として利用される事が多く、宇陀地方の人々の生活には欠かすことの出来ない重用路であったと考えられる。
 伝道者であった加見兵四郎、山田伊八郎、才加志市松らにとってもそれらの街道は欠かせないものであったと思われる。高野友治氏の文献では「松阪あたりに、教祖がお伊勢参りされた話が残っているそうな。青山峠で雨に遭われ、麓の茶店で傘をお借りになり、誰かが傘を返しに来たというのだ。」と、教祖が伊勢街道を歩いたことが記されてある。しかし、残念なことにそのことで宇陀地方の人々にお道が伝わった証拠がない。だから、高野友治氏は実際のところ、この言い伝えは考えられないことであると述べている。
 しかし、私はそれだけ有名な街道であるから、教祖が実際に通ってなくても教祖の噂が伝えられていたと考える。更には、教祖に似ているお道の人が通っていてもおかしくないと考えるのである。
 こうしたことはあくまで推測に過ぎないが、実際に記録に残る伝道をつとめた兵四郎、伊八郎、市松らを中心とする伝道は第二章で述べたとおりである。それらを台にして考えると、それだけお道にかかわる人々をも、往来させたこの街道は宇陀地方にとって大きな伝道要因になっていることは間違いないと思う。 それでは具体的に彼らの布教路はどのような道程であったのか。当時の布教師は自分の足だけを頼りに、毎日三、四里は当然のごとくに歩いたとされるが、その地理的背景はどのように見られるのか。そうしたところをまず考えて行きたい。
 加見兵四郎の場合、布教地域は宇陀地方西方に位置する榛原町、伊那佐村、宇太村、宇賀志村、神戸村、政始村であった。更に、残された記録では、榛原町は笠間、安田、榛原、福地、長峯、淘汰地、赤瀬、山辺、伊那佐村は澤、大貝、山路、宇太村は見田、別所、大沢、大神、宇賀志村は駒顧、宇賀志、芳野、神戸村は今井、野衣、松山、関戸、政始村は岩清水、才が辻、守道等が布教に廻った地域とされている。そうした地を当時の宇陀郡の地図に照らし合わせると、榛原から松山に続く伊賀街道、松山から佐倉峠に続き伊勢街道と交叉する街道、古市場から榛原方向に延びる街道を彼は利用していたと考えられる。これらの街道は主に交易路として利用されることが多かった。
 兵四郎は当時、小間物の行商をしていたので、この交易路は彼の仕事道であったとも言えるだろう。そこで彼の入信後の布教は行商を営みながらのものであったので、彼の伝道路としては宇陀盆地の地域、特に、密集した集落地を廻るには、それらの街道が正に適路であったのではないかと思う。更にまた、その街道沿いの集落には彼の講社が集中して置かれていることは一層、伝道路を明確にしていると考える。
 尚、晩年の彼の伝道は伊勢方面に延びたが、彼の信者であった松山の山本吉松、山田寅吉らと共に、佐倉峠を越えての布教であった。その布教では、松山から古市場を通過して、佐倉峠に続く道が、非常に多く利用されていたと考えられる。
 次に、山田伊八郎の場合、布教地域は神戸村の松山より西方から南方にかけてのものであった。確かに、宇陀郡地域の講社が心勇講にまとまってからは、その所在地を布教しているが、それ以前は出屋敷を中心に各地に布教し、その一端として宇陀地方に来ていたので、それほど東方まで足は延びていないと思う。
 記録によると半阪を越え、伊賀街道を吉野地方に布教したとあることから、神戸村の麻生田、半阪、嬉河原、松山、関戸、宮奥等が彼の布教地であっと考えられる。もっとも、この地域に関しては、森口宗八、峯岡長治郎、長田八吾郎の足取りもあるので、共に布教していると考えられる。また、第二章で述べた神戸村関戸の小角峠のおたすけも記録として残っているので、松山街道及び、伊賀街道は彼の常の伝道路であったことは明確である。 尚、神戸村においての布教は、伊八郎の他に森本治良平と小西定吉の布教が考えられる。現在の宇陀分教会の直属講社は、当時彼らによって布教されたものである。その地名を確認すると、内原、小附、芝生、半阪、岩室、西山、松山、迫間、本郷、黒木等が挙げられる。このことから、彼らの布教は伊八郎が出屋敷を拠点に東方に向けて伝道したのとは逆に、西山を拠点に松山街道の女寄峠、半阪を利用し、西方に向けて伝道していることが分かる。
 したがって、治良平、定吉、兵四郎、伊八郎、長治郎、宗八らによって、ほぼ神戸村全域にお道が行き届いたと考えられるのである。 続いて大浦傳七の場合、布教地域は宇陀盆地の北半分つまり榛原町、伊那佐村、内牧村、伊那佐村、政始村が中心になっている。これは加見兵四郎の布教地域と重なるところもあるが、当時、榛原町笠間に兵四郎と傳七の講社がそれぞれにあり、共に布教活動を行っていることから、それほど重なる地域が見られない。それは言い換えれば、兵四郎は自分の布教地域以外のところを傳七に任せていたと言っても良いだろう。
 傳七は奥立ユリと共に布教したのであるが、記録によると、榛原町の笠間、安田、萩原、上井足、足立、下井足、雨師、福地、長峯、神戸村の口今井、五津、内牧村の自明、赤埴、伊那佐村の栗谷、石田、山路、大貝、池上、政始村の藤井等がその布教地とされている。そこで当時の宇陀郡地図でその地域を確認して見ると、その伝道路は兵四郎のものとほぼ同じであることが分かる。ただ兵四郎がその南半分を中心とするならば、傳七、ユリの伝道は北半分を中心にしていると見ることが出来る。更に、奥立ユリの住まいがあった自明、赤埴方面の布教は初めて彼女によってなされ、伝道経路は伊勢本街道にも延びている。
 これらのことを考えると、傳七、ユリの布教は榛原を拠点に、伊賀街道、高見越道に続く街道、そして伊勢本街道を南方に延びたことが分かるである。
 榛原を拠点にしているのは彼らの他に井上佐七がいる。彼の場合、布教地域は榛原町、三本松村が中心である。特に榛原町の赤瀬、福地、萩原、山辺三をはじめ、小鹿野、角柄等に延びている。おそらく、傳七らとの接触もあり、共に布教していたものと考えられる。その中でも、三本松村へ続く伊勢街道のひとつ青越道の布教は彼によるものと思う。
 尚、この三本松村の向渕には飯降伊蔵の実家があることや、上之郷大教会の白石の系統の人がこの地域へ布教に来ていることが明らかであるので、そのことも考慮しておきたい。 以上、宇陀地方の西方の伝道経路を中心に述べたのであるが、宇陀郡内では最も開けている盆地地帯で、集落もほとんどがこの地域に密集している。そして尚且つ、城下町として栄えた松山、交通の分岐点になった榛原を中心にして、伊勢街道を代表する大きな要路が東西南北に延びている。その中をそれぞれの伝道者は自分の伝道地域及び伝道経路を確保していたと考えられる。
 更に、地図上では宇陀盆地の地域がほとんどくまなく伝道されていることから、おそらく、それぞれの伝道者がお互いに接触しあい、時には談じ合いをし、同じ道につながる者同志が、協力をしていたのではないかと思う。 そして、宇陀地方の信者の大半は盆地地域、特に街道沿いに集中し、宇陀地方の信仰の重きを占めていたと考えられるのである。
 一方、東方の宇陀山地地帯はどうであったかと言うと、第二章で述べたとおり、才加志市松、笹尾辰吉らが中心となって布教されたと考えられる。彼らの場合、布教地域は御杖村、曾爾村、室生村であった。特に、記録に残っているところは、御杖村の土屋原、菅野、神末、桃俣、曾爾村の塩井、葛、室生村の山粕、三重県の多気村、太郎生村であった。そもそもこの地域は、大半が山で囲まれ、集落がほとんど見られない。伝道者にとって布教することは容易なことではなかったと考えられる。
 ところが、地図上で彼らの伝道地域を確かめてみると、御杖村の当時の集落は余すところなく布教され、尚且つ北の曾爾村や南の波瀬村の方にまで道が延びていることが分かるのである。伝道経路を見てみると、やはり伊勢本街道が中心である。また、この地域自体の街道と言える街道は伊勢本街道だけである。つまり、村人たちにとっても、この街道が唯一の交通の要路としていたと考えられる。だから、実際に集落は街道沿いのものが多く、後の残りの集落は、山々の間に造られる河谷に存在していたのである。
 市松らの布教にとって、街道沿いにある集落はそれほど困難なく布教することが出来た。しかし、一歩山々の方向に足を踏みいれると、交通が発達しておらず、道なき道を進むことはよほど困難であったのではないかと思う。したがって、室生村の中心部から西北東にかけて伝道している地域が見付からず、現在の天理教教会名称録を見る限りでも、この地域には教会が見当たらない。
 しかしながら、西部と東部を唯一結ぶ伊勢本街道が、西部の伝道者と東部の伝道者との接触を与え、後には同じ講に合流し、宇陀地方の講社、及び信者が一つになると言った事も見られた。これは、伊勢本街道が東西の橋渡しをし、天理教の伝道に大きな力をもたらしたと考えられるのである。
 更に、そのことは、本部北礼拝場ふしんにおいて大いに役立ったともいえる。第二章でも述べたように、御杖村の区有林である蛇谷山を御杖村村民の希望から、天理教本部で買収することになり、切り出された木材は本部のふしんに使われたのである。そして、その用材をおぢばまで運ぶのは、村々挙げてのひのきしんになり、伊勢本街道は運輸路としても利用され、人々の人力によって運び込まれたのである。つまり、伊勢街道あっての伝道であり、ふしんであったと言えるのである。 以上、宇陀盆地と宇陀山地の伝道について述べた。宇陀地方において、全く違った地理、地形を持つ地域が西と東に存在していたわけであるが、その背景に至って両地域の伝道者たちは、それぞれの地域にあった伝道を繰り広げられたものと考えられる。
 また逆に、その中で共通した伝道も見られる。それは、古来からの信仰街道や交易街道をうまく利用し、その街道沿いに発達した集落を伝道地域の中心にしているということである。つまり、当時の伝道者にとってこれらの街道は欠かせないものであったと考えられる。更に、こうした街道が、全く異なった地域を、一つにする役割を持っていたのである。もし、この街道が宇陀地方を貫いていなかったとするならば、今日の宇陀地方の教会体系はまた、違ったものになっていたであろうし、当時「宇陀の白パッチ」と言われた強烈なお道の教勢は見られていなかったかもしれない。 こうしたことを考えると、宇陀地方の地理的背景には特有のものがあり、それに即した伝道の特質が見られると考えられるのである。

【第二節 文化的特色からみる】
 宇陀地方の天理教伝道の特質として、文化的背景から考察することにする。第一章で述べたように、宇陀地方の生活の多くが、行商によって成り立っていた事が分かる。
 特に、この宇陀地方は小間物、反物をはじめ、薬や生魚と言った生活上の衣食住はほとんど行商によって、売買されていたのである。 こうした宇陀地方特有の行商が、天理教伝道にどのように関連したのかというのは、前に述べた加見兵四郎をはじめとする布教師が、実際に行商につとめ、それが伝道の台となっていたことからも実証されるであろう。
 そこでもう一度まとめておくと、伊勢街道を中心として布教した兵四郎は、入信するまでの間、小間物の行商をしていた。彼が神一条の心を定めたのも、出屋敷の山本宅に行商で寄ったときに不思議な話を聞いたからである。入信後も行商の傍らその道を広め、自らの仕事道としていた街道を歩いて布教していたと思われる。特にそれは、前節でも述べたように宇陀盆地を一周するような道程になっており、その街道沿いに多くの信者が出来ている。彼は行商をしながら、地域の人々に神様の話を説いていたものと思われる。
 更に、彼によってお道に導かれた松山の魚屋である山田寅吉も、熊野方面からいつも生魚を天秤に担ぎながら宇陀地方に運び、人々と売買していた。そんなある日、波瀬村の藤田と出会い、お道の話をしたのがきっかけとなって、伊勢方面にこの道が伝道されることになったのは第二章でも述べたとおりである。 生魚は、第一章でも述べたとおり周囲に海のない宇陀地方にとっては、食文化の中では非常に貴重なものにされ、尚且つ、欠かすことが出来なかったものである。だから、生魚の行商人は、宇陀地方の地域を頻繁に売り歩いていたのである。
 しかも、村人達も家が留守のときは、行商人に魚を家の玄関先に置いて行ってもらい、支払いは後にするなど、行商人と村人の堅い信頼関係によって成り立っていたものと思われる。
 寅吉もそうした行商人の一人であった。彼は熊野灘から魚を仕入れては、宇陀地方を売りに歩いていた。そこで、村人との接触を持ち、加見兵四郎らに聞いた神様の話を伝えていたものと考えられる。また、村人も信頼出来る生魚の行商人の話には、おそらく耳を傾けるものが多かったと思われる。
 行商といえば、才加志市松に道を伝えたとされている仏檀なおしをしていた行商人が挙げられる。宇陀地方において仏檀なおしの行商というのは、あまり聞いたことがない。
 しかし、宇陀地方にそれだけ仏教信徒が多かったということである。確かに、これまで述べて来た伝道者も天理教を信仰しはじめるまでは、大半が仏教信徒であった。特に、才加志市松は浄土宗の熱心な信者であり、家は寺の檀家総代をしていた。また、心勇講の中心人物であった山田伊八郎も、元々は融通念仏宗を熱心に信仰しており、やはりこの家も寺の檀家をつとめていたのである。つまり、宇陀地方のほとんどの地域が仏教を信仰していたのである。だから仏檀なおしの行商というのも必要になって来るわけである。言い換えれば、この行商も宇陀地方特有の行商であると言えるであろう。
 ただ、そうした仏教に密接な関係をもっていた行商人が何故ここまで、お道の伝道に携わっているのか。更に、何故それ程まで神様の話を明確にすることが出来たのか。大変興味深いところである。当時の話では、政府の天理教に対する厳しい迫害と同時に、他宗教からの反発があったと聞くが、そのことについては後で述べることにする。
 いずれにしても、宇陀地方に往来していた仏檀なおしの行商人も、以上のことを考える限り、一人の立派な天理教伝道者であったことは間違いないと考えられる。
 以上、特に宇陀地方の行商と携わって来た伝道者を取り上げて述べたのであるが、これ程まで彼らの布教が目立っているのは、当時の伝道者にとって、行商と伝道との間に切っても切れない関係があったと考えられる。
 当時の宇陀地方の主産業は、地理からも分かるように農業と林業であった。それぞれの家は所有地を持っており、そこでの産業が生活の収入源であったのである。つまり、その所有地が、それぞれの家の財産的役割をしていたのである。
 しかし、徐々に人口が増えて来ると、本家から分家して生活をしたり、何等かの都合で本家から出なくてはならない人が増えて来たのである。そうした人の大半は、本家から所有地が分けて貰えずにいたので、生活するための収入源がほとんど無かったのである。そこで、売り歩きの仕事が地域的に流行し出したのであり、別の言い方をすれば、生活するためには唯一の仕事であったのである。したがって、宇陀地方にも行商人が自然と増え、人々の生活における色々な物が売り歩かれたのである。
 しかしながら、行商を伝道面から見れば、これ程布教に適した仕事はないと考えられる。今日のように、恵まれた環境における天理教の布教ではなく、未信者の多い中、お道だけで生活して行くのは非常に難しかったのである。だから、行商をすることで生活を維持し、尚且つ村々を売りに廻りながら、神様の話をして布教することが容易であったと考えられるのである。
 更に、村人たちにとっては生活の必需品を売りに来てくれるのであるから、行商人にはかなり信頼感をもっていたものと思う。だから、一度両者の接触があると、地域の情報を交換したりすることで、コミニケーションを持ち、村人たちは、行商人の話に耳を傾けていたと思う。
 このように考えると、行商と伝道と言うものは密接な関係があり、特に宇陀地方においては、そのことが明確であると考えられる。 ところで、お道をひろめたのは行商だけではない。第一章でも述べたように、元々この宇陀地方は絶好の狩猟場として有名であった。この狩猟を元に布教したのが、嬉河原の森口宗八であった。彼は猟が好きで、いつも宇陀地方の山々を点々として、道なき道を歩んでいた。特に、吉野方面まで猟をしていたので、元々信仰のあった彼は、その付近にお道の話を伝えている。私が考えでは、狩猟をして村々の家を廻ったのではなく、彼のような狩猟をしている人が多くいたと考えられ、おそらく、山の中での接触をしているうちに、宗八の口から神様の話がされたものだと考えられる。
 現在も狩猟は現在も宇陀地方で行っている人々がいる。特に、菟田野町は毛皮の町として有名であり、時折、狩猟で取って来た獣の皮を干しているのが目につく。また、「狩猟の会」のようなものも結成されているらしく、私の家の近所の人は、時々狩猟仲間と山に入り、猪などを捕まえて来るのを見たことがある。
 こうしたことから当時の狩猟も、宇陀地方の地理に即した文化であろうと考えられる。その中にあって、お道の伝道がなされたことは、独特のものであると考える。
 行商や狩猟といった宇陀地方の昔ながらの文化が、天理教の伝道に大きな貢献を与え、地方特有の伝道がなされたことは明確であろう。しかし、時にはそうした文化が伝道の障害を招くこともあるのである。
 先のところで少し触れたかもしれないが、宇陀地方に八世紀の初頭に伝来した仏教も、そうした障害の一つであった。仏教は宇陀地方全域に広がりを見せ、数多くの寺院が造られている。今日ではそうした寺院が、一つの文化遺産として残され、当時の仏教信仰の古い歴史を物語っている。また、今日に残っている宇陀地方の寺院の数を宗派別に調べると、浄土真宗が五十四カ所、融通念仏宗が十八カ所、禅宗が十三カ所、浄土宗が五カ所、真言宗が十一カ所、日蓮宗が二カ所となっている。今日残っているだけでも、相当な数であるが、明治時代に入ってからは政府の取締が厳しく、ここに述べた以上に多数存在した寺院も、無宗派であったり、住職や信者の出来ないということで、徐々に廃寺となって行ったのである。しかしながら、それだけ仏教の信仰がほぼ全域に行き渡っていたことは明らかである。そしてその中に、突如現れた天理教の信仰は、多くの仏教徒からの批判、及び迫害を免れなかったであろうと思う。高野友治氏の文献によれば、「明治十五年、六年頃加見兵四郎が宇陀の上新町に住んでいたとき、お寺の説教日にちょっと伺ったところ、坊さんが盛んに天理教の悪口を唱えていたというが、それは森本氏及びその信者に対する反対攻撃ではなかったかと思う。」と述べられている。更に「松山の山本吉松が伊勢方面に布教に出ていたころ、僧侶が反対したことがあった。吉松は坊さんにやられて、宇陀へ逃げ帰り、天理教を止めて奈良の税務所などに務めたという。」と述べられている。これだけ仏教側の迫害が、強烈であったものと思われるのであるが、単に反対攻撃していたものではなかったようである。 
 宇陀郡の三本松村の隣村に錦生村がある。現在では敷島大教会の直轄の錦生分教会があるが、この地域も元々は、宇陀地方の心勇講の熱心な信者が伝道したものであった。錦生分教会の初代会長になった森岡傳治は母の信仰から入信をしている。
 ちょうど、そのころ彼の家は村の宝泉寺という寺の壇家総代をつとめていたのであるが、急速な勢いで広がりをみせる天理教に恐れたのか、寺側から彼の家に「起誓証文」を提出する要望があった。その内容というのは「近来淫祠邪教がはやっているが、自分達は決して迷わず先祖代々の仏教を守ります」というものであった。その後、傳治らは「仏教御断書」を提出し、天理教の信仰を明らかにしたのであるが、それにしても、かなり強引な引き止め方であり、更に、このことで寺側は裁判所に訴えるなどしていたことから、天理教への攻撃は益々強かったものと考えられる。 こうしたことは宇陀地方の中でもあちこちで見られたと考えられる。高野友治氏の文献によれば、「宇陀の松山の寺で、淫祠邪教天理教退治の演説があった」と書かれている。それはおそらく、先に述べた錦生村での件と同じ時期であるところから、そのような動きは宇陀地方中でも頻繁にみられたと考えられる。
 確かに当時の天理教の伝道経路を見ても、あちこちの寺院及び神社の参宮街道にまで、延びていることから、自分達の布教地域を侵害されていると考えた坊主連中が妨害に乗り出していたものと思う。
 このように天理教に対する他宗教からの反対攻撃と言ったものは当時宇陀地方だけではなく全国的に頻繁に見られていた。特に、宇陀地方において、歴史的にも仏教の信仰者がほとんどであったことから、仏教からの迫害が非常に厳しかったものと考えられる。
 しかし、その中を宇陀地方の伝道者たちは自分自身の信仰信念をもって、乗り越えて来たのである。高野友治氏の文献によれば「加見氏のところへも坊さんが何人か一緒になって問答に来た。加見氏は一週間の間、坊主を前に、南無阿弥陀仏の真理の話を説いた。坊さんたちもこれには辟易して、それから反対に来なかったという。」と述べられている。 また、前に述べた仏教側から「起誓証文」を強制された伝道者たちも、「仏教御断書」などを提出し、あくまでもお道の伝道を守り抜いて来たわけである。そのことは結果として今日の天理教の教勢が十分証明していると考えられる。
 しかしながら、それだけの迫害を受けたにもかかわらず、天理教の信仰者が、増加して行ったのは、伝道者が宇陀地方の地理や文化と溶け込み合い、地域に統合した布教を展開したからである。
 更に、私にはそうした地域性の中に生まれた、宇陀地方の人々の人間性がそのこと以上に伝道の上に大きな力を与えたのではないかと考えるのである。つまり、そうした地理や文化の中には、いつも人間同志の関係があり、それが常に、ある種の集団性を持っていたのではないかということである。
 例えば、伊勢街道のところで述べた伊勢参りを目的とした「伊勢講」と呼ばれる集団も、宗教的信仰から組織化した人の集まりである。その講は年に一度村の当屋の家を決め、各家の代表がその家に集まって、振る舞われる食べ物を前に、世間一般の宴的な事をする習慣がある。つまり、それは村人自からが集団の場を求め、村の一員としての自覚にたって、連帯感を保持しようとする行為であると考えられる。
 また、村の行事の中でもそうしたことを感じさせることは少なくない。例えば、年に何度かある祭りにおいても、村の子供から大人まで家族中がその祭りに参加したり、また、村で誰かが亡くなると、村の人々が皆集まって、葬式の準備をするのである。どんなに決まり切った行事にしても、常に村の人々との接触は欠かせないものになっているのである。 また、日常生活のうえでもそのことは言える。田畑の多い宇陀地方にとっては、田植えや稲刈りの時期は非常に忙しい。普通は自分の所有する田畑は総て管理しなくてはならないが、そうした忙しい時期は、誰彼の土地は関係なしに相互に手伝いに行ったりすることは、村の中で言わずと知れた行為なのである。 つまり、村の人々にとって、その村の連帯感というものが、非常に強調され、村という集団があって、自分達の生活があるといった観念を維持しているといえよう。別の言い方をすれば、村自体が一つの家族であり、村人一人一人の信頼関係によって成り立っているのである。
 だから、こうした中に、ある種宗教が伝道されたとするならば、おそらく急速に広まるか、全く通用しないかのどちらかであると考えられる。しかしながら、天理教の伝道は急速な伝道を遂げた。これは神様の不思議な御守護を目のあたりにした村人が、確信を持って入信をすると、それが連帯感を強調する村を我も我もと電波のように伝道したのだと考えられるのである。
 現在においても、そうした村の集団的要素が多いに残っている。私もそうした中の一人であるが、自然に溶け込んでいるので何の支障も感じないが、当時の天理教伝道にとって、こうした宇陀地方の村の人々の人間性というものが、見えないところで大きな力を及ぼしていたのではないかと考えられる。
 以上、宇陀地方のお道の伝道において文化的背景より特質を見いだして来た。その中には、伝道のうえで助けとなるもの、また大きな障害となるもの色々な状況があったのではないか。しかし、伝道者たちは、時にはそうした文化に溶け込み、時には大きな文化を越えながら、非常な苦労の中で信仰を守り抜いてきたのである。そしてそれが宇陀地方の伝道の特質を生み出したものと考える。

【第三節 伝道者の一貫した信仰心からみる】
 これまでの考察を通して、奈良県宇陀地方に見る天理教伝道の特質を明らかにしてきた。 しかし、私はそうした、地理的背景、文化的背景から客観的に論じるだけでは、当面の研究課題を満たすことにはならないのではないかと考えるのである。お道では、「蒔いたる種はみな生える」と教えられるが、種は今蒔いて今芽を出して、花を咲かせ、実をつけるというものではない。種は旬が来るのを待ち、雨にも負けず風にも負けず成長して行くものである。
 ここにおいても同じことが言えるのではないかと考えるのである。つまり、それぞれの伝道者が非常な苦労を乗り越え、教祖の教えを心から信じて通った結果が、今日の天理教の教勢なのである。
 そうしたことを考えると、この宇陀地方において伝道者たちの苦労は底知れないものであり、それは今日の私達には計り知ることの出来ないものであると考えるのである。
 まず、入信に至って容易にお道が受け入れられたとは考えられない。家族や地域の反対はもとより、そのことで人々から見放された者も少なくはないと思う。周囲には理解者がなく、単独の信仰というものは精神的にもかなりの苦痛を背負っていたと思われるし、宇陀地方のように、伝統的な宗教である仏教信仰が深く強く根付いていた地域にあっては、天理教を信仰して、すぐに改式にすることはほとんど不可能であったと考えられる。本論で少し触れた三本松村向渕の飯降家もそうしたことが言えると思う。現在、向渕分教会として上之郷大教会の部内になっている。上之郷大教会の資料集成に携わっていた祖父の話では、向渕分教会の初代である飯降文吉は叔父である本席飯降伊蔵から勧められてお道に入信したのであるが、当時その地域は、一向宗(浄土真宗)が全面的に治めており、改式にするにも寺との間でかなりの騒動があり、この地で公然と信仰することは不可能に近いものがあったようである。
 つまりそれは、お道が陰ながらの信仰としてこの地域で始まり、決して公にする事なく、周囲の社会的、宗教的問題に巻き込まれぬよう生活して行くために、そうした信仰の姿を余儀なくされたのではないかと考える。
 そのため、おそらく文吉の信仰も向渕地域で布教活動すら出来ないまま、隣村の白石村にある心実講の二号講元幸田政治郎のところへ出掛けては、お道の話を聞いていたものと考える。事実、現在この向渕分教会が本部直轄ではなく、上之郷大教会白石分教会の部内であることは、当時のそうした出来事があったことを明らかにしている。入信の時から周囲のかなりの反対を押し切りながら、貫いた飯降文吉の信念に学ばなければならない。
 こうした周囲からの反対攻撃の中の信仰生活は、他の地域にも続発していたものと思うが、どの地域においても初期の信仰において、こうした苦労は免れなかったものと考えられる。
 しかしながら、そうした中、布教師達は必死の思いで伝道を続けて来たのである。伝道の上で今日と当時の唯一の違いと言えば、やはり交通手段ではなかったであろうか。現在では交通も発達し、車や電車、飛行機といったあらゆる手段で移動することが出来るが、当時においては、たった一つ徒歩だけであったのである。現代に生きる私達にとって歩くことの不便さ、辛さは理解することが困難であるが、かなりの苦労がそこにはあったと考えられる。
 当時の伝道者の布教と言えば、昼働いても夜は三里五里と歩いて布教したのが常であったと聞く。今で言うと十二キロから二十キロメートルの距離を、暗闇の中、月明かりだけを頼りに歩き、いつ迫害を受けるかもしれない中、お道の布教をしたのであるから、現在の私達に理解出来ないのも当然かも知れない。もっとも宇陀地方においては、主要交通路として伊勢街道があったが、山々に囲まれ、谷と峠を何度も越しながら、何日もかけて布教したのである。つまり、本論で述べた伝道者たちにとって、かなりの疲労と苦労があったのは想像に難しくない。しかし彼らは、その苦労を何の苦労ともせず、自らそれ以上の苦労を求めて行こうとしているのである。
 加見兵四郎は、布教した人々からは一切礼を受け取らず、彼は良い着物を着る事なく、いつも汚れた羽織りを着、彼の子供には拾った草履を履かせるなど、決して楽な道を求めたものではない。また、山田伊八郎や才加志市松らは当時かなりの豪農と言われ、多くの土地を所有していたが、入信してからは総て売り払い、体ひとつで伝道につとめている。 こうした、彼らの苦労の道によって、徐々に講社が設置されるようになり、多くの信者が寄り集うようになった。親神様の不思議な御守護が宇陀地方の人々の心を一転させたものと考える。そして「宇陀の白パッチ」と異名を付けられたころには、ほぼ宇陀地方全域にお道は浸透していたと考えられる。そしてその後、段々と教会設置の機運も高まり、各地域に教会が設立されるようになってきたのである。
 しかし、このころ宇陀地方の伝道者をはじめ、多くの信者に大きな波紋を投げ掛けるような事件があった。それは、「天理研究会事件」と称するもので、天理教の中から発生した一つの流派である大西愛治郎の布教活動に関する事件である。愛治郎は明治十四年、宇陀郡宇太村の平井に生まれ、家族の重病からお道に入信している。おそらく地域的に、加見兵四郎か峰畑為吉の布教によるものであると考えられる。愛治郎は入信後、自ら「八つのほこり」などの教理を研究し、単独布教の道を志し、人々をお道へ導いて行ったのであるが、あるとき彼自信が甘露台であると誤想し、自ら天理教の教義の本道を探求するとして「天理研究会」を組織し、教祖の説かれた教えに強く反論するなど、異端的な宗教活動を始めたのである。その後「天理本道」と称してその活動は続いたのであるが、彼の出生地である宇陀郡宇太村もその本拠となり、宇陀地方のお道の伝道者や信仰者に大きな影響を及ぼしたのである。
 宇陀地方において、ようやく教会の設置が始められ、信仰のうえでも安定して来た頃に、教内で論争を招き、伝道の大きな障害となったのである。しかしながら、こうした異端が宇陀地方に生じて来たということは、それだけお道の教勢が広く行きわたっていた証左であると考えることもできる。つまり、多くの信仰者がいたからこそ、その中から異端の道にそれる者も出て来たと考えられるのである。こうした意味から宇陀地方の伝道を考えると、大きな障害を抱えていたけれども、それを乗り越えて行った伝道者の精神は、いかなる苦労も耐えて培って来た信念そのものであると考えられる。
 こうしたことを考えると、宇陀地方の伝道は布教師たちの苦労を無くしては決して語ることは出来ない。しかし、そうした伝道の上での苦労は時間や空間を越えて常に共通するものであると考えられる。つまり、今日もそうした精神を受け継いで行かなくてはならないのであり、どんな地域においても欠かすことの出来ないものなのである。
 以上、宇陀地方の天理教伝道の特質について、地域性やその地域に暮らす人々の人間性、そして伝道者の精神などの面から考察して来たが、そうした特質が現在の宇陀地方の天理教の信仰を支えて来たものであろうと考える。現在、宇陀地方の天理教の教会数を調べてみると三十二カ所の教会がある。それを系統別に記すと、敷島系統が十九カ所、桜井系統が六カ所、旭日系統が三カ所、上之郷系統が二カ所、明和系統が二カ所である。その内、明治四十年までに設置された教会は敷島系統が六カ所、旭日系統が二カ所、上之郷系統が一カ所である。
 教祖お一人から始まったお道は、こうした初期の伝道者の筆舌に尽くし難い努力によって伸び広がり、次第に、教会の設置を見るに至ったのである。そしてそれが、今日の宇陀地方の信仰を支えているのである。
 そうした意味では、これまで述べて来た初期の伝道の軌跡は決して忘れられるべきではない。それが宇陀地方における伝道エネルギーの源流であると思うからである。個人的な信仰心情を加えるならば、それがこの地方における伝道の特質であると言いたいのである。その特質をこれからの伝道にいかに生かされるべきかというところがこれからの課題である。つまり、それは当時の伝道の姿そのものを取り戻そうというのではない。あくまでも現在の社会において、各地域の特質をよく理解し、その社会に適応した伝道をして行かなくてはならないのである。
 宇陀地方は現在、奈良県下において人口減少地域の一部に入っている。その現状からすれば、これからの宇陀地方の伝道は維持の形態になって行くことが考えられる。その維持の形態、守りの姿勢から脱皮するためには、外の地域への伝道が重視されなければならない。それは宇陀地方から国内、海外への道なのであり、こうしたことが宇陀地方の伝道の特質を元にしてこれから求められる課題ではなかろうか。

 以上、宇陀地方にみる天理教伝道の特質を考察して来た。
 第一に宇陀地方の地理的、文化的背景の考察を基礎として客観的条件を質し、第二にこの地方で暮らす人々の人間性と、伝道者の信仰心を台とした主観的側面を考察した。


あとがき

 私が卒業論文に「奈良県宇陀地方の天理教伝道の特質」をテーマとして選んだのは、序説でも述べたとおり、自分の故郷に大きな関心を寄せていたからである。
 分けても、私は宇陀郡大宇陀町に位置する常盤木分教会の三代会長橋本忠雄と教祖に直接助けて頂いた的場彦太郎の子孫である橋本美恵(旧姓的場美恵)との間に生まれ、今日まで絶えずお道の中で育ってきた。そして、将来は教会後継者として、また一人の布教師として大きな希望を持っている。そうした意味でも、今回の研究は私にとって、尚一層伝道への熱意を盛り立てたのである。 
 今回の研究では、主として宇陀地方の初期の伝道を取り上げて来た。それは、今日大きな宇陀地方の教勢を作り上げた元一日を忘れないためでもある。天理教の天の字も知らなかった人々が伝道者によって、親神様の不思議な御守護を知り、我が身の生活までも捨てて、神一条に身を捧げた信仰心は私達は学んでいかなくてはならない。
 私共の教会もそうした意味では、宇陀地方の初期の伝道に携わり、初代の道一条への決意によって発足したものである。
 明治二十三年、吉野郡上竜門村栗野に初代講元を万谷惣治郎とする栗野講社が結成された。当時、栗野の地域に伝道した人は明確ではないが、今回の研究からしても、おそらく加見兵四郎ではないかと思う。
 その後、教祖四十年祭を迎えるに当たり、教会倍加運動の打ち出しがされ、当講社も教会設置の機運が高まったのであるが、既に講元は出直し後継者は幼少であった。そこで、当時無い命を助けて戴いた私の曽祖父母である橋本房治郎並びに妻ナラエが教会を持つことになったのである。
 尚、橋本家の入信は明治二十三年頃で房治郎の母の身上より、不思議なおたすけに浴したのが因であった。記録によれば、その布教師は神戸村嬉河原の森口宗八であり、度々の尽力により母の身上は霊救に浴した。房治郎は当時小学校一年生であったが、余りに不思議な神の御利益と布教師の熱心な態度に深く感動し、信仰の芽生えをなしたのである。
 そして、妻ナラエと結婚後、本人は腸の身上、ナラエは悪性肝臓となり、二人とも医者から手放されたところ、宇陀支教会の布教師藤原寅吉から不思議なおたすけを戴き、そこから本格的な布教が始まったとされている。 間もなく、奈良県下の町村合併により教会の設置所の地名を宇陀郡大宇陀町栗野四一九番地の一に表示変更し、常盤木宣教所から常盤木分教会へと改称した。そして、初代会長房治郎として新たな信仰生活が始まったのであるが、橋本家の因縁は切れず、頼りにしていた後継者一雄は腸の身上で三十八才で出直し、後継者の妻房江も別居するなどの事情に災なまれ、初代会長房治郎の出直し後は妻ナラエと孫の忠雄(小学校五年生)、貞雄(小学校三年生)が残っただけであった。そして、この事情を機に橋本家の田地田畑一切を納消し、道一条となったのである。
 しかしながら、その布教生活はけっして楽なものではなく、年老いた私の曽祖母とその孫である私の父と叔父だけの逆境の中の暮らしであった。
 度々、父は私に当時の思い出を語ってくれる。そこには、非常な苦労の中、どこまでも人だすけの信念を貫き通した私の曽祖父の姿、そして、幼くして両親をなくした父たちを抱え、一人で一家の家計を背負いながら二代会長の立場をつとめた曽祖母の姿があった。 正に、苦労の中を神様にもたれ切って通った曽祖父母のお陰により、今日私達の結構な生活が有るということを思わずにはおられないのである。
 現在、父は常盤木分教会三代会長としてお道一条に挺身しており、叔父は新潟大教会礎分教会三代会長として東北を拠点に布教活動を推進している。そして、それぞれ息子である私といとこは共に天理大学に進み、その中でも私は雅楽部部長をつとめ、いとこはようぼく会の会長をつとめるなど、結構におぢばで学ばせて頂いている。
 しかし、結構な暮らしに慣れてしまうと、本当の意味での有り難さを忘れてしまいがちである。橋本家の因縁を思うとき、現在、両親が健在でおいて頂きながら、結構な暮らしをさせて頂ける事は、初代のお道の信仰無くしては有り得ないのである。
 私は常盤木分教会の後継者として宇陀地方に育ち、この地方の初期の信仰心を身近に感じることが出来る。因縁納消の上に神一条の道を選び、教祖のひながたを追い求めた先祖の信仰心は、私の今後の信仰の上で非常に重要視されるところである。
 そして今回の研究は、そのことを再度私に学なばせてくれた。その意味では、私にとって、この研究が大いに布教活動の素材になると言っても良いだろう。
 分けても、本年は教祖百十年祭を迎えるに当たり、仕上げの年である。敷島大教会では修養科生一千名の心定めをし、実質一千四十二名の御守護を頂き、年祭に向かう大きな足取りを見せた。私もその理を受けて、この旬に卒業論文として宇陀地方の伝道について研究出来たことは、大変嬉しく思い、将来は一人の伝道者として、この宇陀地方を拠点に広く世界へ、親神様、教祖のお教えを広めて行きたいと思う。
 最後に、今回の研究の上で御協力頂いた敷島大教会山田忠一大教会長様、宗教学科教授中島秀夫先生、金子圭助先生、明東分教会長小西弘光先生、上之郷大教会史料集成委員的場喜久雄(私の祖父)、常盤木分教会長橋本忠雄(私の父)に心よりお礼を申し上げます。

【参考文献】
・宇陀郡役所編『奈良県宇陀郡史料』夕著出版 S四十六.七.十七
・大宇陀町史編集委員会編『新訂大宇陀町史』 大宇陀町役場 H四.二.十一
・大宇陀町史編集委員会編『大宇陀町史』大宇 陀町役場 S三十四.六.一
・菟田野町史編集委員会編『菟田野町史』菟田 野町役場 S四十三.十.十
・榛原町史編集委員会編『榛原町史』榛原町役 場 S三十四.三.二十五
・室生村史編集委員会編『室生村史』室生村役 場 S四十一.二.十一
・曾爾村史編集委員会編『曾爾村史』曾爾村役 場 S四十七.十一.二十五
・御杖村史調査委員会編『御杖村史』御杖村 役場 S五十一.三.二十
・奈良県教育委員会編『伊勢本街道』奈良県教 育委員会 S六十.三.三十一
・上方史跡散策の会編『伊勢本街道上』向陽書 房 H五.四.二十九
・上方史跡散策の会編『伊勢本街道下』向陽書 房 H五.六.九
・田中真知郎著『大和の古道』講談社 S六 十.九.二十五
・長田光男著『奈良点描一』清文堂 S五十 八.五.三十
・長田光男著『奈良点描二』清文堂 S五十 八.九.三十
・長田光男著『奈良点描三』清文堂 S五十 九.三.六
・奈良県教育委員会編『奈良県民俗地図』奈 良県教育委員会 S五十七.三.三十 一
・奈良新聞社編『大和』奈良新聞社 S五十 四.六.十
・大門貞夫著『宇陀の里』大門貞夫個人出版 H三.四.一
・山沢為次著『教祖様御傳稿案(八)』青桐 社 S二十八
・高野友治著『天理教伝道史Ⅰ』道友社 S 四十一.九.二十六
・高野友治著『天理教伝道史Ⅱ』道友社 S 四十一.九.二十六
・高野友治著『天理教伝道史Ⅲ』道友社 S 四十一.九.二十六
・東海大教会史料集成部編『東海の道』東海 大教会 S四十九
・敷島大教会史料集成部編『敷島大教会史』 敷島大教会 H二.十.三十
・敷島大教会史料集成部編『山田伊八郎傳』 敷島大教会 S四十九.八.二十一
・敷島大教会史料集成部編『敷島大教会史直 属教会史編』敷島大教会 H二.十. 三十
・敷島大教会史料集成部編『敷島年譜』敷島 大教会 S四十五.三.十七
・天理大学宗教文化研究所編『天理教教会史 資料七』天理大学出版部 S二十八
・天理教教会本部『稿本天理教教祖伝』道友 社 S五十三.十.二十六
・天理教教会本部『稿本天理教教祖伝逸話篇』 道友社 S五十一.一.二十六
・天理教表統領室調査課編『天理教教会名称 録』天理教教会本部 H五.三.二十 六
・中山正善著『天理教伝道者に関する調査』 道友社 S五.十.一
・天理教教義及び史料集成部編『神の手引』 中山正善 S六.一.二十六
・天理教教義及び史料集成部編『おたすけ生 活へ』中山正善 S六.三.二十六
・天理教教義及び史料集成部編『みちすがら』 中山正善 S六.四.二十六
・天理教教義及び史料集成部編『神の手引そ の二』中山正善 S六.十.二十六
・天理教教義及び史料集成部編『おたすけ生 活へその二』中山正善 S七.二.二 十六
・高野友治著「東海初代伝記物語」道友社  みちのとも五巻一号~五号所収 S二十 八.
・加見秀信著「おたすけ人の喜び」道友社みちのとも八十五巻十号所収 S五十
・岡本岩蔵著「求めなき一条の道」道友社みちのとも六十一巻二号所収 S二十六
・加見秀信著「生壁の兵四郎」道友社みちのとも六十七巻六号所収 S三十二
・高野友治著「加見兵四郎」天理教青年会大望十巻十号所収 S五十三
・高野友治著「先人の信仰」道友社 みちのとも六十七巻十号所収 S三十二
・加見信太郎著「父兵四郎の信仰」道友社みちのとも七十六巻三号所収 S四十一
・加見秀信著「後ろから手を合わされるよう」 道友社みちのとも七十九巻七号所収 S四十四
・高野友治著「加見兵四郎先生」道友社 み ちのとも四十六巻六号所収 S十四
・中瀬古正則「東海初代の入信とおさしづ」 天理教教義及史料集成部史料掛 史料 掛報 百一号所収 S四十
・敷島大教会編「山田伊八郎会長の面影」敷 島大教会 しきしま第二百五十九号~ 二百 六十九号所収 S四十八
・中西昭明著「山田伊八郎傳」養徳社 陽気 三巻十二号所収 S二十六
・植田勝造著「故山田伊八郎先生の追悼」道 友社 みちのとも三十巻九号~十号所 収  T九~T十
・中村新一郎著「故山田伊八郎先生伝」道友 社 みちのとも三十巻七号~八号所収 T 九
・山田忠一著「無言のお仕込み」道友社 み ちのとも八十六巻一号所収 S五十一
・高野友治著「長田八吾郎氏」道友社 みち のとも六十九巻十一号所収 S三十四
・小西定吉著「教祖に救けて頂いた話」天理 教教義及史料集成部 復元十五号所収 S 二十四


 

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