下北山ツチノコ共和国

ツチノコ共和国>下北山の文献にみるツチノコ

ノヅチ.ツチノコ(下北山村史 昭和48年3月31日発行)

これも白蛇と同様にむしろ怪異に属するものかもしれないが、見たという人が何人もある。太さのわりにうんと短いのが特徴で、上からマクレて(転がり落ちて)来るという。横槌に似ているからだろうが、池原ではツチノコ、上桑原ではノヅチと呼んでいる。しかし、そんな名も話も聞いたことがないという大字(浦向)もある。ノヅチがノー(カリバ)に居れば、そのめぐり一帯は草が生えぬ。地原のしもの国道の上に丸い形と四角い形の草の生る。ノヅチがノー(カリバ)に居れば、そのめぐり一帯は草が生えぬ。地原のしもの国道の上に丸い形と四角い形の草の生えぬ所があり、それはノヅチのオンとメンがいるからだと言ったが、台風の時ヌケたことがある。ノヅチは山で千年、海で千年して天へ昇るが、人に見られたら出世できぬ。これがいるとヤマヌケして、川の水と一緒に海へ出る。浦向のクエ(崩壊)もそれだったという。このあたりの小谷など、方々にノヅチの話があり、小谷ではサイワッパ(弁当のお菜用のワツパ)ほどのまわりがあった(上桑原西岡ハツ女六十九才)。浦向の奥地でもほんの三・四年前、郵便局へ勤めている若い娘さんがワラビ採りに行って大きなナメクジのような、太短かいぬめぬめした蛇を見たといって、真青になって和田家へ跳び込んで来たことがある(和田利作老)。池原のコシオの大蛇もツチノコだったかもしれぬといい、また不動ノハタの大蛇というのもそれらしい。大きな蛇が何か大きな物を呑んだのにぶっかったのだろうという人もある。

ツチノコ覚え書き(御勢久右衛門 下北山村の自然平成9年4月1日発行より)

下北山村は,夢とロマンあふれる「ツチノコ共和建国」を宣言しています。まぼろしの怪物ツチノコとはどういう動物で、はたして生存しているのでしょうか。下北山村での最近の目撃者の話によると、「佐田地区の道路上に、奇妙なものが寝ているのに気づき、見ると、体長50センチほどのナマズのようなものがじっとしている、頭はおにぎりみたいな三角で、ウロコ状の体はヌメヌメとした感じである。動かないので、降りて見ようとしたら、ローラスケートですべるように、スーツと道路脇の川のほうへ動いていった」という。また同じく佐田地区の道路上で、「道路の端に何か動いているものが見えた。近寄ってみると、ビール瓶ぐらいの大きさのものが横たわっています。体長は60〜70センチで、幅12〜13センチ、頭は三角で、尾はちょろっとついていました。目がギョロッとしていたのが印象的。道路を横切ろうとしていましたが、その動きかたは普通のヘビとまったく違っていました。まるで「8」の字を描くように動いています。横にうねりながら這うヘビなど見たことはありません」。「浦向ではワラビ採りに行った娘さんが、太くて短いヌメヌメした大きなナメクジのような蛇を見て、腰を抜かさんばかりに驚き、一目散に逃げ帰ってきた」。「佐田地区で裏山の畑へ通じる石段の上で,三角の頭から突き出た大きな目はうるみ、赤い舌を出していたツチノコを目撃。胴の回りはテニスボール大で長さは約30センチ、尾は細く、魚のウロコのようになった背中で、三角形の頭は灰色がかった黒色」、村内で聞き合わせても、ここ数年の間でも10数人が確実に見ています。池原ではツチノコ、上桑原ではノヅチと呼んでいます。

これとよく似た話が近くの村にもあります。大峰山脈を西側に越した十津川村でも、見た人が何人もいます。太さ約5センチ、体が短いのが特徴で、体には絣の着物のような横縞があります。上からコロコロと転がり、毒あって咬まれたら死ぬ。ここではノヅチ、またはツチノコとよばれています。

野迫川村では山にツチンコという魔物がいます。ノヅチ 野槌)ともヨコヅチ(横槌)ともよばれ、横にまくれまくれしてくるといいます。たたくと、たたいたところが口になってかぶりつき、マムシよりも強い毒があるから、かぶられると,その日に死ぬといわれています。ツチンコは身の丈は短くて60〜70センチくらい。胴のまわりは太くて30センチくらい。頭は一つではなく、尾の長さは7〜8センチで小指ほどです。色はうす黒いが網を着たような模様があります。

天川村の洞川でも、「向かいの蜂ではオノコロヅチがおって、こわいで!太いものがモクレモクレ(転がり)しながら、追イヤルイテクル(?)か らこわいで!」といわれています。

ツチノコに関する伝説は、日本列島の本州・四国・九州の各地に残り、その呼び名も40にも達しています。これだけみても、ツチノコが各地で古くから目撃されていることがわかります。にもかかわらずツチノコはいまだ学術的に確認されていないため、学名もなく、まぼろしの動物とされているのです。江戸時代の昔、奥吉野の村里や山中には、どのような種類のへび類がすんでいたのでしょうか。

江戸中期、日本初の図説事典『和漢三才図会』(正徳2年,1712)にツチノコが野槌蛇として絵入りで紹介されています。「深山にすみ、木やぶの中にいる。頭と尻は同じ大きさで、尾がとがっていない。槌に似て柄がないので、俗に野槌と呼ぶ。和州吉野山中の莱摘川、清明の滝あたりで折々見た人がある。口が大きくて、人の足にかみつく。坂を走り下り、人を追うときは早いが、登ることは極めて遅い。これに出会ったときには、急いで高いほうへ登れば追ってこない。大きいのは直径5寸、長さ3尺」という。

紀州藩士で,本草学者小原桃洞(1746−1824)の『桃洞遺筆』(天保4年,1833)には「野槌蛇.和州吉野山中、本州熊野奥等に産す。其形は長さ2尺余、頭尾均しくして(頭も尾も同じ長さ)、尾尖らず、槌の柄なきがごとし。全身蝮と書かれています。

同じく紀州藩士で自然学者畔田翠山(くろだすいざん)の『野山草木通志』に野槌の実話が書かれています。「文政六年(1822)正月中旬のことである。高野寺領の在田(有田)郡梁瀬村の山中に奇妙な蛇が出てきたが、動くことができなくなった。人が尋ね釆て鉄砲で撃ち殺した後に土中に埋めた。其の蛇の大きさは胴回り五尺、長さ三間。その背は黒褐色、巨大な松の樹が臥せっているが如く、腹に鱗甲があり、黒色で青を帯びていた。頭と尾は身よりも細くて、土人が野槌と評しているものは此れであろう」と。

紀州が生んだ生物学者南方熊楠(みなかたくまぐす)は折りにふれ、ノヅチに言及し「異様なる蛇ども」の中で、「あるいは上(かみ)の世代、水辺の蛇をミズチ、すなわち水の主、野山の蝮をノヅチ、野の主と見立てたのであろうと思う」と、ツチノコすなわちマムシ説をにおわせています。

奥吉野では、大蛇に出会った体験談や伝説も多い。下北山村史には、「池原のコシオの大蛇もツチノコだったかも知れぬという。また、不動のハタの大蛇というのもそれらしい。大きな蛇が大きな動物を呑んだのにぶつかったのだろうという人もいる」と書かれています。ツチノコとは一体どんな動物でしょうか。