古い文書等が残ってないので私が子供の頃お年寄りから聞いた話や口伝でつたわったことなどその記憶の範囲でまとめてみました。

宇賀志太鼓台昔話


 その昔、(江戸中期から後期だと思います)宇賀志村宇賀志にあった太鼓台は現在使っているものに比べ一回り小さかったそうです。

重さも軽かったそうで、祭の練り歩きも3日程かけて宇賀神社から榛原の水分神社までが運行経路だったそうです。疲れては休み、酔っ払っては休み、道筋の神社があれば万歳し、日が暮れれば酒飲んでみんな道端でごろ寝しながら和気藹々運行したと聞いています。

その頃は現代のような機械があるはずもなく、日々、野良仕事や百姓仕事・山仕事に追われ、これといった娯楽もなく、楽しみといえばお正月とお盆と太鼓台(秋祭り)だけであったでしょう。

ある年(江戸後期)運行の道すがら、ふだんから高飛車なおたな(お店)があったそうで、そこのお家がご祝儀を出し渋ったことが原で太鼓台の棒鼻を店の中に突っ込んで店や座敷を潰したと聞いています。

幕末から明治初期でしょう、村外からの苦情で困った宇賀志の庄屋さんや旦那衆が相談して「もっと重くて、簡単にあばれない」ようにするために使っていた太鼓台を売り、そのお金に庄屋さんの寄付(話では8割ぐらいの額)と宇賀志の人たちがお金を集めて現在使っている太鼓台を購入したそうです。購入の際お世話になったその庄屋さんに敬意をこめて太鼓・曇鸞幕・擬宝珠などの大事な備品をお預けして、祭の際にはそこにお願いして備品を借りて祭をするようにしたそうです。
今から25年くらい前までその風習は残っていました。(現在はもちろん太鼓台や備品は宇賀志自治会の所有)

太鼓台購入の際の逸話も大変面白い、注文した大工に金額予算を伝えしっかり接待、丁重にもてなした。上機嫌でやる気になったその大工は持てる技すべてを出し大変立派なものをつくりました。「出来た」と連絡を受けた村人が懐に皆でつくった大枚(大金)を忍ばせて若い衆8人を伴い、その大工のところへお金を支払いに行くと、そこには「太鼓台を買いにきた」という人が3・4人いたそうで、その大工はせりで値を吊り上げようとしたそうです。

話は暗礁に乗り上げ、大変苦労して集めたお金で今更「ダメでした」では帰れない村びと9人は、そこでお金を放り出し一人は太鼓を叩き、残る8人であの太鼓台を一気に運び出したそうです。造った所は明日香説・桜井説・郡山説・田原本説あるのですが(私は桜井の芝だと思ってます)。

いずれにせよ宇賀志に帰るには当時交通の難所であった女寄峠(みよりとうげ)が立ちはだかり、造った大工は「そのへんで担いで帰るのをあきらめるだろう」「後で取り返しに行けばいいだろう」程度で真剣に追いかけることはしなかったのでしょう。

ところがその大工の予想に反して、その村人たちは一気に女寄峠を上り無事に宇賀志まで担いで帰ったそうな。
その中には中窪さん一統のご先祖さんがいたとも聞いています。
当時の百姓・山仕事で鍛え上げられた人たちって半端な体じゃないですね。恐るべし昔の人。

宇賀志の人々の喜びはすごかったろうと想像できますね。

昔の人が大変な苦労をして手に入れた太鼓台みんなで物も文化も大切に守っていきましょう。

わたしが子供の頃聞いたお話を書いてみました。
私の記憶違いもあるでしょう。
真偽のほどはわかりません。
ご存知の方教えてください。書き換えます。