2017.10.17 国宝展U

国宝展のU期、拝見してきました。

お土産

今回拝見したものです。1期で拝見したものは除いています

014六道絵2_聖衆来迎寺

鎌倉時代の作。源信の『往生要集』に説く六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天)のありさまを絵画化したもので、全15幅からなる。15幅は東京・京都・奈良の各国立博物館、大阪市立美術館、琵琶湖文化館に分割寄託されている。

016絵因果経_京都・上品蓮台寺

このお経は、「絵因果経」と呼ばれているもので、紙の下半分にはお経が書き写されていますが、上半分には下のお経にある代表的な場面を絵で表したものなのです。そのお経の正しい名前は、『過去現在因果経』といって、お釈迦さまの前世の修行物語から始まり、お釈迦さまがどのような原因で人間の根源的な苦しみや迷いから開放されて、仏さまという悟りの結果を得たのかということを物語風に説いたものです。いえば、お釈迦さまの伝記のようなお経です

028餓鬼草子_東博

生前の行いにより人は六道(天・人・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄)のいずれかに輪廻すると仏教では説くが,本図は飽くことなき飢えに苦しむ餓鬼道のありさまを描く。醜悪な世界であるが,優れたやまと絵画家の手により高い芸術性を持つ。鎌倉時代初頭期の作。

029餓鬼草子_京博

1巻の絵巻に収められている詞(ことば)・絵とも7段の餓鬼の物語のうちの1つで、墓に手向けられた水のしたたりをなめて、わずかに命を保つ食水餓鬼を描く。平安時代後期に流行した一連の六道絵巻の1つである。

033華厳五十五所絵巻_東大寺

華厳経の入法界品に基づき、善財童子が文殊菩薩の教えによって五十五所の善知識を歴訪し法を求めるさまを図絵した絵巻。詞書のかわりに色紙形を付してに各場面を説明する。軽快な筆致と淡い彩色で温和な画風を示す。平安時代末期から鎌倉時代初期の作。

060風俗図屏風(彦根屏風)彦根城博物館

代々彦根藩主であった井伊家に伝わったため「彦根屏風」の名がある、江戸時代寛永期(1624〜44)の風俗図における代表的な名作です。本図の筆者は不明ですが、画中画の山水図や見事な画面構成から、かなりの筆力を持った狩野派(かのうは)の人物であることがうかがわれます。

068山水図_京都・高桐院

高桐院の開創以来伝わる2幅の山水画で、南宋の宮廷画院の画家であった李唐(りとう)の作品である。2幅のうち1幅に描かれた樹木の部分に「李唐画」の隠し落款(サイン)があることが確認されている

069夏景山水図_山梨・久遠寺

中国北宋画のなかでも品位の特に高い画。京都南禅寺塔頭金地院が所蔵する秋景山水図、冬景山水図と並ぶものである。筆者は北宋末(約880年前)の徽宗皇帝と考えられている。

070秋景・冬景山水図_京都・金地院

本図は室町幕府三代将軍、足利義満(あしかがよしみつ)が所有して以来、中国絵画の傑作として名高く、その詩情のゆたかさと品格の高さゆえに、わが国に伝来した宋画(そうが)の中でも名品中の名品とされる。

072風雨山水図_静嘉堂文庫

馬遠は、南宋中期、光宗朝・寧宗朝(1189〜1224)に活躍したとされる宮廷画家。その作品として伝来した本図は、水墨を主調とし、遠山の青、松葉にかさねた青や茶、広葉樹の茶(赤)や緑、岩上の点苔の緑など濃淡の彩色を効果的に配している。高度な画技によって風雨や波紋など自然の表情を精緻に描写し、大観的な空間を描き出した、南宋院体山水画(南宋画院の様式による山水画)の優品である。

074帰牧図_大和文華館

李迪は南宋の孝宗・光宗・寧宗年間に活躍した宮廷画家です。「騎牛幅(右幅)」に描かれる雉子を杖先につけた牧童は、凍えるように背を丸め、淡墨ではかれた画面には、わずかに積もった雪上を歩む牛の足音が静寂のなかに響いています。限定されたモチーフの描写からは、凍てついた空気感までもが伝わってくるかのようで、宋人の自己を見つめる鋭い眼差しまでもが表現されています。

082禅機図断簡(丹霞焼仏図)ブリヂストン美術館(福岡 石橋美術館)

画面左手、たき火に手をかざすのが、中国唐代の禅僧丹霞。右手に指さしながら別の僧侶が現れたのは、たき火の燃料が仏像であったため。その結末は、左手二行の漢文に記されているのですが、振り返った丹霞の表情にも、読み取ることができます。14世紀に制作され、間もなく日本に伝来した際には、画巻だったと考えられる作品です

083禅機図断簡(智常禅師図)静嘉堂文庫

老木の下、岩に座す高僧・智常禅師が指をさしながら張水部(ちょうすいぶ)に何かを諭す様子が描かれる。分蔵される国宝「禅機図断簡」5点の一つとして著名である。

092-1釈迦如来立像_清凉寺

 

清凉寺(嵯峨釈迦堂)にある北宋代の国宝彫刻。本堂内に安置される像高さ162cmの本尊で、「嵯峨の釈迦」と呼ばれる。「然上人が寛和元年(985)、宋で模刻させ日本に持ち帰ったもので、胎内には模刻された時に納入されていた絹の五臓六腑が入っていた。異国的な姿が特徴的である

092-2釈迦如来立像納入品_清凉寺

清涼寺の釈迦如来像は、内臓を内臓した釈迦如来像。他にも、胎内から、造像にまつわる文書、「然の遺品、仏教版画…などなど “小さな正倉院” とも呼ばれている

105紺糸威鎧_嚴島神社

同社の小桜黄返威鎧や、御嶽神社の赤糸威鎧などとは趣を異にし、総じて手法が精緻であるが、金具廻りの狭小な点、染韋の文様、兜の形状や胴の仕立などには相通じる趣致があり、上掲二領と時代の隔たりはほぼないと見られる。原形をほぼ存しており、稀有の一領である。平重盛奉納の社伝がある

115曜変天目_京都・龍光院

静嘉堂、藤田美術館の曜変天目茶碗と共に、大名物として著名な茶碗である。星紋の粒が小さく、青光も細く短くて、稲葉天目のような華麗さはないが、深い趣や格調がある

138-2琉球国王尚家関係資料_那覇市歴史博物館

本件は尚家が代々継承してきたもので、工芸品八五点、文書・記録類一一六六点からなる。工芸品は王家での諸儀式等に用いられたものが主となり、一六世紀から一九世紀に及ぶ。工芸品のなかには王装束があり、琉球国王の王装束では唯一現存するものである。これらは琉球工芸を代表する作品が広くまとまって遺存する唯一の資料であり、琉球文化を理解するうえで貴重な伝来品であるとして、平成十四年に工芸品部門で重要文化財「琉球王尚家伝来品」として指定された。

141伝教大師請来目録_延暦寺

伝教大師最澄は、延暦23年(804)から翌年にかけて唐に渡り、天台山・越州竜興寺などで修行に勤め、多くの経典を書写した。この目録は、最澄が明州刺史に書写した経典を日本に持ち帰るための許可を申請した書類

142弘法大師請来目録_東寺

空海が唐から持ち帰った品の目録、筆者は最澄

143尺牘(久隔帖)奈良博

尺牘は、手紙のことで、これは天台宗を開かれた伝教大師最澄の、現存する唯一の直筆のお手紙。弘仁4年(813)の日付があり、内容は、当時高雄山寺(神護寺)の弘法大師空海のもとにいた、かつての愛弟子泰範に宛てたもので、ある経典の内容を空海に聞いてほしいといいうもの。本文3行目の「大阿闍梨」が空海のこと

144聾瞽指帰_金剛峯寺

弘法大師の著作で、本巻はその自筆本である。内容は儒、道、仏三教について三人の仮托人物に論ぜしめたもので、儒教をべつ毛先生、道教を虚亡隠士、仏教は仮名乞児が語り、儒道仏三教の優劣を論じ、仏教の妙理を説いている。大師が発心出家の意を親戚知己の間に表明したものという

146灌頂歴名_神護寺

空海が密教の入門儀式である結縁灌頂を行った手控えで、弘仁三年(812)十一月、十二月、翌年三月の三回分の記録。結縁者の筆頭に最澄の名が記されているのも印象的である

147金剛般若経開題残巻_京博

弘法大師空海(774〜835)が著した『能断金剛般若波羅蜜経』(唐、義浄訳)の開題で、空海自身の筆になるものである

173後宇多天皇宸翰御手印遺告_大覚寺

後宇多天皇が元亨元年(1321年)に大覚寺が再興された経緯、大覚寺と真言密教が永く興隆をすることを願って定めた遺誡21箇条を記した書

180金剛経 張即之筆_智積院

南宋時代の書家・張即之の筆。禅に造詣が深く、 張即之の書風は禅僧の間で流行し、日本には入宋の禅僧らによって早くから伝わった。とくに大楷を得意として注目されたといわれる

181金剛経 蘭渓道隆筆_龍光院

署名はないが、書風から大覚禅師・蘭渓道隆の自筆とされる。金剛経とは鳩摩羅什が漢訳した金剛般若羅蜜経のこと

186墨蹟(諸山疏)龍光院

およそ20年間にわたり日本禅林の振興に力を注ぎ、後の五山文学(鎌倉末期〜室町時代の京都五山の禅僧の手になる漢詩文)興隆の基礎を築いた中国・元の禅僧である竺仙梵僊の墨蹟である。現存する竺仙梵僊の墨蹟中で大字・大幅であり、彼の闊達な書法を示す代表作といえる

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