2017.11.07 国宝展V

2017.11.07  国宝展V 拝見してきました。なんと70分待ち

 

今回、新規に拝見した国宝です

002両界曼荼羅_東寺

日本に伝わる両界曼荼羅のうち、もっとも著名なもの。鮮烈な色彩とインド風の濃い諸仏の官能的な肢体が特色。「西院曼荼羅」とも称する。平安初期、9世紀の作

003十二天像_西大寺1

量感のある体つきや、原色の強い彩色、大まかな文様などから、晩唐絵画の影響を受けた平安時代初期の作と推定される。我が国現存最古の十二天画像であり、十二幅が完存している点も貴重。

009不動明王像(黄不動)_曼殊院

絹本著色不動明王像(黄不動) - 滋賀・園城寺(三井寺)に秘蔵される、黄不動像(平安時代前期)を元に制作された画像の1つであり、平安時代末期、12世紀頃の制作と推定されている。京都国立博物館に寄託

010十一面観音像_奈良博

本像の特色は顔を斜め向きに表現していることと、肉身に強い隈取りが施されていることである。前者に関しては、平安時代後期の図像集『別尊雑記』に掲載されている像と合致するものの、正面向きに表されることが一般的な仏画遺品のなかにあって特異な位置を占める

021源氏物語絵巻_愛知・徳川美術館

本絵巻で現存するのは絵巻全体の一部分のみである。名古屋市の徳川美術館に絵15面・詞28面、東京都世田谷区の五島美術館に絵4面・詞9面が所蔵され、それぞれ国宝に指定されている。

022扇面法華経冊子_四天王寺

大阪市・四天王寺に伝来した装飾経の遺品。扇形に切った料紙(扇面)に絵を描いて2つに折り、折り目で貼り合わせて冊子とし、そこに法華経・無量義経・観普賢経の経典の経文を書写したものである

023平家納経_厳島神社

平安時代後期の長寛2年(1164)9月,平清盛をはじめ,子息重盛,弟経盛・教盛・頼盛など平家一門の人々が一巻ずつ結縁(けちえん)書写して厳島神社に奉納した経典群。各巻とも金銀の優美な金具で飾られた表紙に,経の大意を描いた美しい見返し絵をつけ,料紙は表裏とも金銀の切りはくをまき,野毛あるいは,あし手を散らすなど意匠をこらしてある。また,水晶の軸に金銀の装飾金具をつけ,螺鈿(らでん)をするなど当時の工芸技法の粋をつくしている。平安時代(794〜1191)に流行した装飾経の最高峰をなすものであり,大和絵(やまとえ)の史料としても貴重である。

024寝覚物語絵巻_大和文華館

菅原孝標の女の作と伝えられる『夜半の寝覚』を題材とした絵巻です。『夜半の寝覚』は、姉の夫や冷泉帝(のちに院)に愛された寝覚の上の波乱に満ちた生涯を語ります。

026金光明経_京博

この写経は、下絵のある料紙を用いて、『金光明経』4巻と『理趣経』1巻を書写したもので、平安時代後期に盛んに制作された装飾経の一例に数えられる。

036後鳥羽院像_水無瀬神宮

鎌倉時代の似絵の代表作。承久の乱に敗れた後鳥羽上皇は出家して隠岐に配流される前に、絵師藤原信実に命じて自身の出家前の肖像画を描かせたことが『吾妻鏡』に見え、その絵にあたるものという

037随身庭騎絵巻_大倉集古館

絵巻が制作されたのは鎌倉時代、13世紀の中頃である。随身は貴族が外出する際に警護にあたった近衛府の官人。今でいうボディーガード。だが、主人の安全を確保するために体を張っているだけではない。騎馬が巧みなだけではダメで、教養があり、和歌のひとつも詠め、主人の相手を務められる者が選ばれた。もうひとつ容貌はイケ面がよしとされた。この絵巻に登場する9人の随身は実在の人物。最初にでてくる3人は後白河院(1127〜1192)、次の6人は後嵯峨院(1220〜1272)につかえた。右の二人のうち力士のように太っているのが後白河院の随身。そして、左が後嵯峨院の随身の一人。この絵は肖像画の一つであるが、対象となる人物に似せて描く似絵(にせえ)の方法で描かれた。以前の肖像画の多くは理想的に描かれているのにたいし、この頃から写生風の肖像画になった。だから、似絵で描かれることを嫌がった者も当然いた。太った随身はどんな気分だったかわからないが、後白河院のころは美貌よりは腕力や武力が求められていたのかもしれない。これに較べると左の後嵯峨院の随身はなかなかいい男。垂直になるくらい後ろ立ちになった馬を眉をひそめながら、軽く手綱を絞っていなしている姿が凛々しい。が、描線を主体とした白描の手法で随身の騎乗場面を描いたこの絵巻の一番の見所は男よりは馬。後ろ足を大きくはねあげ、随身を振り落とそうとする馬、体を左右にねじっている馬、馬術競技で障害物を飛び越すときのような美しい姿で描かれた馬。見事な描写に感嘆させられる。

040伝平重盛像・伝源頼朝像・伝藤原光能像_神護寺

所有者は神護寺。伝頼朝像、伝重盛像は京都国立博物館、伝光能像は東京国立博物館にそれぞれ寄託されている。毎年5月1日から5日に開かれる神護寺の曝涼(虫干し)展では、伝頼朝像、伝重盛像の2像は神護寺に里帰りし一般公開される(有料)。伝光能像も、東博の常設展などで定期的に公開される

日本では特に、像主の強い意志と剛健さが感じられる伝源頼朝像の評価が高い。伝平重盛像は、アンドレ・マルローによって紹介されたことでヨーロッパで高評価を受けており、ルーブル美術館で展示されたこともある。伝藤原光能像は、前二像と比べると人物表現などの面で明瞭な差異がある

作者は藤原隆信と伝えられている。一見して共通性の高い像だが、研究の進展により三像には描法や裏彩色などに違いがある。画風は大和絵に宋画の手法を加味したものと評され、ひげ、眉、睫毛、髪の生え際などは細かく線を重ねる丁寧な墨描きで表現され、伝頼朝像の面部にはごく淡い朱色の隈取りをほどこして立体感を表出している。伝重盛像は面部などの画面に損傷が多く、上畳の前方のへりの文様はほとんど消失している。伝光能像は他の2像より少し遅れた時期に作られ、やや作風が劣ると評されている

042花園法皇像_京都・長福寺

延慶元年(1308年)11月、大覚寺統の後二条天皇の崩御に伴い12歳で即位。在位の前半は父の伏見上皇が、後半は兄の後伏見上皇が院政を敷いた。文保2年(1318年)2月、大覚寺統の尊治親王(後醍醐天皇)に譲位

043瓢鮎図_退蔵院

場面は小さな川が流れ込む沼のようなところ。水辺には草や竹なども描かれています。後ろには高い山があらわされていますが、まわりの景色は霧(きり)や靄(もや)にかすんでしまっていて、よくみえません。たぶん、湿度が高いのでしょう。絵の中ほどには、みすぼらしい姿をした男が立っています。顔は髭(ひげ)だらけで、なんとも異様な風体(ふうてい)ですが、もっと変なのは両手に大きな瓢箪(ひょうたん)をもっていることです。しかもその瓢箪を差し出した先には、一匹の巨大な鯰(なまず)も描かれています。いったい、この男は何をしているのでしょうか。この絵は何をあらわしているのでしょうか。ほかに例のない、実に不思議な絵です。

 例がないといえば、絵の上に施された詩の数の多さも同様でしょう。絵の上に詩を書くということは室町(むろまち)時代の水墨画(すいぼくが)ではけっして珍しいことではありませんが、ふつうどんなに多くても十数詩ほど。それに対してこの絵にはひとり一詩ずつ、全部で三十一もの詩があらわされているのです。しかも詩を書いた人たちの顔ぶれは、すべて十五世紀初め頃の京都の大禅宗寺院のトップクラスばかりです。先に述べた奇妙な図柄といい、こうした詩の多さといい、この作品がかなり特殊なものであることは容易に想像できることでしょう。

 幸い、この絵の上には詩とともに制作のいきさつを記した文章が添えられています。それによると、この作品は「瓢箪で鯰をおさえとることができるか」というテーマに基づいたものであることがわかります。発案者は室町幕府の第四代将軍の足利義持(あしかがよしもち=1386-1428)で、その命令により、絵は如拙(じょせつ)という画僧(がそう=僧でありながら絵も描く人)が描き、またその問いに対する答え(思いや感想)を禅僧たちが詩の形で書き付けたこともそこに記されています。なるほど、そういわれると、確かに先の図柄もそのようにみえますし、また将軍の命令であれば、数多くの高僧たちがこぞって参加しているのも当然のことといえましょう。

 では、本当に「瓢箪で鯰をおさえとる」ことができるのでしょうか。いやいや、そんなことができるはずはありません。たぶん発案者の義持でさえ、正しい答えが示されるとは思っていなかったでしょうし、はじめから期待もしていなかったことでしょう。むしろ義持にとっては、こういった難しいテーマを如拙や禅僧たちといっしょに考えることこそが第一の目的であり楽しみであったのです。そもそも「瓢箪で鯰をおさえとる」というテーマは「鮎魚(ねんぎょ。本来、『鮎』は鯰を意味する)竹竿(ちっかん)に上(のぼ)る」(苦労して成功するという意味)という中国のことわざを土台として、それに瓢箪を付け加えたものと考えられています。つまり、鯰や竹(絵の中に竹が描かれていたことを思い出してください)から連想される「滑(すべ)る」というイメージに、やはりツルツルした瓢箪を加えて成ったのが、先のテーマなのです。なんとも、ひとを食った問い掛けというべきでしょう。これは明らかに知的な遊びです。

 ですから、如拙にしても禅僧たちにしても、楽しみながら実に意欲的にそれぞれの仕事をこなしているようです。まず如拙においては鯰・瓢箪・竹・水流・岸辺などいずれも「滑る」を強調するように曲線的に描く一方、瓢箪をもつ男だけを直線的に滑稽(こっけい)に表現することで、巧妙(こうみょう)に男の行為の愚(おろ)かさをあらわしています。禅僧たちの方はというと、各人が勝手な想いを書き付けているようにみせながら、実は連句(れんく=一種の連想ゲーム)という高度なテクニックを使ってお互いに言葉の遊びを行っているのです。また、先のいきさつを記した文章の中に「(義持公が投げかけた問いは)たいへん深い意味がある」というくだりがあるのですが、これを真剣にとらえてはいけません。おそらくこの文を書いた禅僧は笑いをかみ殺しながらしたためたことでしょうし、これを読んだ義持はきっと腹を抱えて笑い転(ころ)げたに違いないからです。

 義持を中心とする集(つど)いがいかに自由な雰囲気(ふんいき)に満ちていたかをはっきりと物語るこの「瓢鮎図」。室町時代水墨画中の傑作(けっさく)です。

044渓陰小築図_京都・金地院

南禅寺の僧、子璞(しはく)のために、友人が子璞の心の中の書斎を描き、多くの高僧が詩と序文を書き添えて、応永20年(1413)にこの作品は成立した。室町時代の五山(ご ざん)派の禅院では、本図のように多数の漢詩文を備える掛軸(詩画軸しがじく)が盛んに制作された。本図は詩画軸の全盛期に、しかもその流行の中心地である南禅寺で作られており、詩画軸の代表作とされる。

045竹斎読書図_東博

15世紀前半、京都・南禅寺の杲(こう)という僧が所持していた山水画に、当時の著名な禅僧たちが詩や序を寄せた詩画軸。京都の妙智院に伝来した。

046水色巒光図_奈良博

この図は、一時代を画した周文が姿を消し、雪舟が育とうとしている日本水墨画界の重要な転回点を象徴する傑作である

053周茂叔愛蓮図_九博

狩野派の初代・正信による唯一の国宝であり、室町時代に京都で隆盛した東山文化の水墨画を代表する優品である。旧伊達家伝来品

055花鳥図襖_京都・聚光院

方丈障壁画 38面(附8面) - 狩野永徳とその父狩野松栄の作。聚光院創建時の永禄9年(1566年)の作とされる。同年の作とすれば永徳24歳の作である。障壁画のオリジナルは保存のため京都国立博物館に寄託され、方丈にはデジタル技術による高精度の複製が設置されている

057桜図壁貼付_智積院

金箔をふんだんに使った絢爛豪華な色彩を背景に、力強い桜の大木を描き、そして絵の具を盛り上げる手法を用い、桜の花びらの一枚一枚を大胆に表現しています。まさに花びらの中から、長谷川等伯の子・久蔵の若さ溢れる情熱が眼前に迫ってくるかのようです。久蔵が二十五歳の時の作といわれています。しかし、残念なことに久蔵はこの翌年亡くなりました

058松林図屏風_東博

桃山時代絵画を代表する一作。狩野永徳と併称される長谷川等伯の筆。水墨の濃淡のみを用い、荒々しい筆致によって一気呵成に仕上げたような画面からは、霧に包まれた松林の雰囲気が見事に表現され尽くしている。わが国水墨画を代表する遺品のひとつである

063雪松図屏風_三井記念美術館

一面の雪の中にきらめく光を照り返して屹立する松の姿を、墨と金泥と紙の白色のみで情感豊かに描きだす。松は輪郭線を用いない没骨技法をもってし、右隻には直線的で力強い老松、左隻には曲線的で柔らかい若木を配する。写生を基礎に、これを伝統的な装飾画風と融合させた平明で清新な応挙様式の代表作である。

073秋野牧牛図_京都 泉屋博古館

紅葉した大樹の陰で親子の水牛が寝そべり、また一頭が逍遥する。堂々とした構図、背景の微妙なグラデーション、牧童の衣の継ぎ目まで気をぬかない細密描写、いずれも宮廷画にふさわしい風格と叙情性をそなえている。

076鶉図_根津美術館

赤い実のなった枸杞(くこ)や穂のついた雄日芝(おひしば)が生えるなか、1羽の鶉が歩む姿を描く。鶉は、精緻な羽描きによって量感豊かに表現されている。わずかに俯瞰(ふかん)視されることで、鶉の運動感や空間の奥行きが強められている。花鳥画を得意とした南宋の画院画家・李安忠筆の伝承の由来は不明であるが、その実在感に富んだ表現は、本作品を宋代花鳥画の名品たらしめている。足利義教(よしのり)の鑑蔵印「雑華室印(ざっけしついん)」が捺されており、同じく足利将軍家に蔵され、菊を配したなかに鶉を描く別の1幅とともに対幅をなしていたことが知られる。

077林檎花図_東京・畠山記念館

団扇形の小画面に林檎の花の一枝を描いた本図は古来北宋の折枝画の名手、趙昌の作と伝えられてきた。

078出山釈迦図・雪景山水図_東博

出山釈迦図と雪景山水図は梁楷の精妙な筆を示す人物画と山水画の代表作である。出山釈迦図は、永い苦行が正しい悟りへの道でないことを知って深山を出る釈迦の姿を描いたものだが、釈迦の顔貌にみられる精細で写実的な表現は、形似をこえて釈迦の内なる心をも伝えているようで実に秀逸なものである。雪景山水図は、厳しい冬の寒さの中、雪をいただく山を背後に旅をする騎驢の人物を描いているが、自然のもつ大きさと奥深さを見事に表現している。

079観音猿鶴図_大徳寺

牧谿 作
向かって左に、竹鶴図を春のものとする五代・黄筌(?〜965)以来の六鶴図の型に属する「鶴図」、
中央に、水瓶に挿された楊柳の枝が認められ、夏を中心とした春から秋への時期に対応する北宋・李公麟(1049〜1106)の型を承ける「観音図」、
右に、母子が蕭々たる秋風のなか枯れ木に座す北宋・易元吉(?〜1064)の型を踏まえる「猿図」を配する、三連幅をなしており、「鶴図」が「鳴鶴陰に在り、其の子之に和す」という「易経」中孚の掛・九二の爻辞に該当し、観音はもとより母性の象徴であるとすれば、母子の情を表現の軸にする作品であることがわかる。さらに、秋冬の陰の気でなく、春夏の陽の気に傾いてはいるものの、春夏秋冬の四季が通常の四季山水図・四季花鳥図などとは逆に、向かって左から右へと進行する、四方四季障壁画と同一の時空構造をもつ、障壁画的性格をも備える。

牧谿
人物、・山水・龍魚・花鳥・畜獣など、中国絵画のほぼすべての分野をこなし、光や空気の再現的表現を目指す宋代絵画の伝統を継承する一方、明代中期以降、発展してゆく花卉雑画の分野においては、大胆な造形的革新に挑んだ。

週刊朝日百科  日本の国宝  小川祐充著  牧谿 「観音猿鶴図」より転載

094薬師如来坐像_仁和寺

白河天皇の皇子覚行法親王が自坊北院の本尊として造立した薬師如来像で、仏師法印円勢と長円が康和五年(一一〇三)の四月一日から五月四日まで日参し、製作に当たったことが知られる

101金銅舎利容器(金亀舎利塔)唐招提寺

鑑真和上将来の三千粒の舎利を奉加護する舎利塔で、大師過海の時、竜神が奪うところとなった舎利壺を金亀がこれを加護したとの伝説に基づいてつくられたかたちになる。源頼朝が中世舎利殿を再興した際にこの塔をつくったとも伝えられるが、亀台連座、壺請の蓮華などは極めて古式で、宝塔の透彫や軒廻り組物等も精技を凝らして荘厳し、鑑真将来の舎利をかざるにふさわしい技巧を尽くしている

110太刀銘 豊後国行平作_永青文庫

細川藤孝(幽斎)は、関ヶ原の戦で徳川方に属し、丹後田辺城において、60日にわたって西軍を引きつけて籠城した。その際に、石田三成方の兵が城を取り囲むなかで、藤孝から古今伝授の奥義を受けた烏丸光広に贈られた太刀とされ、昭和になって再び細川家の所有するところとなった。
作者の行平は、鎌倉時代初期に活躍した豊後国(大分県)の刀工で、腰元に複雑な彫り物を施し、裏に銘を刻むのが特徴である。本作には、佩表に梵字と倶利伽羅龍、裏に梵字と神像の浮き彫りが施されている。

111短刀銘 左/筑州住(太閤左文字)ふくやま美術館

初代左文字の最も代表的な出来で、地刃が健全である。相州伝の作風を示し、鍛に地景が細かに現れ、刃文は沸匂が深く、特に明るく冴えたのたれを焼き、帽子の刃文は鋭く突き上げて特色がある。地刃共に極めて明るく晴れ晴れとした名作である。

112青磁下蕪花入_東京・アルカンシエール美術財団

頸が太く胴の丸みがゆったりとして、安定感のある見事な姿である。丁寧慎重な作調、むらのない美しい釉調であり、このような青磁は類例が少ない。数ある青磁花生の中でも傑出した作である

116油滴天目_大阪市立東洋陶磁美術館

黒褐色の素地、漆黒の天目釉、器形、作風に建盞の特徴がよく現れている。内外全面に俗に油滴とよんでいる粒状の斑文が散布し、その部分だけ金属的な光沢を放っている。本碗は、雲州松平家の油滴とともに油滴の双璧とされている。結晶が大柄で、内外全面にぴっちりとある油滴が実に見事である。縁に金覆輪をめぐらし、漆の天目台を三箇伴っている

118大井戸茶碗_京都・孤篷庵

朝鮮王朝時代(15 - 16世紀)の作。「井戸茶碗」は朝鮮半島では日用雑器として作られた茶碗を日本の茶人が茶器に見たてたもの。この「喜左衛門井戸」は、井戸茶碗と称される一群の茶碗の中でも古来名品と称され、江戸時代から著名なものである。

126懸守_四天王寺

懸守は、婦女子が外出する際に頸から懸けて胸に垂らす御守である。四天王寺に伝わる懸守は、意匠がそれぞれ異なるが、同工同趣のもので、当代貴族の寄進によりものと推察されている。この種の遺品は稀有であり、当代服飾、織技等、染織史上極めて貴重である。

127古神宝類(熊野速玉大社伝来)

神宝目録などから、明徳年間に調進された神宝類が一部含まれることが分かるが、等しく室町時代の工芸各分野にわたる代表的な作例として、また類品がほとんどない貴重な品目を網羅し、その種類の豊かさと美術的価値のみならず中世風俗を伺い得る資料の集大成としても非常に意義深い一群である

128.古神宝類(阿須賀神社伝来)−京博

阿須賀神社は、熊野速玉大社の摂社である。装束、神宝、調度があり、その内容品を含めて、手箱などの調度類は殆ど目録通り完存し、御神宝中石帯や冠、袍、表袴などが目録員数通り各一口宛、さほどの損傷もなく現存していることは非常に意義深い。

133宝相華蒔絵経箱_延暦寺

唐草文様ながら流麗な筆致に富み、その構成も優れており、平安時代における代表的な蒔絵経箱である。

134梅蒔絵手箱_三嶋大社

北条政子奉納と伝える蒔絵手箱。鎌倉時代の漆工芸品を代表する優品で、入念に漆を塗り重ね、金粉を濃密に蒔きつける沃懸地(いかけじ)の技法により豪華に仕上げられています。蒔絵の基本技法(平蒔絵・研出蒔絵・高蒔絵)の完成を示す作品としても知られます。

135籬菊螺鈿蒔絵硯箱_鶴岡八幡宮

社伝によると、源頼朝公が後白河法皇より下賜されたものを、鶴岡八幡宮に奉納したとされている。鎌倉時代前期蒔絵、螺鈿の代表的作品であり、また数少ない硯箱としても貴重な品である。

137-2婚礼調度類(徳川光友夫人千代姫所用)愛知・徳川美術館

寛永十六年(一六三九)九月二十一日、三代将軍徳川家光の長女千代姫が、二歳六か月の年齢で尾張徳川家二代藩主である光友に嫁いだ際に携えた婚礼調度類の一群である。

138-3琉球国王尚家関係資料_那覇市歴史博物館

本件は尚家が代々継承してきたもので、工芸品八五点、文書・記録類一一六六点からなる。工芸品は王家での諸儀式等に用いられたものが主となり、一六世紀から一九世紀に及ぶ。工芸品のなかには王装束があり、琉球国王の王装束では唯一現存するものである。これらは琉球工芸を代表する作品が広くまとまって遺存する唯一の資料であり、琉球文化を理解するうえで貴重な伝来品であるとして、平成十四年に工芸品部門で重要文化財「琉球王尚家伝来品」として指定された。

139浄名玄論_京博

『浄名玄論』全8巻は、中国の三論宗の教学を大成した嘉祥大師吉蔵(549〜623)が著した『維摩詰所説経』(姚秦時代の鳩摩羅什訳)の綱要書である

148日本霊異記_興福寺

日本霊異記は薬師寺の僧景戒が弘仁13年(822)頃にまとめた仏教説話集。興福寺に伝わるのは全3巻の上巻のみだが、日本霊異記の最古の写本で、延喜4年(904)の本奥書に近い頃の書写とみられる。他本にない説話が4編含まれる点も貴重

149日本書紀_京博

わが国最古の勅撰の歴史書『日本書紀』の古写本。「推古天皇紀」(巻第二十二)と「皇極天皇紀」(巻第二十四)の2巻が残り、かつて岩崎家(旧三菱財閥本家)が所蔵していたことから「岩崎本」の名で呼ばれる。

150御堂関白記_京都・陽明文庫

平安時代に摂関政治の全盛期を築いた藤原道長の日記。自筆の日記としては世界最古。長徳元年(995)より治安元年(1021)までの記録が断続的に伝わる。自筆本14巻、古写本12巻が現存。寛弘六年下巻には、道長の外孫である皇子敦良(後に即位して後朱雀天皇となる)の誕生について記してい

170今昔物語集_京都大学附属図書館

『今昔物語集』はわが国最大の説話集で、その成立は十二世紀前半と考えられている。この京都大学図書館所蔵になる鈴鹿本は、現存『今昔物語集』諸写本の祖本として著明な古写本で、巻第二・五・七・九・十・十二・十七・廿七・廿九の九巻分を存する。

174真草千字文

京都の小川氏の所蔵。王羲之父子以降、南朝では南朝末の智永までさしたる書家は現れていない。智永は王羲之の7代目の子孫と言われるが生没年は明らかではないが、陳から隋へ、書家の名を欲しいままにしたようだ。30年間もの間、寺に籠もり、王羲之を習ったと言う。その間に書したのが真草千字文だ。江東の諸寺に800巻を寄進奉納し、使った筆が大籠に5杯も有ったとの言い伝えがある。王羲之の正統を受け継いだと言われる真草千字文は、真(楷書)と草(草書)の二体で書かれている。南朝特有の艶かしさ、華麗さ、優美さが垣間見られる

176漢書楊雄伝第五十七_京博

揚雄(よう ゆう、紀元前53年(宣帝の甘露元年) - 18年(王莽の天鳳五年))は、中国前漢時代末期の文人、学者。現在の四川省に当たる蜀郡成都の人。字は子雲。また楊雄とも表記する。

177宋版後漢書(慶元刊本)国立歴史民俗博物館

前漢書、後漢書各百二十巻の、南宋慶元年間(一一九五−一二〇〇)の刊本で、全巻完存する上印刷も鮮明である。昨年国宝指定の同家蔵宋版史記とも同版で、元来三部一具のものであろう。あわせて中国古代史研究の貴重なテキストである。米沢藩藩黌【はんこう】興譲館に伝来した。

178徽宗文集序_文化庁

本巻は、宋高宗(一一O七−八七)が父の文集のために自撰自書した序文である。『建炎以来繋年要録』巻百六十七によれば、『徽宗皇帝御集』百巻は高宗の命により実録院で編纂され、紹興二十四年九月十九日、太師僕射提挙の秦檜等により進呈されたという。しかし、いつしかこの御集は散逸し、現在この徽宗文集序のみが、巻首を欠失し三十二行を存する形でわずかに伝存している。本巻には紀年はないが、上記の記録から、紹興二十四年、高宗四十八歳の揮毫と考えられる。

187ポルトガル国印度副王信書_京都・妙法院

1588年(日本の天正16年)、インド半島西岸に位置するポルトガル領ゴアのインド副王ドゥアルテ・デ・メネーゼスから豊臣秀吉に宛てた外交文書。羊皮紙製で寸法は縦60.6センチメートル、横76.4センチメートル。豊臣秀吉を祀る豊国廟が破却された際、妙法院に移管された品の1つ

198金印_福岡市博物館

『漢委奴國王』と刻まれた金製鋳造のこの印は、1784年(天明4)2月23日、筑前国那珂郡志賀村叶ノ崎(福岡市東区志賀島)で農夫甚兵衛によって田の溝の修理中大石の下から発見された。金印の印面には、漢隷で「漢/委奴/國王」の3行5字の文字がほられている。

199平原方形周溝墓出土鏡_伊都国歴史博物館

本件は、福岡県前原市に所在する史跡曽根遺跡群のうち、平原遺跡の一号墓にあたる方形周溝墓からの出土品一括である。副葬品のうち、銅鏡は合計四〇面という、一遺構からの発見では他を凌駕した数量である。平原遺跡は、方形周溝墓1、円形周溝墓2、土坑墓で構成される。昭和40年(1965)、開墾中に偶然発見され発掘調査が行われた。 方形周溝墓の被葬者は女性と推測されており、『魏志倭人伝』に「世有王」(代々王あり)とあるうちの一人であると考えられている。 銅鏡40面という一遺構からの発見は他を凌駕する副葬で、我が国最大の面径(46.5cm)の内行花文鏡が含まれる。

207金銅藤原道長経筒_金峯神社

金峯山経塚からの出土品とされる。筒のまわりに刻まれた24行511字の銘文によって、寛弘4年(1007)に藤原道長が自ら書写した経巻を銅筺に納めて埋納した経緯が知られる。底に刻まれる「伴延助」は作者とみられ、在銘経筒としては最古の優品である。(高36.1p)

208金銀鍍宝相華文経箱_延暦寺

大正12年(1923)比叡山横川如法堂跡に如法塔を再建するための基礎工事にかかったところ、出土した経箱。銅鍛製金銀鍍金で、角丸長方形の印籠蓋造。蓋の上面と側面に宝相華唐草文を毛彫であらわし、全体を鍍銀、宝相華の文様は鍍金とし、上面中央に「妙法蓮華経」の五文字を線刻している。 

20171105 正倉院展    20171107 国宝展3    20171107 二条城