アンネフランク一考。

(最初に断っておくが、 日記についての詳細な内容や歴史的背景については、 ここでは触れない。
 あくまでも、 この日記を読んで自分が思ったことをしるしたものである。)

アンネフランクについては、 誰もが小学生頃に教科書や児童書などを通じて知ってはいる。
2年もの間、 ずっと息を殺してナチスのユダヤ人狩りの手から逃れようと隠れ家に住んでいた一家の
末娘である。 

実は、小学生の頃、 (まだまだ無知であった頃である) 同学年ではアイドル的存在だった子が、 
読書感想文で「アンネの日記」を取り上げた。 ガキながらも当時その子にちょっとした思いを
よせていたのだろうか、 内容やその主人公、アンネ自身の事など詳細は記憶していないものの、 
その子のおかげで「アンネの日記」という本が存在し、人物の名前についてもはっきり記憶している。
そして、 生理用品にアンネという名前があった事も記憶しているが、 生理用品=汚物というイメ−ジが
自分の脳裏にあって、 はっきり言って、主人公のアンネ自身について良いイメ−ジを持っていなかった
ことは確かである。 
そして、 それ以降、 その本の事や主人公のアンネ自身の事など、 自分の記憶からは抹殺されて行った。

その後、 自分にアンネが復活するのは、 会社から海外へ駐在することになってからの事である。 
日記を読んだ人や関心のある人なら、その駐在した場所が判ると思うが、 それはオランダで、
鎖国の時代、 唯一徳川幕府が貿易をしていた国である。 シ−ボルトが来日して日本に西洋医学を
伝え、以降、 蘭学が一世風靡したのは周知の如く。 (因みに、 シ−ボルトはオランダ人ではなく、 
ドイツ人である。シ-ボルトについては、 今後何らかの形で稿を起こすつもり。)

さて、オランダに赴任することになったものの、出張とかで会社の役員さん始めお客さんが、 
今後大勢お見えになることは明白である。 仕事もあるだろうが、半分は観光気分で来られる輩も
多いのは明白である。
そうなると、 いろいろ名所旧跡を案内しなければならない。 (駐在員の仕事半分は観光ガイドなのだ。)
実は、当初、アンネフランク一家が隠れ家として住んでいた家がアムステルダムにあるとは知らなかった。
だから、まず、風車の見える所と、大堤防、季節は限られるがチュ-リップが咲き乱れる公園を案内
できるよう道路地図を広げ、車で連れて行けるようにした。 (このあたりについては、”オランダ駐在日記”
参照。)  この時にも、 アンネの事など全く脳裏に浮かばない頃であった。
会社関係の大抵のお客さんはというと、オランダは”立ち寄り”のケ−スが多く、 滞在日数は1〜2日程度。
従って、 観光スポットは上に挙げた場所で十分であった。 (あと、日本食レストランと、夜のコ−スを
加えれば。。。因みに、 筆者は、 ただ連れて行っただけですよ。) 
普通はこれで十分である。 滞在日数も少ないし。。。 しかしながら、同じところをワンパタ−ンで何度も
繰り返して行くのにはいい加減、疲れるものであり、自分自身飽きてくる。  違う所を!と、日本から
持ってきたガイドブックを読み漁る。 そこで、ふ〜ん、アンネフランク(苗字がフランクっていうのは、 
その時初めて知ったのであるが。)の家って、アムスにあるのか。 まあ、今度時間があったら、 
話の種にでも行って見るか。 という程度で考えていた。 

そして、その時がやってくる。 イギリスに長期出張しているヤツが、オランダの方にも来ることになった。
駐在員としては、観光案内も大切なので、いつも通り案内する予定であるのだが、 ヤツがいうには、
アンネフランクの家へ行ってみたい。 と言う。 しゃべり方が、クソ生意気で、気に入らないので
あったが、一度自分自身も行ってみるつもりであったこともあり、出かけることした。
場所を地図帳で調べ、車を付近に路上駐車するもはっきりと場所は判らない。 そこで、通りすがりの人に
道を聞いたところ、すぐにわかった。 なるほど、人が沢山並んでいる。 
どれくらいの時間をまったであろうか。 入り口から階段を上がると、正面に大きな本棚がある。
実は、この本棚が回転式になっていて、そこから入るという仕組みだ。 つまり、二階には入れないという
カモフラ−ジュの役割をしている。 上に上がると数室部屋はあるが、それが二家族+1、総勢8人(フランク
一家4人、ファンダ−ン一家3人、歯医者のデュッセル氏の計8名)が住むにはあまりにも少ない部屋であり、
小さすぎる。 アンネが居た部屋には、アンネ自身が貼ったと思われる映画スタ−のブロマイドなどが
そのままの状態で保存されている。 2年もの間、総勢8人が窮屈に息を潜めて住んでいた。 

当時は、ナチスドイツの台頭により、その影響を受け、国境をドイツと接しているオランダはあっという間に
占領された。 オランダは正式国名、 ネ−デルランド(英語では、 The Netherlands。 Hollandではない。
Hollandというのは、オランダの一州。)で、低い土地を表す。 その名の通り、山が無い。 
自然の防御である山が無いという事は敵の侵入を容易にする。 オランダは、 あっという間に
占領されてしまったのである。

フランク一家は、ナチスの追っ手を避けてドイツからオランダのアムステルダムに移ってきたのであったが、 
そこもナチスが占領下に置かれてしまった。 ナチスはユダヤ人狩りを行うに当たり、一つの手段として、 
密告者に対して報酬を与えた。 フランク一家は父が経営していた商店の3, 4階を隠れ家として住んでいた。 
従って、昼間は商売をしている関係で、協力者であった一部の従業員を除き, 上に人が住んでいるという事は
知らなかった。 否、知られてはいけないことであった。 誰かにでも知られたら, そのことを密告される恐れが
ある。 つまり、 隠れ家の露見 → 密告 → 死を意味する。  
想像して頂きたい。 隠れ住んでいる事を秘密にしなければならないということは、つまり、外出は出来ない。
否、それだけではなく、音を立ててはいけないという事。 音を立てないという事はつまり、話が出来ない。
容易に動いてはいけない。 トイレにも行けない、等。 日中はずっと息を殺して生活する事を余儀なくされる
という事である。 ”息を殺して。。。” というのは、本当にぴったりの表現ではないかと思う。 
外部との接触を一切断ち切るというのは、 どんなにつらいことであろう。 
しかし、こんな環境の中でも少なからず楽しみもあった。 数人の協力者の差し入れや、夜聴くラジオ放送で
戦局の行方が連合軍側に有利になって来ている事である。 連合軍によるユダヤ人の早期解放を
期待していた。

アンネが隠れ家に過ごしたのは、彼女が13歳〜15歳である。 丁度日本では中学生であり、一番多感な頃
である。 振り返ってみると、中学生の頃の自分は、日記はおろか作文なんてものは、一切合切書いた
記憶などない。 翻訳の妙もあるだろうが、アンネの文書力は優れたものだと思うし、観察力はすごいものだと
思う。 特に隠れ家の住民の人の考え方を見抜き、大人を手玉にとっているようである。 それに口が達者で
あるものだから、さぞかし他の住民、たとえば歯科医のデュッセル氏にとっては、”クソ生意気な小娘”
であった事であろう。 日記の最初を読むと(まだ、隠れ家に引っ越す前) アンネ像が浮かんでくる。
授業中、おしゃべりを止めない彼女に先生は罰として作文を書かせる。 しかし、彼女はそのおしゃべりを
正当化するような内容の作文を作り、逆に先生を丸め込んでしまう。 ここで丸め込まれた先生の取った
態度はどうであっただろう?

 @堪忍袋の緒が切れてアンネを怒鳴った。
 A自分の負けだと考え、 他の授業でこのことを話の種にした。

さて、 あなたが先生であったら、 どちらの態度をとるであろうか?
実際、 その先生が取った態度はAである。 子供だからと思って、 自分の気に入らないとすぐに怒ったり、
行く末は暴力沙汰になったりするものだが(特に今の日本にこのケ−スがおおすぎないか。)、 その先生は
素直に”負け”を認めたのであろう。 そして、 アンネの作文力を高く評価したに違いない。 

アンネにとっては、 父親のオット−だけがよき理解者であったようだ。 母親も、彼女の理想としている
母親像からは、遠く離れた存在であったようだ。
姉のマルゴットは、アンネにとっては「大人に好かれる良い子ぶった姉」であった。
また、歯科医のデュッセル氏や、もう一つの家族の母親、ファンダ−ンおばさんは、目の仇であったようで、
アンネからすると「馬鹿な大人」であったことであろう。 アンネのすばらしい観察力と、雄弁さに
おいて隠れ家の同居人にとってアンネは、本当に生意気だと写ったに違いない。

だが、共同生活を送るということは、いくら親しい間柄といえども、いろんな障害が生じるものである。
この二家族、+ 一人のわがまま歯医者の間でさまざまな揉め事が起きてくる。 個人のエゴがいかんなく
発揮されてくるのである。 
しかし、 これらの障害は平穏(と、 いえども昼間は息を殺して過ごしていたのであるが。)な状態だったから
出来たことである。 やがて隠れ家の生活も、 約2年間で終止符を打つこととなり、 日記も作者を失う。

その日、 密告(多分、 倉庫番の一人だと言われている)により、 ゲシュタボが隠れ家を急襲する。
1944年8月4日のことであった。 その頃、 すでに連合国側のノルマンディ−上陸が行われており、 
戦局は、ドイツが不利な状態になっていた。 すでにイタリアは破れ、旧ソビエトのスタ−リングラ−ドを
ソ連に奪回されていた。 一家はドイツから禁止されていたドイツ語以外のラジオ放送に耳を傾け、
連合国側の勝利を今か今かと待っていた。 やっと隠れ家より出られると思っていた矢先のことであった。

結局、一家は男女別々にされ、アンネ、姉のマルゴット、母親、ファンダ−ン夫人はアウシュビッツに
送られた。収容所への移送する貨車は、オランダからの輸送では最後であった。
その後、母親をアウシュビッツに残し、姉妹はベルゼンへ移送され、当時流行していたチフスで姉が
亡くなった後、すぐにアンネも息を引き取った。 まだ16歳にもなっていなかった。 

アンネが亡くなってわずか2ヵ月後に戦争は終わった。 ほんのわずかなタイミングだった。
密告がもう少し遅ければ。。。
戦争がもう少し早く終わっていれば。。。
彼女がもう少し頑張ってさえいれば。。。


日記については、我々は小さいときから話題に取り上げられている事もあり、「ナチスによって犠牲に
なったユダヤ人」というイメ−ジがある。 そういった先入観から人種差別、戦争といった”悪”に対する
怒りがテーマとなっていると受け取りがちであるが、もう一歩踏み込んで客観的に見るならば、
アンネという一人の女子中学生の文章力と鋭い観察力に驚かされつつ、子育てのヒントを与えて
くれているようにも見える。 

アンネは隠れ家の住民を自分の母親も含めて大人を馬鹿にしていた。大人の考え方を
見透かしていて、弁も立つものだから、先ほど述べたように「生意気な小娘」であった事であろう。
「生意気な小娘」であったが故に大人からは「子供のくせに」と、うるさがられるが、どうみても、アンネの
勝ちである。 大人であるが故に「子供だから」、「子供のくせに」といって接すると逆に子供から反感を
買うものだ。 子供に負けるということは、 大人としては屈辱ではある。 そして、 ”子供のくせに。。。” 
と思いがちであり、そのことが癪に障る為に怒鳴ったり、行く末は暴力沙汰に迄及ぶ。 
しかし、前に述べた先生の様に、子供の持っている才能を見極め、 正当に評価し、その子供の
もっている才能、 能力をあげるようとするのが大人の仕事だと思うのであるが、 
このことを理解していない大人の何と多いことか。


アンネの希望は、死んでからもなお生き続ける事であった。 日記を残したことで、そのことは現実のもの
となった。。




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