オランダ駐在記

オランダに約2年間駐在した。自分にとってはスペイン留学に続いて2度目の海外生活である。
当時は、勤務先の会社も余り海外の拠点はなく、人材も乏しかったのであろうか?
海外の生産拠点ともなるとかなりの日本人が必要となり、同じ言葉で話せる人間が同じ場所で
働いているので結構心強いものなのであるが、駐在員事務所は一人であり、一人で欧州中を駆け
回らないといけない。 留学経験があり、ある程度英語の能力があるから自分が選ばれたのか
本当の理由は知る由も無いが、恐らくそんなところであろう。

ここでは、オランダについて詳しくは述べない。 あくまでも同地に滞在した記録を、
少々の観光スポットと歴史を交えて記したものである。

 
「1]青天の霹靂
「海外事業部が君を戻したい。と言っている。 聞いているところによると、勤務先は海外で
オランダらしい。」 当時の営業所所長からこのような話があった。

当時勤務していた会社にオランダ駐在員事務所ができたのは、その話があった4,5年前のことで、
初代の所長になる人を盛大に見送ったものであった。 まさか自分がその後釜となるなんてまさに
「青天の霹靂」というしかなかった。
 

とりあえず、営業所関係の取引先に挨拶を済ませ、本社に戻ったが、すぐに前任者との引き継ぎの
為に出張することとなった。 ちょうど7月末のことであった。

オランダには、 一度業務で訪問しており、 事務所へも行ったことがあった。 
アムステルダム市のほぼ中心にあり、アムステル川沿いの立派なビルにある。 さて、初代所長
との業務引継ぎが始まった。

取り敢えず取引先との挨拶が先決なので、挨拶回りが始まった。 この事務所のテリトリ−は
欧州全範囲になるので、 実に大変だ。当時の取引先でもオランダ以外には、ベルギ−、ドイツ、
スペイン、イギリスとあり、客先全て廻るだけでかなりの時間を費やしてしまった。 
従って事務所関係のペ−パ−ワ−クなんぞなんら引き継ぎをせずのままで出張を終えた。 
初代所長も日本へ帰れる喜びがありありで、 後任者の事など頭にないのか、 引継ぎは
客先廻りで終わりと思っているようであった。 そして、残りのペ−パ−ワ−クをせっせと
こなすのであった。 後任者の事など考えずに。。。
「その他の仕事はどうなるんだよう。。。事務所経費の帳簿のつけ方は? 観光も重要だから、
名所、旧跡は? そこへはどうやって行けばいいの? オランダという国はどんな国? 税制や
労務関係の法律は?」等、教えることは沢山あるはずなのに全く他人のことは意に介さないので
ある。

客先回りでも、気が利く人間であれば、そこまでの道を教えるものだが、(例えば、ここは間違え
やすいから○○を目印にして。。。とか説明してくれるよね。) そんなこと一切言わない。
ただ、そこへ連れて行くだけなのだ。 日本サイドでの夏休みを間近に控え、本人はその前に
帰国して夏休みを取ろうと必死なのだ。こんなことでやっていけるのか不安を覚えながら、
帰国の途についたのであった。

正式赴任日は夏休み明け直ぐと決定した。 しかし、ここで嫌な情報が。。。なんと、 当時の
常務が欧州視察に出かけてオランダにも立ち寄るとの事。 え−!その日は赴任して2日後
じゃないの! 何処をどう案内すればいいの?ちょっと、対応が悪ければ文句言われるし、
そうなると社内中に悪いうわさになるし、挙句の果てには人事評価まで悪くなる。 
なんてこったい! と、気が重いままに夏休みを過ごすことに。。。

休み期間中に親族、友人達に挨拶を済ませて、あっという間に休みが過ぎ去った。

 [2]常務の来蘭
正式赴任の日が来た。 成田からアムステルダム迄まだ直行は無かった。 ソビエト連邦がまだ
崩壊する前だったので、ソ連上空を飛ぶことができず、アンカレッジ経由だった。取り敢えず、
常務の日程をみると午後アムス入りして、ここで一泊して午前中に移動することになっていた
ので、一応こちらのアテンドは、夕食と空港までの見送りをすればいい事だと判明。幾分気が楽
になった。だったら取り敢えず夜に日本食を食べる所を案内すればいいか。と、思ったが、
宿泊するのはホテルオ−クラだし、ホテル内の日本食レストランへ連れて行くのも異国情緒を
感じさせないことになってしまう。 と、考えてちょっと歩いてもらって大衆的な日本食
レストランに行くこととした。でも、道順がわからないから事前にガイドブックの地図を見て
自分の足で歩いて探すこととした。
そして、当日はホテルで待ち合わせ、レストランまで
ウインド−ショッピングも兼ねてせっせと歩いて、翌日空港までお見送りして取り敢えず難なく
駐在員としての役割を果たした。

しかし、こういう事って、これからも続くのでは? と考え、週末は観光スポットを案内できる様に
ガイドブックと道路地図を片手に走り回ることにした。

 [3]オランダ観光スポット
観光スポットについてはガイドブックに書かれているので詳細は記さない。
 

(ザーンセスカンス)
オランダといえば風車。 風車が見れる所がアムス市内
から比較的近くにある。ザ−ンセスカンスと、言う所
である。ここには風車と細長いオランダ独特の家屋が
立ち並ぶ。 風車の一つには中に入ることが出来、
実際に粉引きの場面が見ることができる。 この一角は
沼とそれに面して運河が張りめぐらされており、
運河沿いに歩道があって、散策することができる。 
鴨とかの水鳥がいっぱいいて、我々の眼を楽しませて
くれる。ザ−ンセスカンスは、長崎オランダ村の
モデルともなっている場所で、アムステルダムからは
比較的短時間で行け、オランダの雰囲気を楽しめる
良い環境スポットだ。
 

でも、通算して何回ここへ行ったであろう? 


(大堤防)

アムステルダムから65km程、北に行ったところにある。 全長32kmのこの堤防は、北海を遮断
したもので、陸地側はアイセル湖となって、干拓が進んでいる。 つまりアムステルダムから
向かって左手側が北海(海水)であり、右手側がアイセル湖(淡水)となっている。 1927年
から約
5年かけて作ったこの大堤防により海水が完全に遮断され、だんだんと陸地にされていった。
「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人自身で作った。」これは、オランダ人が干拓により
領土を広げていったオランダ人の自負からきているのであろう。実際オランダ全領土の約
1/4
干拓
によってできた土地である。

(アンネフランクの家)
アンネフランクについては、“徒然なるままに”→“アンネフランク一考”を参照方。

(キュ−ケンホフ公園)
毎年、
3月末から5月初にかけてチュ−リップが満開となる。 
このキュ−ケンホフには、さまざまな
種類のチュ−リップ(約10万株、4000種類)が
植えられており実に壮観である。 

また、近郊の畑にも色とりどりのチュ−リップが栽培されており、公園の外も我々の眼を楽しませて
くれる。 時期が限られているだけにこの期間に出張した人は「実にラッキ−ですね。」と、
よく言ったものだった。 この期間、欧州各地からバスを連ねて多くの人がこの公園の
チュ−リップを見に観光でやってくる。

(飾り窓)
アムステルダムの名所の一つ。と言っていいのだろうか? 中央駅から程近い運河沿いにある
この一角には、窓のカ−テンを開け下着姿のさまざまな人種の女が立っている。 
白、黒、黄色。。。中のランプの色もそれぞれ工夫している。理由はわからない。 自分を綺麗に
見せようとする工夫なのか?カーテンが閉まっている窓は「今、営業中」という事になる。

この辺りには、飾り窓だけではなくて、怪しい店も立ち並ぶ。ストリップ劇場、ポルノショップ
(日本では公にできない画像が堂々とショ−ウインド−に展示されている。)などなど。 
そして、辺りに充満する或る独特の臭い。 それは、マリファナである。 ここは麻薬が合法で
あり、マリファナ栽培キットなるものも販売されている。 またこの場所は観光スポットでもある
ことから、人通りが非常に多くて、観光シ−ズンに行くと不思議と怖いという感覚はない。 
以前、何かのテレビ番組でオランダの麻薬について特集が組まれてあったが、その中でなんと
アムステルダムの市役所の職員が、中毒患者に薬と注射器を無償で配布しているシ−ンがあった。
番組の説明では、薬は比較的軽いもので、普段中毒患者が使用しているものは強いので、それなら
軽いものを使った方がまだましだ。という事らしい。注射器も使いまわすとエイズ等の感染の
危険性があるので、これも無償で配布している。何にでも受け入れる体制ができている。。。
これがオランダ流。と言ってしまえば、そうなのであるが、何かにつけて役人の力を誇示し、
「前例が無い。」といって、頭から目新しい事を拒否するお堅い国とは随分違いがあるように
思えてならない。

オランダには資源がなにもない。従って、立地条件の良さを生かして昔から中継貿易で成り立って
いた。故に、海外のものを積極的に取り入れるという文化がある。海外へ積極的に進出し、潤って
きたのである。ロッテルダムの港は世界一の貨物の取扱量を誇っているし、アムスのスキポ−ル
空港は実に機能的であり、まさにヨ−ロッパの玄関口なのである。


(国立美術館)
オランダの有名な画家といえば、ゴッホ、レンブラント、フェルメ−ルであろうか。
ゴッホの絵は別に彼の博物館にある為に、彼の作品はここにはないが、レンブラントの代表作品で
ある、“夜警”が飾られている。 駐在中に一度、この“夜警”が見れない時期があった。
ちょっといかれたヤツが、この絵に何かの薬品を投げつけたそうで、その修復の期間見れなかった
のである。 会社の上役にもなると、結構、芸術について“知ったかぶり”をする人が多くて、
よくここへ連れてきたものである。
 

(ゴッホ博物館)
ラッキ−な事に、駐在中ゴッホ生誕100周年記念として、世界中に散らばっているゴッホの絵が
ここにその記念行事期間中に集結した。 全然無知であったのだが、バブルの時期に日本の或る
企業が購入した事で有名になった例の“ひまわり”であるが、ゴッホは一枚だけでなく、沢山の
“ひまわり”を描いているのですね。 当時の専務が、来蘭された時、ラッキ−な事にこの記念
行事期間に来られたものだから、そこへ案内した所、随分と喜んでいただいた。日本へ帰国した後
の土産話にも、ここへ来たことを随分と自慢されていたそうだ。 
でも、専務!忘れないでくださいね。ご自分一人で行ったのではなく、私がお連れした事を。 
そして、入館のチケットを取るのに随分と苦労した事も。

(レイデン市とシ−ボルト)
アムステルダムから南西30kmのところに位置しているこの都市は、日本と所縁がある。
日本に西洋医学を持ち込み、蘭学という当時一世風靡した学問の源となった、かのシ−ボルトが
日本から帰国し最初に住んだ市である(その家も保存されており、日本語による案内板がかかって
いる)。 ここはスペインの占領下にあった16世紀、オレンジ公ウイリアムを中心に市民総出で
戦い、当時精鋭のスペイン軍を破った事で知られる。その事を記念して設立されたのがレイデン
大学であり、オランダで唯一の日本語学科がある大学である。 この大学の植物園では、
シ−ボルトが日本から持って帰ったとされる樹木が植えられており、それらを紹介する案内板には
日本語による説明もされている。
また、国立民族博物館には、シ−ボルトが日本より持ち帰った珍しい品々が展示されている。

以上が、お客さんが来た時にお連れするコ−スと設定した。 他にも名所旧跡等があるが、出張者は
決まって短期間だし、これくらいで十分だと思った次第である。

[4]名誉顧問の来蘭
当社の親会社専務、当社社長、会長、名誉顧問となった人が来ることになった。一応リタイアは
されているが、会社にはまだまだ発言権のある御仁である。本社の所属部署長よりその旨連絡が
あり、ご希望は上に既に記したが、レイデンの国立民族博物館の訪問がご希望との事である。
ただし、「可能であるならば。。。」との注釈付きで。まあ、「悪いけれど、連れて行ってくれ!」
と言うことである。早い話が。と、言う事でそれまでは一度もレイデンを訪問した事が無かった
為に、下見をして(目的地までの道のりを迷ったりする事なしに、失礼にならない様に。 
これを期待されているので、期待はずれになると、何を言われるか判らない。 つくづく駐在員は
大変な仕事だと思う。)スケジュ−ルを組む事とした。

取り敢えず国立民族博物館とレイデン大学の場所を確認した。 あまり大きな市ではなく、観光
スポットも少ないことから、これら2〜3箇所廻る位なら半日あれば十分だ。さて、来蘭の日、
まずアムステルダム中央駅へお出迎えに行く。娘さん(といっても、勿論私よりもずっと年上で
ある。)が付き添いで来られていた。 ます、ホテルオ−クラへチェックインし、その後、
国立美術館を案内する。レンブラントの“夜警”に痛く関心された様子であった。夜には湖畔に
ある日本食レストランをご案内し、次の日にレイデン市を訪問した。


しかしながら、なんと残念なことにお目当てだった、国立民族博物館の日本コ−ナ−は工事中で
見れなかったのである。かなり落胆されたご様子であった。 その後、気を取り直してレイデン
大学を見学。付属の植物園には、シ−ボルトが日本から持ち帰った木々が立派に立ちそびえている。
また、途中、シ−ボルトが日本より帰国した時に住んだ家が残っており、その家の前で記念撮影して
レイデン市を後にし、アムステルダム中央駅よりドイツへ向かわれたのであった。

数日後、感謝の意を込めて、ドイツから絵葉書が送られてきた。随分、マメな御仁だと感心して
いたら日本へ帰国後、またすぐにその時撮った写真と手紙を添えて送られてきた。なんという
ことだろう。
あんな立派な地位を取られた方から、私の様な一平社員にこのような事をされるなんて、夢にも
思っていなかった。恐縮の至りである。 やはり、トップの地位を取られた方は、下の人間に迄
心使いがあるのだ。そういう方であるから、慕われるのであろう。 ある所迄の地位に登り
つめると、随分横柄な人間になってしまいがちであるが、この方にはそんな態度は全然見ら
れない。 オランダ滞在中は、終始やさしい穏やかなお顔をされていた。


 [5]専務の来蘭と栄光のルマン24時間耐久レ−ス
 
(クイーン様ご一行とベルサイユにて)
勤務先はカーレースのスポンサーをしている事もあって、
興味のある人々には結構知られている会社である。 
当時ルマンに出る自動車のスポンサーをしている事もあって、
会社から役員を始め数名の担当者がこのあまりにも有名な
レースを視察する事となった。 
ルマンはフランスにあるのだが、フランスはユーラシア
大陸であることから、大陸全ての担当である我がオランダ
事務所がこのルマン視察御一行様の受け入れ窓口と
なるのであった。正直言って、フランスは余り詳しくは
無い。駐在の前に一度だけ出張でパリに行っただけ
である。 
しかし、この視察団代表として専務が来られるとの由。 
それとスポンサーをしている車のレーシングクイーン三名も
御参加されるのだ。 取りあえず本社から日程をもらう。 


オランダにまず専務と付き添いが入り、クイーン様御一行は本社からの出張者とすぐルマンに入るとの事で
あった。 

が、ルマンでの準備期間中は、クイーン様も自慢のお仕事が無いので、専務チームがオランダで一仕事
終えてからパリで一緒に合流するとの予定が組まれていた。

この日程を得て、オランダでの客先廻りと、パリの案内とルマン迄の案内が重要な業務となった。
オランダ国内での客先廻りは、アポを取って食事のセッティングをすればいいのであるが、問題はパリである。
実は一度行った事はあったが、案内となるとまだまだ不安が残るので、取りあえず予約してあるホテル名を
教えてもらい、周辺の散策の必要性があると認識した為、週末を利用して、事前に専務御一行が予約してある
ホテルと同じホテルに宿泊し、周辺を歩き回る事にした。 勿論、アムスからは車で行く事にした。 
所要時間は、約5時間である。ベルギーを縦断してフランスに入るが、実にあっという間にフランスに入る。 
距離的に言えば、東京から京都位か? チェックインして直ぐに散策に行く。歩いていける距離に日本食
レストランが結構在る事が判明。 ついでにオルセー美術館とルーブル博物館そしてエッフェル塔を
訪問した。
しかし、専務御一行様の日程は丸一日あるものの、お昼前にクイーン様御一行が合流する事に
なっていたので、ホテルの近くの日本食レストランで昼食を取り、その後直ぐにベルサイユ宮殿を訪問し、
その近辺で夕食を取った後、ルマンへ向かう予定を立てた。


アムスに着いた専務一行を出迎え、客先関係と夕食を取った。 そして翌日はパリヘ向いそこで一泊して
翌日の夜にルマンへ入る事になっている。

パリには、お昼近くに着いた。 シャンゼリゼ通りを中心に散策する。 昼近くになり、お腹も空いてきたので、 
昼食を取る事に。。。 歩いていると、実においしそうな海産物のレストランを発見。 生カキなど新鮮な海の幸を
堪能できた。


そして、夜は専務のリクエストでキャバレーに行く事に。 なんでも以前“セクシー”という所に行った事が
あるそうで、そこが御所望であったので、ホテルのコンシェルジェに聞くと名前が変わっているらしい。 
取りあえず、そこに予約して出かける事に。おいしい食事と酒、そして歌と踊りとマジックショーに堪能し、
実に楽しい一時を過ごせる事ができた。

翌日、午前中にクイ−ン様御一行が合流。 お昼には多分日本食が食べたいという希望があると思って
いたので、事前に日本レストラン調査しておいた。 案の定、期待通りの要望がでた故、
そこで昼食を取り、その後にベルサイユ宮殿に向かった。
 

夕食には、幸い、ベルサイユ近郊でミシュランのガイドブックで捜した良いレストランが予約が取れていたので
そこに向かった。 場所ははっきり判らなかったが、少し歩き回っているとすぐに発見できた。

御存知の通り、南欧の夕食が始まるのは9時や10時頃と実に遅い。 取りあえず開店と同時にすぐに食事を
取れる様に予約をしておいたのだが、しかし、一番に入ったとはいえ、食事はスローに展開する。 
イセエビやシャブリ等でおいしい食事とワインに堪能したが、結局、フルコースが終了したのは
11時頃であった。
ルマンまでは、かなりの距離がある。 ホテルで借りたレンタカーとルマン先行組の車の2台に分乗し、ルマンに
向かったが、ちょっと道に迷ってしまった事もあり、結局現地に到着したのは日付けが変わった2時頃だった。

毎年、6月に開催されてるレースは、年に一度のお祭りでもあり、現地の人々はおろかヨーロッパ中から
キャンピングカーなどで大勢の人が集まってくる。 


レースが始まったのは、午後4時。 我が社がスポンサーしている車は予選3位と好位置をキープしている。 
ドライバーは星野一義を始め全て日本人で占められている。我々は、スポンサーなので、実に待遇が良い。 
丁度ピットの真上の所で、くつろぎながらレース観戦。 我が車は順位を入れ替えながらも、良い位置をキープ
している。


しかし、マツダのロータリーエンジンを積んだ車の喧しい事と言ったら。。。ビデオ録画していたが、この騒音で
画面が歪む。

ルマンは内陸であることもあり、日中は暑かったのであるが、夜が深けてくるにつれて、温度が急激に
下がってくる。 
観戦していた人々も夜が深けてくるに伴い、その数が少なくなってくる。 夜通し観戦しようと思っていたが、
やはり気疲れと寒さに耐えられなくなってしまい、ホテルへ戻った。翌日、順位を気にしながらレースを再び
観戦する。 
良かった!わが社がスポンサーしている車はまだ走り続けている。 その他のワークスチームの
2台は、残念ながらリタイアしてしまった。 結局、五位で入賞。 星野さんの所へ向かい、
労いの言葉をかけ、握手してルマンを離れた。 パリのホテルで借りたレンタカーで専務一行を
ドゴール空港迄見送り、そのままアムステルダムの家へ帰った。 実に心身ともに疲れた出張で
あった。


 [6]社長の来蘭
社長が来られることになった。 とりあえず、客先訪問と当社の工場の視察が目的である。
しかし、銀行や保険会社から社長のオランダ訪問についての問い合わせが随分と多い。
そのおかげで、滞在ホテルの部屋には随分とお花を提供して頂いた。

実は、社長の訪問は専務や名誉会長の時のようにここでは記すことは余り無い。。なぜなら、
客先や工場の訪問だけが目的であり、前者二人の時のようにビジネス以外のものがなかった
からである。 

ただ、社長訪問で一つ後日談がある。 当時、旧ソビエト崩壊前であり、欧州路線はすべて
アンカレッジ経由であったが、社長の日本帰国時にアラスカで火山が爆発し、搭乗していた
KLMの飛行機が火山灰を吸ってしまい、エンジン4機がストップしてしまって、数百メ−トルの
距離を落下したらしいのだ。なんとか
1機のエンジンが動いてアンカレッジに着陸はしたものの、
結局は
後でアンカレッジに到着したサベナの飛行機に乗り換えて東京へ帰ったとの事であった。
工場のオランダ人からこの事を電話で聞き、早速本社へ随行していた人に聞いたところ、
「もう、駄目だ。」と、思ったらしい。 尚、この話を聞いて、「残念!惜しかったなあ。」と
言った口の悪い輩がいた事も付け加えておきたい。  

 [7] そして、スペインへ
会社が、バルセロナ近郊に工場を設立することになった。 勿論、プロジェクトメンバ−にも
選ばれた。
会社は単独での進出を希望していたのであるが、メインの顧客側からの強い要請もあり、
ドイツの会社との合弁で進める事となった。 そんな訳で相手先のあるシュツットガルトへ良く
出張した。 
ミ−ティングは当初から和やかな雰囲気の中で進んでいたが、会合が数を数えるようになって
から、様子がおかしくなってきた。 何故か、約束事が守られておらず、調査内容も実に不十分
なのである。
第一回目で調査依頼した内容が全然調査されていない。 更に、数値もかなり出鱈目であった。
スペインの客先側の窓口としての立場にあったので、実に歯がゆかったのであるが、相手側の
対応のまずさを説明し、是非単独進出をさせて欲しい。と依頼した。 そして、日本の
本社サイド同士での交渉で、単独進出が決まった。

そこからは、会社の動きが実に早かった。 まず、拠点を置く為にマンション兼事務所を
借りることにした。
そこにファックスをレンタルし、暫くオランダからここに住むことになった。 
幸いオランダには駐在員が補充される事になったので、同地での業務はあまり気にする必要は
無くなった。 その間、工場の場所探しに追われた。
目をつけてあった所を仲介している不動産屋に電話をかけまくり、建屋の中を見せることと賃貸
の条件などについて交渉。 その他、スペイン国政府機関の企業誘致担当局との折衝や、
カタロニア州との折衝に追われた。
しかし、これまでレンタカ−を借りて移動していたのであるが、やはり無理があるのでオランダ
から車を持ってくる事にした。 オランダ事務所には車が2台あるために、その一台をバルセロナ
まで持って行くのである。 勿論、自分が一人で持っていくのであるが。 アムステルダムから
バルセロナまでは、その距離は約1,700Kmはあるだろうか。 ベルギーからフランスを南北を縦に
横断するのである。 
朝6時に出発。前日の夜に作っておいたサンドイッチと、ハイネケンのビ−ルを積み込む。 
途中、ガソリン補給と食事のために車を止めたが、ほとんど、ノンストップ状態で走りに走った。
所要時間は約17時間。と言うことは時速100Km/hで走っていたことになる。 
しかし、バルセロナ到着直前から、どうも力が抜けてへなへな状態になってしまい、ビ−ル片手に
運転していたことも、付け加えておく。

かつて、留学していたスペインで継続して仕事ができるか。と期待していたが、残念ながら
帰国命令が来た。駐在業務はこの地で幕を閉じることになった。 時にバルセロナオリンピックが
開催される1年前のことであった。


 [8]あとがき
とりあえず、オランダでの駐在中に印象に残ったもの自分の記憶の中から簡単に記した。
まあ、駐在員の半分の業務は旅行代理業であることがよくお分かり頂けたと思う。
確かに、海外出張とは、勿論、出張というからには仕事はあるが、観光も楽しみでやってくるので
あるから、その期待に応えないといけない、という辛さがある。 何分、一人ではどこも行けない
人がほとんどであるし、一応は期待に応えないといけないのだ。 たとえ、嫌なヤツであったと
してもである。 でも、滞在中の出迎え、観光、見送り迄のアテンドをしているにもかかわらず、
感謝を表する言葉一言も言えない輩って、一体どういう神経をしているんだろう。

でも、駐在の良い所もある。前述のように会社のトップクラスが結構来るので、顔と名前が覚えて
もらえるというメリットはある。ただ、非常に苦労したのは、全て自分ひとりでしなければ
ならなかった事である。 これが法人とか工場ならば日本人が沢山居るだろうし、
マネ−ジャ−クラスの日本人が居て、その人達が訪問者を案内するだろう。役割が廻ってきても
一部で済むかもしれない。最初から最後までたった一人でお相手するのは、実に苦痛であり、
業務に支障や遅れを起こすものだ。 

それ以外にも、いろいろあった。 
事務所が空き巣にやられたこと。高速道路でガス欠になって、おろおろしたこと。 夏時間
になった翌日、1時間進んでいることに気がつかず、飛行機に乗り遅れてしまった事。日本と一緒で
右ハンドル、左車線を運転するイギリスからの長期出張からオランダに帰って直ぐに反対の車線
(つまり、オランダは左ハンドル、右車線だが、イギリス日本と同じ左車線を走ったと言う事。)
を走ってしまい、あやうく正面衝突しそうになった事。 バルセロナで路上駐車した際、夜中に
ガラスを割られ、車内を物色された事etc。。。実に苦労は絶えないのである。

しかし、海外駐在が嫌だったか?と、質問されれば、はっきりと答えられる。それは”NO”だ。
バルセロナ滞在中にマドリッドへ行き、留学中に知り合った、スペイン人の友人、フェルナンドに
2度も会えたこと。そして、何よりも自分の知識が増える。
海外に住むことで、その国の芸術、歴史、文化、言葉などに対する関心が深まった事で、自分の
知識が如何に広くなったことか! オランダに来たことによって、シ−ボルト(本当はドイツ人で
ある。)に関心を持ち、彼自身が日本へ多くの西洋医学の知識を残した事、樺太が半島ではなく、
島であることを発見した間宮林蔵を讃え、大陸と樺太の間を”間宮海峡”として欧州に伝え、
そのことで地理上、世界で唯一日本人の名前がついている場所となったこと。(当時、南極を除く
この場所だけが未知であったらしい。それ以外は全て欧州人の間で調査されていた。)オランダへ
帰国の際、持ち出し禁止の品(伊能忠敬が作成した日本地図など)を船に積み込み、
いわゆるシ−ボルト事件を起こした事。そして、娘のイネが日本人女性で初めて産婦人科の
女医となった事。

更には、アンネフランクも然り。彼女への関心が広がることによって、ユダヤ人虐殺について
調べて行く内に、ユダヤ人を救ったオスカ−シンドラ−(映画、シンドラーのリストで承知の事で
あろう。)や、6000人を救ったと言われる正義の外交官杉原千畝、さらに、収容所を解放した日系
米人のクラ−レンス マツムラの存在を知る事ができたのだから。


Fin


                 
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