2,海石榴市(つばいち)
先ほどの「仏教伝来の地」の石碑のたつ初瀬川の堤防から降りたところをはしる道が旧伊勢街道です。
道端には、いつのものともしれぬ石の道標があります。このあたりがそのかみ、交通の要衝であったこと
をささやかに示しています。初瀬道、横大路、磐余・山田の道、上つ道、山の辺の道など古代の道があつ
まり、また、初瀬川の水上交通機能と結びついて、人、物が集まり市をなしたのでしょう。三輪山麓には
、
椿の木が多くあることから「海石榴市」(つばいち)と呼び慣わしたのでしょう。
紫は 灰さすものそ 海石榴市の 八十の巷に 逢へる児や誰
とうたわれたように 現在の金屋の集落からは想像もつかぬほどの賑わいをみせていたのでしょう。
今でも、「栗買」(くりかい)、「上市」(かみいち)といった、ものの売り買いや市の存在を表す名が
田畑や地域の名前として残っています。その範囲は一キロメートル以上にわたります。いまは、歴史
を沈めているかのような金屋の集落を中心に一大バザールが繰り広げられていたのでしょう。「歌垣」
(うたがき)が催されたのもこのあたりです。若者達が恋を自由にうたい、椿の咲き誇る三輪山の麓へ
消えていったのもこのあたりです。
海石榴市の名残をわずかにとどめているのは、海石榴市観音堂でしょう。旧伊勢街道を北にむけ金屋の
集落を50メートルほど進みます。小さな道標と先ほどの歌を刻んだ歌碑が右手にたっています。道標に
従い、人家のなかをくねくね行くと、三輪山を光背にして、観音堂がたっています。いまでも地域の人た
ちにまもられ、花香が絶えません。お堂が新築されたのも地域の人たちの尽力によるものです。