源九郎稲荷大明神

奈良県五條市三在町

源九郎稲荷大明神(向右)

山高稲荷大明神(向左)


大きくはありませんがたいへんきれいにに整備されており、今も大切に守られていることが分かります。

向右が源九郎稲荷大明神、向左が山高稲荷大明神となります。向右ということは祭神側から見て左に位置することになり、神社の場合は左方上位(参拝者から見て右が上位)とされています。

祭神や由緒についての資料は図書館でもネットでも見つかりませんでしたが、両社とも一般的な穀霊神(ウガノミタマ神やウケモチ神など)を祭神とするだろうと思われます。

由緒の詳細が分からない件ですが、向右の源九郎大明神は民話伝承の中にその痕跡を残しており、本稿では源九郎大明神について考えていくこととします。



源九郎狐・・・ 彼はもちろん伝承の中の存在ですが、ここでは実在したかもしれないと仮定して考えます。

大和郡山市に源九郎稲荷神社があることから、彼の本拠は現在の大和郡山近辺であるかに思われています。確かに近世から近代までの伝承の中心や、現在の祭祀の中心はその通りです。一方、吉野地域にはいくつもの彼の伝承が残っています。

吉野を含む大和一円はもとより河内や和泉にも広く彼の名は知られていた様子で、狐の中の狐として「狐は大和の源九郎狐」ともいわれていました。竹田出雲の「義経千本桜」や近松門左衛門・井原西鶴の作品など、いわゆる近世文学にその名が記述されることを考えると、大和を遠く離れた江戸での知名度を考えてみることも面白いかも知れません。

そして吉野地域に伝わる源九郎狐の伝承が当社の由緒を表すものとなっています。奈良県五條市が舞台になっていますが、五條市は元は吉野郡に隣接する宇智郡に含まれていました。「吉野西奥民俗採訪録」から、長くなりますが源九郎狐の行動を知るため引用します。

*******引用始め*******
狐狸妖怪談
 宇野峠の狐 
 大和五条の東、吉野郡大淀町との境に宇野峠といふ峠がある。ここには狐が居てよくだますさうである。
五条の町に何某という医者が居るがその医者の家へ、ある夜立派な提灯をつけて、人が迎えに来た。家を聞くと五条の東だというので、人力車に乗って出かけて行った。すると宇野峠へかゝった。峠の中程まで来ると、立派な門構への家がある。どうも記憶にない家だがと思いつゝ、案内の男に連れられて中へ這入った。這入って見ると実に立派な家で、子供が絹の蒲団を着てねてゐる。怪我をして居るので傷口を縫うて、薬を盛ってやった。すると家の者が金だらひに水を入れて出した。医者はそれで手を叮寧にあらって居た。
 一方車ひきは何時までたっても出て来ぬので、心配になって門をはいって行くと、家も何もない。唯池があって、その池で医者が手をあらって居た。正気にかへって二人ともびっくりした。
 さて師走の寒になってから、医者はどうも気がかりなものだから、イナリサゲを招いて、イナリサゲをしてもらうとダイがついて 「こち〔原文のママ〕の息子が怪我をしたのを、医者に見てもらったら治った」と白状した。それで宇野峠の狐の仕業ということが分った。

*******引用終り*******


以上を仮に前半とします。以下に続く後半を含めて、宮本常一著「吉野西奥民俗採訪録」のP84〜P87に収録されています。

本稿筆者は、「ななかまど」さんの「大和の傳説」(宇智郡の伝説)にて同書の存在を知ることができました。ななかまどさんは本稿筆者がインターネットを利用し始めた2000年代初頭から拝見しているサイトで、現在に至るまで多くのことを学ばせていただいております。ここに厚く御礼申し上げます。

後半へ続きます。



*******引用始め*******
 

 宇野峠では、人も車もよくまくれる(ころがる)。ある時、イナリサゲを招いて見てもらうと、ダイがついて
 「俺を祀ってくれないからみんなを引張りまわしてやるのや」と言った。そこで
 「お前誰や」
と聞くと
 「俺か? 俺は土佐の源九郎狐の孫や」
といった。
 土佐というのは、今の高取町の大字で、旧植村侯高取城の城下である。土佐の源九郎は城に仕へた狐であった。ある時殿様が源九郎に、何かして見せてくれと頼んだ。すると源九郎は、
 「海の戦争をして見せませう。併し刀と鉄砲を側へおいて見てはなりません。」
と殿様に言った。殿様はよしゝゝと言って、それを承諾した。さてしばらくしていると、あたりが一面海になって、やがて船が来るわ来るわ、実に恐ろしい程押しかけて来る、それが法螺貝やら陣太鼓をならして城の方へ攻めて来るのである。矢や鉄砲丸が耳をかすめて飛ぶので、殿様は恐ろしくなって、とても叶わんと思って、本当の鉄砲で撃った。すると、海戦はたちどころに消えてしまったが、源九郎の惣領息子が撃ち殺されて居た。源九郎は殿様の不信を憤って、それから他処へ行ってしまった。
 宇野峠の狐はこの源九郎の孫であった。そこで稲荷さんを祀ると、それから大して自動車等もまくれぬ様になった。
  附記 この社を祀ったのは五條の医者だともいわれて居る。

 又

 下市の町のある嫁さんが子を寝かして、風呂へ行って帰って来て見ると子供が居ない。隣近所をさがしてもいないので、人を頼んで遠くの方まで探してもらうと、宇野峠で木を曲げて小さい小屋をこしらえて、ヤイゝゝいうて遊んでいた。さっそく連れて戻って来たが、それから子供はよく
 「あの宇野峠には俺の本当のお母ァが居るんや」というてゐた。 (以上三話城戸の宿にて聞く)

  吉野西奥民俗採訪録 P84〜P87

*******引用終り*******

最後の「以上三話城戸の宿にて聞く」から、上記「宇野峠の狐」は口碑伝承を採録した話であろうことが推測されます。

まず、「宇野峠の狐」伝承の後半部 、源九郎狐の話から彼の活動期間を考えてみましょう。

「宇野峠の狐」伝承の中の彼は、現在の奈良県高取町にあった高取城に仕えたとされています。「土佐の源九郎狐・・・」とある土佐は伝承通り高取城の城下町の地名で、現在も高取町には土佐街道の名が残ります。源九郎狐は高取城主の依頼により、城主に「海の戦争」を披露することになります。

非常に興味深い要素を含む伝承です。場所と城主名の表記による時代設定、高取城主に見せた「海の戦争」の内容、その後の城主への不信など、大和郡山市に残る伝承に対比できる要素をいくつか含んでいる点で、単純に神通力を持つ狐を「源九郎」という名で呼んだという話ではないような印象を受けます。

大和郡山市には、彼が郡山城主の豊臣秀長に、義経と狐忠信(源九郎狐)の別れの場面の寸劇を見せるという伝承が伝わります。城主に寸劇を見せるという類似性に興味が持たれるところですが、「宇野峠の狐」伝承が大和郡山市の伝承を真似たというものではなく、後日譚を加えることで彼の活動が長期に渡ることを示す意図があるかのように思えます。

豊臣秀長が郡山城にあった期間は1585年〜1586年と短く、源九郎稲荷神社に隣接し非常に同社に関係の深い洞泉寺の開基が1585年です。つまり大和郡山市における源九郎狐の伝承は、その背景とする時代がかなり特定できるわけです。彼が竜に化身して鎮めたと伝わる郡山城下の兵火の話は、その基になった大野氏と筒井氏による戦乱の史実が1615年。郡山城内竜雲郭に祭祀されていた源九郎稲荷神社前身の神社が現社地に移転されたと伝わる時期が1719年。この一連の期間が郡山城下での彼の活動時期と想定して良いでしょう。

【Link:源九郎稲荷神社】
【Link:洞泉寺】

加えて、浅香山稲荷神社の項で見た彼と人間との戦いが、大和川の流路更工事の時で1704年です。堺〜大和郡山間の距離の方が、堺〜高取間の距離より短いということも、1704年当時の彼の所在が大和郡山であった推測を援用できる1つの要素となります。

【Link:浅香山稲荷神社】



「宇野峠の狐」伝承の後半部には「旧植村侯高取城の・・・」とあり、関連の史実を探ると、植村氏が高取城を居城とした時期は1738年から幕末前後(1867年からが明治)までです。源九郎狐が高取城主に「海の戦争」を見せた時期は、植村氏が高取城にあった期間と重なるはずであり、彼が郡山城下にあった伝承と時期的な重なりはありません。「海の戦争」に鉄砲丸が飛び交うのも、植村氏と同時代、近世の水上戦の様子と考えられるでしょう。

1500年代終盤に郡山城下にいた彼は、城下にかかる兵火の鎮火・大和川での人間との戦いを経た後、1700年代中盤以降に郡山城下を離れ高取城下へ向かったことになります。

義経(〜1186年没)に付き従ったころから活動を開始し(その時点で彼は人間の武将と戦うなど、すでに体力気力とも充実した年齢でした)、そして1000年以上の時を生きたと伝わる彼のこでとですから、郡山城下から高取城下への移動の時期は寿命の点ではまったく問題ありません。吉野町内に「初音の鼓」を伝え残す家があり(世界遺産吉野山見てあるき:吉野町商工会)、義経と別れた直後の彼が吉野を本拠としたかと推測すれば、郡山城下から高取城下への移動は古巣近くへ戻ったようにも思えます。

ただ、高取城主の不注意により惣領息子を撃ち殺されてしまった彼は、殿様への憤りからその地を離れました。彼はどこへ行ったのでしょう。

大和郡山市では、彼は徳川方のスパイで豊臣方に毒殺されたとも伝わります(子供のための大和の伝説 大和タイムズ社:仲川明著)。また、河内国から和泉国へ向かいそこで終焉を迎えた話も伝わり(松原市ホーム≫文化・スポーツ≫民話≫まつばらの民話≫第60話 源九郎狐と狐の施行(せんぎょ)の起こり)、それこそ狐に化かされるかのようです。あるいは今も彼は生きているのでしょうか。

「宇野峠の狐」伝承の後半部は、その記述の多くが源九郎狐の事跡に割かれています。そして宇野峠の狐は源九郎狐の孫であると名乗っています。文脈から考えれば、高取城主に撃ち殺されてしまった惣領息子の子と考えて問題ないでしょう。前後してしいましたが、ここから「宇野峠の狐」伝承の前半部、そこに登場する宇野峠の狐のことを考えていきます。

文中に「人力車」・「傷口を縫うて」とあることから、前半部の話は人力車を用い西洋医療が一般化していた明治期から大正期を舞台にした伝承であることが推測されます。

また、ダイ(またはオダイ)やイナリサゲは、稲荷講のような民間の稲荷行者の用語です。人の生活に密着した行者や巫師は実際に過去に存在し、近年(昭和期の終盤)まで活動していた稲荷行者のケースも知られています。

ダイのイナリサゲによって、医者を騙して子を治療させた者が正体を現わし、宇野峠の狐であることがわかります。



伝承の後半部には、その終盤に「自動車」が登場することから、前半の明治・大正期からある程度の時間が経過した時代が舞台になっている様子が伺えます。

自動車をキーワードに考えるなら、日本のタクシーは1912年に始まり、1925年以降にフォードやGMが日本に進出、この頃から車が普及し始めました。1926年からが昭和の始まりなので、宇野峠の狐が源九郎狐の孫であると名乗った話は、その舞台が昭和初期であろうかと推測されます。

源九郎狐の惣領息子が高取城主に殺されてしまった時点で宇野峠の狐は生まれていたことになります。とすると宇野峠の狐は、江戸期終盤には生まれており、明治期から昭和初期にかけて活動していたと読み取ることができます。

当社を祀ったのは五條の医者だとのこと。宇野峠の狐の子を治療した医者本人が当社を祀ったのでしょう。だからこそ「大して自動車等もまくれぬ様になった」わけです。源九郎狐に似てイタズラ好きだった宇野峠の狐も、恩のある医者の祭祀により何とか不満を抑えたものと見えます。

前記したように、源九郎稲荷大明神・山高稲荷大明神とも一般的な穀霊神を祭神とするだろうと思われ、狐は穀霊神のお遣いとされています。当社源九郎稲荷大明神のお遣いが、源九郎狐の孫である宇野峠の狐と考えて良いと思います。

やはり長い寿命と霊狐としての神通力を持つ宇野峠の狐は、当社を守りつつ、祖父の帰りを今も待っているのかも知れません。





INDEX