浅香山稲荷神社

人と対立する源九郎狐


大阪府堺市北区東浅香山町

祭 神

宇迦之御魂大神





源九郎狐・・・ 堺市内にある神社の記事にいきなりこの名を出すのを奇異に思われるでしょうか。それとも「稲荷つながりで何かあるな?」と思われるでしょうか。

源九郎狐は歌舞伎や浄瑠璃の演目「義経千本桜」において、父母狐の皮(または母狐の皮)で作られた鼓を守ろうとし、そして義経と静御前を守り何度も人間と関わって来たと伝わる狐です。「やまとの大和の源九郎さん」と歌われるように、彼は奈良を本拠に活躍し、後には「大和の総領狐」とも呼ばれました。

当サイト内ならば次のページの記事が関連した内容となっています。ご参照下されば幸いです。

【Link:源九郎稲荷神社】
【Link:洞泉寺】
【Link:源九郎吒枳尼天】
【Link:源九郎稲大明神】

源九郎狐の伝承は人間と友好的な関係であったものが多く伝わります。しかしながら彼の伝承には、時に激しく人と対立するものもあります。それは仲間を守ろうとするときの姿であり、本稿筆者が源九郎狐について最も好ましく思う内容です。以上のことを、「まつばらの民話」を中心に堺市の伝承等も踏まえて考えていきましょう。



本稿で考えていく伝承は、江戸期に行われた大和川の付け替えの大工事が舞台となります。

奈良から大阪平野を西に横切って大和川は大阪湾に流れ込みます。この川は元々大阪平野に入ってからは北向きの複数の川となって淀川に合流していました。ですが、度々氾濫を起こすことから江戸期の1704年(宝永元年)、幕府の命
(これを大名手伝普請という)により姫路藩が中心となって、西向きに流路を変更する大規模な付け替え工事が行われました。現在の大和川の姿は この時からのものです。

大和川の流域の大阪府堺市堺区・東浅香山町から浅香山町にかけて、西行して来た大和川が南へ湾曲する部分があります。南へ大きくV字型を描くような流路となっており、この部分は「浅香の千両曲がり」と呼ばれます。千両曲がりを過ぎ、大和川は再び西行して行きます。上記Mapionの浅香山稲荷神社の地図をご参照下さい。
 浅香山稲荷神社   由来

 昔、この辺り住之江の浦と連なる小さな湾
で、そこに小島が出来、遠く推古天皇の御代
(590年代)聖徳太子御巡遊の折、白髪の老翁
が太子に、昔より此処に埋る香木有り、と伝
えて去る。太子が不思議に思い、掘らせたと
ころ、果せるかな地中より幾千年も経たと思
われる朽木が出て、これを焼かせたところ馥
郁優なる香りたなびき、その時太子が「浅か
らぬ香り」と仰せられて、以後この地を“浅
香の浦”と呼び、その香木で老翁の像を刻み
ここに祀られたのがこの神社の創始と言われ
ています。
 後、ここに城を築いて、この神像を稲荷大
神と仰ぎ祭られてきた。この稲荷大神とは宇
迦之御魂大神と言い、生活の大本を司り福徳
盛運の守護神として伊勢外宮にます豊受大神
と異名同神と言われます。
 時移り世が代わって宝永年間(1704年)、旧
大和川の水害から流域を守るために大久保大
隅守宰領として流れを変える工事の折、この
地の狐塚の所に至り、どうしても工事が進ま
ず、前日掘った所が翌日は又元に復し、人夫
達は恐怖におののき手出しも出来ず、宰領奉
行も神威を畏み、計画を変えこの狐塚を避け
るることによって大工事を完成させるに至り
ました。
 後、宰領大隅守は神威を怖れこの狐塚の所
に神殿を建立し、現在に至っております。
直、現神殿は、昭和51年7月に改築完成
されたものです。
 神前の一対の石燈籠は大久保大隅守の寄進
にかかり、又自然石の大手水鉢は当時の川口
奉行の寄進によるものです。    以上

当社社頭の案内板には上記のような伝承が記され、当社の創建が聖徳太子の時代にさかのぼる由緒を持つと読み取れます。また、老翁の姿とは稲荷神に関係の深い宇賀神(老翁の顔と蛇体を持つ神)を想像させます。

【Link:大阪府全史】

さらに大和川の付け替え工事に関わって、当地にあった狐塚の神威により工事の計画を変更したことが伺えます。このことについて大阪府全史には、浅香山神社の由来を参照したであろう次の記述があります。引用文中、(略)については本稿筆者の判断によるものです。引用文の原文は国立国会図書館近代デジタルライブラリーへのリンクをご参照下さい。

*******引用始め*******
稲荷神社は字狐塚にあり、塚は一に山に作る。(中略)浅香小兵衛宗寛の手 に成れる寛永二年正月の稲荷御社建立記(浅香山由来書参看)に依れば、寛永元年二月十五日より大和川の堀割始まり、 (中略)本地全部は同川敷と定まり、狐塚も潰地とならんとしけるに、塚に不思議のこと多くして掘割がたきを以て、 (中略)狐塚も潰地となることを免る。狐塚は往時御城のありし時の鎮守の社址なりと伝へし(後略)
*******引用終り*******

当地には元々狐塚があり、それはかつてそこにあった城(浅香山城か?)の鎮守社の跡でした。姫路藩による工事は河口から遡る形で行われ、千両曲がりに至り狐塚は潰される予定でした。

大阪府全史には「塚に不思議のこと多くして掘割がたき」のように、不思議のこと即ち祟りとも推測される現象が記述されます。その祟りを避けるためか、潰される予定だった狐塚を残すことによって付け替え工事は完成したと伝わります。

狐塚に建てられた、あるいは城の鎮守社の跡に新たに建てられた社が当社だとされています。



一方、大阪府全史には無く堺市史にある記述に次の一文があります。堺市史も近代デジタルライブラリーをご参照下さい。

【Link:堺市史】

*******引用始め*******
斯して弥々(かくしていよいよ)新川筋の傍示を建て初め、新川普請手伝本多忠国(中務大輔、姫路城主)鋤初めをなし・・・(中略)・・・総監督格の、本多中務大輔三月に病死したので(後略)
*******引用終り*******

「本多中務大輔三月に病死」とされる部分は、大阪府全史の「塚に不思議のこと多く」との関連が気にかかるところです。

本多忠国の急死により姫路藩による工事は頓挫、姫路藩は人員を自藩に引き上げます。幕府は複数の他藩に姫路藩の肩代わりを命じました(お助け普請)が、そのため余計な費用が必要となり、大和川の湾曲部は「浅香の千両曲がり」と呼ばれるようになりました。

この湾曲部自体は、当地での工事にあたって最も川を通しやすい部分を通したためこの形になったと考えられています。当地は上町台地と呼ばれる南北に長い台地の最も低い部分を通されており、もともとここには依網池(よさみいけ)がありました。

しかしながら、人の土木工事が社や神木に影響を与えて祟りを引き起こし、社を祀ったり神木を切り倒すことを断念するという話は、歴史 の中でもよく見られるものです。
「狐塚」にまつわる「不思議のこと」が当社の成立に関わっていたと、人の記憶に残るのかも知れません。

さて、ここからは松原市に伝わる伝承を見ていきます。これは堺市では見られなかった伝承です。

松原市のサイト内、「まつばらの民話 第29話 竹ノ内街道の狸と西除け川の狐三話」から以下に引用します。無断引用や当該ページへの直接リンクは認められていないので、松原市のトップページへのリンクを貼ります。

【Link:松原市サイト】

引用の全文は「まつばらの民話 第29話 竹ノ内街道の狸と西除け川の狐三話」に採録されています。全文を参照される場合は下記松原市サイトのトップから、【ホーム>文化・スポーツ>民話>まつばらの民話>第29話 竹ノ内街道の狸と西除け川の狐三話>その2「人間の戦いと狸と狐」】へとお進みください。

*******引用始め*******
その頃の西除川は、芝、油上、堀の共同墓地の高木から真北へ流れて平野川 と合流して淀川へ入り大阪湾へと注がれておりましたが、共同墓地の当たりから西北へながれて依網池に注ぎ、そこから 浅香谷を通り浅香山の西の所で北に流れて新大和川と合流しました。この時、浅香の狐野干の住家が新大和川となること に反対して大和の源九郎、 泉州信太、摂州三宝寺と、当地の浅香山に住むそれぞれの狐の大将が連れてきた手勢、総勢合わせて十万余りの狐たちが 人間と戦ってこの住処を勝ち取り、今も浅香の千両曲がりとなって川はこの地を除けて流れています。
*******引用終り*******

加えて、本稿筆者が松原市の図書館で閲覧した「大阪府文化財愛護推進委員活動報告書:加藤孜子著」には、「まつばらの民話」と同様のストーリーながら、
・狐軍の総大将として鎧の上に緋牡丹を羽織った源九郎狐の姿
・戦いの中での姫路藩主の急死
・戦いの地が千両曲がりとなってしまったこと
の記述があります(これも無断引用禁止のため本稿への引用は控えます。松原市民図書館の検索ページにてご検索ください)。



姫路藩主の急死は、堺市史の本多忠国の病死の記述と符合します。

興味深いことに、本多忠国は大和川の流路変更工事の時点で姫路藩主でしたが、忠国は、大和国郡山藩主本多政長の養子です。本多政長が郡山藩主だった期間は1671〜1679年なので、この期間、忠国は大和国郡山藩在住だったと考えられます。また、源九郎稲荷神社が郡山城の城鎮守稲荷となった時期は1585年(天正13年)だと伝わります。当初より「源九郎」の名を冠していたわけではありませんが。

ここを簡単いうと、本多忠国が本多政長の要嫡子として郡山城にいたであろう時期に、源九郎稲荷神社(の前身)は郡山城内に祀られていました。その後、本多忠国が姫路藩主となりさらに大和川の流路変更工事の総監督格に就任しましたが、狐塚の工事の時点で死亡しました。

そしてそこには「塚に不思議のこと多く」と伝わる現象と、狐軍を率いる源九郎狐の伝承が残りました。

次項に、江戸期前半の郡山城城主と、本多忠国、源九郎稲荷神社の関係を時系列でまとめます。
江戸期前半の郡山城城主と、本多忠国、源九郎稲荷神社の関係

1580年(天正8)
筒井順慶:郡山城主
1585年(天正13)
羽柴秀長:郡山城主
天守完成
宝誉上人の夢告により稲荷神(源九郎狐)を祭祀
1591年(天正19)
豊臣秀保;郡山城主
1595年(文禄4)
増田長盛:郡山城主
1600年(慶長5)
関ヶ原の戦い
郡山城代官:久保長安
1603年(慶長8)
江戸幕府成立
1607年(慶長12)
郡山城代官;山口直友
1614年(慶長19)
郡山城代官;筒井定慶
1615年(元和1)
水野勝成:郡山城主
豊臣氏滅亡
1619年(元和5)
松平忠明:郡山城主
1639年(寛永16)
本多政勝(第1次本多氏):郡山城主
1671年(寛文11)
本多政長:郡山城主
1673年(延宝元)
本多忠国、本多政長の養嗣子になる
1679年(延宝7)
松平信之:郡山城主
本多忠国;陸奥福島城主
1682年(天和2)
本多忠国;播磨国姫路城主
1685年(貞享2)
本多忠平(以降、第2次本多氏):郡山城主
1695年(元禄8)
本多忠常:郡山城主
1703年(元禄16)
大和川付け替え工事の幕命
姫路藩、堺の工事を担当
1704年(宝永元)
2月、工事開始
3月、姫路城主本多忠国39歳にて死亡
1709年(宝永6)
本多忠直:郡山城主
1717年(享保2)
本多忠村:郡山城主
1719年(享保4)
源九郎稲荷神社、現在地(洞泉寺町)に移転
1722年(享保7)
本多忠烈:郡山城主
1724年(享保9)
柳澤吉里:郡山城主
以降、柳澤氏が郡山城主

「まつばらの民話」を骨子に、堺市に残る伝承を肉付けとして伝承の内容を考えてみましょう。

堺市の側で(大阪府全史により)、「塚に不思議のこと多く」とあいまいにされたことが、松原市の側の「狐たちが人間と戦ってこの住処を勝ち取り」という記述で補完することができるので。

「狐塚」と「浅香の狐野干の住家」は同一の場所を示すと思われます。あるいは浅香の狐は狐塚の守護者であったのかもしれません。いずれにせよ「狐塚」の場所を守るため、源九郎狐は、大和の狐軍と河内や和泉の狐軍を率いて人間と戦ったのでしょう。

勝敗は狐軍に軍配が上がり、その結果本多忠国は死亡、狐塚は壊されずに残りました。そしてその狐塚に建てられたのが当社ということになります。

関係部分のみ箇条書きにします。


1673年 ・本多忠国、本多政長の養嗣子になる。
・郡山城内もしくは城下に源九郎稲荷があったはず。
1682年 ・本多忠国;播磨国姫路城主になる。
1703年 ・大和川付け替え工事の幕命。
・姫路藩、堺の工事を担当
1704年 ・姫路藩、浅香山稲荷神社近辺にあった狐塚を壊そうとする。
・狐軍蜂起。狐軍の総大将が源九郎狐。
・人VS狐の戦い。
・狐軍の勝利。忠国死亡。
そこには、源九郎狐と本多忠国との間に何らかの因縁が絡んでいた ようにも想像できます。



以上の内、大和川の流路変更工事は史実であり、本多忠国の死も史実です。

しかしながら、狐軍を率いる源九郎狐の戦いはあくまで伝承であって史実ではありません。

けれど、史実ではないはずの「義経千本桜」に描かれる源九郎狐は、実在していたかのように伝承され現在も信仰されています。他に例を求めるなら、吉野山には源九郎狐が化身した「狐忠信」の霊を祀る碑があります。その碑の祭祀者は、狐忠信すなわち源九郎狐が実在であると考える心情を持っていたのでしょう。同様に、神話や伝承の中の存在が各地に足跡を残し、それらが信仰される例は数多くあります。

その心情と同様に、当社浅香山稲荷神社成立の背景に、狐軍の総大将として人と戦った源九郎狐の姿を想像しても良いのではないかと思います。

先述のように、源九郎狐の伝承は主に人間と友好的な関係であった内容が多く伝わります。が、静御前を守るなどして人間の味方であったように見える源九郎狐でも、それはあくまで人間側からの視点だったということなのでしょう。彼は人間に媚びて生きていたのではなく、時に人を助ることもあり、必要であれば激しく人と対立することもあり、彼は彼なりに霊狐としての生き方を貫いていたのだと思います。

当社浅香山稲荷神社は、彼に率いられた狐たちのモニュメントであるかのように私的には感じます。



「まつばらの民話」には源九郎狐のさまざまな伝承が採録され、大和を主な活躍の場とした源九郎狐は河内から和泉にかけてもその名が知られていたことが伺えます。そしてその中の【第60話 源九郎狐と狐の施行(せんぎょ)の起こり】には、彼の終焉を語る伝承も含まれます。それはあくまで松原市に伝わる終焉の伝承であり、現在、源九郎稲荷神社のある大和郡山市には、スパイとして殺された独自の源九郎狐の最後の話等が伝わっています。が、それはまた稿を改めることとしましょう。

なお、先述の様に、無断引用や当該ページへの直接リンクは松原市のルールとして認められていないので、本稿では、松原市サイトのトップや検索ページへのリンクを貼らせていただいております。

また、上記「まつばらの民話」からの引用は、松原市へ申し入れのうえ、「まつばらの民話」の執筆者である大阪府文化財愛護推進委員 加藤孜子様の許可を得たものです(2015年11月、「松原市役所 秘書広報課」様へ確認。・2022年7月、「松原市 市長公室観光・シティプロモーション課 広報係」様へ再確認。)

広報係様、そして膨大で貴重な「まつばらの民話」を採集執筆された加藤孜子様へ、この場を借りて厚く御礼申し上げます。
●吉野山 蔵王堂の下にある「狐忠信霊碑」●





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