集中し過ぎると見えなくなるものがある ~集中と分散~
何か重大な物事に当たらなければならない時によく「集中しろ」と言われますが それで良いのでしょうか? いえ、重大な物事も手を抜いて片付けてしまえと言っているのではないのです。「集中しろ」と言われた時、何に対して集中するかは人によって違うと思うのです。
例えば 野球でバッターが
「集中しろ」と言われたら投手と対戦することに集中しなさいと言うことです。負けたらどうしようとか そんな余計なことは考えないと言うことです。
しかし、「ここでは〇〇の球種が投げられるのがセオリーだから」と特定の球種が投げられるのを待つ事に集中してしまうと、結局 その球種が投げられずに打ち取られてしまうかもしれないと言うことです。
次に何をすれば良いかが判っている時は
それが何時 起きるかを「集中して」待っていれば良いのでしょう。そうすれば確かに即応性は良くなります。ところが予期しない事に対しては対応しづらくなります。
「次に何が起きるか判らない時」にはむしろ「神経を分散させて」次に何が起きても対応できる様にしないといけないと思うのです。
先の野球の例でいうと 神経を分散させて 「投手は必ずしもセオリー通りの球種は投げないかもしれない」と心に留めておくことも必要だと思うのです。
ただし、神経を分散させると どうしても最初の一歩は遅れてしまいます。どちらが良いのかは状況次第です。
集中してしまうと一つの事象に神経を100%を使い切ってしまいます
しかし 例えば3つの事象に同時に当たらなければならない時などは注意力を分散させなければならないと思いうのです。当然、一つの事象で神経を100%使い切ってしまう訳にはいきません。
自動車の運転で「集中しなさい」と言われたら自動車を安全に運転する事に集中しなさいと言う事です。「神経を分散させて」あらゆることに気を配るのです。全体を「フワッ」と見ると言うか、前の車を見ながら2、3台前の車の動き、ルームミラーに映る後ろの車、歩道、対向車、対向車線の向こうの歩道、死角があるかもしれない次の交差点、それぞれに気を配るのです。前の車だけに集中してはいけません。
集中し過ぎると頭が固くなる
会社で何かを開発しなければならなくなったとします。壁に突き当たった時には、「集中して」その壁を乗り越えようとされることでしょう。多分、それまでの開発の方向をより速力を上げて進もうとされるでしょう。でも、その方向で開発を進み続けて結果が出ると保証はあるのでしょうか?
間違った方向に全速力で進むのなら立ち止まった方がマシです。立ち止まって周りを見回し、「神経を分散させて」自分の進んでいる方向が正しいのか確認することも必要だと思うのです。
現代は、何かと素早く行動しないと評価されない社会です
そのことが一番大変で、一番良い事だとされています。素早く行動するためには集中しなければなりません。次に踏み出す一歩が確実である時はそれでも良いのでしょう。でも、その一歩は本当に確実なのですか?
手探りで進まなければならない時……手探りで進まなければならないかどうかも判っていない時に次の一歩が確実であると決めてかかって良いのですか?
「神経を分散させながら」踏み外してしまうかもしれない次の一歩に踏み出す時は躊躇してしまうし、遅れてしまう事もあると思うのです。でも、そのことが手抜きをしようとしていると評価されてしまうのは残念なことです。
集中しなさいと言ってしまうことこそ実は手抜きである
「集中しなければならない」と言うと一見 大変な事をしている様に思えます。でも、そのことで「自分は大変なことをしているんだから大丈夫」と安心していないですか?
本当に安心できるかどうかを確認もしないで大丈夫だと安心していないですか?
「神経を分散させる」ことは手を抜いて楽をしている印象を持たれてしまうかもしれません。でも、次の瞬間に何が起きても対応できる様にしながらも前進しようとすることこそ実は大変なことかもしれないと思うのです。
2017/04/28