縁  起

 当山常覺寺は、弘仁2年(811)人皇五十二代・嵯峨天皇の時代、弘法大師空海上人が、高野山より大峰山に参籠の砌り当地にお立ち寄りになられ、夕刻をお迎えになられました。当時のこの辺りは今以上にへき地にて一夜の宿を求める民家もございませんでした。その折、不思議かな光明を放つ一本の老大樹がお大師様をお迎えになり、大師は大樹の下に宿り瞑想観念いたし折、光明の中より四大象王に騎乗された普賢延命菩薩が姿を現し『この所は吾が相応の地なり信心の輩は非命業を転じ寿命を増長せん。衆生の寿命、色力皆悉く成就を得て夭死(ようし)短命の恐れなからしめん』と、大師にお告げになりました。大師は歓喜して光明を放つ霊木にて、普賢延命菩薩の尊像を彫刻し、この地に堂宇を建立し、弟子真済(しんぜい)大徳に尊像、堂宇をお任せになられました。これが当山の草創にして霊像が御本尊様でございます。御本尊・普賢延命菩薩は、『信心のものは非業の災難短命夭死の恐れなく、疫病を免れ無量の福寿を授けん』と、衆生の寿命長久を守護致せんと。よって古来より当山に来山参詣し、病気平癒、息災延命、家内安全、諸願成就等を祈願し御本尊様のご加護を得んとする人の姿は後を絶ちません。

 当山の言い伝えによりますと、源義経公、寿命長久不老不死の仙道を得んと祈請致し、また、人皇96代後醍醐天皇は、京より難を逃れ当地においでの折、延元2年(1337)、ついで正平14年(1359)、後村上天皇の御代、勅願を受け両陛下の大願成就を祈願させて頂きました。今も尚その功により、「十六の菊の紋」を当山の寺門として使わしていただいております。

 南北朝和合の後、江戸時代に至り、紀伊大納言の参詣を賜り、また寛文年間(1670年頃)京都東山安井門跡の参籠を見るに至り、ついで享保7年(1722)巨鐘を鋳造、その昔は小判の原型が目にすることができ、「小判の鐘」と呼ばれ、それが現存する当山の梵鐘である。また時が経ち、昭和30年、近隣の失火により類焼し、全境内灰燼となるも、檀信徒の力により本尊普賢延命菩薩、釈迦如来、十一面観音、不動明王等諸尊難を逃れ現在に至ります。   

  合 掌