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mansongeの「ニッポン民俗学」
山岳「ニッポン教」と修二会「悔過」の謎
思えば、東大寺二月堂修二会(以下「修二会」は東大寺修二会の謂)、通称「お水取り」の探究は、私を思わぬ処へと連れ出した。その修二会探究の旅も、今回でひとまず終了する。と言うのも、修二会の謎がほぼ解けたからだ。
結論から述べておこう。「修二会」の中心の勤行(悔過・けか)は、山岳「ニッポン教」の祓い浄めであり、それを「二月堂」に引き寄せたのは光明皇后である。
▼「ニッポン教」とは何か
「ニッポン教」とは何か。日本人、いや「ニッポン」人の宗教である。「ニッポン」とは、日本が「日本」になる前を含むあいまいな「国」のことである。「ニッポン人」と言うのも同様に、日本人が「日本人」になる前を含むあいまいな集団のことである。そして「ニッポン教」とは、そのニッポン人の宗教・民俗を指し、現代日本人の思考や行動にまで流れ込む深層思想を言う。
ニッポン教は「神道」ではない。神道は複雑である。少なくとも三段階の変遷を重ねている。私たちの時代から遡って言えば、明治・室町・奈良、各時代の「宗教改革」を経ている。また、ニッポン教は仏教ではない。儒教でもないし、道教・陰陽道でもない。かと言って、別の特定原始宗教を指しているわけでもない。
ニッポン教は各宗教を横断し縦断する「見えない」宗教である。今ではキリスト教徒の中にも、ニッポン教徒は存在するだろう。自覚的でないことがニッポン教徒の大きな特徴である。むしろ、表層的には形ある「見える」他宗教を志向すると言ってもよいほどだ。
ニッポン教も歴史的変遷を経てきた。古代的なニッポン教もあれば、近代的なニッポン教もある。ここで考えたいのは言うまでもなく、古代的なニッポン教、それも奈良時代あたりの姿である。
▼ニッポン教の中心概念
原始段階のニッポン教は、当然ながらよくわからない。想像するばかりだが、「アニミズム」「シャーマニズム」「道教・陰陽道」などの姿を表層的には取っていただろう。あまり言葉に囚われないで頂きたい。これらは後ちになって定義された言葉である。言葉の前に事実があった。少し具体化しよう。
アニミズムとは万霊観、自然神秘主義であり、自然界のあらゆる事物は霊魂をもつとする信仰である。次のシャーマニズムは、『古事記』『日本書紀』の神功皇后、『魏志倭人伝』の卑弥呼を想起してもらえればよい。憑依などによって霊魂(カミ)とコミュニケーションをとり、神託などを得るものである。道教・陰陽道は、そういう霊的世界の理論(構造)と実践(操作性)を、言わば「科学」化しようとするものである。「仙人」はその達人であり、山岳ニッポン教「行者」の先達でもある。
ここで、ニッポン教の中心概念を考えておきたい。あらゆる宗教の基本概念は「聖と俗」「生と死」「あの世とこの世」といった二項対立軸に関わってある。ニッポン人は、生は絶えず死に向かっていると考えていた。これがケガレ(穢れ)である。ケ離れ(ケが離れる)かケ枯れ(ケが枯れる)かという議論があるが、いずれにせよ意味するところは、生エネルギーの低下である。
唐突に何だと思われようが、かのウルトラマンの胸のタイマーの点滅はケガレである。怪獣退治を果たした後、彼はどうするか。空に飛び立つ。おそらく「光の国」に瞬時に往き、再び地球に舞い戻っている。これは彼なりの「死と再生」(生のリセット。この作業でケガレは精算される)なのである。「光の国」とはあの世である。あの世に往くには死が、再びこの世に戻るためには再生が必要である。
ではなぜケガレるのか。世俗生活においては、絶えず不良の微霊が付く(憑く)のである。これはゴミやほこりなど文字通りの汚れのアナロジーである。どうすればよいのか。身体を洗うように部屋を掃除するように、祓い浄めればよい。
それでもなお、ケガレすなわち死は迫ってくる。さらに定期的に自らの霊魂を再生させることが必要である。霊威の強いカミ(神)は邪霊から守護してくれ、かつあの世から新鮮な霊力(ケ)をもたらしてくれる。この神をもてなし、新たな霊力(ケ)を食べ物(ケ)として授けてもらう場が「祭り」である。これは「死と再生」の儀式である。ニッポン教には「年中行事」として数多くのそういう機会が埋め込まれているが、たとえば大晦日は死の日であり元旦は再生の日である。
もう一つ、ニッポン教の条件を挙げておかねばならない。それは自然である。山と川(水)に恵まれ、海に囲まれたクニにはどんな神がどこに棲むか。山岳のニッポン教、海辺のニッポン教、さらにそれらが浸透して平野のニッポン教が成立する(これらの詳細については稿を改めて述べてみたい)。
▼仏教とニッポン教
538年の仏教伝来は公伝であり、言うまでもなく「私伝」はこれを遡る。後ちに「修験」と呼ばれることになる宗教者(ニッポン教活動者、行者)は、いち早く仏教という当時最新のテクノロジーを受容した。彼らは「仏教者」(僧形)として見られがちだが、ニッポン教の「神官」あるいは「行者」と捉えた方が正しい。彼らにとっての課題はあくまでニッポン教の霊的問題であったし、「仏教」はその解決のための非常に有効なテクノロジーとして受容されたのだから。
仏教の衝撃はこうだ。一元的なあの世を、地獄と極楽に引き裂いた。そしてケガレが「罪」となった。これが奈良時代くらいまでのニッポン教の基本的な課題である。ケガレすなわち罪を負ったままでは地獄に墜ちることになり、それを免れるために「罪滅ぼし」(滅罪)が必要になった。しかしこれはケガレを祓い浄めることの「古代的」形態にすぎない、とも言える。実際そうなのである。実はこれが修二会の「悔過」(仏への懺悔)である。
人間とは不思議なものだ。自己救済は利他主義、つまり他者救済に行き着くのである。これが「菩薩」であり、あらゆる宗教(生の徹底追究)の結論である。こうして、ニッポン教宗教者は「聖」(ひじり)あるいは「優婆塞」(うばそく)となる。どちらも公的な戒(僧となるための儀式)を受けない民間僧という意味である。
彼らは自らのためにこそ、他者の救済、つまりその者たちの罪滅ぼしのために、「仏」として姿を現した神に罪(ケガレ)を懺悔する。今の山伏にまで続く「懺悔懺悔、六根清浄」(ざんげざんげ、ろっこんしょうじょう)の音声にはそういう祈りが込められている。「役の行者」に始まるとされる修験は山中で「死と再生」の修行を行なうが、同時に滅罪の苦行を自らに課するのである。また、海岸沿いの辺地(へじ)を巡る「巡礼」(海辺のニッポン教)もまた滅罪のための苦行である。
▼奈良東山魔法陣 春日社
東大寺の秘密については別にすでに述べたので、ここでは春日社と興福寺を採り上げたい。春日社の若宮御(おん)祭をご存知であろうか。春日社のすぐ横に若宮社がある。本社の一祭神アメノコヤネの御子神アメノオシクモを御祭神とする摂社、と社伝などではされている。しかしこれはうそである。若宮社こそ「古社」である。その神の正体は、和珥氏あるいは北大和の国神であり、春日の山と川(水)の神である。その神に捧げる祭りが「御(おん)祭」である。
| ミ春日社
春日若宮社マ | |
現在では新暦12月15日から四日間行なわれるが、旧暦時には11月27日が、さらに古くは9月17日が祭礼日であった。平安末期に始まったとされるが、これはこの時「祭礼」化されたことを意味するにすぎない。春日山、実は神奈備(神が棲む)の御蓋(みかさ)山への信仰は、もっともっと古くからのものであった。
この山神を祭礼ごと簒奪したのが藤原不比等である。いつしか春日山は藤原氏春日社の神山(第一祭神のタケミカヅチは山頂に降臨し春日社に鎮まった)となり、古社神は御子神という「若宮」になり、御(おん)祭は春日社の年中行事の一つに収められた。でも人々は知っている。春日祭は勅祭として崇められたが、御(おん)祭こそ人々が参加する地元の祭りとされ、お旅所への渡御、猿楽や田楽の奉納などがなされてきた。
この「古春日社」(今の若宮社)の奥社があった。春日山の奥にある香山(高山・こうぜん)である。神社と思ってもらわなくてよい。霊場、修行場、あの世や神との交感場である。よりわかりやすく言えば、修験(山岳ニッポン教徒)の自然道場がここにあった。仏教が受容され、この山神の依り代になったのは、薬師如来像であった。すなわち香薬師である。
ニッポン教の神々は、荒霊(あらたま)か和霊(にぎたま)かという性格に応じて、依り代の仏も選び分けられたようだ。前者の場合は不動明王や四天王など明王や天部の仏が、後者の場合では薬師如来や観音菩薩などが選ばれている。
さて、香山にはその香薬師を本尊とする香山寺ができる。しかしこれも藤原氏に取り込まれてしまう。香薬師像は山から引き下ろされ、いまは新薬師寺に鎮座する。そういう眼で一度、新薬師寺をご覧頂きたい。そこには、件の香薬師像、これを守護する十二神将像が立ち並んでいるはずだ。あたかも山神にケガレを懺悔するニッポン教の行者たちのごとくに。
▼鎮魂と滅罪の寺 興福寺
次に藤原氏の氏寺かつ官寺であった興福寺である。仏教の「罪」と「地獄」について、当時一番早くかつ深くこれを理解し恐れたのは、他ならぬ権門貴族藤原氏である。その中でもニッポン教信仰が篤かった最大の人物は、筆者に言わせれば光明皇后である。藤原氏は自らの「罪」について自覚していたから、是非とも「罪滅ぼし」(ケガレの祓い清め)が必要であったのだ。そのための寺が興福寺とさえ言える。
その寺は、藤原鎌足の菩提を弔うため、鏡夫人が山城国に創建した山階寺が起源とされている。不比等が平城京に移した(実際には創建)が、父鎌足のために中金堂に釈迦如来・脇侍菩薩・四天王像を安置した。その不比等のためには橘夫人が弥勒菩薩像を造立、また長屋王が北円堂を建立した(当の長屋王は不比等の子らによって光明立后に絡んで自死に追い込まれた)。
また、東金堂と薬師三尊像は不比等の孫であり婿である聖武天皇の造立、五重塔と西金堂は光明皇后が母橘夫人の供養のために発願、講堂と不空羂索観音像は光明皇后の甥仲麻呂が父のために、東院・西堂は仲麻呂が光明皇后のために造建した。
多少周辺的なことになるが、先の新薬師寺は光明皇后が創建したものであり、法隆寺の東院すなわち夢殿の再建と救世観音の安置も光明皇后の力によるものだ(なお、聖徳太子のための聖霊会とは、実は長屋王の慰霊が真の目的である)。東大寺大仏造立については言うまでもない。
▼修二会「悔過」とは何か
聖武天皇が発した国分寺国分尼寺造営の詔を受けて、東大寺が総国分寺に、法華寺が総国分尼寺となる。法華寺の地は不比等の元邸宅で、その死後は光明皇后の私宅・皇后宮であった。これが提供され、法華寺(法華滅罪之寺が正式名称)となった。
光明皇后の生涯は、祖父・父・兄弟・甥たち藤原一族の「罪」で初めから終わりまで塗り込められていた。しかし彼女自身は気丈な人であったようだ。精神的な混乱なぞは見られない。滅罪の懺悔ばかりでなく、「作善」(さぜん。善い行ないをすること)のため、悲田院・施薬院を設けて窮民を救ったほどである。むしろ、彼女の夫聖武帝や娘の孝謙帝がその「罪」の毒気に当てられたように思われる。現実を忌避するような、聖武帝の目まぐるしい遷都、孝謙帝の道鏡への傾倒がそれである。
光明皇后は、父不比等の「遺志」を深く感じていた。一族と一族が作り上げた国家を守り抜くこと。そのために最新の呪法・仏教のパワーを駆使すること(その目的はケガレである罪を祓うこと(滅罪)である)。光明皇后は、あらゆる機会にこれを実践していく。
修二会は二七か日、つまり七日間ずつの法会を二回行なうが、実は法華寺では「維摩講」という七日間の法会(講説)が行なわれていた。維摩講は鎌足のための法会とされ、不比等、次いで光明皇后が「復興」した(732年)。後ちに興福寺の勅会となる。修二会もまた、こうした七日間の法会スタイルの流れの中にある。修二会はすでに別に述べたように、元は光明皇太后の紫微中台で行なわれていたが、これが直接には何のための懺悔なのかはわからない。
一方、光明皇后の願いを叶える「プロ」たちがいた。山岳ニッポン教行者たちである。彼らは滅罪(罪滅ぼし)の達人である。とりわけ奈良東山の良弁は、聖武帝・光明皇后の寵を受けた。良弁は、行者時代の名を金鷲(こんす)優婆塞(うばそく)と言う。
『日本霊異記』中巻二一話に、金鷲の説話がある。執金剛神(仁王)像のふくらはぎに縄をかけて引きながら、礼仏悔過を昼夜休むことなくしていた。時折、そのふくらはぎから不思議の光が放たれ、聖武帝の宮城に届いた。このことがあって、金鷲は僧籍を得たという。彼の山寺金鐘寺とは今の東大寺法華堂(三月堂。ここで746年に「法華会」が始められたので、この名がある)で、良弁は東大寺初代別当となった。
良弁の愛弟子であり修二会の創始者実忠も、もちろん山岳ニッポン教の行者である。修二会縁起で語られる笠置山中行、またそこで見たことはそのまま奈良時代の行者の姿である。752年の大仏開眼の年より、修二会の中心勤行「十一面観音悔過」が始められた。それは、神(仏)である十一面観音に罪を徹底懺悔する苦行である。
咒(呪)師による結界や守護神仏勧請のニッポン教性は言うまでもないが、「連行衆」という呼び名、称名懺悔、五体投地(板に身体を打ちつけ懺悔する)、走り(内陣を走りながら懺悔する)などは、明らかに修験の行法である。先の金鷲優婆塞の奇妙な行法もこの一つだろう。お水取りは十一面観音のために香水を汲むものと言うが、これはむしろ逆だろう。水の神である観音から、聖水(若水)を頂くニッポン教の信仰に基づくものである。
修二会の十一面観音悔過の本質は、以上のように山岳ニッポン教による「罪」(ケガレ)の懺悔である。
[主な典拠文献]
(参考)東大寺修二会シリーズ三連作
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