空暦(Solar calendar)
空(Solar)を行くのが太陽星々である。
カレン(CLN・賀羅奴)は賀羅(唐、カラ、空)にいるのだろうか?

謹賀(金賀・King)空門(ソロモン、Solar gate)は
何処にあるのか? 金賀(KNG)とは何か?

空門(ソロモン)から出る金賀(キング)を日読み、月読み、星読みして、時の流れを感じていた。時の流れに、風に乗って峠(Tawa、吉野方言)の空門から旅徒(田日・タビデ)ソロモンが田尾に下って来た。
そこがTaoism(田尾泉・道教)の修験浄土である。田尾人(Taoist)の聖地である。記紀には吉野の尾人として紹介されている。尻敷を腰に付けた山伏として現役である。

道教(みちおしえ)になると宗教色が出てくる。神道などは典型的な宗教であり、中国の道教は聖人崇拝で神に近くなる。もっと、もっと自然体(田井、泰)の修験浄土とは。

神はどこにいるのだろうか。天(あ間)だろうか。
神の声を聞くのが賀羅奴・修道僧(Monk)・修験者(SGist、SCientist)である。

道はなんでも知っている。旅(田日)徒の足跡を記録している。

風の王国
Windom Kingdom Wisdom
来る者は拒まず、去る者は追わず。

ダビデ(田日・旅徒)は太陽・月・星を目印に、風の間に間に彷徨・流離っていた。里の長居は無用だが女が待っていた。そんな歳時記(暦・日読み)を追ってみよう。

日神暦: 元日 3日 5日 10日 15日 20日 25日 45日 55日
70日 80日 90日 100日 110日 130日 150日165日
夏至日 200日 210日 222日 240日 255日 270日
280日 290日 300日 330日 340日 350日 355日
364・5・6日

月神暦   人類の歳時記   星神暦
日神暦の行事を一万年余りかけ色々と焼き直している。

キング ソロモンとシバの女王時代
金門島と馬祖島の海人の時代

福建の金門島と馬祖島、香港

倭建の金賀弥馬の女王、香川の関係は?

その頃は比売(姫・媛)は日読みし、比古(彦)は月読みして、デート(Date、日渡)していたようだ。戦国の武将は星読みをしていたと言う。星読みが一番正確な年暦であるが難しい。朝早起きし、几帳面な比売の日読み暦が一番実用的である。それが日読み(暦)の日神暦である。
日本人の暦好きは有名である。それは人類史上初めて、年暦を実用化した名残である。現代まで継続する定住社会が島国日本に最初に生まれたことを意味する。暦がなければ広範な高度な社会は運営できない。
その歳時記には人類一万年以上の歴史が書き込まれている。この日神暦が発布された日が日本の建国記念日である。今でも一年で一番盛り上がる日である。


日神暦(冬至元日五日進則暦) 耶月HM月)暦
日神暦とは人類最古のストンヘジ暦から派生した五進則暦(日読み)である。それを最高度に昇華したのが日本の冬至日巫暦であり、年364・365・366日で運用していた。寒冷地では夏至シャーマン(Summer)暦になる。

HM(日Moon、日向、ヒムカ)年とは元旦(日神暦10日)に満月が来るように日巫暦年364・365・366日の三日を調整できる年を言うようだ。元旦が常昼の日になる。

ムー大陸では民族移動が繰り返し、遊牧のため定住社会が育たない。仲間だけで通じる月神暦になる。この月神(ムーン)暦のムー大陸で初めて制定された太陽暦がユリウスシーザ帝の太陽暦である。日神暦一万年と考えると2000年余りの暦にすぎない。
太陽暦は耶(J)神暦とも言う。ヤヌス(耶奴佐)とはローマの暦神であり、耶月とは太陽暦の正月(ジャヌアリ、耶奴あ羅)を意味する。
年を「AいUえO」で二分し、前期は神期「JanuaryからJune」で、後期は人期「JulyからJoker」になる。しかし、キリスト様の登場により、クリスマスはJokerの馬鹿騒ぎができなくなり、December(ローマ月神暦10月)が復活した。
と言うより、ユリウス シーザ帝(ジュライ、七月)、オウガスト帝(八月)のあとは月名に値する皇帝がいなかった。と言うより、ユリウス太陽暦も三代目皇帝になると昔の月神暦の名前が復活したようだ。セプテンバー(太陽暦九月・月神暦7月)・オクトバー・ノベンバー・デッセンバー(太陽暦12月・月神暦10月)である。

冬至元日(一陽来復) 太陽暦12月22日頃
この頃に生まれた

   平成天皇は生粋の日神の彦になる。

太陽が復活する日である。日巫(日神天文台長)が毎朝、暦山連峰(東山三十六峰)で山立てして日読み(暦)していた太陽が南下から北上に折り返す日である。復活太陽の日の出空門と言っても毎年同じ位置ではない。一日の振れが生じる。
この日を日神暦の元日(もとび)にし、年の日読みを始める。10日後の元旦は満月がいい。この三ヶ日に満月を捉えられる年はその日を元旦にするのが日神暦の閏調整である。

このように年閏もあり、満月も考慮し、年364・5・6日で日巫・シャーマン(佐間奴、Summer奴)の気合で元旦が決まる。
それを聞きに各地から国宮に比古(師走族)が集まる。今でも続く元旦詣である。
          これが一万年以上続いた日神暦である。

日神 クリスマス 3日 太陽暦12月25日頃
晴天の多いい大陸のウラル(U羅留)暦では三ヶ日の猶予があれば日の出空門は容易に分かる。この日にシャーマンが日神暦三日の太陽の復活祭を宣言していた。その名残がクリスマスである。キリストが生まれる前からある祭日である。現代の太陽暦(クリスチャン暦)はウラル暦の祭日を引き継いでいる。
ローマのユリウス シーザ(カエサル、加恵佐羅・猿)帝が太陽暦を作成した頃はまだキリスト教は生まれていなかったはず。ここに人類歴史を解く鍵がある。要するにサンタクロス(三田CRS)とはいかなる烏(加羅佐・CRS)か?

スバル星(諸星)、オリオン宮(三星+四星)、シリウス(大神・狼)星と冬の星座が巡る。諸人がオリオン宮こぞりて、オリオン宮を護るようにしんがり(殿)星のシリウス星が昇る。この星座世界が人類の憧れの天神界のようだった。


日神 十日中日 5日 太陽暦12月28日
日巫から男弟を通し、国宮に集まった比古連の正月準備委員会に元旦の内示が出る。正月準備委員会が色々検討し、男弟を通し日巫に言上する。この中デカメロン日の名残が最後の亡年会、仕事納めである。


日神 謹賀新年 10日 太陽暦1月1日頃
曇天の多いい島国のアルタイ(あ羅泰)暦では日の出空門が分かりずらく、十ヶ日の猶予を設けている。この日が満月になるように調整できる歳もある。そして元旦を日巫が宣言する。それを聞きに国宮に里々の比古が集まる。その名残が元旦詣である。
   日神日本の建国記念日である。
初代国宮は鹿児島神宮と見てよいだろう。島国日本の玄関口である。ここから始まる日本の歴史一万年余りを追ってみよう。数万年の歴史まで読めるのだが。
また、日向(日月、ひむか、日Moon賀)の歳とはこの三ヶ日に満月が来る歳である。終日終夜明るい一番盛り上がる元旦であり、日月の明神の歳になる。

元旦の初日の出を拝する習慣は日本民族独特のものである。それ見事に詠ったのが
  ひむがしの 野にかぎろひの 立つみえて
   かへりみすれば 月かたぶきぬ   柿本人麻呂
陰暦持統六年11月17日(西暦692年正月2日)の歌と言うが日神暦10日(元旦)のものである。中国太陰暦の採用により、日神10日(元旦)の行事が薄れて行くが太陽暦の採用により自然復活しているのを気が付いていない。だから正月休暇がギコチ(偽古土)なくなる。
また万葉集は天平宝字3年(759)年の太陰暦春節の歌で閉じている。
  新しき 年の始めの 初春の
   今日降る雪の いや重け吉事    大伴家持
ここで、弥生日神暦と天平月神暦の断層を感じ取れるかな?そこから邪馬台国大作戦(プロジェクトJ)が始まる。
 
日巫(卑弥呼)のアルタイ(あ羅泰)暦を天文学に目覚めた月彦(男弟)が纏めたのが泰山暦(中国太陰暦)であり、泰山府君として就任した年を日本書紀では皇紀元年としている。
戦乱続く中国から泰氏は日本に難民渡来している。泰山鳴動鼠一匹、他の鼠は何処に逃れたのか。徐福(耶二九・11)のジャック(Jack、耶狗)伝説の始まりである。

日神 初水天宮 15日 太陽暦1月5日頃
正月の宴(新年会)も終わり、国宮に集まった師が日巫の詔を里々に持ち帰るための帰り支度を始める。
師走の師とは天水族を言う。
ヤクザ(八九三、役佐)が師走族の長(お佐)であり、薬師(八九四)は補佐である。ヤクザ(役三)と薬師(役四)の七役が日本を治めていたようだ。このように数理曼陀羅で日本語は成長してきた。「まず言葉ありき」の真言の中に人類の歴史まで記録されている。
吉野ヶ里から四国の吉野川、花の吉野へと水天族の東部開拓史が進んで行く。第四、五、六代国宮時代に相当する。
第四代国宮は宇()台で、第五代が邪馬台で、第六代が高天原である。なお第七代が吉野(四四奴)川から櫛田(九四田)川にバトンタッチされた伊勢神宮になる。長(お佐)もお佐羅(猿)の猿田彦に昇進している。猿田彦とは日本のユリウス様か?
四田を吉(四四)と読めれば口田、日田、目田、田田の日本の歴史がよく分かる。日光猿軍団は何時生まれるか。猿の軍団を追うと今代2600年の日本の歴史などつい最近の話であることが分かる。

月神 白馬節会 7日 太陰暦1月7日
聖数7とは大陸の月神族が月29.5日を4で割って生まれた数である。そして7曜日暦が生まれる。この暦は全世界共通でここ数千年以上狂ったことはないと言われている。ミル(目羅)日が聖日で、民族により扱いが異なる。日曜日を休息日にする民族もいるが日本では遊び日である。
7曜日暦が何時から始まるか? 定かではないが。6000年は遡るようだ。干支暦とユダヤ暦と連動しているようだ。今年(2012)はユダヤ暦で5773(3761+2012)年である。

この聖数に拘ったのが耶(J)族のJapan、Jude、Jokerのようだ。日本(奴幡)の七部のようだ。七尾の能登部(奴徒部)になるのだろうか? 日本の三能登部と言えば加賀の能登半島、滋賀の能登川(愛知川)、奈良の能登川だろうか。魏志倭人伝の難升米である。
佐神(相模、最上、さ行)の四賀部とは佐賀、滋賀、須賀、曾賀を言うのだろうか。ここまで来ると四()拘り過ぎの感がするが。字余りのセガ(世賀)エンタープライズがどうして抜けているのか? 相模生まれのアイボ(相模)が知っているかも。七草粥を食べて考えよう。
能登川(愛知川)の三羅(猿)と信楽(四賀羅城)の四賀(鹿、馬)に日本の歴史を解く鍵がある。馬(四星)に乗った三猿(ミザル)星とはどの星か?

白馬を「あおうま」と読む。白馬の節会とは葵(AOY、あお井)の馬氏の出初式のようだ。長羅(おさる、猿)の乗る馬が白馬のようだ。猿と馬の馬舎の関係はここより生れたようだ。田尾泉(Taoism)の時代に由来する。そして弥生(YAYOY、八四一、耶世井)族に成長するのが数神(崇神)時代である。魏志倭人伝では馬氏を主要部族と見ている。
平安時代に日本書紀が最終編纂されたとき何故に神世十代に拘ったのだろうか。数理曼陀羅の歴史観では10進則宇宙観の大神開化など手に取るように分かる。魏志倭人伝の平安時代の振り仮名は余りにも正確である。今は情報過多で完全に邪馬台国を見失っているがいるが情報を整理整頓すればますます精度が上げられる。

耶神 七草粥 七曜暦 太陽暦1月7日
 ♪唐土の鳥が帰らぬ先に 七草祝う トトンガ トン♪
この歌の雰囲気は太陽暦では早い感じがする。どうも旧暦(中国暦)の雰囲気である。考えれば考えるほど迷宮入りする行事である。耶神の七曜暦が何時、Japan(耶幡)に渡来したのか。

「あおによし(AO二四四・10・十・テン・天)」奈良(七羅)時代より前の「そらみつ(曽羅三都)」七羅(奈良)時代の七曜暦の行事が変身し、定着したようだ。

邪(J)神 Janus Jupitor Joker 耶(Y)神
Japan(耶幡)、Jude(十土、とうど、唐土)、Jode(浄土)の青井(AOY、葵)の邪神三人衆と言えばヤーヌス、ジュピター、ジョーカになるのかな。それよりもAルファーからOメガのAOJ(青神)三人衆と言うべきかな。
ここで、Yanus(YNS)をヤンシュー(耶奴衆)と読めれば言霊の歴史解析入門である。青神(AOJ)の邪宗門徒の葵(AOY)が耶宗門徒の弥生(YAYOY、八四一)に変わるのが今代2000年紀の話になる。

Yanus(YNS)とはローマの三曽路土(ミソロジ・神話)説話の歳神(Spirit of Year)である。大田日徒(旅人・タビデ)時代なのでローマの辻説話は三年もあれば全世界に伝わった。今は一瞬に伝わる軽薄短小な時代だが口伝の言霊は重厚長大である。耶神を信じる二面宿弥(ジュク耶)として何時渡来したかである。
宿儺(SKN・奴)と書けばネストリウス(N佐徒羅US)派の邪宗門徒になり、宿弥(JY・耶)と書けばローマカソリック(羅間賀曽羅狗)の耶宗門徒になり、景行(教)時代の話になる。雄略(Y羅狗)時代に邪(J)神のAOY(葵)から耶(Y)神の弥生(YAYOY)に変わるようだ。
この東西世界の大騒動はJapan(邪・耶・八幡奴)の大地に克明に記録され、現代まで続いている。その典型がU様人羅人とO羽間人尾丸の今様騒動で、烏丸(U間・馬)騒動として京都の大地にも記録されいる。白馬をAOU間と読むのが分かるかな?日本の二面スクナはヤクザ(役三)とヤクシ(役四、薬師)に落ち着くのが弥生の役(八九)人時代のようだ。

葵暦とは「あいうえお」の五進則の日神暦で、弥生暦とは「ABCDEFGHIJ」の十進則の弥生暦である。

弥神 法隆寺金堂修正会 8日 太陽1月8−14日
修正会と言うと旧暦の正月の行事になり、中国太陰暦の春節の行事になる。今は太陽暦の第二週の行事になっている。法隆寺は藤原南家の総本山と考えると弥生暦の正月行事が太陽暦により元の1月に復活したことになる。
この中日の11日こそ、Jack(11、士、十一)の鏡開きで、神道の行事になる。なにしろ日本の暦は捻れに捩じり切っている。
弥生暦:八、九、十、十口、十日、十目、十田
 八日:弥生(八四一、13)の八幡の八日市日
 九日:弥勒(三六九、18)の玄人(九羅徒)の源九郎の元服日
 十日:皆(三七、10)の集まる十(Ju)のJapan日
 十口:11(Jack)の星神の士(十一)の恵比須祭日
 十日:12(Queen)の日神の女王(十二、四三五、卑弥呼、日巫)日
 十目:13(King)の目神の男玉(十三、富、六三四、武蔵)日
 十田:十四(豊)の田神の田舎日

日神 十日戎 20日 太陽暦1月10日頃
商売繁盛、ササもって来い!!
宝恵駕籠を担ぐ新成人とは浪速のひょうきん者か? 恵比須の住民か? 今神の今宮神社の東(E)空門(ソロモン)に瓢箪(ひょうきん?)山と呼ばれる生駒(E駒)山がある。エホバ(EHB、恵日部)山のモデルとも言われている。瓢箪島のモデルになったE島はどこにあるのか? なぜ、EASTをイーストと発音するのか?

戎族とは恵比須、恵比寿、夷、胡、蛭子等のいずれの羅漢か? 浪速(七二・9波)の玄人(九羅徒)か? 瓢箪(フクベ)か、福(二九・11)部か? ササ(笹、SS)族とは如何なる羅漢か? YEBISとは? 東京の恵比寿の天津族との関係は? そうそう、天津乙女は20世紀の今神の姫なのを余り知られていない。

これは日神暦20日の師走の行事の名残りの行事である。田舎者の弥生(八四一)族の見送りで、△(三角、帝)の弥勒(三六九)族の見送りが歌会始めになる。

陽暦 ジャヌアリ(あ羅井)師走 陰暦
師走とは一万年以上も続く、日神暦20日からの歳時記である。日神暦は五進則宇宙観なので、35日間は続いたようだ。この間に行ける範囲が国宮圏である。人口が増え、海・山の瀬・背道が整備されるに従い国宮圏は広くなってきた。
初代国宮を鹿児島神宮とみなし、伊勢神宮は第七代にした。この数理宇宙観で記紀万葉を最終編纂したのが平安時代の梨(七四・11)壺の五朝臣(Jack)である。

ジャヌアリ(耶奴あ羅井)とはローマ太陽暦の1月を言い、師走とは日本太陰暦の12月で春節正月前のこの時候を言った。日本太陽暦では正月前の12月を言うようになる。日本陰暦では師走の師は坊主になっている。このズレ関係に今代2000年の世界の歴史が隠されている。
ジャヌアリとはローマ太陽暦のヤヌス(耶神)の月を言う。ヤヌス(耶奴佐)とはローマ神話の二面歳神(イヤー、耶神)の男神である。ギリシャ神話のジュピター(月神)の女神に相当する。日本にヤンシュウ(耶奴衆)、二面スクナ(佐狗奴、三九七、19、裏玄人)として何時渡来したのだろうか。
太陽暦の発布と関係しているようだ。当時は大航海時代で世界の情報は三年もあれば全世界に伝わった。なにしろ日本民族は新しもの好きである。
ヤンシュウとは日本海を行く輩(耶賀羅)を言うようだ。その前身はムー大陸を行く猛者(MS、モーゼ)族を言うようだ。Moon族の聖山が月山(MoonSun)のようだ。対岸のウラジオストク(羅耶尾Stork)とはいかなる鳥か?

今代2000年は太陽暦のリズムで世界は動いてきた。太陽暦の歳神こそヤヌスである。二面ヤヌスはローマ陰暦の冬夏二季暦の歳神であり、四面ヤヌスになると太陽暦の冬春夏秋四季暦の歳神である。
最終的に日本で十一面観音として完成する。11は朝臣(Jack)に拘っている。主顔を入れると十二面で12は女王(クイン)になり、閏年13月は13の男王(キング)になる。
この頃、月神のイスラム教が誕生する。その影響で偶像崇拝を嫌うことが流行化し、秘仏の風習が生まれる。奈良高間と東大寺の二月堂(観音堂)で歳神を追うとよく分かる。

明治維新でローマ太陽暦が採用されるが色々の歳時記が廃止されて行く。ところが日神暦の35日間の師走が2日間の箱根駅伝として復活するのだ!!
      ここに日神民族の歴史が記録されている。


日神 童正月 25日 太陽暦1月15日頃
若羅部()として子供の自治を尊重してきたのは世界でも日本だけだった。それが小正月である。
比古連はこの頃は国宮から里に向け師走道中の最中である。里で留守を預かる大毘古、姫・媛が童正月を開催する。この日の祝日がなくなり、日本の子供の受難が始まる。まさにブルー マンディである。
日人(Human)にとって一番神聖な日である。日神の右手五指×左手五指の冬至25日のユビキタス(指切り)の日である。五本指の手の平から溢れた空間は月神の六界(無・Moon界)とみていた。

明治維新から始まる欧米の月人(Muman)ボケもここまで来てしまった。太陽暦の基本を知らないからである。中国の月神暦を採用した大化の改新からその気はあったが。それが植民地の大和暦である。この暦には今代1300年の日本の歴史が記録されている。
平城遷都1300年祭を見ているとよく分かる。もはやこの祝日を復活しても無理である。人は元に戻れぬ修羅の旅人である。ここまで来たら第七代国宮、伊勢神宮から第八代国宮に遷宮し、倭魂の日本民族独自の日神暦を作成・発布するしかない。
  遷宮とは改暦が伴うことがある。何回目の改暦になるのかな。
蛇足ながら、「は」行の次に「ま」行がなぜ来るのか? 日神のHumanと月神のMumanが知っているかも。


月神 春節 元日 2012年1月23日
景品でもらった無料携帯電話が久しぶりに鳴った。開けて見ると春節の挨拶のEメールである。それもフランスのピレネー大西洋県からである。ベトナム系華僑のハーフのフランス人からである。コートダジュールでショウビジネスのエイジェントをしていたが今は引退し老後を過ごしているようだ。10年ぶり位の便りである。
今年は龍歳々々と年賀状に書いていたが本当の龍歳は春節から始まるのをフランスの最南西端から知らされるとは。今思えばこの男とは初めて会ったのが20年程前で、
  フランスの龍市(Draguignan)だ!!
リヨンからプロバンスの山越えでコートダジュールに入る山側の玄関口のようなところにある。コートダジュールで繰り広げられるショウビジネスの裏側を垣間見せてくれた。それ以来たまに便りをする位だった。

この様にドラゴン(土羅賀奴、鳥神)、辰(田都)、立田、田尾、竜、龍の思い出を追うだけでも今代2672年位の人類の歴史が分かってくる。
ユウラシア宇宙観では日本の東南海から冬至太陽が昇り、ピレネーの西海に春分太陽が沈む。今まで人類はこの宇宙観を何回意識して来たのだろうか。辰支から昇る冬至太陽を龍まで昇華して行くのが魏志倭人伝の東南海宇宙観のようだ。

星神 初天神 34日 太陽暦1月24日
お初天神は太陽暦1月25日の祭日である。明治維新で太陽暦が採用されるまでは太陰暦の睦月25(5X5)日の祭日だったようだ。本来は大化の改新で太陰暦が採用される前からある天神組の祭日だった。
  日神暦34日の妙見(三四KN・神)の祭日である。
この時節には夕暮れにオリオン星座が山の端から昇り、明(三四)に向け黄泉(四三)の夜が始まる。スバル星(諸星)、オリオン宮(三星+四星=七星)と続く冬の星座のしんがり(殿)星がシリウス(狼・大神)星である。大市姫は大神星が三輪山から昇るのを見てこの祭日を宣誓したようだ。大神開化の数(崇)神時代からの祭日のようだ。
大神開化の頃、初瀬川を天の川に見たてて、三輪界隈に畝傍山を中心にしてオリオン宮のように色々の塚が配置してある。この宮の姫こそ大市命である。
仁徳時代には堺は遠里遠野(オリオン)として都開発されている。近畿七県の都として奈良(七羅、三羅+四羅)高間の総合開発がいよいよ始まる。この様子は魏志倭人伝を読めばよく分かると言うより、その後に続く東漢(やまとのあや)時代の記録が倭の大地に記録されている。

天神組の最高人は菅原道真である。大宰府に左遷されたのではなく、遣唐使廃止の外交の混乱を治めるため、都のことは源氏に任せ自ら大宰府に赴いたのである。天神組長は実行力がある。この時節に生まれたように説話風に脚色されたようだ。それがお初天神の嘘(宇曾)の鷽換え神事である。
留守中に都の宇曾が源氏の倭政権から藤原氏の大和政権に移行している。そして日本の歴史の改竄・隠蔽・捏造が常習化し、現代に至り、現代は花盛りである。菅原道真は国際通の漢学者であるが、和歌は得意だったのか? 後人が和歌を詠んだようだ。なりすましの歌や説話で日本の大河歴史物語は構成されている。

天神組とはいかなる集団か? 天(大一:十一)と組(九三:12)から分かるように女王(クイーン:12)に仕える弥勒(三六九)の比古(ジャック:11)の耶狗・天狗集団である。大神開化の奈良(七羅)高間総合開発のため生まれた組(デイベロパー)である。
その前身は北辰に背振山を頂く吉野ケ里の瀬降り人である。有明界の海の瀬道、山の背道を行く天水地人から始まるのが今代二千年の日本の東部開拓史である。
吉野ヶ里から阿波の吉野川、紀伊の吉野川(紀の川)へと開拓前線は東進し、地人の住む平原がだんだん拡大し、中央集権思想がだんだん形作られて行く。山(八間)・島(四間)の分権集団の連絡員が天界と海界の阿間を行く天海組員(阿部)こそ、我らの羽鳥の服(二九・11)部である。服部の羽奴を鳶職・師走人と呼ぶようでもある。文武両道に優れたヤクザ(役三)と薬師(役四)の七部族である。近畿七県と九州七県が生まれた頃の話である。

天神組で忘れてはいけないのが江戸の花火師の鍵屋・玉屋である。阿部の大神族の連絡員、狼煙組である。江戸の太平時代に失業し、始めたのが花火である。熊野川の田尾、篠原がルーツである。篠原が天水地人の近畿の最聖地だったことを地元の人でも忘れてしまうほどの昔に遡る。大神(狼)星が七面山から昇る田尾聖地である。江戸の入谷姫の里でもある。
雄略時代に奈良高間総合開発の目途が立ち、いよいよ東(吾妻)開発が始まる。押上(お師神)、亀戸天神から武蔵(六三四)総合開発が始まり、東京スカイツリーで一段落するのが武蔵野の今代1500年の歴史である。

ここでアルファベットでは天(テン、十)番目に「J(ジュウ、十)」があるがトランプでは天一(テンイチ、11)番目にJackの「J」がある。またアルファベットではJKLMと並ぶがトランプではJQKと並ぶ。この捩じれが分かれば今代三千年の人類の歴史も分かる。

今は飛行機でどこにでも行ける大旅行時代になった。しかし、点から点へ移動する似たもの同士の情報過密な時代で、人間の了見がものすごく狭くなっている。ダビデ(田日徒、旅徒)の時代は点から点で線で結ぶ徒歩(カチ、賀土、God)の時代で、ヘレニズム時代が人間の了見は最大だったようだ。
それを境に前後で何回程の大旅行時代があったのだろうか。国宮から里宮への師走時代こそ、女王(日巫、シャーマン)時代である。冬の星座を眺めながらオリオン(お羅お奴)を夢見る時代である。

新日神 冬(二夕)と雪(夕城) 太陽暦2月
二月を英語でフェブラリと言うが「二夕あ羅井」と音訳できたら今代2000年の歴史がよく分かる。「二夕」が「夕二」になり、字霊「冬」が誕生したのも分かる。「夕(Yu・Ja)あ羅井」がジャニュアリに音訳されるのも分かる。

三白と言えば塩、雪、城(白)である。夕(Yu)の耶(Y・J)神が登場する前までは雪はシーと呼ばれたようだ。ドイツ語では今でも現役である。塩(Sea尾)とは海水を蒸発して最後に残るものを言う。
鎌倉の鶴岡八幡宮のお膝元を何故「雪(夕城)の下」と呼ばれるのか分かるかな。冬(二夕)の多賀城で考えてください。
「七夕」が何故「たなばた(田奴羽田)」と読まれるのか。羽田国際空港で時間潰しに考えてみたら?

星神 節分 44 太陽暦2月3日頃
星神暦が一番正確な年暦である。タイランド(泰羅土)から樺太(加羅泰)までの東南アジア(泰)圏で男が天体観測を始めたのが泰山府である。今のグリニジ天文台(泰)のようなものである。年閏を巡る男の凝り性が天文科学の発展である。
そして日神(冬夏)暦と月神(春秋)暦を合体し、太陰四季暦を作成した。この太陰四季暦を正式採用したのが秦の始皇帝である。統一された正当な理論の暦がなければ中央集権の国家運営はできない。この暦こそ中華思想の根源である。
後にこれを見習ったのがユリウス太陽暦である。四年に一度の閏調整する年365日暦でる。現代の太陽暦はルネサンスで改定されたグレゴリウス太陽暦である。
日本書紀を編纂した舎人親王はこの事実を知っていたようだ。泰山鳴動鼠一匹と言うがかなりの優秀な難民が日本に渡来したようだ。日本こそ泰山府君の正当派と見て皇紀元年を決めている。また東漢(倭の綾)こそ聖書がモデルにしている。

節分の行事は日本だけの習慣のようだ。どうも日神暦45日とは里正月を迎える10日前の準備日のようだ。国宮から師走道中の彦もそろそろ里に着く頃である。里の留守を預かる姫・大毘古が里正月の準備を始める。

吉野の蔵王堂では「福は内、鬼も内」と言って全国の鬼を迎え入れる。蔵王(Z王)堂は役行者を聖人と見る吉野修験のお堂から始まる。
平城京の造営を指揮したのは役行者(えんのぎょうじゃ)である。役小角(恵奴のお頭奴)とも呼ばれ、鬼(お奴)の頭領である。鬼とは福(二九、11、Jack)ヤクザ(八九三)、薬師(八九四)等の行事(ゆきじ)八幡族である。土建族である。行基が役(八九)の行者の愛弟子でもある。
平城京が完成すると中央集権の唐(加羅)惚け大和魂の格差社会が誕生する。行事族は失業し、鬼(お奴)・悪党(あ九党)と呼ばれるようになり、助け合いを基本とする倭魂の地方分権社会が崩壊し始める。大化の改新と明治維新は本当によく似ている。科学に溺れ修験を知らないヤクザ系と薬師系に分かれる八百長の時代である。
この唐惚けから日本を救ったの奈良伏見(二四三、9)の玄人(九羅徒)、菅原道真である。悪(あ九・一九・10)党である。Scienceとは修験(SGN)を意味する。自然のSign(験)をどのように捉えるかである。

節分には恵方巻を歳徳神の縁起方向に向き、食べると言うが恵方とは東南を言うのだろうか。北辰から図南へ「あいうえお」で割り振ると恵方とは。正三角形の右斜面方向のようだ。どんな星宿方向なんだろうか?
今は北京と言うが燕(恵奴)京から始まる。恵比須族とはどんな部族を言うのだろうか? 山王の猿(恵奴)神の使い猿田彦が知っているようだ。カエサル(加恵佐羅)との関係は?


星神 立春 45日 太陽暦2月4日頃
春よ、こい。早く、こい。
1・2月春節:中国正月
2・3月謝肉祭:ニッサンのカーニバル(神春
3・4月復活祭:イースターのミシア(三四目田)神

天体観測で星の動きから一年は365.XX日と正確に割り出したのが泰山府君のようだ。それまでは日の出、月の出を目視して、日読み(暦)と月読みをしていた。
日出観測は朝早起きの几帳面な女王(日巫、卑弥呼、シャーマン、Summer)の仕事である。月出観測は夜遊び好きで気まぐれな男王(聖、ヒジュラ、カレン)の仕事になるが毎日は続かない。
日巫の年364,365、366日暦が実用的であり、一万年以上も前から日本で使用されていた。月読み暦では年12,13月になり、年暦としては一か月の変動は大き過ぎる。共に目視の事後調整暦である。

遊牧民のイスラム圏にも高度な社会が生まれると正確な暦が必要になる。月を神と見るヒジュラ(聖)が登場すると歳12月で押し通す神暦が生まれる。何々星が見えるようになるとナイル川が氾濫する等、星の動きを年季の目安にしている。
中国の正月、春節は立春を基準に前後の新月(朔月)に決めている。事前に立春を決めるには高度な天文理論が必要である。今のイスラム暦ではまだ目視で月の出を観測して決める事後暦である。月を神と見ているので事前にその動きを人間が予測するのは恐れおおいいことである。まして閏月のような半端月を神が認めるはずがない。
そして歳12月で押し通すのがイスラム暦で、歳365日で押し通すのが古代エジプト太陽暦である。月閏と日閏があるので何年もするとと時節とずれが出てくる。星座暦が時節暦として使われた。時節と時間の精度を上げるため太陰暦・太陽暦が誕生する。コンピュウータ暦では閏秒がなくなり、新しい歳暦が生まれるだろう。それが第三千年紀の始まりになるだろう。

第一千年紀のの国際宇宙観は魏志倭人伝を読むとよく分かる。
  「その俗は正歳四節を知らず、ただ春耕秋収を記して年紀となす。」
日神暦のほうが中国暦より実用的であると後で分かったのか、この文章が改定削除されている。中国六千年と言うが日本一万年余りには敵わない。ところが現代日本人が「一陽来復」の意味も理解できなくなった。民族魂喪失もかなりの重症な植民地魂が全盛である。

    金賀正歳四節
年暦の元日をいつにするかである。定住社会が生まれると太陽の空門を山立てするか、平原なら石積み日時計で定点観測をする。冬至が特定できるので冬夏二季節暦になる。
遊牧民なら移動するので定点観測が出来ず、日の出位置が月の出位置を追い越すときを目安にする春秋二季節である。月の出位置は若干変動するので、正確ではないが実生活には支障はない。
定住社会が高度化すると一年を四等分する四方陣の暦が必要になる。その暦が金賀(謹賀)正歳四節暦である。金賀(キング)とはこの暦を発布した泰山府君を言う。

「一陽来復」とは冬至で復活した太陽が春門に再び立つことを言う。一年を八等分した45.XX日ごとに冬至、立春、春分、立夏、夏至、立秋、秋分、立冬と空門が設けてある。応神八幡の八方陣に拘っている。
更に一陽(夕)と二夕(冬)は耶(J,Y)神のジャニュアリ(January)と比(F)神のフェブラリ(冬在り)に対応するのが分かれば日神暦と太陽暦の関係が分かり、人類歴史など容易に解読できる。

安神 建国記念日 午日 太陽暦2月11日
建国記念日ほど意味不明な休日はない。
独立記念日、革命記念日、解放記念日のように無条件に皆が祝う日が日本にはないのだ。本当はあるのだ!!それが建国記念日である。日本だけにしかない記念日かもしれない。無条件で皆が祝う日とは?
日本では元旦である。日神暦を発布した日である。日神暦とは一万年は遡る人類最古の北ユウラシア圏の暦である。

しかし、太陽暦2月11日もまた建国記念日と勘違いするほどの特異日なのである。立春(2月4)からの7日目である。竜春の七日目の神聖日である。干支暦が発布されたアトランチス圏の最神聖日である。「七」に拘る民族は沢山いる。今では週7日は全世界に通じる。
考えて見れば中国太陰暦を採用しなければ立春がないのでこの建国記念日は日本にはないはずである。中国太陰暦の採用は万葉集の最後に記載されている。国際的に見れば属国記念日であるが何の抵抗なく祝う部族がいる。バレンタインとクリスマスを祝う程度の感覚である。大和国の建国記念日とでも言うべきだろう。
魏志倭人伝でも預言しているように、日本(二幡)には倭部と大和部の二大部族が住んでいる。江戸の倭部、東京の大和部と言えば分かるかな? 平城京の大和部が日本の天下を取る話が平城遷都1300年の日本の歴史である。歴史の改竄、隠蔽、捏造を得意とする人類史上最高の八百長国家の誕生である。長州スサノウ国家である。その語部こそ、アルチン宦官の司馬遼太郎である。少しは恥を知れ!!

古事記の語部は稗田阿礼と言われているが太安万侶の演出と見るべきだ。当時の唐惚けは酷く、焚書坑神の命により古書を燃やしたようだ。日本民族は人類史上最初に文字を使いこなした民族である。それを見習い漢民族が複雑高度にしたのが漢字である。
漢文明に追いつき国体も整ったとき、国威を示すため国歴を編纂しようとしたが古書を燃やしたので無いのである。あれば国命に反したことになる。そこで、太安万侶は密かに隠し持っていたのを稗田阿礼が暗唱していたような形式で古事記を編纂したのである。記紀の数理宇宙観は男の宇宙観である。

日本書紀を編纂した舎人親王あたりが中国太陰暦の制定の経緯を知っていたようだ。彼はアトランチス圏の正統派のようだ。
安神の安とはウ(W)冠の女を意味し、宇宙の中心にいる女(Woman)を意味する。その女こそ日神暦の宇台(日神天文台)にいる日巫(卑弥呼)である。宇台とは邪馬台の前の第四代国宮である。
宇台の女王の日神暦を参考にして、男王の泰山府君が四季暦を制定し、この暦を秦の始皇帝が中華暦として正式採用した。そして太陰暦として日本で採用された日を日本の建国記念日としたようだ。そして泰山府君の就任を皇紀元年としている。

太陰暦が採用されると月読みの習慣が入ってくる。ムー文化時代を入れると二度目なので、慣れており、導入自体はスムーズなようだ。ムー文化時代は年12、閏13月の暦である。日読み(暦)の習慣がある日本民族は1、2−6、閏7、8−12、13月と月読みしたようだ。金賀(キング)の聖数13と奴本(日幡)聖数七の誕生である。奈良(七羅)の誕生である。

新中国太陰暦は高度な天文学に基づくものである。太陽暦2月11日とは立春(2月4日)から7(午の聖数)日目である。干支暦の午の日がこの日に毎年来るとは限らない。
初午とは立春正月の風習のようだ。立春の到来を祝って、七日目に七草粥を食べたようだ。いよいよ春が来る。
            唐土の鳥が渡らぬ先に 七草祝うトトンがトン
加羅(唐)土とはカラマゾフ(加羅馬曽府)の兄弟が棲むアトランチス文化圏をいうようだ。
午の日が太陽暦の2月11日に来る年は大和部の日本征服記念日として最大限に祝う歳にすべきである。毎年同じことを言っていると嫌われるより忘れ去られ、正体不明の休日が残るだけである。

日神 里正月 55日 太陽暦2月14日
里正月と言っても分からないだろう。セイント バレンタイン(Sun徒 日羅奴田井)の日と言うと分かりやすい。キリストが生まれる遥か前からある日神暦の祝日である。
日神五進則の一陽来復の五、十、二五、五五日の最後の特異日である。ここ一万年余り狂ったことのないのがウラル・アルタイ(宇羅羅・安羅田井)の日神暦である。住む所により3日程浮動していたようだ。

国宮から師走してきた彦(比古)が日巫の詔を里の姫・媛(比売)に伝え、里正月実行委員会の大毘古が検討し、里の詔を姫・媛が宣言する日である。国宮から師走してきた村の彦連に労をねぎらい贈りものをした。今はチョコレートのようだが、肝心の彦連は弱体化してしまった。

月神 初午 7日 太陽暦2012年2月15日頃
初午とは立春後の初午の日だとばかり思っていたら暦に今日は「二の午」と書かれていた。今年は三の午まであるようだ。太陽暦の二月の行事と見ているようだ。すると旧暦の頃は睦月(春節正月)の行事と見ていたのかな。日本民族の暦感はどれが正しいのか。
午は干支暦の十二支7番目である。干支暦は月神聖数12と片手聖数5に拘り、日読み(暦)している。神暦なので閏は認めず単純に日を数えている。ここ数千年狂ったことがない国際暦と言われている。どうも馬氏の暦のようだ。
この月神暦から週7日暦が生まれたと考えられるので聖数「」に拘わるユダヤ暦約6000年よりも古いようだ。十二支を動物と結び付けたのはアニミズムが流行した時代のようだ。

ともあれ、立春の初午の日には春に向けての山歩きの体慣らしによく松尾詣でをする。裏山の矢田丘陵の尾根道を2時間も散策すると松尾神社(寺)に行ける。法隆寺の玄武北辰にある奥宮である。
聖徳太子の率いる騎馬軍団は当時世界最強で、なにしろ後に半島で圧勝した唐が日本に攻め込むのをためらったくらいである。日の出る国の頭領としての自負は最高潮にあった。その頭領として午(馬)に拘るのがよく分かる。

馬屋(厩)の舎人親王が松尾山に籠り日本書紀を編纂したと言われている。松尾山の国見台で休憩しながら奈良高間を望みながら舎人親王の思いに耽ることがある。
秋津宮から始まる奈良高間総合開発の何番目の国見台になるのだろうか。松尾神社の東西線を越えるといよいよ最後の平城京の造営である。いよいよ第六代国宮、高天原時代の終わりになる。そして第七代伊勢神宮に遷宮する。

松尾山は奈良高間(盆地)では白虎の西山になるが平群高間では白虎信貴山と対になる青龍山でもある。神社が司令部で、寺が屯所になる東西線を意識した上下関係の耶土(ヤード、兵営)配置である。対所の青龍東山地区には和邇神社、帯解寺(霊松庵)、弘仁寺がある。松を龍の化身と見ている。龍騎の練兵地のようだ。
信貴山こそ、漢惚けした長州スサノウ族が起した倭国の大乱の東軍の最後の砦跡である。ここで第一回戦国時代の終了である。これを境に奈良高間の総合開発が始まる。雄略維新で東山道と東部開拓前線が伸びて行く。
第二回戦国時代の総司令部が松尾山にあったようだ。唐惚けした長州スサノウ族の反乱は瀬戸内海防衛線の砦、信貴山で護れるが。唐と新羅の連合軍が日本海から攻めてきたらどうするか。前衛を因幡に起き、琵琶湖西岸を固める和邇防衛線である。そして大津京が造営される。
聖徳太子が派遣した遣隋使の小野妹子こそ、和邇(和日、倭奴)族である。稲葉の八幡軍団の末裔、小野氏である。稲部、因部も伊部(インベ)系である。小野氏の追放劇が因幡の白兎の話である。
稲葉時代は竜宇宙観で、松塚と高松塚は東南の辰方向に配置されている。伊部(インベ)系の倭族は文武両道に優れていたがそれを妬む唐ボケ長州スサノウ系の大和族が倭族の追放を始める。

舎人親王は唐ボケした輩により長屋王・有馬皇子・大津皇子・柿本人麻呂と粛清された馬氏の名誉を懸けている。唐文明を見据えて馬氏のルーツを探っている。馬氏の優秀さはジンギス ハーン、雷電為五郎、白鵬と清の愛新覚羅家を見れば分かる。魏志倭人伝でも日本は馬氏の国と見ている。

まず漢時代に史記を編纂した司馬氏の血を追って、泰山府君の即位を皇紀元年と定め、日本の歴史を司馬(四間)宇宙観で見直している。同じく馬氏の太安万侶は普遍的三間宇宙観で古事記を編纂していた。
魏志倭人伝と古事記は弥馬升(三間都)女王宇宙観で書かれ、日本書紀では雄略維新からの四万十(四間都)男王宇宙観で書かれている。雄略維新で佐島(三島)から四国(四島)に変わっている。面積から見て阿波が徳島と香川に二分され、三間から四間になる。

今年は皇紀2672年であるので紀元前200年頃に生まれた漢民族より倭民族のほうが古い。中国とは色々の民族の合従連衡国家であり、秦の始皇帝から中央集権の中華思想が生まれ、漢民族が生まれる。
唐惚けした平城京遷都1300年の歴史しかない大和民族とはいかなる民族か。魏志倭人伝では病族として預言されているが。
龍騎兵の朝青龍和邇族こそ、弥勒(三六九)倭魂の片桐(方木羅)筒井族を言うのかな。五三桐、五七桐紋として豊富(十四十三)に引き継がれて行くようだ。

法隆寺を中心とした藤原南家である。中家とは中臣族で、枚岡神社、生駒神社、霊山寺、春日神社が平城京の東西中央線上に並ぶ。霊山寺こそ、小野妹子の息子小野富人(十三徒)の寺で南(三七三、13)家の聖徳太子と強く結ばれている。
遣隋使の「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」、まさに「日本アズNo.1」を名実ともに自負している。それが聖徳太子である。今代1300年紀では「日本アズNo.1」とおだてられ日本をトリプル敗戦に堕落して行く。

弥生(八四一)大和魂の多数決追従日和見族には勝てないのが平城遷都1300年の日本の歴史のようだ。その終わりを告げるのが日本海会戦を頂点とする坂の上の話である。あとはどこまで転げ落ちるのだろうか。勝ち馬の尻に乗ることだけを考える欧州惚けの植民地になってしまった。

伊神 祈年祭 豊日 太陽暦2月17日
日本の東部開拓前線を指揮してきたのが伊部(インベ、イブ)のようである。因部、員部、印部、斎部等が伊部の諸会派のようだ。奈良高間の中心に松塚を創り、祀りごとを始めた司族(忌部)である。その最後の仕上げが伊勢神宮のようだ。

伊勢神宮の内宮には天照大御神が祀られている。平城京では春日大社界隈の高台(高間・天)が外京と呼ばれるように、高天原時代の奈良(七羅)の都である。すると伊勢神宮でも外宮のほうが内宮より古いことになる。
天照大御神が内宮に祀られているので、元旦は喜歳祭とも言うべき国家正月祭のようだ。一方、外宮には豊受大御神が祀られている。どうも外宮で祝う祈年祭が里正月の名残りのようだ。2月17日とは立春(4日)から豊(とよ、十四)日目である。富(とみ、十三)の男王(キング)の上にいる神のようだ。伊部も合従連衡複雑化し、中臣(とみ)が生れ、藤原(二二日羅)に成長し、豊臣(十四十三)になるようだ。

豊国と言えば今の大分(井田)で、魏志倭人伝では斯馬(四間)国として紹介されている。筑紫(津口四)四間の東南間である。
伊万里、大分(万里)、一分(生駒)へ、伊都島(糸島・福岡)、伊都郡(和歌山)、伊勢への東部開拓(豊国化)史が伊部(いんべ)の650年の歴史と舎人親王は見ている。瀬戸内海時代である。

神代十代の天皇の年齢を二倍して、皇紀元年(紀元前660年)を創作しているが泰山府君の就任年とほぼ一致するようだ。舎人親王は泰山府君の即位を皇紀元年とみて日本書紀を編集している。
秋津宮から始まる奈良高間(盆地)総合開発も北辰玄武の内宮として平城京に中央集権国家が生まれると政教分離のため、伊勢に国家神宮の内宮を造営し、今までの田舎宮を外宮にした。
大化の改新の西暦646年を基準にして日本の歴史を構築している。650年前が西暦元年とほぼ一致する。約1300年前が紀元前660年になる。約1300年後の1946年が終戦の翌年であり、皇紀2600年の五年節になる。富百年(1300年)を日本歴史のインターバルと見ている。すると平城遷都1300年がタイムウエイブ ゼロになるのだろうか。

伊勢神宮は第七代国宮であるのを日本民族はすっかり忘れたようだ。平城遷都1300年と騒ぐが平城京に都があったのは「唐様に売り家と書く三代目」、100年と持たなかった。正式には伊勢神宮1300年紀祭と言うべきであろう。
皇紀2672年間(平成24年まで)に国宮は第四代宇台、第五代邪馬台、第六代高天原と遷宮を繰り返し、現代の第七代伊勢神宮に至る。第八代国宮を何処に遷宮するかである。20世紀の世界最大都の田舎宮に、魏志倭人伝に預言されていることである。

祈年祭は明治の改暦前は旧暦2月4日に行われていたと言うが今の太陽暦なら3月の行事になる。事実北国に行くと太陽暦3月4日の行事にしている。色々と日読み、月読みが捩じれている。それが八百長、次郎長、何でもありの伊勢神宮明神時代である。
万葉集の最後に歌われているように、中国の太陰暦の採用により倭民族の暦感が狂いだし、ハイカラな大和暦に草木もなびいて行ったようだ。明治維新には太陽暦を採用し、同じようなことが起きている。中国暦と西欧暦で日本民族の本来の日神暦感は捩じれに捩じれてしまった。

  本来の暦感を思い出さないと日本民族はもはや救われない。

日本人の、日本人による、日本人のための暦を発布しないと日本人の暦感は狂いぱなしになる。日本(弐幡、奴幡)魂が忘れ去られて行く。

  二月(二夕、冬、賀津)に春が立つ。
  一陽来復、いよいよ春の陽射の候 試別火 2月20日
  神日春カーニバル修日会
二月は立春の祭月である。カーニバル(神日春)と言えばカンヌ・ニース(神奴・奴佐)とリオ(羅尾)である。ムー大陸の真冬と真夏の祭である。ムー大陸時代の復活である。
人類はアフリカから旅立ち南米に辿り着いたの何時頃だろうか。逆を旅するのも容易になり、地球をムー大陸と認識したようだ。「まみむ(一三六)」で三分割して見るとミドルに位置するのが日本である。
ユウラシア大陸を陸奴のMoon圏と海奴のNoon圏と見るようなり、Moon圏のミドルをレナ(羅奴)川と見ている。Noon圏のミドルに日本がある。アルファベット、ABC--MN--XYZの世界観である。
日本のミドルは三河と耳川(手取川)と見ている。ちょとずれるが天竜川と姫川を地球の割れ目(ミドル)と見ていたようだ。それがミミズク(三三津九)のミネルバ(三奴羅羽)の梟(二九羅、11等、Jack)伝説である。仏法僧とコノハズクの蓬莱山こそ、世界の知恵が集まる所である。

キリストが生まれる遥か昔からカーニバルがある。ウラル・アルタイの日神暦55日の里正月が起源である。だから里正月の祭日の決め方を見ればその民族の起源が分かる。
定住社会が生まれると正確な年暦が必要になり、日読み(暦)し始める。日神暦55日を里正月としたようだ。セイント バレンタイン(Sun徒 日羅奴田井)の日である。日羅(HR)から春・原(HR)の語彙が生まれたようだ。春に張り切るのがHerror(HR、平・広尾)である。

太陽暦を現代一番忠実に運用しているのは日本民族のみである。日神暦の伝統があるからだ。西欧正月のイースター(復活祭)にしても、中国の春節にしても太陰暦で決めているので月齢で浮動する。またイスラム暦は完全な月神暦である。

しかし日本民族は大陸の太陰暦を真似して改暦を繰り返している内に日神暦の里正月を見失う。太陽暦ではセント バレンタインの祝日として復活しているのに気が付かないようだ。ここまで忘れ切るにはどれだけの年月が立っているのだろうか。
春日神(神日春、カーニバル)を自負する春日大社でさえこの里正月を見失っている。倭こころを見失った大和民族の起源を探る必要がある。舎人親王は知っていたようだ。大和魂を詠う本居宣長に聞いても倭魂の春日神は無理である。

睦月(六月)
睦月とは旧暦(中国暦)の立春正月(春節)である。日本では月読みして六月(睦月)と読んでいる。これは天体観測の中国太陰暦と異なる月読み目視事後暦の呼称である。どうもムー大陸の月神暦感のようだ。
立春正月は太陽暦の二月になるので、6ヶ月前とは二月、一月、十二月、十一月、十月、九月と逆月読みすると秋分(9月23日)の頃から月読みし始めている。睦月(六月)とは春秋二季暦の終わり月になる。これは大陸遊牧民(Moon族)の暦感である。

この大陸暦は中国太陰暦の渡来する遥か前にツラン(津羅奴)族が日本に伝えている。月(津支)の語源を追えば分かりそうだ。日本民族はそのとき既に日神暦(日読み)を使用していた。
  「」をした樹木を見たことがありますか?
字霊「木」は象形文字ではなく、どうも数理宇宙観の文字のようなのだ。六方を表す「六支」を意味するようだ。「六(ム)」はムー文化と関係あるようなのだ。
言霊「Moon(六奴)」のほうが言霊「月(つき)」より古いようだ。ムー大陸から渡来した津羅奴(ツラン)がもたらしたので「津支(つき)」と言う言霊が生まれたようだ。鶴(津羅)、桂(賀津羅)、葛城(賀津羅支)等に紛れ込んでいるのである。
馬氏が何時日本に渡来したかである。干支暦も伝えたようだ。舎人親王は馬氏の津羅奴の血を引いているようだ。魏志倭人伝でも日本は馬氏の国と見ている。

Moon(月)大陸にたいしてNoon(日)大陸の宇宙観があるとすると北ユウラシア陸奴と南ユウラシア海奴の二大宇宙観があったようだ。こ狭間に生まれたのがアトランチス文化のようだ。字霊「木」を「六(む)」から「き」と読むようになる。その文化の中心は満州里(間奴土羅、まんちゅり、ManTree)のようだ。色々の言霊が四方八方に木のように広がったようだ。

本州は秋津(あ木津)島と呼ばれる前は木島(四間)と呼ばれていた。木曽川を木島の主川とみており、九州は阿蘇(曽)、四国は佐曽、北海道は恵曽と呼ばれていたのが四間(島)時代である。
山(八間)時代になるとは九州、四国、中国、近畿、中部、関東、東北、北海道になり、八幡(間)時代を言うようだ。吉野ヶ里から東部開拓史がいよいよ本格化するのが今代2000年史である。

地球を「あとらす(あ土羅佐)」と呼ぶのがアトランチス文化のようだ。「あ**」の秋津(あ木津)、愛宕(あ田古)、足立(あ田土)、アマゾン(あ間曽奴)等の言霊が生れている。

欧神 テルミナリア祭 神日 太陽暦2月28・9日
この祭日を知らない国際歴史学者は皆インチキと言っても過言ではない。
ここ二千年、国際社会を律してきた太陽暦の起源を知らないとは!!

ローマ都市国家連合の大神官でもあったシーザは戦争に明け暮れし、ローマを留守にするので、ローマ月神暦の正月を宣言するものがいなくなり、ローマの暦が乱れに乱れてしまった。男が月読みをすると碌なことが起きない。
万葉集の最後で大伴家持が心配するように中国太陰暦の採用を宣言している。それまでは日巫(卑弥呼)が日読み(暦)していた。女性は朝早起きで几帳面である。年364、5,6日の太陽山立ての目視暦なので狂いようがない。なにしろ日本の日神暦は一万年以上も使い込まれてきた。

シーザはクレオパトラと遊んでいたように言う歴史家は大間違いである。エジプトの天文学者から日巫暦の話を聞き、とうてい倭国まで行けないのでクレオパトラで我慢したのである。それを遥か昔にやってのけたのがキング ソロモン(金賀空門)とシバ(斯馬)の女王の話である。光は東方から、本当に天下太平洋だった。
シーザはその悔しさに打ち勝つため学問し、天文学を極め、月読みする必要のない男王の太陽暦を作成したのだ。二月を月神の神聖月にし、28(4X7)日と四年に一度の29日の閏年である。それでも狂いが出るので、ルネサンスの頃、400年ルールを導入した。
それに較べ、一万年以上も狂いの出ない日巫暦はいかに素晴らしいかがよく分かる。それが日本民族の勤勉さでもある。

蛇足になるが倭人を見れば分かるだろう。鼻が高かろうが、低かろうが余り歴史に関係ない。この頃はイケメンがちやほやされている。浅井三姉妹の江(ごう)の賀内(がうち、河内)の賀名生姫も注目されている。もっとルーツを追うのが歴史学である。賀内と宮内の違いは?

テルミナルアとはターミナルを意味し、年末日を意味する。春分の前の新月の1週間前の日である。平均すると春分の15日前の7日前なので太陽暦の3月1日頃になる。新年の準備祭りのようだ。復活祭と対の祭になりそうだ。

日神 閏2月29日 70日 平成24年
ローマ太陰暦では月神暦なので、年度末(ターミナル)は毎年この日を境に前後15日間浮動していた。また年12月と閏13月を決めるのも大変である。
高度社会になり、貨幣経済が発展すると社会活動は日読みで決めるようになるので、一年の長さが異なる月神暦では納税計算が大変である。ローマ帝国のような大国になると太陽の時差により、月神暦が場所により一日狂うことがあり、この狂いが閏一月の狂いに発展することもある。
   ここでシーザが四年に一度、閏日を入れる太陽暦を制定した。


木神東大寺二月堂修二会 太陽暦2月15日ー3月14日
   お水取り(賀神 火祭
お水取りとは東大寺の二月堂の十一面観音に国家安泰を祈る祭である。旧暦の二月の行事だった。賀神の予定表でも分かるように準備から満行まで28(4X7)日かけて行う。7日周期に拘るなら弥生暦の行事になる。
旧暦は太陰暦なので前後14(2X7)日に分け、中日の2月1日は朔(新)月になり、その闇を照らすように松明が上堂し、本行が始まる。旧暦ならローマ太陰暦のテルミナリアの祭日と一致する。だがローマと奈良では月の出時刻が異なるので、閏の年は一ヶ月ずれることもある。それがシーザを苦しめた太陰暦の欠陥である。

イスラム暦は純然な月神12月暦なので月の閏調整はないので太陽暦とは毎年11日程のズレが生まれる。だからイスラム暦と太陽暦では年齢が同じでない。また月出時刻が場所により異なるので、一日のズレが出るときもある。これも大神官で、ローマ太陰暦の運用者であるシーザを苦しめた。
お水取りの諸行
田尾泉時代は日本は極東の片田舎の最大難民受け入れ多民族国家(アメリカのような)だったが奈良時代から閉鎖的になる。その区切りの行事が「お水取り」である。その諸行こそ多民族国家なる故に世界歴史の生きた記録でもある。1260年途絶えることなく毎年繰り返されてきた。まさに諸行有常である。
明神暦 
毎日の諸行は夕暮れから六時(日中・日没・初夜・半夜・後夜・晨朝)の時間割で行われ、本行は日没から始まる。これは月読みの男暦である。一万年以上続いた日読み(暦)の女暦と共存したのが倭の弥生明神暦で、大和太陰暦の採用は万葉集の最後で大伴家持が述べている。
二月堂のお水取りは大和太陰暦2月祭である。ローマ太陰暦の正月(スプリング、立春)より一週間(七日)早いテルミナリア(準備)祭と一致するので、太陽暦の三月正月と一致したのである。
ローマ旧暦は太陰暦で、春分前の新月の7日前が月神暦の元日にしている。月齢で浮動するが平均すると3月1日になり、現代の四季暦が引き継いでいる。
一番松明上堂 スプリング正月1日明神暦 ●日 ▲■
10人の練行衆が本堂入りする案内松明である。なにしろ大きい。各練行衆が堂入りするごとにその完了を告げるように燃え上がる大松明が高楼の舞台を走る。計10回繰り返されるので壮観である。
この光景をシーザ帝が見たら泣いて喜ぶだろう。太陽暦の立春(スプリング)を祝っているのは世界でも東大寺の2月堂だけである。どうしてこんなことになるのだろうか? 偶然か、必然か?

まさにこの火祭こそ、日神、月神、星神が交差する太陰暦の祭である。日本書紀を編纂した舎人親王は太陽暦の存在を知っていたようだ。現代人が知っているくらいだから。しかしその宇宙観を知っている人は今は何人いるだろうか?
旧暦は中国暦と言うより泰山府君暦と見ており、日本が泰山府君の正統派と見ている。なにしろ日本には一万年以上続いた日神暦の伝統があり、伊勢神宮を第七(3+4)国宮と見ている。
神名帳読み上げ スプリング正月1ー14日(明神暦 口ー豊 日)
アルファベット26文字を意識しているのだろうか、まず初段で26菩薩(日佐都)を読み上げる。日本を裏表富(十三)菩薩国と見ているようだ。この菩薩を特定すれば神国日本の基本構造が分かりそうだ。
二段から八段までは各地の主要明神の読み上げで、日本には万三千七百余りの明神いたで結んでいる。その前身は日神比売神社と月神比古神社のようだ。終わりの九段では天満天神と10御霊を読み上げでいる。
天平時代は天神綺羅星と十(テン・天)諸星の11(十一、士)星宇宙観で成り立っているようだ。菅原道真を輩出する天神族とはどんな部族だろうか。大和西大寺の伏見(二四三、9)の玄人(九羅徒)族のようだ。
雛(日奴)祭 旧暦3月3日
重陽の節句なので旧暦の三月の行事になる。ならば二月堂の隣にある三月堂(法華堂)を覗いてみる。
不空羂索観音が祀ってあり、その宝冠はツーターカーメンの冠、ルイ14世の冠と並ぶ世界の三大冠と言われているがあまり有名ではない。この宝冠こそ、泰山府君、漢の皇帝の系譜を証明するものである。日本が泰山府君の正統派である。

雛祭りと言うが昔は畳の上での人形遊びだった。今の段飾りは心技体を重んじる官軍の階級社会を象徴するものである。この頃の姫は西洋式の略式の冠を被るようになったがその前までの宝冠こそ女皇帝を証明するものだった。
中国から来る観光客がこの冠を見て中国で、廃れてしまったので買って帰りたいと言うが日本でももはや生産しなくなったようだ。日本人は人類史上一番理想的だった政事体制、日奴の女王制を忘れたようだ。

「心技体と清く、正しく、美しく」の大和心は春霞だったのか? 霞ヶ関一丁目一番地一の関取
春日錦はどこへ行ったのか。泰山府君の略式男冠を得意になり被る輩が春になると徘徊している。
実忠忌 スプリング正月5日
過去帳読み上げ スプリング正月5、12日(明神暦 古、王 日)
二月堂のお水鳥(お水取り)は笠置の鳥か。笠鳥こそ、東大寺の大伽藍(笠鳥、カサドラル)である。
大伽藍を本願したのは聖武皇帝である。泰山府君の正統派として皇帝を名乗っている。木簡等によると天武天皇から天皇の呼称が始まり。その前までは大君のようだ。母系女王国では姫と媛の系統があり、姫が泰山府君系のようだ。
過去帳には二月堂に諸物を寄進した人が現代まで記録されている。この人々が日本歴史の倭魂の東大寺派になりそうだ。東大寺を炎上さすのが大和魂の長州スサノウ族であることは魏志倭人伝で既に預言されている。人類のガンと言ってよいだろう。
走りの行法・五体投地
     スプリング正月5−7、12ー14日(明神暦 EFG、王玉金 日)
日没から夜の2時頃まで宇堂の薄暗闇の中で諸行が延々と行なわれる。勿論、若干の休憩はあるが。なにしろ延々と続く。見ているほうは眠気がさしてくる。
堂内がざわつきだすと今度は須弥壇(しゅみだん)の回りを練行衆が列になり、差懸を履いて歩きまわる。柳(八七木)杖を床に突く音で夢うつつから呼び醒まされる。やがて差懸を脱ぎ、ひた走る。一人ずつが内陣から礼堂に飛び出す。灯明がゆらぐ薄暗い礼堂に墨染の衣が宙に舞う。
”バシー”と言う音が宇堂に響きわたる。思わず痛いと叫んでしまいそうだ。五体投板の行である。舞った全身を板の上で向う脛だけで受けるのだ。座布団のようなものが巻かれているがあれは本当に痛(板)そうだ。弁慶の泣き所の行だ。

五体投地と言われているが五体投板と言うべきだ。本州は秋津島と言われる前は木島と呼ばれていたので板に拘るようだ。五体投地はチベットが有名であるが中央アジアが砂漠化する前の人木(Man Tree・マンチュリー・満州里)時代まで遡りそうだ。津羅奴のラマ(羅間)教まで遡るのだろうか。五、六年千以上も前の津羅の干支暦まで遡りそうだ。
小観音出御 スプリング正月7日(明神暦 G日)
お水取りとは国家(Government)安泰を十一面観音菩薩に祈る祀りである。旧暦の二月堂は月読み堂であり、ローマ太陰暦なら(奈良)正月堂になる。奈良(七羅)は月神聖数7に拘ったようだ。
二月堂には大小二体の本尊がある。前7日は大観音が主役で、ここで後七日の小観音と代わる。小綱(しょうこう、役三)と駆士(くし、役四)の持つ二本の松明で堂内照らされ、雅楽の奏でられるなか小観音の入っている厨子が内陣裏正面から礼堂に運び出される。
大観音は等身大、小観音は20センチほどと言われているが誰も見たことのない秘仏である。秘仏にしたのはこの頃生まれたイスラム教の影響である。物教の偶像崇拝を排している。行基、実忠等は平城京、東大寺造営でどれだけ民を苦しめたか、死んだかを目の当たりに見たようだ。物教はこの辺で終わりにして、仏教の諸行を演出したようだ。それが「お水取り」である。
籠松明上堂 スプリング正月12日明神暦 王日)
「お水取り」のクライマックスである。ひと際大きい籠松明が11本上堂する。ほかの日は一回り小さい松明が10本である。まさに木島(四間・田舎)の火祭も都(三八五)の火祭に昇華している。完成度は世界最高だろう。
修二会には用途、用途に合わせ色々の松明が十数種使われると言われている。その最大が籠松明で孟宗竹一本、75kgほどもあり。またローソクほどの松明もあり、各種各様である。燃やすのがもったいないほどの芸術品である。

12日をなぜ選んだのだろうか。トランプでも分かるように12とは王(十二、Queen)日であり、女王日である。また11本とはジャックの聖数である。トランプの10(Ju)、J、Q、Kと対応し、アルファベットのJ、K、L(10、11、12)ではLはルーナを意味する。
修二会とは11面観音に国家安泰を祈る法会である。11面観音と言うが主顔を入れると月神(ルーナ、ジュピター)聖数12面ある。主顔を入れ正面を向き縦に並ぶ三面は春を意味する。頭の回り残りの9面は夏、秋、冬を意味する。
このような複数の面を持つ宇宙観はローマ神話のヤヌスからで、日本には二面スクナとヤンシュウ(耶奴衆)として渡来したのは何時頃か。仏教伝来まえのようだ。仏教伝来の頃には十一面観音と多面化している。
青衣女人 スプリング正月5、12日(明神暦 古、王 日)
「しょうえのにょにん」こそ、「お水取り」の隠れたクライマックスである。過去帳読み上げで頼朝から数えて十数番目に登場する。この女人の正体を知らない歴史学者・小説家は日本の正史を語る資格はない。
韃靼の火行 スプリング正月12ー14日(明神暦 王富豊日)
人類とは木から落ちた猿である。木の文化を最後まで昇華したのが日本民族である。その集大成が二月堂の修二会である。
韃靼(ダッタン、田津田奴)とタタラ(田田羅)と書けば分かるだろう。タタラ製鉄を日本に伝えた津羅奴(ツラン)とは中央アジアの羅間(ラマ)の民(田目、四三)である。西方に行ったのがローマ(羅間)民族である。
ローマ兵はトロージャン(土羅(虎・鳥)者)と呼ばれ、そのエースこそ、アレキサンダー大王である。腰を締めているバックルの護り獣は三月堂の四天王がしているのと同じである。
日本は天下太平である。練行衆が八天に変装して韃靼の行をする。その仕種は鼠か、鳥に見えてしょうがない。まさに如賀(Joker)のユウモラスがあり、最後は燃え盛る松明を堂内の床に叩きつける。火事にならかと思うほどだ。実際、江戸時代には残り火で二月堂は炎上している。
満行 スプリング正月14日(明神暦 豊日)
旧暦なら14夜の栗名月が昇る頃から行が始まり、練行衆が満行下堂するのは真夜中の三、四時になる。満月に近い月明かりが西向きの二月堂に煌々と射し込む。まさに月読みの観音(ツーハン、津幡)宇宙観の祭である。仏教が伝来する遥か前からある祀りごとである。
満行を終えたを練行衆は奇声を上げて堂から退散する。まさに明け烏か、八田烏に思えてしょうがない。お水鳥(取り)の烏()とは鵜なのか、カラスなのか。如賀(Joker)とは如何なる鳥か。

ローマ神 コンクラーベ 法王選出 2013年3月13日頃
2013年には思わぬ行事が飛び入りした。ローマ法王選出のコンクラーベである。弥生(八四一)正月(日神暦100日、太陽暦4月1日)準備行事と見ると東大寺のお水取りと同じになる。
十二日目の籠松明上堂がコンクラーベの初回黒煙に相当する。法王選出が決まると白煙になる。二月堂では十五日の大松明10本の揃い踏みである。三日もあれば法王も決まるだろう。
枢機卿(十一衆、ジャック)の頭領を決める行事である。法王がいないと間近に来る復活祭(太陰暦)の行事ができない。と言うより、ローマ カソリック教が成り立たない。

コンクラーベが賀奴九羅(神倉)部と書けるのが分かるかな。日本では神倉山の行事になりそうだ。この捻れに世界の歴史が隠されている。
神倉山は熊野新宮にあり、秦の始皇帝が東方遠征のため派遣した徐福(Jo二九・11・Jack)が開いた新開地である。熊野川の河口の鵜殿(宇戸野)は既に井奴賀(田舎)の古開地であった。井、田、田田が一四八と成長し、弥生(八四一)時代になる。吉野(四四奴)を目指して熊野川を北上して行くのが今代二千年紀の前半の日本の歴史である。
神倉部、神部、神戸(賀宇部)、神戸(賀奴部)、神奈備(賀奴部)等と並べると歴史の成長が読めそうだ。日本の神部のほうがローマ法王より古いのである。と言うより聖書は日本の神部をモデルにしているようなところがある。

弥神法隆寺聖霊院お会式 春正月前週祭太陽暦3月22−24日
法王の中の法王と言えば聖徳太子だろう。法王と言うより文武両道に秀でた神部の長である。ローマ法王のコンクラベ(神倉部)を見れば見るほど泰山府君の元に集まる神部の儀式をモデルにしている。

聖徳太子の生誕祭と言うより、弥生(八四一)正月(日神暦100日、太陽暦4月1日)の週(7日)前の前週祭になる。これこそ弥生暦の名残である。正月の7日前がキリストの生誕祭である。共に耶神(J)と弥神を意識している。
弥生(八四一)暦とは倭十々日百曽姫(大市命)の頃制定された十進則の日神暦で、それまでは五進則だった。その名残が10年に一度の大会式である。10進則で主宗教行事を決めるのは世界的に珍しいのである。

西欧の春正月こそ、復活祭で、春分後の初満月後の日曜日である。春分に拘る弥生暦のほうがローマ暦より古い、と言うより互いに真似して合っているようだ。それがヘリニズム(平泉)時代である。日本では仁徳(二二十九)天皇の和泉時代になるのかな。ここより、藤原(二二日羅)時代が始まるようだ。

文武両道を越えた日本アズNo.1の立て役者である。日の出ずる国の長で、中国などは日の沈む国にすぎない。歴史は繰り返す、円札に聖徳太子の頃は日本アズNo.1と褒めそやされた。

明神 春分彼岸 日神91日頃 太陽暦3月21日頃
春分とは昼と夜の長さが同じ日と言うが高度な天文観測があってこその話である。それまでは日の出位置が月の出位置を追い越す日を目安に目視で確認していた。追い越した後の新月を春正月にしていた。大陸の春秋二季暦である。
月の出位置のほうが変動幅が遥かに小さいので、月を主体に考える太陰暦である。遊牧・放牧民が季節をおおまかに知る大陸暦である。
その春正月の流れを汲むのが現代の三月スプリングの太陽暦である。定住民が増え高度社会になると事前に春分を知りたい。天体観測が発展し、事前に予測できるようになった。それが泰山府君の四季太陰暦である。秦の始皇帝が中華暦として正式採用した。
そしてシーザがエジプトの天文学者から日巫の日神暦と泰山府君の四季太陰暦を聞き、それらを参考して太陽暦を制定した。当然、ローマ太陰暦をベースにしている。
この四季暦感が何時日本に伝わったのか?
    舎人親王は泰山府から日本に伝来した年を皇紀元年としたようだ。

それ以前に大陸月神二季暦が日本に伝わっている。その名残が睦月(六月)、水無月(み七月)、神無月(賀奴六月)の呼称である。月神暦は年六月・閏七月で構成されている。「み七月」とは閏七月を言うようだ。神無月から判断すると秋分正月の月神暦を併用していたようだ。どうも干支暦の二季宇宙観のようだ。泰山太陰暦の四季宇宙観とは異なる。

如月(気更木)March(三月)
お水取りとは十一面観音に国家安泰を祈る祭である。十一(11)とはトランプでは耶狗(ジャック)になり、裏ジャックは如賀(ジョーカ)になる。どうも如月とはジャック(兵隊)の月を意味するのが分かれば世界歴史も理解しやすい。
日本にジャック(Jack)とジョーカ(Joker)が渡来したのは何時だろう。花の吉野に如意輪寺がある。如意とは如賀(ジョーカ)の意志を言うようだ。吉野神宮から見ると冬至太陽が昇る位置にあり、吉野山では最古の聖地である。三輪の数(崇)神開化の時代まで遡りそうだ。耶神文明開化の時代になる。耶神(ヤヌス)の太陽暦が日本に渡来している。ギリシャ神話のゼウス(Zeus)こそ蔵王堂に坐すZ王である。

太陽暦三月の時候は日本ではキサラギと呼び、ローマではMarch(マーチ)と呼んだようだ。耶狗(Jack)と如賀(Joker)が気を更にする兵隊行進の祭(Matri)月のようだ。
木島の国では木佐羅木(キサラギ)で、佐羅双木(娑羅双樹)とも書ける。要するに榊(佐賀木)である。釈迦(佐賀)が生まれる遥か昔からある木である。嵯峨(佐賀)源氏とは如何なる耶賀羅(輩)か、如賀(Joker)か。

榊とは背の低い常緑樹で、一陽来復、陽が高くなり、落葉した雑木山の背を越え、北斜面に射し込むと春の到来を告げるように暗かった冬斜面で葉々が光り、輝く。まさに気更木である。
                 「ああ、春が来る。」と実感する。
朝、目を覚ますと障子がやけに明る。外に出ると雲一つない青空である。向かい山に透き通るような朝日が当たる。山肌は冬枯れ仕切って茫々としているが春を待つ息吹をこれほど感じることはない。
これほど個性豊かに色々の木樹の姿を見ることはない。まさに木佐羅木である。冬越えの紅葉唐絵の下糸の空絵とも言うべきか。冬枯れの茫々色、竹林の緑、常緑樹と言っても色々である。
まさかと思う山の中腹の一点が桜色の霞のように染まる。だれが植えたのだろうか。早咲きの彼岸桜が満開である。いよいよ、野にも山にも桜満開の春が来る。

三夕木(御幸) 一夕 二夕 七夕
「夕」とは太陽暦の一ヶ月を差したようだ。三夕木とは三月の切りの日を言ったようだ。日本では年度替わりの日を言うようだ。
ところで太陽暦は何時日本に伝わってきたのか。ローマの出来事などは三年もあれば海奴が伝えてくれた。今は一瞬に伝わるが軽薄短小の情報として直ぐに忘れられる。
ローマ神話のヤヌス(耶神)の弥生(耶世井、八四一、YAYOY)界とは「や、ゆ、よ(夜、夕、夜)」の「や行」世界を言うようだ。夜遊び好きな男王の時代が始まるようだ。如月(Joker月)の祭(March)の打ち上げに冗談(如談)で大騒ぎしたようだ。

弥生正月(日神暦100日)
なぜ弥生(八四一)と言うのか? 
それは倭迹迹日百襲姫(八間升十十日百曽比売)がよく知っているはずだ。
                 四月正月の年度変わりを!!

10X10=100(十十日百)こそ、日本が10進則を正式に採用した第十代崇(数)神の大神()開化を意味している。
「さくら、さくら 弥生(八四一、13)の空は♪♪」が意味するように日神暦100日(太陽暦四月一日)頃を弥生と呼ぶようになった。
いよいよ日巫(ひ・しみこ、四三五、12)の女王(12)五進則暦から男王(13)十進則暦に改暦される。この辺の様子は魏志倭人伝によく記述されている。
大化の改新では日巫(卑弥呼、ひ・しみこ、日佐古、HS子)は菩薩(日佐・HS徒)に昇格している。

太陽暦の4月2日から新年度が始まる。前日の4月1日くらいは役(八九)人が馬鹿騒ぎしよう。毎日、馬鹿騒ぎしているから東日本大震災が起きるのだ。大原発事故の付録まで付いてきた。

弥神 三ッ山祭 射楯兵主神社太陽暦3月31日ー4月7日
播磨国総社 射楯兵主神社の祭で、20年に一度、大祭は60年に一度とか。天災や国家安泰を祈るとき、不定期に行われていたが式年祭になったのが1533年で、それから今まで途絶えることなく引き継がれてきたとか。
旧暦の頃は弥生月の祭だったのだろうか、太陽暦で3月31日から4月7日の祭になったようだ。兵庫(兵站地)の兵主と聞くと弥生(八四一)八幡の応神時代の臭いがぷんぷんしてくる。祭日が先祖帰りしたようだ。これが潜在八幡魂の凄さか。20年に拘るところを見ると山(八間)マヤ(間八)暦の頃まで遡りそうだ。

日神 エイプリ フール五話 100日 太陽暦4月1日
弥生(八四一)
弥生と言えば旧暦の四月を言うようだが如月のように月が付いていないので時候の呼称のようだ。弥生(八四一)と数字で書けるので、どうも数()神時代に命名されたようだ。
弥生(YAYOY、耶世井)のY(J)は10(Ju)を意味するのが分かれば耶世井は10X10X1=100を意味する。この頃はまだ日神暦なので、冬至から100日目を弥生と呼ぶようになったようだ。
数神曼陀羅の三密の数霊語とは弥生(八四一)、普賢(二五七)、弥勒(三六九)だろう。
三密とは三三津と書ける。三三津九(3X3=9、ミミズク)の玄人(九羅徒)を意味する。またフクロウ(二九郎)は耶狗(ジャック、11)を意味する。ミミズクはギリシャ神話では知恵神ミネルバ(三奴羅羽)の護り鳥で、ジャックはトランプの衛兵である。
大神()族はローマ人か?
これは茶髪族を日本人か、外人かと論ずるのと同じである。何時日本に渡来した部族の末裔か?
ローマは七匹の狼から誕生した都市国家で始まる。皇紀元年とほぼ同期するのである。神武天皇の直系と思われる大神族高千穂氏の流れを汲む三田井(三四・七井)氏は明らかにローマ神話を知っていた。と言うよりローマ神話と太陽暦が大流行したのが大神開化である。
世界の情報は三年もあれば日本に伝わってきた。それが国境がなかったヘレニズム(平泉)時代である。ヘレニズム文化はトロイのヘレンから始まり、源平合戦で平泉で昇天する。その足跡が奥吉野の狼平として記録されている。これは大神開化の数(崇)神時代を記録しているようだ。
ヤンシュとは耶奴衆か、邪奴衆か?
邪馬台、八間台、天(テン、十)台、邪宗門、金門は何を意味するか?
ヤンシュウとはローマ神話の神・ヤヌス(耶奴佐)に仕えた人々を言うようだ。耶(Year)奴衆と書けば分かるだろう。日本(耶幡、Japan)海を季節に合わせ旅した人々である。
所謂、漁業の季節労務者であるがこれは明治時代からの感覚である。その大先達こそモーゼで、角角日本海の月山に足跡がある。キリストが生まれる前に日本に十字架がある。
1年を365・6日と定めたのがローマのユリウス(Julius)太陽暦である。耶(J)神暦の1月をJanuary(耶奴あ羅)と呼ぶようになる。それまでローマの1年は10月+冬眠2・3月の月神暦だった。
January(一夕・陽)はJapanのJanusの正月を言うようだ。一陽来復の福(二九・11・Jack)とは二面スクナを言うようだ。
皆の衆、三七の衆♪♪
生(一九)庭(二八)皆(三七)虫(六四)午後(五五)
これが十(Ju)神曼陀羅の基本である。
これだけ皆が集まれば頭領が必要になり、耶狗(Jack、11)の登場である。階級が生まれる。総大将は誰になるのか?
 五五:????族
 五六;ゴロつき、五十六族、源五郎族、足軽、
 四七:竹刀の竹内・健・武人(比徒)、尉官
 三八:宮様、補佐の比古、佐官
 九二:国様、田舎の毘古、将官
 天一;テン一、士、天一坊を演出した吉野山伏す  天二:十二、王(クイン)
 天三:十三(富)、玉(キング、金賀)
 天四:十四(豊)
兜と鎧(四六一)
兜(賀日徒)は数字で表せないので、まだ平和だった頃の目印の被り物のようだ。鎧(四六一、11)はジャク(11、Jack、如賀)の装束のようだ。数(崇)神時代から日本では戦乱が始まるようだ。

弥生(八四一、耶世井、Yayoy、Aoy、葵)と書くと色々のことが読めてくる。数(崇)神時代が分かれば世界の歴史も見えてくる。いや人類の歴史かな。それが数理歴史観である。

月神 卯月 四月
「あいウえお」の「あ」を田舎の田の北南線の北に合せ、「い」を口の右上角に割り振ると東に「う」がくる。春分太陽の出る方向である。この方位観はアトランチス干支宇宙観のものである。
東西線を基準にする春秋二季の季節感である。東西線に流れる揚子江は東川(うのかわ)呼ばれ、その主要都市を武漢(うはん)と呼ばれた。

耶神 カンダハル 4月 
太陽暦4月
神田春と書けば、神田生れのチャキチャキの恵戸子の春ちゃんを思い出す。恵土(穢土)は江戸より古いんだよ。

神田原と書くと今代3000年紀の歴史のキーワードである。

今極東の片田舎の神田原で第四回目のハルマゲドン(春巻き丼)が起きているんだ。大原発事故と言えば分かるかな。隣の国の神田原では原爆を開発中と言う話も忘れ去られたくらいだ。極東の片田舎ペイのすることは本当に危なかしい。

第一回目のハルマゲドンはトロイのヘレンの話である。
第二回目のハルマゲドンはエジプトのクレオパトラの話である。
第三回目のハルマゲドンは十字軍の遠征である。
第四回目のハルマゲドンは
 カンダハルのタリバン(田羅羽奴)から始まる極東の田舎の話である。
 タリバン(田羅羽奴)とは
     ウサマディンラディン(鵜様殿羅人)を、バサラ(羽佐羅)を言う。

トロイ(TRY、土羅井、虎威)のヘレン(HLN)から六本木ヒルズ(HLS)までの今代3000年紀の節目が春巻丼のようだ。
今代3000年紀はヘレニズムの大旅行時代で始まる。旅人は共通の言語を話していたので、その言語で世界の森羅万象を読めば色々とよく分かる。この旅行圏で名前を馳せたのがモーゼである。

モーゼとは森のゼウスを意味し、アルファベット界のA−M(前13文字)とN−Zの富蔵(十三Z)を意味する。3000年前にはアルファベットは完成していないので猛者(MS)がモデルのようだ。
モーゼの契約の箱は日本の神輿として現役である。いつ日本に渡来したのだろうか?二本(日本)角は日本産のようだ。月山こそ、Moonの都だった。そしてNoonの都こそ、泰山のようだ。

舎人親王は大化の改新(645年)を日本の春巻丼と考え、1300年を節目として日本の歴史を編纂している。1945年は太平洋戦争(春巻丼)が終結している。皇紀元年に泰山府君が就任し、日本を泰山府の正統国と見ている。その証拠が契約の箱(神輿)である。
              その鍵は巻向田舎の田尾泉にあるはずだ?
賀口原(ガマ原、神原
  口を間と読めるかが人類歴史の解明口である。
  八口田井(邪馬台)とは第五代国宮で八間(山)時代
   (九州、四国、中国、近畿、中部、関東、東北、北海道)
  四口宇台とは第四代国宮で四間(島)時代
   (九州、四国、本州、北海道)
神日原(カーニバル
神目原(加目・カメ原)
神田原(カンダハル)
神古原(加古川の田尾泉は?)
     (由良川の田尾泉は? 石生

日神 花まつり 108日
お釈迦様の誕生日と言うが4月8日は太陽暦の八四井(弥生)の逆読み祭日になる。これはちょっと無理な説明だ。ところで、釈迦が生まれた頃はどんな暦を使っていたのか。まだ太陽暦は生れていないはずだ。
仏教では108(2X2X3X3X3)と言う数に拘る。またこれは正5角形の角度でもある。ギリシャのピタゴラス派の算数宇宙観を感じる。
日神暦108日は太陽暦の4月8日頃になるのである。春分を基準にした平均15日後の初満月日がこの頃になる。日神暦を春秋二季暦で焼き直し、更に太陽暦に焼き直しているようだ。この間に3000年位はたっている。
大陸では花が溢れる時節である。神田春の祭の頃である。

耶神 復活祭 '12年4月8日
復活祭とは春分後の初満月後の初日曜日である。太陽・月・週暦のトリプル祭日で一年の最高日である。大陸人なら最聖日にしたい。
キリスト教の典礼暦における最も重要な祝い日で、十字架にかけられて死んだイエス・キリストが三日目に復活したことを記念する。
するとキリストが生まれる前には復活祭がないはずだ。お祭り好きには可哀そうな話である。と言うよりそれまでにあった神田春の祭が昇格しただけの話である。

ローマ太陰暦のテルミナリアの祭(三月正月相当)は春分正月を迎える新年準備祭で、春分正月は正式な年度始めのようだ。すると復活祭はテルミナリア祭と対の祭になりそうだ。

春分の日は当時の世界の中央天文台の泰山府台が一番正確に決めていた。中国の二四節暦の日である。秦の始皇帝が二四節暦を正式採用したのが現代の中国暦であり、それを参考にしてシーザ帝がユリウス太陽暦を制定した。それが現代の太陽暦の元である。

なぜApri l(あ日羅羅)と言うのか? 
「あ**」の造語法はアトランチス(あ土羅奴土佐)文化のものである。「あ日賀」が冬至太陽を意味するなら、「あ日羅」とは春分太陽を意味するようだ。また、
  油(あ日羅、アビラ)と関係があるのだろうか?
  オイル(お伊羅)とペトロ(日土羅)とはどんな関係があるのだろうか?
  イラン(伊羅奴)とイラク(伊羅狗)とはどんな関係があるのだろうか?
山伏の真言に「アビラウンケン」と言う言霊がある。山伏の護摩焚きは拝火教の日本版である。拝火教を国教とするササン朝ペルシャの頃、人類は石油文化に目覚めたようだ。Fire(日羅)の言霊も生れたようだ。火はHiなのか、Fiなのか?(ここの説明にはやや無理があるかな?)

日神 恵三(エンゾ) 125日 太陽暦4月25日頃
桜が散ると、いよいよ新緑が山を登り始める。

夢で見たのか、現で聞いたのか定かでないが。農作業が始まる前に野辺遊びの風習があったようだ。田の神祭、嶽登り、エンゾと呼ぶ祭日である。
E三(五三、恵奴三)と書けば分かるかな。五進則を極めた日神暦には日神復活日(冬至)から数えて5X5X5(125)日の特異日を祝う祭があってもいいはずだ。
「5」をエンドと呼んだ時代に生まれた祭の名残だろうか。この場合、恵奴土(End)は金神の五界の終わりを意味するようだ。

こんな風習も廃れた頃、日本民族の本能として、「緑の日」として復活したようだ。
春は緑秋は紅葉が日本民族の原初的色彩感覚である。
春の七草と秋の七草の違いによく出ている。この色彩感覚が反転するのが今代1300年紀の歴史である。その前座が「花は吉野」の今代1700年紀の歴史があり、魏志倭人伝が預言している。

日神 昭和の日 130日頃 太陽暦4月29日頃
これほど日本民族を洗脳した日はないだろう。大本営放送局(通称:NHK)と文部省と日教組との三位一体で!!
極東裁判はまだ国内では結審していない。歴史を捏造・隠蔽・改竄している内にまた来た道を歩き出したようだ。日本民族特有の自家中毒現象である。。
「みどりの日」から復活するならせめて「光昭の日」として復活してもらいたかった。第五代天皇の光昭維新である。本州が木島から秋津島と呼ばれた祈念日である。

日神 金賀(King)の日 130日 太陽暦4月30日頃
「K」はアルファベットでは11番目にあり、JKLと並び、トランプでは13番目にあり、10(Ju)JQKと並ぶ。トランプでは「J」がダブッているので新しいはずだ。
「L」かルーナの女王時代を意味し、「JQK」はキングの登場する男王時代を意味する。「Q」はアルファベットでは17番目にあり、宇羅七羅(奈良)の時代を意味しそうだ。「そらみつ(曽羅目都)」の倭の時代に定まったようだ。それが大神開化である。その様子は魏志倭人伝によく記述されている。

女王時代の末期には大毘古は武蔵(六三四・13)と呼ばれていたようだ。十三峠・十三には武蔵が詰めていたようだ。男王体制が本格な天皇制に発展する記念物が富(十三)本銭のようだ。奴幡が日本と呼ばれるようになり、中臣(奴賀富)が藤原(二二日羅)に変わりだす。中臣部とは如何なる部族か。魏志倭人伝の難升米(能登部)から成長する役職のようだ。

なぜMay(間井)と言うのか? 
エブス(恵比須)語で読めば分かりそうだ。マイ(舞い)とメイ(芽生)の時候を言うようだ。皐(早)月こそ、蕾と男根の月を意味する。口()とは英語ではボックスを意味し、間奴口(マンコ)、お目口(オメガ)を意味する。

佐月と書けば盛り付く月を意味する。佐(三)月とは佐井神社の祭月だろうか。今月の祭を探してみよう。春分から数えで三月を意味するのだろうか。これでは日数が不足気味である。どうもローマ太陰暦の三月正月から三番目の月を言うようだ。
日本にローマ太陽暦が正式渡来したのは景行(教)時代のようだ。十進則を採用した倭迹迹日百襲姫(八間升十十日百曽比売)と同期しそうだ。三輪倭時代である。
五月と書けば明治維新に太陽暦を採用されてからである。南蛮維新の頃も当然渡来している。世界の情報なら三年もあれば全世界に伝わる。どの文化に熱中するか、正式採用するかである。歴史は何度も繰り返している。

  「マイイマイ ベササ(舞い舞い 日佐佐)♪♪」の日神と佐(Sun)神の菩薩(日佐土)を賛歌する歌声が野辺から聞こえてきそうだ。万葉集は雄略時代の野辺遊びの歌から始まる。

May Day Hay Say 
父音で並べるとMDHS(月日時秒)になり、なんとなくMy(Minuteの分)が抜けている。

舞台平成と読めるかな? I、My、Meのマイ平成舞台こそ、正に今中修験の現代の生き様である。平成金賀(キング、13)年こそ、日神暦の何回目の元日節(イアー ウエイブ ゼロ)になるのだろうか?
舎人親王は泰山府君が就任した年を皇紀元年と見ている。すると平成金賀年の冬至(太陽暦2012年12月21日)が日神暦皇紀2073年元旦になりそうだ。

タイム ウエイブ ゼロと言えばマヤ暦である。マヤ(間邪)暦とヤマ(耶間)暦とは虚実の関係にある。何年位の差があるのだろうか? 仁徳維新が虚実の境(堺)のようだ。今度は何回目の維新の会(界、海、貝等)になるのだろうか? 耶界(愉快)なタイム ウエイブ ゼロの時代になりそうだ。年差があるのに気が付いていないようだ。
マヤ暦はタイム ウエイブを1200年と見ているようだ。これはムー()文明を引き継いだアトランチス文明の干支暦の六を聖数とする宇宙観である。ところが舎人親王は1300年と見ていた。大化の改新は西暦650年頃である。1300年後の1950年とは太平洋戦争終了5年目である。皇紀元年に国際天文台長の泰山府君が就任した年と見ている。皇紀2600年(西暦1941年)は第三回目のタイム ウエイブ ゼロにはる。
よく泰山鳴動、鼠一匹と言うが残りの鼠は何処に逃げたのか。マヤとヤマに逃げたようだ。舎人親王はヤマ台(邪馬台)に逃げたのが正統派と見ている。13日の金(五角字)曜日を特異日と見るキリスト教太陽暦と同期する。660年の年差が人類文明を解く鍵である。

タイム ウエイブ ゼロの前座としてオウム真理教の と大本営放送局の「坂の上の雲」があった。何がそんなに人を狂わすのだろうか? 皆、肝腎なことを忘れているようだ。

TagHeur(DayHour、日時)が分かれば日常生活には十分だ。天文学者が年読み、月読み、秒読みしだしてから可笑しくなりだしたようだ。台(泰)山府君が初代国際天文台長になりそうだ。

母音ではayは「あ」の一番の「あい」と読むのか、「イ」の一番の「エイ」と読むのか? ABCのAは「あ」と読むのか、「エイ」と読むのか? 五角五音の「あいうえお」と七音・五音(12音)の「イロハニホヘト」は何れ古いのか?

「あい」と読むと「間井、田井、平井、佐井」と並び、正に人類一万年紀を記録している。間井とは間(ま)行界のムー(Mu、無、牟、六)大陸の集落は間、村(む羅)から始まる。田(た行)界のアトランチス(あ土羅奴土佐)時代になると田井、田舎(伊奴賀)が生まれる。樺太(賀羅田井)から泰羅土(タイランド)の中心が台湾(田井倭奴)、邪馬台(八間田井)になる。秦の始皇帝の登場により、アトランチス文明は消滅するが大地に刻まれた秦(田井、新、畑等)の字霊に人類の歴史が記録されている。

Hayは「ヘイ」と読むのが恵比須(エブス)の恵語(英語?)であり、「ハイ」と読むのが日本語である。現代の日本語は平安時代に倭言葉を整理整頓して生れた。英語にいたってはルネサンス時代である。
平(は)行界の平(広)尾(Herro)とは今日の天気はハレルヤ時代のMoonStar(六三)界のMS(モーゼ、猛者)を言うようだ。
Sayは佐井と読めばSea間奴(マン)の字(あ佐)から始まる集落のようだ。「セイ」と読めば英語で「言う」を意味し、「まず言葉ありき。」の真言界を言うようだ。青井(AOY)と弥生(YAYOY)のY(井)は何を意味するのか?

My MDHSは綺羅星・四星の中国国旗界を意味する。五星紅旗と言うのは人類の歴史を知らないだけ。星条旗にしても綺羅星五〇星の兄弟旗である。人類の歴史を知らないだけの兄弟喧嘩にすぎない。
Mayはムー維新を、Dayはアトラス維新を、Hayはヘレニズム維新、Sayはササン維新を意味するのが分かるかな? ムー(無、六、牟)はSun of Alps(あ羅比佐)で始まり、日牟八幡の繖山(安土)の六所神社で終わる。蒙(牟)古を経てのその足跡こそ、人類一万の歴史である。ササン朝の拝火教にしてもフンダ マスラも益荒男、炎内不動明、自動車マツダとして既に渡来している。

日本の言霊、字霊には世界の歴史が封印されている。

春神 八十八夜 88日 太陽暦5月2日頃
立春から数えて88日。日神暦では冬至が基準日であり、132日頃になる。中国太陰暦の採用により、暦(日読み)が立春基準になっている。農作業は日読みであり、社会行事は月読みの月齢で動くようになる。

中国太陰暦の採用は万葉集の最後で宣言している。

日神 憲法記念日 135日頃 太陽暦5月3日
植民地憲法から日本民族はいつ解脱できるのか? いつ日本民族憲章が宣言され、21世紀の日本が生まれるのか?

日神 みどりの日 135日頃 太陽暦5月4日
日神暦130日の時節(5日間)を祝っていたようだ。ムー(Mu)大陸のミドリ(Middle)の日がみどりの日になるのかな? アルファベットでは13番目がMであり、後13文字と分けている。ABC・・・MN・・・XYZは何時完成したのだろうか?

日神 三社祭 145日 太陽暦5月15日頃
葵祭は何故5月15日に開催されるのだろうか。5月15日を数理宇宙観で追って行くと色々と分かってくるはずだ。
平安時代に始まった祭だが魏志倭人伝では京都は好古都国として紹介され、既に都あつかいである。葵祭は好古都の葵族を顕彰する祭と見るのが妥当である。それが平安京の御所から好古(四四古)の都(下賀茂神社)への巡行である。平安京の通りを見ると御所は朱雀通りにあるが賀茂神社は烏丸(賀羅佐間)通りにある。
これは平城京でも言えることで朱雀通りに御所があるが奈良(七羅)の都の南北主道は高台の高天の交差点を通り、真直ぐ行くと賀茂の恭仁京に行ける。都時代は平城京はまだ湿原地帯だった。要するに葵賀茂(鴨)族とはいかなる部族か?

葵時代とは「あいうえお」宇宙観の時代である。葵祭は弥生日神暦145(十)日の祭を引き継いでいるようだ。東京浅草の三社祭もこの頃の日曜日に行われる。日本武尊を顕彰する西欧暦式の祭である。
日神暦の倭建命、旧暦の大和武尊、西欧暦の日本武尊で祭日の決め方が異なるようだ。日下(九坂、草加)の浅草(あ佐九三、12)族とはいかなる部族か。草冠(カムイ)族と三社紋の網干(あ帽子)族とは雄略時代の東国開拓団を言うようだ。秋津時代の先兵が倭建命である。

藤原(二二日羅)の日下(九坂)族が曲者(九世者)、悪党(あ九徒)、悪魔(あ九間)と呼ばれるようになり、日本歴史が捩じれて行く。

無神 東京空木開園 20日頃 平成24年5月22日 金環暦1日

Tokyo Sky Treeと言うの正しいのか。
八百長、次郎長、何でもあり、素晴らしいことは本当にいいことだ!!

宇曽八百、摩耶暦20日とよく言うが634mの高さは武蔵(六三四、13)から来ているとか。ここまで拘るなら日神暦130日に開園すべきだった。

この時候は日神暦150日頃だ。全て、ただの思い付きで、面白ければそれでいいようだ。そう深く考えることではない。塔の設計・建設では深く考えたので、開園準備に摩耶暦20日係ったようだ。
日神(山、耶摩)暦10日は元旦であり、時代と共に準備日数が倍になっている。その前は半分の5日で、その前は3日だった。
5の半分は2.5であるが小数の概念のない頃は2と見たのだろうか、3と見たのだろうか。5=1+3+1と見ていたようだ。

しかし、数霊13(10+3、6+1+6)こそ、人類歴史を解く鍵であるのにそろそろ気が付いてもよい頃である。無神ソングは何をモデルにしているのだろうか。その火元を探ってみよう。その前に一曲

  粋な黒塀 見越しの松に
  仇な姿の 洗い髪
  死んだ筈だよ お富さん

宮本(三八・11・耶狗幡・Japan)の武蔵が粋なお富さんに変身するのが今代1300年紀の歴史である。その数理宇宙観を追ってみよう。

今代1300年紀(十三・富時代)
大化の改新(646年)の1300年後は1946年で太平洋戦争敗戦の節目年になる。神州不滅国の空前絶後の敗戦である。日本書紀を編纂した舎人親王は日本民族の体内時計を1300年と見ていたようだ。泰山府君が就任した年を皇紀元年(紀元前660年)と見ている。大化の改新の約1300(646+660=1306)年前である。
1300年の半分は650年であり、大化の改新の650年前の紀元前4年にキリストが生れたと言わている。景行天皇とは原キリスト教徒の景教天皇を意味するようだ。
当然、景教と共に太陽暦も伝わってきたので、神武時代は国威掲揚のためキリスト誕生の前に持ってきている。13日の金(五角文字)曜日も当然知っていたようだ。と言うより13と5の数理宇宙観の時代である。今代1300年紀とは富本(とみほん)銭で始まる金神の時代である。

当時はまだ国境のない時代で、3年もあれば全世界の情報が伝わる大情報時代であった。そして、何に日本民族は熱中したかは日本の大地に地名として記録されいる。それがまさに人類歴史の記録である。
記紀万葉が三位一体で最終編集されたのは平安時代である。当時の梨(七四)局の五朝臣の歴史観は人類史上最高であった。太陽暦の起源などは十分に知っていたようだ。
それをどう勘違いしたのか平安遷都1200年祭頃から時代錯誤が酷くなりだしたようだ。今昔物語の歴史スパンは幼稚園並みになってしまった。

歴史音痴が更に酷くなり、平城遷都1300年祭の頃から馬鹿が走り回るようになった。牛の菅原道真は本当に嘆くだろう。東(AZM)では馬顔が、奈良(七羅)では鹿顔が。所謂、長州スサノウ族であり、魏志倭人伝では人類のガンと既に預言されている。

奈良西大寺の里育ちの道真は聖徳太子の意志を引き継ぎ、遣唐使を廃止し、京都の治安は源氏任せ、大陸外交の玄関口の大宰府に自ら赴くのである。
誰だ、左遷された言いふらすのは? どうも長州スサノウ族の仕業のようだ。大本営放送局が率いる文部科学省と日教組はここまで日本の歴史を狂わしてしまった。

どうして大地に記録された地名の地文碑を読もうとしないのだろうか。
どうして自分で考えようとしないのか。
         いつまで、植民地の歴史観に固執するのだろうか。

武蔵(六三四、13、キング)、日巫(四三五、12、クイン)、鎧(四六一、11、ジャック)のトランプ(土羅日)の応神八幡体制を皆、忘れているようだ。八月(August)の応神(AU人)時代をも。
応神時代に高句麗(高群)から平群(平句麗)に渡来した軍事顧問団が組織した先群(フロンティア軍団)体制とは
 国(九二、11)様、宮(三八、11)様、竹刀(四七威)様、ゴロ(五六・郎)付様で
構成されていた。山本五十六やアッと驚く為五郎と源五郎はゴロ付様の末裔である。
耶幡(十幡、ジュパン)の耶狗(ジャック)族は耶月(January)を神聖視した。日神暦元日には
虫(六四)のように、皆(三七)が集まり、庭(二八)で天(Ten、十)に向け、生魂(一九田間)の心生きを示した。

淀川(耶土賀輪)のワンド(輪奴都)の十三に集まり、平群の十三峠から昇る冬至復活太陽(あ日賀、ABC)を待ったのが浪速(七二輪)族である。
十三峠では紀伊座(XYZ)に坐しますZ王(蔵王)堂から昇る冬至復活太陽(あ日賀、ABC)を待ったようだ。
所謂、弥生(八四一、13)素人(四羅徒)時代である。弥勒(三六九)の玄人(九羅徒)と付和雷同の普賢(二五七)人の鼎立で天(十)を支えた耶幡(八幡、ヤパン、ジャパン、Ju・十幡)時代である。

魏志倭人伝によると日本は女王国で、JKL(ジャック、キング、ルナ)体制である。すると武蔵(六三四,13)が登場するのは魏志倭人伝の後になる。アルファベットよりトランプのほうが新しい。

深川の富(十三)岡八幡宮から武蔵野総合開発が始まるようだ。屯田兵のフロンティア思想こそ、先軍八幡思想である。その象徴こそ、八紘一宇のユニオン ジャック(米耶狗)旗である。
関八州の地割が済んだ頃は市川の真間川の田尾になる本八幡に総司令部が置かれ、深川(鱶賀輪)はどうもその外港になりそうだ。江戸川の本流筋の深川は大洪水に晒されるので第一支流の真間川に政(升、、三八古)を置いている。

いつ頃から瀬(Se)が川(賀輪)と呼ばれるようになったのだろうか。

よう!大統領!! シラク(四羅九・13羅)
そらみつ(曽羅三津)の奈良(七・一六羅)の都とは?
イムジン(一六人)河の三都とは?

今代2600年紀(秦時代)

最初は東京スカイツリーの高さは610メートルと聞いていた。さすが隅田川がイムジン一六人)川と呼ばれていたの知っていたのかと思い感激したのだが。

それにしても大本営放送局の情報操作は酷過ぎる。御側用人の歴史小説家の間(馬)抜けな堺屋太一とアルチン宦官の司馬遼太郎は日本民族の歴史観を完全に狂わしてしまった。
   弥生(八四一)素人(四羅徒)の浮世は面白ければそれでいいのだが。
それにしても弥生族は調子に乗り過ぎている。弥勒(三六九)の玄人(九羅徒)はどう見るかである。付和雷同の普賢(二五七)族の行方は?

秦は田井(たい)、新(しん)、機(はた)と三通りの読み方があり、今代2600年紀では2200年紀、1700年紀が二大節目になりそうだ。
River(羅日羅)も瀬、江、河、川と書くがこれは何を表しているのだろうか。

機(はた)時代(今代1700年紀)
今は大量生産の時代だがそのルーツは機織りから始まるようだ。

よく聖徳太子は秦(はた)氏の血を引く言われている。崇(数)神の大神開化から大化改新までが秦(はた)時代である。大神開化の日本は魏志倭人伝に克明に報告されている。

大本営放送局の御用歴史学者の堺屋太一と司馬遼太郎が邪馬台国を知らないとは全く異常である。奈良時代の半島難民の末裔としか思えない。所謂、金神族である。
堺屋太一は栄八田一と書けば分かるかな? 更に栄田田田口と書き、栄八四一(弥生)、1Q84と読めるかな。Qはクインーを意味する。そうそう間(口)が抜けている。田田口田口で邪馬台(八間田口)と読めるのだが。
司馬(四間)遷とは田(田舎・国)の変遷、史記を意味する。司馬氏とは史記に携わる宦官を言い、アルチン宦官をオカマ、ヒジュラ、聖、ニューハーフと言う。魏志倭人伝では長州スサノウ族は人類のガンと預言されている。その長州スサノウ族を美化する聖とは?

倭人と魏人の委羅幡(イルポン)族なら皆知っていた第五代国宮、邪馬台を今様日本民族が全く知らないとは本当に異常である。私は倭人の血を引くから分かるのかな。それにしても色々な渡来人が来たものだ。
そうそう、第六代国宮が高天原で、第七代国宮は伊勢神宮である。こんなことは倭人の常識である。伊勢物語のモデルと言われている在原業平も倭人である。
何故に業平橋はイムジン一六人)川と呼ばれた隅田川にかかっているのか? あ羅奴(アリラン、在羅奴)とは?  われ思う人、ありやなしや?

斑鳩の里の業平姿見井戸の伝説では
 業平はスカイ ツリーではなく榎(夜の見の木)に逃げ登り、月明かりで井戸に写る池面に、恋い焦がれた河内姫が業平橋から隅田川(井戸)に飛び込むのである。これこそ、押上か、池上の話か、今様神(上)の今昔物語である。
今様今昔物語風に読めば第五代国宮くらい直ぐ分かるのだが。

魏志倭人伝には邪馬台の住所が下記の通り明記されている。
 伊支馬 弥馬升 弥馬獲支 奴佳堤
 **県 美馬郡 美馬脇  ***
郡が特定できれば日神宇宙観で、徳島県美馬郡貞光町宮平と特定できる。
貞光(佐田三津)とは「三田(四)み都」を意味する。そらみつ(空)の奈良(七羅)の都の前身である。善(四四)光寺、千光寺等の光寺(密・三寺)とは? 空と空光の違いが分かれば人類一万年位の歴史は分かるはず。

新(しん)時代(今代2200年紀)
全ては秦の始皇帝から始まる。大土木時代が始まる。東京スカイ ツリーはその何里塚になるのだろうか?

泰山鳴動鼠一匹と言うがその他の鼠はどこに逃げたのだろうか? 熊野新(秦)宮に渡来した徐福(耶二九・11)とは秦の植民地の総督のようなところがある。東海地方の田尾泉(Taoism)の時代である。
難民渡来する人々の新開地を、更に熊野川の田尾を求めて遡上している。大塔の田尾に到達したのは何時の頃か。今では星の国として売り出し中である。空町の星からちゃんのルーツである。東京に大塔のスカイツリーを構築するまで、何年かかったのだろうか。それが今代2200年紀の歴史である。
いよいよ奈良盆地の総合開発が始まると天辻峠を越え、紀の川・吉野川の田尾に移住が始まる。この天辻族のルーツはピラミドを構築したノアー族である。旧約聖書のモデルの時代だ。奈良高間にはエジプト天文宇宙観が記録されている。

田井(たい)時代(今代2600年紀
数理宇宙観では弥馬升は三間都と書くのが正しい。よく古事記は三間宇宙観で、日本書紀は四間宇宙観で書かれていると言われる。
四国は四間を継承している。三間は佐島(さしま、三島)として言い継がれている。四間都とは四万十川の田尾の都を意味する。これは雄略維新を記録している。そうそう平成維新は何回目の維新になるのかな。

三間都時代は本州は木島と呼ばれていた。四間都時代は秋津(あ木津)島と呼ばれ、本州の東部開拓が本格化する。

今代 5200年紀(木時代)
魏志倭人伝を読むと日本は馬(間・Moon)族と奴(Noon)族の国家として記述されている。
今代10400年紀(無時代)
五角文字の金、大と六角文字の亀、木の何れが古いのか。
これが分かれば人類歴史一万年が分かるのだが。

なぜ六月をJuneと言うのか? 
太陽暦の六月は真性の六月ではない。一年を12不等分(31,30,29,28日)した仮性の6番月に過ぎない。西欧では番号の六月と言うよりJuneと時節で呼ぶのが普通である。台風も女の名前で命名するので、Juneはローマ神話の女神Junoから由来するようだ。

Juneとは太陽暦では夏至のある月を意味する。大陸の暦女神とはシャーマンになり、夏至到来を太鼓を打ちならし知らせた。
Summer(佐間羅、サマラ、シャーマン)は宇羅(裏)耶月を意味する。耶神暦の宇羅とは「あい宇えお」で年の真ん中で、夏至になる。JanusJunoは冬至と夏至の対の神になる。これが冬至十日(Junichi、デカメロン)から始まる太陽暦である。女月JuneとDeca(刑事の陰語)の関係が分かるかな?

五月雨を あつめて早し 最上川 芭蕉
       流行人、芭蕉は本当に日本語が分かっていたか?
この俳句の雰囲気として、梅雨の頃である。五月雨は 旧暦五月の雨なら「さつきあめ」で、「さみだれ」に変音したのか? もう少し深く追ってみよう。

言霊「さみだれ(三目田羅)」は何を意味するのだろうか。三目は三月を意味するのだろうか。三目(鮫)は三三(六)か、目目(む口)を意味するのか?ここまで来ると何を考え過ぎたのか?
佐(三)神月なら弥生日神暦(100日の4月正月)の三番目月になり、現代の太陽暦六月に相当する。何しろ六月は夏至月である。
どうも「三目田羅」とは太陽暦の六月中旬()の田舎(羅)の雰囲気で梅雨の真最中の頃になる。
 御手洗(目田羅井)と盥(田羅井)との関係があるのだろうか?
 最上(もがみ)、最中(もなか)、最下(もしも)の関係は?

Janusが冬至の日神に、Junoが夏至の佐神に対応するようだ。佐神(さがみ)は最上(さがみ)・相模(さがみ)と同じ神を言うようだ。大山(おおやま)を佐神(夏至太陽)と仰ぐ相模(佐神)の寒川(佐奴河倭)神社と最上川の田尾盆地の寒河江の佐神方向にある月山との関係である。
賀羅徒(カリンド)が行き交った文化圏があったようだ。雁多尾畑(カリンドオハタ)は聖徳太子の牙城、信貴山越えの峠集落である。出羽三山は聖徳太子の縁者、八幡魂の蜂子の皇子が開基したと言われるがこの文化圏は何時頃よりあったのだろうか。奈良時代以前からあった聖地のようだ。

旧暦(中国太陰暦)が正式採用されたのが奈良時代なので、その前の弥生(八四一、耶世井)時代に太陽暦が既に渡来していたようだ。日神暦と太陽暦は国際的姉妹暦の関係がありそうだ。日神暦と月神暦の関係は更に歴史を遡る必要がありそうだ。

中国の泰山と日本の月山の山(サン)と大山の山(セン、八間)の関係は?ヤンシュウ(耶奴佐)の行き交った日本海航路が神代の昔からあったようだ。この航路は全世界に通じていた。日本書紀では泰山府君が就任した年を皇紀元年と見ている。
当然、太平洋岸を行く、黒潮(九羅四尾)族もいたようだ。近畿圏の最高峰は熊野弥山(ミセン)である。須弥山(清水弥山)とは清水からみた目印山(富士山)を言ったようだ。富士山は仏教が生まれる前からある目印山である。富士(二二)山(Sun、日)は藤原(二二日羅)時代の呼称のようだ。国際的にシュミセン(須弥山)と呼ばれた時代があったようだ。「あ賀田(あがた)・あ日賀(ABC)」族が全世界的に旅(田日)した時代である。
  これらが仏教として回帰するのに何千年かかったのか?

日神 宇治あがた祭 165日 太陽暦6月5日頃
夏至20日前の行事の名残のようだ。20日に拘るマヤ(耶麻、山)暦と関係ありそうだ。第五代国宮、邪馬台の瀬戸内海時代の前の話になりそうだ。
その頃、島国日本は母系社会で、男は牟礼(群れ)から出て修行のため放浪していた。国境がなかった時代なので、その行動範囲は全世界に及ぶこともあった。猛者(六佐、MS)、モーゼ(MZ)、ダビデ(田日徒・六口徒)の時代である。
猛者(六三)が武蔵(六三四)に昇格する男王時代の人種洗浄で、ヤマ(山)文明からマヤ文明が分派するようだ。宗谷境(そうやさかい)の堺時代の国境決めの国際時代である。国境がなかったインターネシア(伊奴土羅 奴四阿)時代はここで終わるようだ。そして世界共用語が消滅するのは聖書に記述されている。

ここで、猛者(MS)、モーゼ(MZ)はムー(Mu、)大陸文化族で、ダビデ(田日徒)はアトランチス(あ土羅奴土佐)文化族と分かれば人類歴史1万年位は容易に分かる。

宇治とは第四代国宮、「う台」の有明海時代の新開地のようである。あ賀田(方、形、潟)族が活躍した時代である。その頃のフリーセックスの皐月祭の名残のようだ。
この頃は京都盆地はまだ氾濫原であり、淀川の大支流の宇治川の田尾がこの辺の中心だったようだ。そして宇治(う土)と呼ばれたようだ。
皇紀元年よりも前の「あいうえお」の「う」が中心を表す時代である。東アジアの中心が武漢(う幡)にあったようだ。揚子江の田尾の烏川、淀川の梅(う目)田・津と吉野川の東川(のかわ)の地名から判断すると揚子江と瀬戸内海を帯水と見ていたようだ。揚子江が烏川と呼ばれていたようだ。宇部、牛窓、宇陀等「う」の付く地名を追うだけでも紀元前の歴史はかなり分かる。

「あ方」族は魏志倭人伝では帯方族と呼ばれている。この帯とは天の川(ギャラクシイ、賀羅九四一)を意味するようだ。
「あがた」の皐月祭が室町時代に鉾の祇園祭として昇華変身するには数千年の時間が流れているようだ。

太陰暦 夏至 日神182日 太陽暦6月22日頃
日神暦とはストン ヘッジのアナログ暦から派生した人類史上最初のディジタル暦である。人口が増え、正確な暦を必要とする定住社会の中心(宮、三八、弥弥、aa、三三)が生まれたようだ。毎日、日の出太陽を山立てで追跡しながら、日にちを単純に数え始めたのだ。ディジタル宇宙観の黎明である。
これは几帳面な女性の仕事で、日神の日巫(ひみこ)、佐神のSummer(シャーマン)と呼ばれたのは何時頃か。今ではもっと几帳面な電子が時を刻む時代になった。その軌跡が人類のディジタル文明史でもある。一万年は遡ると見るのだが。

ストン ヘッジのアナログ暦なら几帳面に数える必要はない。冬至星を目安に、太陽の影が冬至石に届いたのを確認するだけなので、どうも男暦になりそうだ。三日坊主ですむ。それが冬至三日のサンタ(三田)祭である。キりスト様(佐間)が生まれる遥か昔からある聖夜祭である。キリストがたまたまこの頃に生まれたか、生れたことにしたようだ。

日佐(BS、菩薩)神のディジタル女暦では年は364、365、366日の三ヶ日と見ていた。冬至からその半分の182、182.5、183日目が夏至になる。ディジタル読み(日読み、暦)なので、182.5と言う小数日はない。しかし、片手五本指で数えると365が5で割れる聖数になる。
365=91(1+2+3+・・・+11+12+13)X4+1の数式から耶神の聖数13が登場するのは何時の頃からか? 今代2000年紀は耶神の歴史と見るのが妥当だろう。耶幡(Japan)の誕生である。鎧(四六一・11・Jack)人、日巫(四三五・12・Queen)、武蔵(六三四・13・King)の耶土(十土、Yard)のトランプ(土羅幡)体制である。+ 1はJokerになる。
それまでは日巫(日目古、二三五・10)の日幡(弐本)体制であったようだ。するとイルポン(壱羅幡)がその前にありそうだ。この頃は国境がなく、イルポンとは猛者(MS・モーゼ)、ヤンシュウ(耶奴衆)が行き交った日佐神圏(東アジア圏)を言うようだ。

日巫(四三五、日目古、二三五)の「し(子、四)」と「ひ(日、二)」を混同するのが江戸ッ子だってね。恵土(江戸)子のルーツを追えば人類一万年位の歴史などすぐ分かるのだが。
江戸は黒歯(こくし、くろ子、九羅四、13羅)国として、魏志倭人伝にも記録されている。ならば奈良(七羅)との関係が分かる。これが数理宇宙観の歴史解析である。

夏至とは中国太陰暦の呼称であるが特別な祭日ではない。6月22日頃はローマ太陽暦でも普通の日である。どうも月神暦の伝統があるようだ。日神暦と月神暦のいずれが古いのか。何れにしても夏至は祭・行事をする基準日として使われていたようだ。
また世界最古の暦、日神暦は太陽暦と同期するが5か10で割り切れ日を祭日にしたようだ。月神暦ならその後の朔・満月になるようだ。

暦(日読み)する日神天文台長の日巫(サマーマン、シャーマン)がこの日を境に前期を日神期で、後期を佐神(最上、相模)期と見ていたようだ。この時節こそ、佐(S)神のサマー(夏)である。
佐久平、佐久間は田尾泉(川の源流)の信濃川・天竜川の佐神盆地と見ている。最上(佐神)川こそ、佐神の最聖川と見ていたようだ。

太陽暦は冬至10日から日読み(こよみ、暦)するが中国太陰暦の旧暦では立春節分の頃の朔月から月読みしていた。当然、月齢と日読み時節にズレが生まれる。更に月神暦では一年を12月(29.5日X12)で数えるので、太陽暦の1年とは11日程の端数が出る。このズレ混乱を解消するため閏月で調整する必要が生まれる。中国太陰暦(旧暦)ではこの頃は五月か、閏五月(六月)の夏至月になる。

日神 夏越の祓い 190日 太陽暦6月30日頃
夏至10日が夏越で、冬至10日が元旦である。デカメロンの対の祭になる。
初代日神暦は五進則で日読み(暦)していた。何時10進則に変わったのか?
耶幡(Japan)の誕生と関係深い。10(じゅう、Ju)進則の暦こそ、弥生(八四一、耶世居)暦である。十代天皇の崇(数)神開化から大化改新までが弥生(八四一、13)時代と見てよいだろう。
ここ一万年の間に日本民族の聖数は6、3、5、8(耶・Ya、3+5)、10(耶・Ju)、13(10+3)、7(20−13)と変わってきた。

なぜ七月を水無月と言うのか? 
夏は七月(なつ)を意味するのは倭人の常識だった。皆月(み七月)とは皆が集まる祭月を言うようだ。 祇園祭月である。
どうして太陽暦の七月と旧暦の水無月(み七月)は同期するのだろうか?
  ここに人類一万年の日神暦の歴史が隠されている。

この「水()」は「目境」を意味し、夏至を一年の日神期と佐神期の境(ミドル、目土羅、中央)とし、この境祭を歴代の暦でどう決めたかである。

初代日神暦は五進則で、冬至から日読み()した。夏至は182.5日目であるから、冬至3日のクリスマスと対になる祭日は185日目にしたようだ。シャーマン(Summer、佐巫)が太鼓を打ち鳴らし、夏越を知らせたようだ。昼は暑いので、盆(日奴)の夜祭になる。
夏至明けの満月祭こそ、間(M)神宇宙族の祭でムー(Mu)大陸祭として何時から語り継がれたのか。満月とMoonは間(M)行のムー(六)神の言霊になる。
日神暦の月神族の誕生とは夜遊び好きな男文化の誕生を意味する。この満月は冬至から数えて、端6月(閏5月)か、6月か、閏6月(端7月)になる。

水無月(六月)とは旧暦(中国太陰暦)の月名である。この暦では立春前後の新月(春節)から満で数えるので、ほんとうは六月と呼ぶべきだが夏至の前後に浮動するので、夏至が端6月(閏5月)か、6月か、閏6月(端7月)になることがある。そして八朔から後期の佐神期が始まるようだ。
この混乱は七月盆と八月盆にも出ている。数えで数えるか、満で数えるかである。ここに日神暦と月神暦が混在している。ここでムー大陸暦が見え隠れしているのが分かれば人類の歴史解明の糸口になる。

このように言霊みなづき(水無月)は満(六月)と数え(七月)の月読みを漢字(字霊)と読み(言霊)とで見事に融合している。これこそ日奴の伝統、日本語の奥の深さである。日神暦と月神暦のズレをこのような言葉遊びにするのは平安時代に流行り、現代の日本語と日本文化が形成されてきた。

ここで、倭字「水無月耶郎」と書いて和字「夏目雅子」と書けたら流石(さすが)と漱石は言うだろう。
耶(Y、J)郎と書いて、野(Ya)郎と読むか、女(Jo)郎と読むかである。雅(間佐)子とはサマー(佐間)の女か?横浜山手育ちとか。私はJi郎だが。

水(みず、MZ、美図)と書くと何か分かるかな?
「みず」に「」と言う神聖な六角亀甲文字を贈呈している。これは漢族より前の呉越族の宇宙観のようだ。この世では水が一番神聖なものと見ていたようだ。水(みず)の語源はこの辺にあるのかな?今、色々と追跡中である。漢字を縦横斜めと色々に読む言語は日本語だけだろう。
アルファベットABC−−MN−−XYZから判断するとANが陸界で、MZが水界になりそうだ。

海(うみ)と湖(みずうみ)と並べると二音の海(うみ)のほうが元語になりそうだ。英語では海をSeaと言うが日本語には瀬(Se)の対語がある。また水(みず)は英語ではWaterと言うが日本語には輪(Wa、倭)の対語があるが意味がズレている。倭人とは魏人から見ると海奴を意味する。
海(うみ)の「う」は「あいえお」の真ん中で、「み」はミドルの中間をいう。何の目境を意味するのだろうか?間奴(陸奴)と倭奴(海奴)の世界の境を言うようだ。陸と洋の中間を言うようだ。この中間を満たすのが水(MZ)のようだ。アルファベットのMからZは海奴の世界のようだ。

2001月7月12日 −− 2013年7月21日
21世紀の参議院の第一回富(十三)期である。
クイン(12)日で始まり、キング(13)の薬師(八九四、21)日で終わる。
12+21=33/2=16 この数理曼陀羅は何を意味するのか。

そもそもこの暑いときに選挙を何故するのだろうか。これは弥生(八四一、13)暦の行事暦である。皆の集まる皆(三七、10)月に我等の平尾(広尾、日羅夫、ヒロー、Herror)を選ぶ。ローマでは帝王を選ぶ月だったようだ。ユリウス シ―ザの誕生日に由来しているとも言うが。イルポン(日本)の行事がローマで採用されただけの話である。真似したローマでは廃れるが。
比古(日羅夫、平尾)こそ丈夫(益荒男)である。大比古が侍命(スメラミコト)で、奈良時代に天皇と呼ばれるようになる。この頃、在所(田舎)の比古が決まり、仮就任するのが六ヶ月遅れの16日頃で、正式に就任するのは日神暦55日の里正月になる。

弥生暦 七夕(Yu) 日神200日頃 太陽暦7月7日
文月(ふみづき)は二月(ふづき)を意味するのは倭人の常識だった。当然、7月(なつ、夏)は七夕を意味する。七夕ー五夕=二夕(ふゆ、冬)は五進則宇宙観である。この算数のどこが可笑しいのか?この捩じれの内に人類の数理宇宙観の歴史が隠されている。
要するに日神暦の里正月を旧暦(中国太陰暦)の正月に焼き直そうとするからである。旧暦の前の旧暦こそ、弥生暦である。
冬至明けの2番月と夏至明けの2番月を対で見ると六進則になるのだが。旧暦では七夕は太陽暦8月頃の行事になる。2月頃の最大の行事は里正月(小正月)になる。春節とのズレに気が付くかな?

七夕は旧暦の祭で中国から伝来した祭のようだが追跡して行くとどうも日本古来の日神暦の祭のようなのである。耶幡(Japan)の耶(八、十)神の弥生(八四一、耶世居)暦とは?大神開化から大化の改新まで使われていた10進則の日神暦である。
その前までが5進則の日神暦になるが人類最古・最長の暦ある。伏見(二四三・9)と武蔵(六三四・13)の言霊が5進則・10進則の断層を示している。

太陽暦と同期する弥生暦の7月7日を誕生日として拘るのが平城京の基本設計をした役行者であり、その愛弟子が行基である。所謂、行事の社(八日羅)族である。平尾(日羅尾、Herro、英雄)族のルーツは英彦山の行事八幡族である。
太陽暦20世紀の世紀末のお祓いの行事をしたのは役行者を開祖とする修験道の吉野山伏(耶間二四)だけである。モーゼが十戒の山上垂訓をしたと言われる山上ヶ岳の大峰山寺で。
世界でもここだけだろう。世紀末のお祓いをしたのは。異教徒は何も分かっていない。これからしても吉野山伏は太陽暦(弥生暦)の信者と考えてもよいだろう。お陰さまでノストラダムスの世紀末の大予言は見事に外れた。

七月にこれほど拘るのが日神暦で、7月7日は日神暦200日の特異日の頃であるからだ。また夏至から14日目頃になる。ここでは週7日にも拘っている。聖数七に拘りだしたのがローマ神話の七匹の狼からである。何時日本に伝来し、日本民族が熱中したのか。どうも大神()開化からのようだ。開化時代に奈良(七羅)が近畿七県(羅土、ランド)の升(間政、都、ナランダ、七羅田)になったようだ。
なにしろ、景行(教)時代、応神(オウガスト、八月、八幡)時代とキリスト文化が目白押しである。ネストリュス(奴佐徒羅佐)派の渡来を意味する。と言うより日本に回帰したと見るのが人類一万年の歴史解析である。
キリスト世界では日神派と耶(邪)神派の争いは現代まで続いている。その典型が日本の邪馬台国論争である。倭人と魏人ならだれでも知っていた委羅幡(イルポン)国の升(政、都)を和人は完全に見失っている。

太陽暦では七夕とは7月(ジュライ)を意味し、太陽暦を制定したユリウス(夕羅宇佐)シーザを顕彰した月である。太陽暦は耶(J・Y、夕)神暦と言えばよく分かるだろう。
耶(Y)界の夕(Yu)神のジャニュアリ(Jアリ、一夕)、フェブラリ(冬・二夕アリ)から六月(ジュン、J奴)までの上六月期を神期と見ており、七月から十二月までを人間期と見る年二季暦で太陽暦は構成されている。ローマ神話の神ヤヌス(二面スクナ)が司り、ヤンシュウ(耶奴衆)がその時節に合して、旅(田日)していた。

太陽暦を一番遵守しているのは日本民族である。中国太陰暦と西欧太陽暦は日神暦を基準として創られたと言えば当然である。それまではムー大陸ではMoon(月)神暦を遵守してきた。
なお申し添えるが聖数七は津羅奴の目羅(ミル)数である。月(津支)29.5日を4で割った数である。
ここまで来ると一万年位は遡りそうだ。また武蔵(六三四、13)の目土羅(ミドル、緑)数は「」である。これを完成したのが崇(数)神時代の数字曼陀羅である。

帯、天の川、天野川、天河
魏志倭人伝は「倭人在帯方(倭人は天の川の彼方に在り)」で始まる。魏時代の天野の里は和歌山県伊都郡かつらぎ町天野になるだろう。丹生都姫の里である。和歌発祥の地である。
魏志倭人伝では倭と魏は委羅幡(イルポン族)のイ(海奴・人)と鬼(大陸間・Man)と見て、互に尊敬し合っている。アルファ人はABC---KLMはManの世界で、NOP---XYZはNam(南無)の世界と見る時代である。伊都人(伊部、イブ)のイルポンこそ、魏の東南海天土の侏儒国として憧れている蓬莱国である。この話は孔子が既に述べている。
どうもその頃は壱羅幡(イルポン)の伊人は日本(弐幡)と呼んでいたようだ。天河弁財天天川村天野川(私市)と変遷し、蔵(Z)王権現がXYZ(紀伊座)に坐すようになる。これこそ紀の川の田尾泉(Taoism)の説話である。
Ob、Galaxy、Milky Way
帯(オビ・尾日)に短し、襷(たすき)に長し、なぜこんな所に帯川が登場するのだろうか。そう言えば日本に揖斐(イビ)川がある。
アビ、イビ、ウビ、エビ(海老)、オビとアイウエオで並べると何が見えてくるのか。ウビはウネビ(畝傍)になるのかな。このアイウエオ世界を飛ぶのがアビ鳥(ABC、あ日賀、ウネビ(鵜奴日)、奴日あ、ネビア鳥)である。賀(蚊、蛾)でも分かる通り、賀は飛ぶ動物を言うようだ。
アルファベット26文字はABC(あ日賀)から始まり、紀伊座(XYZ)で終わる。26(2X13)文字の数理宇宙観を追ってみよう。

英漢字では銀河、牛乳川になるようだがこれは現代の感覚である。
ギャラクシイ(賀羅九四)、ミルキーウエイ(目羅紀伊 倭居)と書くとどんな人類の歴史が見えてくるのか。
GalaxyとMilxyと書くとXY(紀伊・九四・13)が浮き上がってくる。
紀伊とは紀の川と伊勢を結ぶ線で、揚子江・瀬戸内海・紀の川の一衣帯水線の東端になる。魏志倭人伝では廬山、末廬(松浦)、松阪の帯水になり、宇台の頃より邪馬台のほうが短くなっている。
高見山を目羅(Mil、境)として、紀の川が櫛田(九四田)川に変わる。紀伊座(XYZ)に坐すのが蔵王(Z王)権現であり、伊座(YZ)に坐すのが伊勢神宮である。
Gala(ガラ)とはシジュウガラ、ヤマガラの小鳥の仲間を言うようだ。Gullなら鴎になる。GalaxyとはXY(九四・13)鳥を意味し、櫛田川(帯水、天の川)を群れ飛ぶ渡り鳥を言うようだ。
銀河鉄道999
銀河鉄道の列車は帯に見えてしょうがない。過去と未来とを連ねる。
今は技術の空洞化する日本のトンネルを走っているのだろうか。お先真っ暗と言う声をよく耳にする。
中国ではリニアーモーターカーが走っている時代だ。何が日本の底力だ!!この前まで日本にあった機械が今では中国でしか見られない。その機械を改造するので中国の常州までトンボ帰りで見に行ったことがある。

今は上海、上海と言うが魏志倭人伝の頃は上海は常州の外港だった。常州は一衣帯水で常陸(日立)まで繋がっていた時代があった。関空を飛び立った飛行機(あ日賀)は瀬戸内海の帯水に沿うようにして、東支那海を越え、上海の上空から揚子江の帯水に沿い高度を下げて行く。

無錫空港から帰るので、まだ明けやらないホテルの薄暗いロビーのソファにただ一人座り、ウツラウツラしながら車を待っていた。
人の気配がしたので、目を上げるとなく、上げると真っ赤なマントを着た女性が静かに通りすぎる。目を合わすとはなく、目があった。その表情が銀河鉄道999のメーテルの雰囲気なのだ。一瞬夢を見ている思いだった。
中華航空のスチュワーデスのようだ。直ぐに数人のスチュワーデスが集まり、黒い制服のパイロットと打ち合わせをはじめた。朝一番の常州空港のフライト要員のようだ。

   早朝の空に飛ぶ東方紅のあ日賀(ABC)だった。

揚子江が東川(うがわ)と呼ばれた頃の中心は武漢(う幡)と呼ばれ, 吉野川が東川と呼ばれた頃は正に一衣帯水で結ばれていた。邪馬台の前の烏(う)台の頃である。海で隔てられていた考えるのは現代人の了見の狭さである。
その大元締めである、日本の司法界は了見が狭すぎる。更に、その技術音痴は酷過ぎる。おかげで、鉄道は自殺の道具になってしまった。

メーテルこそ十二単衣の今様日巫ではないか。女王(クイン、12)の一衣とは女性の賀羅衣(カラ衣)、マント(Man徒)を言うようだ。十二重の衣ではないようだ。巫女の単衣のようだ。
  一衣帯水とは人類を互い結び付ける意味深長な女の言霊のようだ。
  一衣帯水を行く衣人(Cormorant)とは?

所で、9X9X9=729/2=364.5=364,365,366(日神暦
きっと、暦の上では銀河鉄道はヤマ(邪馬)発、マヤ(間八)行きのようだ。

弥生暦 那智火祭 日神205日頃 太陽暦7月14日
この火祭の起源は何時頃だろうか。日神暦の夏至明け200日から始まるデガメロン(10日)の祭期の中日の祭のようだ。日神200日は七夕で、天の川を挟んで牽牛星と織姫星が出会うと言われている。
国宮の采女大学に里から彦(比古)が姫(比売)に会いに来る祭のようだ。今様に言えば宝塚歌劇の夏公演のようなものだ。これこそ、まさに一万年程続いた日神暦の歳時記である。作り話が流行った頃、中国で昇華された話が日本に回帰してきたようだ。その話を大地のスケールで見事に実演しているのが奥吉野の天河弁財天である。

那智のある熊野三山の最長川こそ、熊野川である。その九間奴川の九瀬の田尾に坪内があり、天河弁財天の社がある。この田尾川は天の川と呼ばれ、最上流田尾が天(テン、十)川の集落である。坪内の対岸の和田の集落に彦達が集まる。
岸和田の八幡族はこの祭を楽しみに夏の教練を兼ねて、蟻の行列のように幾山を越えて、この山和田に集まるのだ。弥生(八四一)時代に完成した祭である。今でもその尾を引く名残が岸和田のダンジリ秋祭である。

日神暦の最大の祭こそ、冬至明けの元旦祭である。岸和田の奥宮こそ山和田の天河弁財天である。岸和田の冬至太陽はこの奥宮から昇る。その天河弁財天の奥山こそ、近畿最高峰の弥山である。その日向尾根筋を伝い冬至復活太陽が天河弁財天の社に降臨する。
要するに和田岬、岸和田、山和田は魏志倭人伝で言う東南界線上に並ぶのである。この線をたどれば平氏と平家の違いが分かる。なお申し添えるが京都府は宇治山田、宇治田原、宇治、八坂、弥栄と東南界線上に並ぶ。この日神美土線とは冬至太陽の復活線である。

この火祭は夏至明けの弥生暦の夏祭りの三が日の宵宮の祭である。10進則と7進則の日読み(暦)が混在している。七夕から7日目である。太陽暦と七曜暦が見事に調和している。

火祭とは拝火教の祭である。拝火教とはササン朝ペルシャの国教であり、ここからキリスト教、イスラム教に分化して行く。当然日本にも伝わっている。熊野新宮に最初に定着したようだ。どうも九龍族の徐福(Jo二九)の時代になりそうだ。
本来は拝煙教と言うべきで、煙(KMRY、カムイ)が天と地を結び付けている。
日本の大衆はすぐ真似するが火祭にしたほうが楽しい。迫力があるが炎の到達距離は知れている。一番忠実に守っているのが吉野山伏の護摩焚である。煙は昇龍のように天に通じる。

F(Fire、)教の神ならフンダ(F田)アベスター(安倍佐徒)が火焔に包まれた不(F)動明王として日本で健在である。インドで偶像化され、道教で神格化され、室町時代の町人宗教として完成したのが七福神を始めとする不動明(妙、三四)王である。江戸の権現信仰では「お不動さん」になる。

弥生暦 祇園祭 日神210日頃 太陽暦7月17日
祇園祭は魏志倭人伝でいう東南界の中心、八坂(弥栄)神社の八幡祭である。応神八幡祭が平安時代に復活したようだ。奈良時代の唐ボケは酷過ぎた。大化の改新で消された景教文化が祇園祭として平安時代に復活したようだ。
景行(教)文化とは福岡県京都郡行橋から始まると見るのが妥当だろう。京都郡は関門海峡、瀬戸内海、豊後水道の三叉路に面している海路の要衝である。当然、新しい文化も生れる。
宇佐神宮は魏志倭人伝では斯馬国として紹介されている。宇佐は第四代国宮、宇台時代まで遡る。武漢(宇幡)時代の話がキング ソロモン(金賀 空門)とシバ(斯馬)の女王の話である。

八幡祭の復活の切っ掛けが貞観11年(869)の大津波・疫病流行の「御霊会」のようだ。式次第を見れば見るほど、奈良時代から始まる唐ボケを大反省している。
祇園祭とは耶蘇教日神派(景教)の邪馬(八間・幡)台祭である。ユニオンジャック(宇奴鬼奴耶狗、八方一宇)の祭と言えば世界の中心祭を意味する。今でも京都を凌ぐ都は世界にないはずだ。
弥生(耶世居・八四一)時代の夏祭である。国宮の采女大学の采女(比売)に会うため夏至の頃全国から比古が国宮に参集する。今様なら宝塚歌劇の夏公演のようなものだ。

方舟(Ark)で外国から馳せ参じる比古もいた。ノアー族が有名で、祭明けの7月17日に帰路の舟出をした。その舟出祭が祇園祭の原型である。
Ark(あ羅賀)はモーゼの契約の箱(Ark)も有名である。そのレプリカが日本の神輿である。7月17日の剣山祭が一番原型を留めているようだ。剣山こそ四国の東南界に聳える弥山であり、邪馬台国の神山である。魏志倭人伝は瀬戸内海時代から近畿時代に変わる頃の話である。
徳島(十九四間)の剣山が奈良(七羅)の八剣山(八経ヶ岳)に変わり、弥山神社の神山になっている。冬至復活太陽が弥山神社から日向尾根筋を伝いに坪内の天河弁財天の社(八日羅)に降臨する。阿波時代は友内山から伊部神社(御所神社)に降臨した。
ここで、伴(友)と絆(KZN、狐)の違いが分かるかな。伊成が稲荷になり、狐が登場する。恵成とは恵比須が戎顔になることかな?

世界各国から舟で来るなら瀬戸内海より、黒潮(九羅四尾)航路が主流である。神代の昔からある。黒潮の民とは恵比須族である。紀伊水道の海部が邪馬台の外港になるのが邪馬台国時代である。これほどの良港は世界でも珍しい。

Ark(方舟)時代こそ、舟の海路が全世界を結び付けていた時代である。その祭の原型が宇治の「あ賀田()」祭である。人物往来の舟時代から全ては始まるようだ。有明海の宇台(・美台)から、瀬戸内海の八間台(邪馬台)、琵琶湖の天台(テン・十田井)と変わる。数理宇宙観が三・八・十と増えて行く。

天台の祭と言えば比叡山麓の日吉大社の祭だろう。モーゼの契約の箱を神輿として完全に昇華した祭である。関東なら国会を護る永田(奴・直方)町の日枝(比叡)神社である。
山王様の恵奴(猿)とは佐羅田(猿田)彦になる。恵比須族が生粋の江戸(恵都)ッ子である。行橋と行徳が恵戸の名残である。江戸川沿いから関八州の開拓が始まる。浦安こそ、安寧あるいは孝安時代の入植地である。寧波(ニンポー、日本)、安寧、孝安、高安、平安、比叡、日枝、浦安の歴史線は何を意味するのか?

北九州の直方とは黒潮に乗り、北辰目指したノアー族の一派の集落が起源のようだ。ムー(Moon)大陸族とヌー(Noon)海洋族の時代まで遡るようだ。その後に「あ**」の造語文化のアトラチス時代が来る。ノアー族が恵比須族と呼ばれるようになるのは何時の頃か?

小舟の大航海時代とは小乗哲学時代で個人が川上に天土を探す田尾泉(Taoism、道教)全盛の時代である。それが完成する室町時代は道教時代と言っても過言ではない。
その後、祇園祭が町民(田目)文化の花へと昇華し現代に至る。祇園祭を追うだけでも人類歴史三千年位の歴史は容易に分かる。恵比須族の歴史でもある。

アダム(あ田六、愛宕)とイブ(伊部)がエデン(恵田・江戸奴)から追放されたのは何時の頃か?
つい最近の話をモデルにしている。宗谷境(そうやさかい)として日本の四間(九州、四国、本州、北海道)世界が生まれ、国境意識が生まれる。堺(境)の仁徳時代である。その後、日本に国粋思想が生まれ人種洗浄が行われたことは大地に色々と記録されている。倭人と和人の拮抗である。

大型の箱船(八口舟)登場してから大乗宗教時代が始まる。現代はコンテナー船の超大乗物流時代である。それに飛行機(あ日賀)も登場した。
魏志倭人伝には物流の物部の長州スサノウ族は人類のガンと既に預言されている。鎖国と言ってアダム(あ田六)とイブ(伊部)の追放は何回も繰り返している。

伊部(イブ)、忌部、員部、印部、斎部、陰部の違いが分かれば今代6000年の人類の歴史が分かる。日本語こそ、世界の言霊の宝庫である。

それよりも、まず景教の祇園守紋が読めるかな?

梅津から梅田(宇目田)へ
魏志倭人伝では京都は好古都と紹介されている。その外港は桂川の梅津になりそうだ。ここから祇園祭船団は河口の梅田を目指して、舟出したようだ。
梅津は邪馬台の前の第四代国宮、宇台時代の古開地のようだ。桂(賀津羅)離宮こそ、剣(津留支)の八幡族(耶部)の古港を顕彰している。その津羅奴文化の中心地こそ、梅宮大社だろう。月(津支)読族の入植地である。梅・桜の五弁の花を日本に伝えた部族である。

弥生暦 大阪天神祭 日神215日頃 太陽暦7月25日
魏志倭人伝には弥生(耶世井、八四一、13)時代が始まる大神開化の日本が記述されている。淀川(耶土賀倭)とは弥生(耶世井)時代の命名で、その前は桂川(賀津羅賀輪)と呼ばれていたようだ。更にその前は宇治川(宇土賀波)と呼ばれていたようだ。更にその前は?
奴族がもたらした言霊「」も波、輪、倭と昇華しながら字霊で表現したのが平安時代の梨壺五朝臣である。現代の日本語の基本を作ったと言われている。また人類史上最高の歴史学者団でもある。だから日本語の形成に世界の歴史が練り込まれている。

祇園祭で好古都の梅津を船出し、桂川から淀川に下ってきた祭箱船団が梅田に集結し、互いの無事な航海を天神に祈る。そして荒海に向け、方舟が各在所に舟出する。

直方舟とは紀伊水道を目指し、南無(NM・SN・南北)方向を行く、黒潮(九羅四尾、13)の奴族の舟である。邪馬台の前の宇台時代とは九州時代で、有明海を北上し、直方(N賀田)の田舎が生まれた。
Moon(ムー)大陸に対し、Noon(ヌー奴)海洋とはアフリカまで続いている。この直方舟がノアーの方舟のモデルとも言われている。
熊野新宮(New三八・11)に渡来した奴(New)族の頭領こそ、徐福(Jo二九・11)である。熊野川の田尾天土の大塔まで遡上し、最後には東京スカイツリーまで構築する。魏志倭人伝の頃は天辻峠を越え、ノアー族は梅の里の賀名生(アノー)族と称している。いよいよ奈良盆地に進出である。東京空木まではこれから1700年程かかる。

帯方舟とは北九州に向け瀬戸内海を東西方向に行く方舟で、魏志倭人伝の頃は帯方舟と呼ばれたようだ。中国と朝鮮に行く大陸航路の舟である。
北九州の直方(北方・喜多方)から恵方(東方)へ、いよいよ日本の東部開拓史が始まるのが第四代宇台から第五代邪馬台への国宮遷宮である。まず九州時代から瀬戸内海時代である。
北部開拓に方向が変わるのが福島(二九四間)会津の喜多方からである。中山道が整備される第六代国宮、高天原時代である。雄略時代になるのかな?

恵方舟とは黒潮・大陸方面の遠方に出て行く方舟を見送って、関西に住み着いた奴族の川舟になりそうだ。まず曽根崎(曽奴佐木)に住み付いたようだ。そして寝屋川(奴耶賀波)から野崎(奴佐木)へ、この頃は大湿原だった。
恵方とは大陸では月の出方向のイースト(恵・E方)になり、帯方の基本帯になる。海洋島国では日神(冬至太陽)の日の出方位置から佐神(夏至太陽)の日の出位置の範囲になる。東山の暦山である。
弥生(耶世井)時代とは大旅(田日)時代で、人口増加により、川上盆地(田尾)を目指し、移住する田尾泉(Taoism・道教)が黎明した時代である。

舟出を見送った梅田族は弥生(八四一、13)文化の十三族と呼ばれるようになった。梅田から望む冬至太陽は平群の十三峠より初日の出する。この恵方を日神降臨の聖線と見るようになる。そして関西魂の田尾聖地と見るようになる。
すると梅田からの恵方舟とは石川(恩智川、旧大和川)を行く川舟になる。八尾(田田尾)が中心になるのが応神八幡時代である。その恵方奥宮が吉野(四四奴)である。吉野田尾人は古事記では尾人として紹介する。その伝統を引き継いでいるのが腰敷きを付けた吉野山伏(二四)である。

そうそう石(一支)とは東を言う。西(二支)、東(一支、石)、南(三支)、北(四支)と数(崇)神で方位を決めたとなると弥生(八四一)の瀬戸内海時代になる。石川(手取川)県、奥蘇(奥石)神社、石山寺、石切、石川、生石高原等が瀬戸内海の東境に並ぶ。
石川は東川を意味した時代があった。手取川は美川(三川)と呼ばれ、三河(天竜川)と対になった時代もあった。その名残が安宅(あ田賀)関である。

この関西魂の本能的宇宙観は今でも逆らえない。飛行機(あ日賀)が行く関空の滑走路は直方に、神戸空港は帯方に、伊丹空港は恵方に向いている。
曽根崎から見る生駒山が暦山になる。白(平・四羅)龍大明神が見る山(八間)こそ、八方一宇(ユニオンジャック・宇奴鬼耶狗)の八大龍王の籠る鬼取山伊古麻(生駒)山である。関西の中心である。今、鬼取に籠るのは花子・大助である。吉本(四四幡)から日本(二幡)へ。

委羅幡(イルポン)とは大陸の東南界を言うようだ。陸人(鬼人)が魏人で、海人(イ人)が倭人を言うようだ。恵方の東南界とは日向界を言うようだ。香港(HK)とは日向(HK)を言い、SunShine(上海)を言うようだ。中国大陸では香港は恵方にあり、上海は帯方にあり、方位が東南から東に変わっている。すると香港のほうが古開地になる。香港と香川の違いは?港(三七十、20)とは?
Noon海洋はエジプト(恵耶汎土)、イラク(伊羅狗)、イラン(伊羅奴)にまで続いていた。イスラム(伊佐羅毛)のシーア派、スンニ派の起源も分かりそうだ。
魏志倭人伝では東南界(恵方)に幸住む奴族を倭人と見ている。恵方の田尾天土を目指すのが田尾泉(Taoism、道教)の大旅(田日)時代である。蓬莱山はどこにあるのか?

淀(YO土)川とは耶(Y、J)神文化圏の終(お)土の境川を意味する。伊予と淀が対になる瀬戸内海時代である。所謂、邪馬台国(八間田一)の弥生(八四一)時代である。大淀、仁淀、八幡平(田一)等が流行った時代である。当然、ジャパン(J・Y・八幡)呼ばれた時代である。
淀川と言われる前は「木の川」と呼ばれていた。その頃は本州は木島と呼ばれ、木曽川と共に木島の主要河川であった。利根川は恵土(江戸)川、渡良瀬と呼ばれていた。川の呼び名は色々と変わってきた。そこに日本どころか世界の歴史宇宙観(数理宇宙観)が記録されている。
「木の川」を襲名するのが「紀の川」だがそれまでに色々呼称が変わってきた。紀伊水道の「瀬(せ、Sea)」道から始まり、伊瀬、東川(うのかわ)、真国川、丹生川、吉野川、秋津川である。真国(馬国)川と呼ばれたのが第五代国宮、邪馬台前期で、吉野川と呼ばれたのが後期である。秋津川と呼ばれたのが第六代国宮、高天原時代で、第七代国宮、伊勢神宮は伊瀬を襲名している。伊瀬とは紀伊半島周辺の海を意味した。

揚子江が東川(うのかわ)と呼ばれた揚子江・瀬戸内海の「う幡(武漢)」時代が分かれば世界の歴史など容易に分かる。方舟の起源も宇治の「あ方(ガタ)」祭まで遡るようだ。いや、ウガンダ(う賀田・県・方・潟)まで遡るようだ。ウガンダが脚光を浴びるのは今も、昔も変わらない。

これは平安時代に梨壺五朝臣が大地に記録した歴史を読んでいるだけの話である。

大化の改新以来、和人が日本の歴史を改竄・隠蔽・捏造し、面白可笑しく書くので倭人の歴史が迷宮入りする。魏志倭人伝には和人の長州スサノウ族は人類のガンとして既に預言されている。
  戦争に負け、経済に負け、原発に負け、まさに三隣亡である。
皆、何か勘違いしている。和人国家のすることが行き詰まるだけで、
                           倭人はいつも元気印です。

歴史は何度も繰り返す。天神様と言えば平氏の菅原道真である。遣唐使の廃止により、その混乱を治めるため自ら北九州の大宰府に赴くのである。京の治安は源氏に任すが留守中に和人の平家が台頭してくる。なにしろ和人は人類のガンである。

旧暦 文月朔日 日神222日頃 2011年7月31日
夏は七月(なつ)を、葉月は八月(はづき)を意味するのが倭人の常識だった。
しかし、大倭人となると文官(シビリアン コントロール)で、文(ふみ、2三、222)を真剣に考えたようだ。
葉月は端月を意味するのか? 文月(ふづき)は二月か?
文月(ふ・二月)とは夏至から始まる佐神(相模、最上)期の二番月を言うようだ。6月24日頃から8月20日頃まで月齢で浮動する。
不月と言えば無い月を言い、弐月と書けば閏月になる。
     応神八幡の最上(茂神)月(オウガスト)をどの満月にするか?
日神暦八月の満月・盆(B・日奴)に拘ったようだ。
                       要するに月の扱いである。
また、文月(二三・5月、F・6月)は5月、6月、七月、八月なのか?
七月盆と八月盆のいづれが本物か?

   月神の戦艦大和、日神の大佐官大倭人、星神の宇宙戦艦ヤマトを、
   月神暦、日神暦、星神暦のを論じるようなものだ。

日神暦を基準にして月読みすると冬至基準日に必ずしも新月がくるとは限らないので、どうしても月齢で端月から始まる「数え」になる。
更に日神暦では満月志向になり、月神暦では新月志向になる。盆(日奴)とは日神暦の言葉になりそうだ。更に佐神の季節感も入ってくる。また時代々々で基準となる日も異なるようだ。

文月(二三・5月、・6月)の言霊は「ふみ(二三・ニサン・5)」から始まるようだ。
「二三」を「ふみ」読めば倭読みで、「ニサン」と読めば耶読みである。ユダヤ暦ではニサン月とは正月になり、太陽暦の3−4月に相当する。本来は2−3月(ニサン)になるべきだ。カーニバル(神春)の時節である。このズレに世界の歴史が隠されているようだ。

3−4月と浮動するので、月神暦になる。弥生(耶世井)暦では日神100日(四月一日)が正月で桜の下で入学式(文始め)である。耶幡(ジャパン)暦は耶田屋(ユダヤ)暦を真似したようだ。
「二三」は五進則の言霊である。「あいうえお(AIUEO)」が完成したのがヘレニズム時代である。日本の葵(AOY)時代と連動しそうだ。
日本では5進則の葵(AOY)時代から10進則の弥生(YAYOY)時代になるのが大神開化維新である。弥生日とは日神暦100日で、太陽暦4月1日頃になる。そこから月読みすると数えで5番月は太陽暦7月から8月と月齢で浮動する。

六月(無月)、七月(水無月、夏)、八月(葉月)と並べると太陽暦の夏三ヶ月になる。日・月神暦併用の明神暦の頃、応神八幡月が日神暦八月に来るように文月を入れ閏調整したようだ。
10進則弥生維新の太陽暦に太陰暦が既に併用されている。太陽暦とはクリスチャン カレンダーと呼ばれているが太陽暦は日神暦を参考にして制定されている。景行時代とは景教時代を意味するなら当然のことである。賀(K)神の景教・回教のほうが原キリスト教に近い。

その頃の大佐官族は高鴨神社の北面伏見(二四三・9)族である。その末裔が大和西大寺伏見の里の菅原道真である。そして最後の北面武士と言えば西(佐井)行である。いずれも源氏の頭領格である。源平合戦以降は源氏、平氏、源家、平家の四巴である。
今は勝てば官軍のご時世である。大本営放送局(通称:NHK)率いる文部科学省と日教組の植民地育で勝馬に乗ることばかり教えている。その内に動きがとれない植民地国家になる。魏志倭人伝では長州スサノウ族は人類のガンとまで預言されている。

七月盆は太陽暦で、八月盆は旧暦とよく言われるがこの辺が日本民族の融通の効くところである。この融通性は日本民族の伝統として何度も登場したようだ。「満」と「数え」の年齢もそうである。

しかし、融通を効かせ過ぎて、本質を見失うのが日本民族の特性でもある。その典型が七月盆と八月盆である。深い深い絡み合いがある。

太陽暦はシ―ザ帝がエジプトの暦学者から聞いた泰山府君暦(中国太陰暦)を参考にして制定している。泰山府君暦は日本の日神暦を参考にして泰(たい、シン、はた、やす)氏が制定したものである。なにしろ、日神暦とは日本民族が一万年位使用してきた人類最古の社会暦である。この絡み合いを解くのは本当に大変なことだ。

なぜ八月をオウガストと言うのか? 
八幡八月(オウガスト)応神(オウカミ)と並べれば八幡応神時代の数理宇宙観「AU」が浮き上がってくる。太陽暦が日本に初めて渡来し、五・十・十二進則の算数(アリスマティク)に熱中したのは第1千年紀の前半の東漢時代である。数学(マセマティク)に熱中するのは次の第2千年紀である。第3千年紀に熱中するのがコンピュータのようだ。

太陽暦は上六ヶ月を耶(J)神期と見てヤヌスのジャヌアリ(一月)で始まり、ジュノーのジュン(六月)で終わる。ヤヌスこそローマ神話の一年を司る耶(J、Jahr、year)神である。
下六ヶ月は人神期と見て、七月を太陽暦を制定したユリウス シーザを顕彰し、ジュライと呼んだ。次に顕彰すべき人は太陽暦を公布した皇帝になる。神に応(オウ)じるほどの力溢れる人としてアウグストゥスを顕彰しオウガストと八月を命名した。

「AUO(オウ、アウ)」とは「AIUEO」の三母音で力溢れる言霊と見ていたようだ。五進則宇宙観が完成した葵(あお井)時代である。
AUM(オウム)、オウタム(Autumn)、阿吽(あうN)と並べれば「あうお」こそ基本言霊と見ていた。そして、「イエ」は半母(父)音と見ていた。

AUmの法則とOhmの法則の違いが分かるかな?
  勘違いした輩(八賀羅)、耶奴衆(ヤンシュウ)が沢山いる。

八幡八月族のオウガスト(August)のAUN(阿吽)とAUM(オウム)はハルマゲドンを演出した。仏教を物教と勘違いしたようだ。人口減少と国家赤字こそ、まさにハルマゲドンである。どうして予言できたのか?Autumn(秋)の本当の意味は?
星の里アザンAZN)ちゃんとソラマチ空からちゃんが知っていると言ったほうがよいかな。要するに五弁の花、五角の星に拘る大塔族の歴史である。聖書に書かれていることだ。

そうそう、スカイツリーの高さを610mからこそこそと634mに変えたのは余りにも姑息だ。大塔族の風上(風神)にも置けない愚行だ。隅田川がイムジン(一六 )川と呼ばれていた押上(お支神)時代を完全に忘れたようだ。都鳥の業平川と言えば分かるかな。アリラン(在羅奴)の原曲と言えば分かるかな。
イムジンとはIM人と書けば分かるかな。イムジン(一六人)文化を支えていたのがイ部、伊部、忌部、員部、印部、斎部等の部族である。印旛沼が関東(関八州)の中心、本八幡だったようだ。隅田川の花火は大塔族と兄弟部族の篠部族の末裔、狼煙族が打ち上げている。

印(伊奴)平人(Imperator)と言えばローマ皇帝を言い、恵奴平人(Emperror)と言えば中国の皇帝を)言う。
物教(仏教?)渡来により、日本では伊奴の稲荷(伊成)の狐顔と恵比須の恵成の戎顔が登場する。この関係が分かれば人類歴史一万年位は分かるのだが。

この間にアリランの歌が何度歌われたか。イムジン一六人)の歌はヘレニズム(平泉)、タオイズム(田尾泉)に同期するのかな?

旧暦 建部大社船幸祭 日神240日頃 8月17日
日神240日は猛者(24・六佐)・武蔵(六三四・13)の特異日である。モーゼ(MS、猛者)の日である。
伏見(二四三、9)の九羅徒(玄人)こそ、夏の暑さにも負けない丈夫(JF、益荒男・MSLAO))の応神八幡月(オウガスト)人である。LEOとは母音違いである。そして、匹夫(HF)の誉れ山伏(八間二四・6)の登場である。

  なぜ、Fがアルファベット(あ羅日徒)の六番目にあるのか。

偶然にもこの月は太陽四季暦の三月正月から数えで6番月(無月)になる。ここまで意識していたか?これが言霊遊びである。240は日田井(額)とも書け、どんな言霊遊びに発展するか。田日口ならダビデ(旅徒)になる。

弥生(八四一、田田田口、八間台、邪馬台)はどんな経緯で生れるのか。栄屋太一(佐賀井八田口)の間が読めるかどうかで、日本の歴史解析は間抜けか、どうかの瀬戸際である。

一ヶ月前の7月17日はノアーの箱船の船出日であり、阿波の剣山祭日であり、祇園祭日であった。夏至明けの満月の祭のようだ。
夏至明け満月と言っても一番、二番、三番満月の祭日があったようだ。神無月満月、文月満月、葉月満月に相当する。二番目の文月満月あたりが一番盛り上がったようだ。
三番目の葉月満月になるとお別れ満月になり、仏教の伝来により、盆に定着する。盆明けの旧暦葉月17日が太陽暦の8月17日に定着したようだ。その名残の船出祭が建部大社船幸祭のようだ。

なにしろ神(賀奴)代の時代は人類は暇を弄び、国境がなかったので、猛者(MS、モーゼ)はカヌー(賀奴)で、天下太平な海を世界中の隅々まで行き来していたことが大地に記録されている。女が喜んで迎えてくれるとなると尚更である。その最後の記録が滋賀県建部大社船幸祭である。
シナイ(四七井)半島からのオリエント航路が一番人気のあった頃である。終点の「お土」はどこだろうか。オリエント航路伝いに「シナ(四七・11)」を追ってみよう。
インドシナ半島を越すと本家の支那(シナ)が登場する。更に行くと日本(イルポン、ニホン?)である。奈良高間の南口の風の峠にある志那(シナ)都が栄えた時代で、奈良高間の総合開発が始まる頃になる。
第五代国宮、邪馬台の瀬戸内海時代も峠を越し、いよいよ伊瀬と言われた瀬道、紀伊水道の田尾を目指した近畿時代になる。淀川の田尾を目指した時代である。淀川の田尾湖こそ琵琶湖である。海奴が夏祭のため琵琶湖に集まった名残が建部大社船幸祭である。

その頃流行ったのが契約の箱信仰である。海奴の舟魂信仰が昇華したものである。日本の神輿は契約の箱のレプリカと言われている。その儀式を忠実に引き継いでいるのが剣山神社と日吉大社の祭である。
比叡山の麓にある日吉大社は建部大社の山宮になる。八王子山の頂上にある奥宮まで二基の男女神輿を上げる。山(八間)宮とは何を意味するか?

猛者のシナイ(四七・11井、竹刀)族とはトランプの耶狗(ジャク、11)である。5進則の25から10進則のJu(十)土のジャパン(十幡)が生まれ、アルファベット26文字のキング(13)が生まれる頃になる。淀川の田尾、山科(耶間四七)の名が登場すると飛鳥・奈良時代になる。
するとその前の倭綾(東漢)時代になる。第十代崇神天皇から数(祟)神曼陀羅の東漢時代が始まるようだ。人類史上、一番哲学を極めた時代である。その時代の才女が百襲姫(10X10日百曽姫)である。第五代国宮はまだ邪馬台国にあった。
その前の第四代宇台の頃は揚子江(東川)、瀬戸内海、吉野川(東川、うのかわ)の武漢(う幡)時代である。宇部、宇治、宇井等の宇の時代である。

邪馬台(八間田井)が天台(十・テン田井)に移る頃は倭の仏教が和人の物教に変わりだす。

旧暦 二百十日 日神255日頃 9月1日頃
立春から数えて210日目で、この頃には大型台風が来る頃と言われてきた。

と言うより今時の人は210日と220日の時候を知る人も少なくなった。
旧暦では白露の頃の時節と言うが旧暦とは所詮、和魂の中国暦である。
その前にあった倭魂の弥生(八四一)暦を忘れたようだ。
             日神暦を忘れたようだ。肝腎な日本魂を!!

日神暦では、里正月(日神暦55日)から数えて200日目の特異日が旧暦では立春から数えて210日目になるだけの話である。そして宴のデカメロン(十日話)明けが220日になる。本来は 日神数理宇宙観の特異日で、台風と余り関係がないようだ。あえて言えば秋の始まる時候で、来るであろう台風(野分け)に気を引き締めた日のようだ。

このような巨大数を暦に使うのは日本だけである。まさにこれこそ、日神暦(日読み)の存在を証明するものである。このように、毎日、朝早く几帳面に日を数えるとなると女の仕事である。それが日巫(卑弥呼)であり、日神天文台長である。「おはじき」は采女大学の巨大数を扱う算術用具である。

月読みになると宵張りの男の仕事であるが早朝に月が出るときもある。男はちゃらんぽらんなので、曇り空の多い日本では不正確な暦になる。男が真剣に月読みしだしたのは奈良時代からである。
だいたいイスラムのヒジュラ(日知り、聖)暦の制定と同期する。当然、偶像崇拝禁止の習慣も伝わり、秘仏が流行りだす。仏教、物教、非物教(秘仏教)の輪廻である。
当然日本から行ったのがムシャヒジ(武者聖)、ムシャラク(武者羅九)等の武蔵(六三四、13、九羅)人である。それどころかフランスまで行ったシラク(四羅九)、クロード(九羅人、玄人)等もいる。

 弥生(八四一)暦
   一月 ーー 日神暦 10日(1月1日)ーー 正月
   四月 −− 日神暦100日(4月1日)−− 弥生正月
   八月 −− 日神暦200日(8月31日) − 秋正月

冬至から日読みする日神国暦の55日目が里暦元旦であり、国暦100日目が4月1日の弥生になる。里暦200日目が秋(あ季)になる。どうも数(崇)神維新の弥生(八四一)時代から始まるようだ。

「花(八七)は桜(三九羅)」、「色(一羅)は紅葉(茂三二)(いろはもみじ)」の花は吉野時代である。五弁の梅と桜が渡来したようだ。いよいよ春と秋の色彩感覚が逆転しはじめる。
緑(三土羅)、白(四羅)、黒(九羅)と色の呼称が揃いだす。しかし奈良時代でもまだ「春の七草」では緑の復活再生を愛で、「秋の七草」では花を愛でているが。現代感覚では「花は春」である。

なぜ秋をオウタムと言うのか?
秋(あ期)とは「あの一番月(津期)」を意味するようだ。胡(えびす)の月(津期)暦に熱中しだしたのは何時の時代からか。秋津島時代のようだ。その前は本州は木島と呼ばれていた。
日神里暦200日が太陽暦の9月1日頃になり、阿吽(あう、AU)の息を入れ合い、年の後半が始まる。その気合(Aum)を入れ直すのが秋祭りである。オウタム(AUtum)が始まる。秋(あ月)がいよいよ始まる。この辺が秋とオウタムの語源のようだ。

オウタム(おおさむ・大寒?)、コタム(こたむ・小寒?) 山から小僧がと歌うが、
この頃の小僧は山から里に降りてくるアキアカネ(秋茜)のようだ。
        秋の使いは色々いるようだ。冬の使いが来るまでが秋のようだ。

日神族が月神ボケすると可笑しくなる。日奴は満月志向で、月奴 は新月志向である。それが八幡族の八朔と仲秋の名月(旧暦8月15)の盆(日奴、BN)である。「円い、円い盆のような月が」と言うが盆より満月のほうが古いはずだ。本来は「円い、円い満月のような盆が」と言うべきだ。
これこそ、中国太陰暦(旧暦)の導入による混乱である。夏至三番満月を盆と読んでいたようだ。そして太陽暦の導入により、夏至一番満月を7月盆、二番満月を8月盆、三番満月を9月盆(仲秋の明月)と呼ぶようになり、7月15日と8月15日の盆が定着する。名月を愛でる9月盆だけが月齢で祝うようになる。なにしろ日本の文化は捩じれに捩じり切っている。

なぜ九月をセプテンバーと言うのか?
オウタムとは気合を入れ直し、年の後半期入りの日を意味するようだ。日本では9月1日になるようだが太陽暦ではオウガストは8月になる。どうしてこんなことになるのか?

今世界最強の暦は大神官だったシーザ帝が考え抜いて制定した太陽暦である。一年を神前期と人後期に分け、二面神のヤヌスが支配する365・6日を1年(ヤール)とする変則12ヶ月暦である。
人後期のトップバッターは当然太陽暦を制定したユリウスシーザを顕彰しジュライ(七月)と命名し、次は発布したオウガスチヌスを顕彰しオウガスト(八月)と命名した。しかし、三代目になるとローマ旧暦を懐かしみ、名前を後世まで残したい目立ちがり屋がいなくなる。

この時節はローマ旧暦では最も神聖な7月の頃である。ローマ旧暦は太陰暦で、春分前の新月の7日前が月神暦の元日にしている。月齢で浮動するが平均すると3月1日になり、現代の四季暦が引き継いでいる。三月正月の七番月が太陽暦の九月頃になる。
四野七生こそ、聖数曼陀羅である。四こそ四季豊かな田(四)舎である。ローマも本当に都会化してしまった。28(4X7)日こそ、神聖月の2月であり、閏調整月である。そして29.5日(1月)÷4=約七こそ、ラッキー7の聖数である。週7日で、ローマは7匹の狼(大神)の丘より始まる。4+7=11こそ、トランプのジャックである。

この話は当然日本にも伝わって、更に昇華されている。三輪山に昇る大神(狼)星、シリウス星を崇めたのが百襲姫である。また、「七=三(目)+四(田)」、三好(三四四)こそ、吉野川世界の田尾の山里である。大(おお、五五)神こそ、第十代崇(数)神天皇である。そして応(おう、AU)神天皇と並ぶ。いよいよ、花は吉野の時代になりだす。吉野の如意輪堂こそ、如賀(ジャック、ジョーカ)の聖堂で、楠正成が七生報国を誓ったところでもある。

何故、七はセプト(SPT、佐幡田、三幡四、七羅、奈良)と言うのだろうか。ST(7)こそ、三()と田()で構成された神聖数である。なにしろ西欧ではSTの言霊が大流行する。
RSTから判断すると聖数7がミル(目羅)として登場するのはかなり昔のようだ。
  三幡(三巴)+五幡=応神八幡天皇
               この辺から次の聖数が推理できそうだ。

里秋祭 岸和田ダンジリ祭 里神217日頃 太陽暦9月14日
八幡暦 南河内誉田八幡 日神270日頃 太陽暦9月15日
秋正月 鎌倉八幡流鏑馬 夏至三番新月 平成24年旧暦八朔
          神奈川県鎌倉市雪の下(耶城の下

日神里暦のオウム(Aum)数理宇宙観では一番気合が入るのは里暦200日後の初満月の盆祭である。秋(あ季)が来る、Autumnが来る。八幡八朔月の満月が一番盛り上がる。
夏至後の第三満月に相当する。この9月盆が仲秋の名月であり、この盆祭で現役なのが岸和田のダンジリ祭で、9月17日が本宮である。応神八幡軍の精鋭の名残である。オウタム(大友)・源(皆友)族の祭である。大伴族とは皆(三七、三奴)太い絆で結ばれていた。平安時代に日本語を纏め上げた数理法則で歴史が読めるのである。

役三(八九三、ヤクザ)と役四(薬師)の阿吽(Aun)の息が合った弥生(八四一、耶世井)時代の名残である。ローマ太陽暦の耶(弥、八)神が渡来している。
ローマの耶神(ヤヌス)が二面スクナとして渡来しでいる。太陽暦の一月正月の人・神二期暦に対応し、四面スクナになると三月正月の四季暦に対応している。これが十一面観音にまで成長するのが第一千年紀の数理宇宙観である。十一面観音と言うが主顔を入れると十二面になり、太陽暦の年12月に対応する。
阿吽の息の仁王は二王なら二面スクナの化身であり、仁(イ+二=四)なら四天王になる。これがヘレニズム時代の数理宇宙観でもある。第二千年紀の江戸時代には柳生十(八九十)兵衛が登場する。

夏至三番満月は八幡(八間奴)秋正月の耶月
冬至三番満月は弥生(八四一)春正月の如月
輩(Jack)の祭如賀(Joker)のMarchとの関係?
       行進とマーチの違いは?
 
なぜ旧暦九月を長月と言うのか?
太陽暦の10月は旧暦で長月に相当する。どうして長月と言うのだろうか? N月をNine()月と読むか、Naga(奴賀)月と読むかの違いである。またKnife(宮内府)あるいは金賀(木奴賀)と読めたら人類歴史の鍵を握っている。
太陽暦の10月は中国太陰暦では9月頃になり、ローマ太陰暦では7月頃になるだけの話である。またN月を7(Nana)月とも読める。要するにこれが古代国際語である。当時の国際天文台は中国の泰山にあったようだ。

泰山府君暦が世界最初の公式太陰暦のようだ。皇紀元年に発布されたようだ。それまでは日神暦と月神暦を民族ごとに好き勝手に使っていたようだ。
太陽暦の四季暦はローマ太陰暦(旧暦)の3月正月を引き継ぎ、この頃は四季暦7月になり、泰山府君暦(中国旧暦)では2月正月(立春基準)から数えて9月頃になるだけの話である。頃とは旧暦は月齢で浮動するからである。

弥勒(三六九)人
勇(一三六)    黙祷(六九十二)
長月ーN月ーNight月ーKnight月ーNine月ー9月
宮内徒(Knight)
夜長月の遊び
おはじき(Marble・間羅日羅)
間羅(マリ)姫 −−暦(日読み)道具
日羅(ヒラ)彦 −−作戦(人読み)具
Knight・騎士 内藤棋士
   お雪と言う女(比売・姫)は
旧暦 秋分 日神280日頃
酒井雄哉大阿闍梨死去(2013年9月23日)、合掌。
平成の千日回峰の行者と言えば吉野真言宗の柳澤眞悟師と比叡天台宗の酒井雄哉師である。全くの赤の他人だが共に隣のオジさん位の身近な山伏である。何時か話すことがあるだろうが今は雲上を行く人である。

黒潮(九羅四尾)物語
黒潮の主は黒(九羅)龍が頭に浮かべば話が早い。九龍半島が発祥地になりそうだ。初代香港人の行動範囲は九頭龍川、黒龍江の日本海航路と
屋久(八九)島、熊襲(九間曽)、熊野(九間野)、久里浜、九十九里、クリル(九羅羅)と続く黒潮航路があったようだ。
香川讃岐(三奴岐)の金毘羅(カヌー平)時代になるのだろうか。阿波、千島、アリュシャン(あ龍徒)と並べると分かりそうだ。999の数字曼陀羅の時代である。

時代にもよるが黒潮の主は鯨(九頭羅)になりそうだ。イサナ(勇魚、一三七、伊佐奴、伊奈佐、伊那佐)と並べると伊那佐山をあ日賀山とするヤタガラス神社が浮かび上がってくる。どうしてこんな山奥に勇(一三六)魚がいるのだろうか。すると弥勒(三六九)魚もいそうだ。黙祷(六九十二)魚は木魚を言うのだろうか。
もう少し山奥に行き、高見峠を越えると吉野(四四奴)川が櫛田(九四田)川に変わり、伊勢神宮に行く。日本の国体が定まった頃のキング(十三、富、九四)の弥生(八四一、13)時代になりそうだ。

分かってきたかな。尖閣諸島も、竹島も、国後(九七四羅)・択捉(恵徒羅府)島も、中国、韓国、ロシアのものではありません。勿論、日本のものでもありません。
敢えて言えば伊羅幡(イルポン)の倭人のものです。そこを自由往来したのが恵比須(エブス)族です。エブス航路は中近東まで繋がっていたシラク(四羅九)時代と言えばフランスまで繋がってた。ヘレニズム(平泉)時代と言えば分かるかな?タオイズム(田尾泉・道教)の時代になるのかな?

田尾(Tao)時代の竹島(田木四口・間)と書けば分かるかな? 田舎(島・四間舎)時代です。武田・竹田・竹内(シナイ)時代です。
風の峠の竹内族の志那都が支那(四七・11・ジャック)を経てシナイ半島まで通じていた時代です。Taoist(道士)が行き交った道教(Taoism)の時代です。

20世紀のFive Dragons (土羅賀奴・鳥神)と言えば香港、上海、韓国、シンガポール、バンコックだった。21世紀は華僑、印僑、欧僑、米僑、和僑の時代になりそうだ。

思い出すと、青三才(ブルー スリー)のBruce Lee(ブルース リー)の燃えよ、ドラゴンの頃が一番面白かった。リーを地で行くような少林門の友人もいたので。
リーは青三才の俳優であるが友人は青六才の道士でアルプスで空手道を教えていた。そして、日本では青一才の竜の落とし子が異常繁殖した。それが成長し、維新のイイ蛸になるようだ。それにしても色々の蛸坊主がいたな。それが章魚の帝国です。

ここで、弥生(八四一)の素人(四羅徒)と弥勒(三六九)の玄人(九羅徒の違いが分かるかな。青(あお)の宇宙観が分かるかな。
竜と龍の違いが分かるかな? ドラゴン タツ(Dragon Tatoo)の女に聞いて見ることだな。青衣(しょうえ、あおい・葵)の女人(にょにん)の親類筋かな? 青井の最強の女人こそ、神功皇后です。
立つ、辰、竜、龍の辰女・羽衣姫と竜宮城の乙姫の関係は浦島太郎が知っていたようだ。乙木、乙田の姫がモデルか、成り済ましか。乙田の姫なら知り合いにいるのだが。

   そうそう、今年はYear of Dragonです。
                人類文化史数万年と見れば つい最近の話ですが。

なぜ十月をオクトーバと言うのか?

  カエサル(賀恵佐羅) ーーー シーザ(賀羅獅子・沖縄)
  オクタービアヌス   ーーー アウガスチヌス
  オクトバー(Octover) ーーー オウガスト(August)
  大神(崇神)天皇 ーーーーー 応神(八幡)天皇
  狼(大神)星 −−−−−−− シリウス(佐羅宇佐)星

こう並べるとローマの政変が日本に伝わり、倭国の大乱終了後、大神開化が始まるのがよく分かる。この間、250年程の時間差があるが。この時間差は南蛮渡来から明治維新の時間差とほぼ同じである。その様子は魏志倭人伝に記録されている。ほぼ江戸時代と似ているはずだ。

オクトとは八番目を意味し、太陽暦の10月はローマ太陰暦の八月頃になるからオクトーバと呼ばれている。また、八本足の蛸をオクトパスと言うがなぜ八番目をオクト(お九徒)と言うのだろうか。

 一オクターブとは「あ七音」か、「八音」か、「十音」か?

東漢(倭綾、やまとのあ八)に解く鍵がありそうだ。「あ八」のタコ八のの九曜紋、京(ケイ・罫)線の九字紋(図星)の宇宙観をどう理解するかである。これらの紋章を極めたのは江戸時代である。その起源はヘレニズム時代まで遡りそうだ。
日本では敷島(四城四間)時代の宇宙観になりそうだ。邪馬台国(八間台)の時代である。四城とは島根・鳥取・広島・岡山の中国四県を差し、四間とは四国四県を差し、「あ八」の「あ」とは山口県を差すようだ。
頭八足(あ八・綾)紋なら章魚の玄人(九羅徒)将(章)軍の旗印になる。熊襲(九間曽)の旗印が岩手県の獅子踊りの襷紋になるのが日本の歴史である。

応神八幡軍は先軍の役(八九)で組織されたようだ。高句麗から渡来した対中国の軍事顧問団から始まる。言霊「オクト(お九徒)の玄人(九羅徒・章魚)」に全て解く鍵がある。
「あいうえお」と「九(三三)」の双殿(しんがり)人とは? 「お九徒」になりそうだ。これがタオイズム(田尾泉・道教)からヘレニズム(平泉、浄土)への東洋数理宇宙観である。

民の王を意味するaa(三三)から始まるようだ。耳成(三三七四、17、宇羅七羅・奈良)山は余りにも綺麗な円錐形なので人造の山と言われている。ピラミッドを模して造営された山と言われている。大毘古がこの山の頂で、就任したのは何時頃の話になるのだろうか。
邪馬台で日巫(卑弥呼)を務め上げ、里に帰った大比売の大市命がシリウス星が三輪山から昇る日を見定めて行事を取り仕切ったようだ。飛鳥川か、初瀬川を天の川に見立てると畝傍山と綏靖塚と安寧塚はオリオンの三星の配置を意識しているようだ。ナイル川に対するギザの三大ピラミッドの配置である。

どうもオクトパスの「オク(お九)」の語源が日本に残っていたようだ。そして更に奥(おく)へと進展するようだ。奥様とは太陽を迎える日巫(卑弥呼)から始まるようだ。日神天文台の系譜は一万年位続いてきたはずだ。
そうそう、大聖堂を意味するカサドラル(賀佐土羅羅、笠取山)の語源も日本語に残っていた。奈良高間の笠取山とは畝傍山になる。南面にはF神のFountain(泉)の深田(F賀田)池がある。ローマならトレビ(土羅日)の泉に相当する。
日本では鏡(賀神)池と言う。初代鏡池はどこにあるのだろうか。三輪山の佐神方向の忌部神社のようだ。この佐神線に対し、天香久山と対称になるよう耳成山は造営されたようだ。

ユニバーシティ(University)の語源にしてもUNV(畝傍)にある。
       西欧のUniversityなど新参者にすぎない。
       それを真似た総合大学(General Big School)とは
       歴史・国際感覚の無い頓馬な豚(Pig)の大派閥に過ぎない。
                       光は東方から
とよく言うが世界のたいていの言葉の語源は日本語に残っている。
東方と言っても佐神(相模、最上、Sun)、恵神(イースト、一支、石)、日神(ひんがし、日向、ヒムカ)の方向がある。

ここ2000年余りの日本民族の宇宙観を読んだ歌が
   敷島の 大和心を 人問はば
      朝日に匂ふ 山桜花    本居宣長

ソメイヨシノの現代の風情とはかなり違う。
本居宣長の先祖が吉野に住んでいた頃五弁の桜・梅が日本に渡来し、花ブームが起きたようだ。天皇家の桜は日本古来の尾花系の上溝桜である。
   四城四間の 倭心を 人問はば
      朝日に匂ふ 八間三九羅八七  読み人知らず

桜を描かせたら本居宣長と繋がる三熊(九間)思考の絵師集団だろう。織田信長の九男の末裔、織田瑟々だろう。もっと、もっと安土の繖(衣笠、木奴賀佐)山周辺を調べ尽くす必要がある。日本の正史を知るためには。
この田尾族(タオイスト、尾田・織田族)が安土に辿り着く足跡を追うことだ。安土城こそ、タオイズム(田尾泉、尾田・織田泉)の道教宇宙観の最高傑作であった。
応神年間に高句麗から平群(平句麗)に軍事顧問団として渡来したのが織田族である。絆を大事にした。平氏のルーツである。
それに対し明智光秀は源(皆友)の伴(とも)を大事にした。倭国の大乱を治め、大神開化を推し進めたのが景行(景教)毘古で、倭建命あたりが源氏のルーツになるかな。
源家と平家は飛鳥時代以降の第二次渡来系になりそうだ。

北日本大震災のときの米(八方)軍の原子力空母の友達(伴羅)作戦のスマートさを見習うことだ。原子炉溶融の後の祭の絆音頭には飽き飽きした。絆の糸とは金糸を言うのだが。歴史は何度も繰り返す。

神宮暦 元日 日神290日頃 2013年10月2日
20年に一度の伊勢神宮の式年遷宮である。
耶神耶幡(ジャパン)の耶間(邪馬・ヤマ)暦の20年に一度の還暦元日である。

弥生暦 伊勢神宮神嘗祭 日神300日頃 太陽暦10月15日
        伊勢神宮秋正月

日神暦300日こそ、耶神弥生(耶世井、八四一、13)暦の神嘗(賀奴七目・十・テン・天)日である。十夕(JuYu)の伊勢神の元旦である。この日こそ、10代崇(数)神時代の数理宇宙観の特異日である。
  Jがアルファベットの十番目にあるのが分かるかな。
  H()幡、J()幡(Japan)、Z(2X13)幡(Zpang)の何れが古いか?

伊勢志摩(四間・田・島)世界の笠取(賀佐土羅、カサドラル)山は朝熊(あさま)ヶ岳である。この朝熊ヶ岳を外宮は日神山と見ており、冬至復活太陽はこの山塊から昇り、その旭光はまず外宮に射し込み、宇治山田、明和、松阪、信楽、宇治田原、宇治、京都の八坂(弥栄)神社、丹後の弥栄を照らし、日本海に達する。京都府はこの線を都の巽線として配置されている。
そして内宮になると朝熊ヶ岳を恵神山と見ており、春・秋分の中分太陽は内宮から見るとこの山塊から昇る。その旭光は内宮に射し込み、櫛(九四・13)田川を遡り、高見山を照らし、吉野川を下り、瀬戸内海を照らし、四国の吉野川を遡る。
更に、朝熊(あさま)ヶ岳の佐神方向(夏至日没方向)に浅間山があり、その麓に大宮町と阿曽の地名がある。浅間(あ佐間・Summer)山を夏山と見ており、朝熊ヶ岳、浅間山、弥山が里山、前山、奥山と並ぶ。弥山(みせん、目山、M Sun)は紀伊半島の最高峰の目印山である。これは佐人(Sea Man)の宇宙観で、ランド マーク(羅土間羅賀)と呼ぶのは陸奴の言霊である。

ユーラシア大陸圏で最初に日神(冬至太陽)が昇るのは房総半島である。西日本圏では紀伊半島である。こんなことは数万年前には既に世界の海を行ききしていた海奴の常識だった。天文学とは海奴の航海術から始まる。
朝日が射し込み、懐のように陸に囲まれた楽土と言えば伊勢の海である。世界に知れ渡っていた。今とて同じことだが意識するか、しないかの違いである。この最後の記録が魏志倭人伝である。
伊勢界は侏儒(しゅじゅ、四重)国として報告されている。道教(タオイズム、田尾泉)宇宙観では最高の聖地名である。孔子が憧れた蓬莱(日・H来)界である。ほあかり(賀羅)族の世界である。ギリシャ神話のミネルバ(三奴羅羽、梟、二九・11羅、Jack等)の仏法僧が仏法を説く世界の最高の聖地である。鳳来寺山のある三河は三重の一重か、四重の一重か。

  三重(三間、)と四重(四間、田)のいずれが古いのか?
  七単の単衣(狩衣)を着た奈良(七羅)人が知っていたようだ。
  十二単の単衣(加羅衣)を着た女王(クイン・12)が知っていたはずだ。
  単(一重、人恵・恵人)は重ね着を意味するのではない。
    ここで分かるかな、三+四=七と三X四=十二の宇宙観の葛藤を。

人類の言霊は間神三音「まみむ」から始まるようだ。この頃は海奴はまだおらず、ユーラシア大陸は陸奴(マン・Man)の世界である。「み(Middle)」は中間を言い、「ム」は無限空間を言うようだ。「まみむ(間目無)」の宇宙観である。この空間意識はムー(Moon)大陸として語り継がれてきた。
どうも、空間意識は「ま(間)」から始まるようだ。「まま(真間)」、「みま(目間)」、「まむろ(間無六)」の原初的空間が大地に書き残されているはずだ。
里山、前山、奥山の三空間の弥勒(三六九)意識が日本民族の心の底に書き込まれている。

人類の数理宇宙観はアナログの三空間「まみむ」宇宙観からデジタルの「一三六(まみむ、いさむ・勇)」に発展し、「三六九(弥勒)」に発展する。数詞「123456789(いちにい・・・・く)」が完成するのは何時の時代か。

数万年前に海奴が登場し、奴(Noon)海洋圏が生まれ、全世界を行ききするようになる。ここ二万年程の間に氷河が溶け、海面が200メートルほど変動する。海奴にとっては海面上昇による地球沈没の恐怖感から全世界規模で民族移動をしている。
陸奴との交流が頻繁になり、本格的な人類文明・文化が黎明する。そして海の瀬道・山の背道の楽土(奥土)を求める田尾泉(タオイズム、道教)の宇宙観が黎明する。
三河の「ミ」はミドルから始まるようだ。海奴の往来した南アフリカの喜望峰から南アメリカのホーン岬までの全世界の中間にあり、日本列島の中心でもある。超神代の昔から世界の中心地(み・目・三間)、聖地と見らてきたようだ。
ミヤンマー(三耶間・山)になると耶神呼称のユウラシアの中間を言うようだ。この「み間」を中心地とする最後の記録が魏志倭人伝である。日本の都は弥馬升(みま・三間政・都)にあると記録されている。またビルマ(日羅間)になると日神の日向の地を言うようだ。宮崎(三耶佐城)の日向時代の呼称になるのかな。

このように天竜川と姫川の中央地溝帯を境として、神代の昔からかなり意識していたようだ。実際の生活圏は三河(豊川)と美川(手取川)になる。大河圏は洪水が直撃するので、近くの二番河川を生活の間にしたようだ。どうも「み・三間」から始まり、三川(賀波)、三重を経て、三河に落ち着くようだ。すると四重(侏儒)はどの辺に登場するのだろうか。

現在の三重は近畿圏になり、牟婁地区、伊勢地区、員辯地区の三地区だった頃の呼称になりそうだ。それに三河地区が加わり四重(侏儒)になりそうだ。この名残は今でも三重県民感情では関西圏と言うより、東海・北陸圏である。
どうも行政の近畿七県と住民感情の侏儒四県(三重、愛知、岐阜、越)になるのかな。どうも奈良(七羅)の登場が鍵を握るようだ。
侏儒(四重)は魏志倭人伝に記録を留めるだけの話である。伊奴賀(いなか)の田舎時代である。イルポン(伊羅幡)の伊部、忌部、員辯部、印部、斎部時代になり、日本に中央集権国家意識が黎明した頃である。
すると倭国の大乱の頃になる。漢時代の田行政体制になりそうだ。司馬遷(田・四間の変遷)の歴史宇宙観こそ、ダイナシテ(田井奴佐土、王朝)の政治宇宙観である。

よく古事記は三間宇宙観で、日本書紀は四間宇宙観で編纂されていると言われる。四国が佐曽(三間)と呼ばれた頃、日本の中心は弥馬升(三間都)にあり、四国と呼ばれた頃の日本の中心は四万十(四間都)に移ったようだ。
近畿七県時代になると、国宮は高天原になり、その頃、三重が復活したようだが捩じれがあるようだ。そして政教分離により、伊勢神宮(三界)と平城京(四界)に落ち着くようだ。そして、京(罫線)の都は九間(三X三)で始まる。どうも、日本の国家思想は熊襲(九間曽)より始まるようだ。

セーマン(Sea man)とド―マン(土man)が入り混じりだすと海奴と陸奴の区別もなくなり、人類の歴史は伊勢志摩の空気に残すだけである。この空気を歴史の風と分かる人がいるのだろうか。
侏儒国の中心は蒲郡(賀間賀羅)の八百富神社と見るべきだろう。蒲郡(神郡)には色々な比古神社がある。お富(十三)さんこそ各在所々々の比古(キング)である。正月に参集したようだ。
この日神の八百富神社を意識して、耶神の伊勢神宮(内宮)が設立されたのが大神開化と見るべきだろう。外宮は古来からある在所の里神社で、内宮は新しい国家神社になる。

ここで分かるかな、十十日百曽姫(大市命)の算術を
   四X二X百=八百
   島(田・四間)X二=八間(山)
   田尾+田尾=八尾    田尾人(Taoist、山伏、八間二四
   弓削道鏡(吉野山伏 vs 福建道教(田尾泉・Taoism) 
   修験者=行者=行基=役行者(恵奴小角)=倭建命
   景行=ネストリウス(耶蘇教)=景教

   修験(SGN)=Science  恵奴(En)=Engineer
   科学者=科挙者=組織人 vs 修験者(Scientist)   この関係、分かる?

そうそう、なぜユーラシアはEurasiaと書き、
   EUをYuと発音し、Juと発音しないのか? 今はイーユと読む。
       きっと日本語の中に色々と記録されているはずだ。

なぜ十一月をノベンバーと言うのか?
ノバとは九番目を意味し、太陽暦の11月はローマ太陰暦の九月頃になるからだ。

ところでNovember(NVMBR、奴非牟日羅)とは何を意味するのだろうか?

N神を追えばもっと何かが分かるはずだ。
二(Ni)、七(Na)もN神で始まり、2+5=7は普賢(二五七)と読めるのである。日本では旧暦の九月は長月と呼ばれ、N神のNAで始まっている。そう言えば九(Nine) もN神で始まっている。これは数(崇)神時代の数字曼陀羅の名残のようだ。
    が微妙に捩じれているのである。

またNVMBも微妙に捩じれている。NMVBと並べ変えると何が見えるてくるのか。
Noon(昼)とMoon(月)のNorth(子牛)線を人類は何時頃より意識しだしたのか?
日BVと並べると何が見えてくるか?

日神 三三0(aa耶)日 330日 太陽暦11月15日頃
上田秋成を「田神あ木成」と読めれば日本歴史の解析も大分前進する。
上田とは田上(田尾)の田舎の上・尾(神)を言い、田神が神田になり、神田明神とは何神を言うのだろうか?

木島とは秋津(あ木津)島の前の呼称であり、いよいよ本州時代が始まる。その中心を木曽と呼んだようだ。木島平を中心と見た時代もあったようだ。すると秋田とは本州の田舎になるのかな?
木島の魂は京都の蚕の社(八日羅・平)に祀ってある。上から見ると三角形になる三足の鳥居が有名である。三角(みかど)時代は何時から始まるのか? 三間(弥馬)都とは邪(弥)馬台国時代の女王の宮(三八、弥弥、3+5=8)である。四国がまだ佐曽(三蘇・三島)と呼ばれた時代である。
田舎とは四間(田)宇宙観時代に生れた字霊で、伊奴賀(いなか、伊部)時代に日本に渡来したようだ。司馬(四間)遷とは田舎の変遷(歴史)を言い、春秋戦国時代の後に生まれた漢時代の東西南北の田宇宙観ある。何時ころ四国と呼ばれ、四間都(四万十)の男都が生まれるのだろうか。

日本の島(四間)時代とは阿蘇(九州)、佐曾(四国)、木曽(本州)、恵曽(蝦夷、北海道)の四間になりそうだ。
山(八間)時代になると九州、四国、中国、近畿、中部、関東、東北、北海道の八間になりそうだ。

これらの呼称を整理整頓するだけでもかなり歴史の背骨が読めてくる。
中国と中華(賀、仲賀)と並べると倭民族数万年と漢民族二千年と雲泥の差が読めてくる。誰だ、中国六千年の歴史と言うのは!!
魏志倭人伝に紹介されている華奴蘇奴(わなさな)国時代を見失ったら世界の歴史解析も迷宮入りになる。聖書のモデルになった時代である。
今の時節はaa耶(三三・aa神)の神在り月と神無月が国宮と里宮で交差する時節である。

五進則(あいうえお)宇宙観の田神「あ成、い成(稲荷)、う成(唸り?)、え成(恵成)、お成(尾成)」の化身を探せば何が見えてくるか。
「田神あ成」の化身は上田秋成になるのが分かるかな。
「伏見(二四三、9)稲荷(い成)」には宇迦之御魂神が祀ってある。どのようにて宇(三)成に結び付くのだろうか? 石田三成が化身になるのだろうか? 石田とは西(二支)の九州から見て、東(一支・石)の田舎を関西だった時代があった。石山寺あたりが関西の中心だった時代もあったようだ。
石田三成が「あいうえお(一二三四五)」の五進則宇宙観の中神の化身になりそうだ。関西を日本の中心と見た時代である。魏志倭人伝の弥奴(みな、皆、三七)時代とは?
「え成数木」の数木とは六本木になるのだろうか。三三神の化身だろうか。
「お成(尾成)」と言えば織田(尾田)信成は織田信長の化身だろうか。安土の「あ土人」になるのだろうか。尾上族とは? 尾の上の桜族とは? このように、「あいうえお」曼陀羅の化身等は色々いるようだ。

三角(まみむ・間弥牟)、四角(東西南北)、五角(あいうえお)の数理宇宙観の変遷が分かるかな。

今代2600年の皇紀とは

日神 三四0(ミシア)日 340日 太陽暦11月23日頃
五進則文字「目田0」は「メシア、ミシア」と読み、召合(34)神がいるところが三田と三田羅井(手洗い)と呼ばれ、そこを行き交う人々を飯合(目四)のゴルフ(賀羅富・十三)族と呼ばれていた。

三田井御塩井(三四井)こそ大神族の聖地である。

ミシア神とは八百万の里神を指すのが分かれば日本の歴史も分かりやすい。
今様の里神はゴルフ(GLF)場にいるようだ。ガルフ(GLF)の鳥ならアルバートロスだろう。

なぜこの頃を神無月と言うのか?
神無月(旧暦十月)とは神期の閏調整月を言うようだ。それに対して、水無(七、六)月とは皆(三七)の人期の閏調整月を言うようだ。閏とは月齢を考慮している。元月をどの月にするのか?日神暦の月齢閏処理は中国暦系か、ローマ太陰暦系か、干支暦系か?
夏冬の二季暦は魏志倭人伝には「その俗は正歳を知らず。ただ春耕秋収を記して年紀となす。」と紹介されている。日神暦は冬至元日の暦(日読み)で、中国の春節四季暦とは異なる。月齢をどのように考慮したのだろうか?どうも人期明けの三ヶ月目を目安にしたようだ。
秋(あ木)とは本州が木島と言われた頃の「あの一番時期」を言ったようだ。紅葉する華麗な色に里神の姿を感じたようだ。
青空を背景に里山、前山、奥山が三段染めに染まる頃、村々の里神が尾根道を登り、青空を行き、国宮に帰る。国宮では神在月になる。出雲が本州の「あの一番」地だった頃の繁栄は魏志倭人伝では日本海航路の国際港として記録されている。

木島が秋津島と呼ばれる頃に吉野の高天原に遷宮したようだ。島(四間:阿蘇、佐曾、木曽、恵曾)の四蘇国から山(八間:九州、四国、中国、近畿、中部、関東、奥州、北海道)の八幡国へ。

なぜこの頃を霜月、ディセンバー(10月)と言うのか?
霜の相(アイ、)はアルファベット9番目になり、ディセンバーのデカとはローマ太陰暦の10月を言う。ローマ太陰暦とは2ヶ月余りの冬眠期を入れた年十月暦である。月齢で浮動する冬眠明けのカーニバル(神春)の新月(現太陽暦三月正月頃)から月読みをし、10月で終わり、残りの2ヶ月は冬眠で暦しなかった。正確に言うと月齢で暦したので、2ヶ月と3ヶ月の冬眠歳がある。
民族性により、春正月は満月指向か、新月指向かで半月ほどの差がでる。この時候はローマ旧暦の九・十月頃になる。いよいよ歳の瀬である。今は太陽暦が全盛なようにローマ太陰暦が流行った時代があったようだ。耶(十、Ju、Jahr、Year)神の弥生(耶世井)時代である。Japan(耶幡)のJはアルファベットの十番目にある。

その名残の言霊が「デカ(DK・刑事)」、「デカい」のようだ。十こそ、10進則の天(テン、十)土である。口に十の字の田舎(伊奴賀)・田賀(DK)・田原(THR)のHerror(比古、毘古)の全盛時代である。

どうも霜が降るから霜月と言ったと言うよりはこの頃に降る雪(Schee、シー)を霜(Schee茂)と呼び、太陽暦の伝来で生れたローマ旧暦の九月 頃の雪をシモと呼び、雪(夕城)神の冬(二夕)の先駆けと見たようだ。そうそう、鴨(賀茂)とは茂月の頃に渡来する渡り鳥を言うようだ。

日神暦正月事初め 355日 太陽暦12月13日頃
日神暦355日とは冬至(日神暦元日)の10日前である。日神暦340日(ミシアビ)に里宮から国宮に旅だったミシア神を迎えに国宮に比古(彦)達が集まりだす。前期デカメロン(十日話)が始まる。忘年会と言えば分かりやすい。国宮の采女は幼馴染の比古をはじめ里々の比古の接待にそわそわする。

日神暦を発布する日巫(天文台長)の男弟が全国から集まる比古(彦)連の総代として、意見を取り纏め、姐の日巫(卑弥呼)に言上する。

日神暦 春日若宮 おん祭


日神暦 冬至 元日 太陽暦12月22日頃
太陽が復活する日である。一陽来復日である。日巫が毎朝、暦山連峰で山立てして日読み(暦)していた太陽が南下から北上に折り返す日である。
閏があるのでも分かる通り、日の出位置には一日のズレが生じる。できれば10日後の元旦は満月がいい。だから日神暦とは年366、365、364日の閏暦になる。元旦三ヶ日に満月を捉えられる年はその日を元旦になるように閏調整をした。日牟(日月、ひむか)の常明の元旦である。このように日巫の気合で元旦が決まる。
日巫の元旦宣言・詔を聞きに佐土(里)々々から師走族が国宮に集まる。これが一万年以上続いた日神暦の歳時記である。

一陽来復ソーラ タイム ウエイブ ゼロ
36
弥生(八四一)の役四・普賢(二五七)の役二・弥勒(三六九)の役三
神農の薬師・普賢の役人・座王の薬佐
素人(四羅徒)界・源五郎の役界・玄人(九羅徒)界





数理宇宙観の中心とは
Bissextile 閏(宇羅) 裏(宇羅、ウリ

閏の「う」は「あいうえお」の真ん中にある。「あいうえお」はいつ頃制定されたのか。アルファベットでも、「AEIOU」の五母音しかない。古代ギリシャ語はアルファーから始まり、オメガで終わる「あ・・・お」である。閏とは暦の言霊なので、暦の歴史を追えばなにか分かりそうだ。

人類最古の暦は日神暦である。本当は月神暦と言いたいがこれはどちらかと言うと動物暦である。

数十万年前、マンモスを追ってユーラシャ大陸に最初に渡来したのがムー大陸族の先祖のようだ。そして、定住拠点を持つようになると集団生活暦が必要になる。それがストンヘッジ暦である。日影を追うアナログ年日時計である。これはつい最近、一万年程前の話である。

 Moon(ムー、六、無、牟)大陸族の
           紋所が目に入らぬか!!

Sun of Alpsの六支紋(六分紋)は一万年ほど前のアルプスの洞窟に描かれていると聞く。人類最古の幾何学紋と見てよいだろう。するとこの紋が復活するのに一万年ほど係ったことになる。この紋がムー大陸族のものであることを証明できるのは日本語「六(ム)」しかない。
そして安土城の宇宙観を追って行くと織田信長はムー大陸の宇宙観を知っていたようなのである。

ガリレオ等で始まるルネサンスはイタリアンアルプスを田尾とするパダニアから世界に波及した。これで何度目のルネサンスになるのだろうか。全世界に伝わるのに何年かかるのだろうか?
その最高傑作は日本で生きながらえ成長した祇園守紋であろう。

   これらの紋からYHWHTHの宇宙観が読み取れるかな?
   人類宇宙観は皆同じである。それが人類である。
  YHは数千年ぶりに、Yahooとして蘇った。
  Moon と Noon  (oo)である。
万年以上も前に使われていた言霊が民族の興亡と共に不易流行に蘇る。民族興亡のない日本で連綿と引き継がれてきた言霊もある。日本語は何でもあり、新旧の不易流行語が飛び交っている。
               それが偶然にも人類の歴史を記録していたのだ。

ストンヘッジ暦より前の二万年程前から氷河が溶け出し、6000年頃前までに海面が200m近くも上昇する。当然、海辺族の大民族移動があったはずだ。
Moonのムー大陸民に対して、Noonのヌー海洋民である。この二大民族を記憶しているのがアルファベットの中央のMNである。それと日本民族である。
魏志倭人伝では倭国は馬(Ma)族と奴(Nu)族のMN国家として紹介されている。この地球沈没の潜在的恐怖感から解脱する呪文が南無(NM)阿弥陀仏である。
Maoist(真央人)とNoaist(ノア人)こそ、世界の歴史を刻むMN族である。そしてTaoist(道士)になると、地球沈没の恐怖から川上の田尾天土を求めた人々である。アムール(あム羅)の川上田尾が満州天土であった時代があった。それが蘇ったのが満州帝国であり、五族協和に増えている。

北ユーラシアのムー大陸民と南ユーラシアのヌー海洋民が接点を持った最初の国際都市が満州里(ManTree、間奴土羅)である。六支紋が四支・八支のマニ(MN)車になり、ここから人類文化・文明は多岐に枝分かれして、転げて行く。
満州(Ma)、ムー(Mu)、蒙古(Mo)と並びアトラス(あ土羅佐)時代がくる。土羅(TR)はトリ(鳥)とトラ(虎)として全世界に広がって行く。トラジャ族、トラヤヌス帝が有名である。日本では醍醐(タイガー)天皇になるのかな? ドラを掴み、最後のトリを歌うのはだれか。


ところで人類は何時頃より、数を数えるようになったのだろうか?
ディジタル時代の黎明は何時頃だろうか?
               歴代の暦に記録されているはずだ。

日神暦を基準にして月読みすると冬至基準日に必ずしも新月がくるとは限らないので、どうしても月齢により、半端月から始まる。そこから月読みすると端月から始まることになる。
端から数えるのが「数え」で、「一」から数えるのが「満」である。これを解いて行けばディジタル時代の黎明と人類の数理宇宙観の成長が分かるはずだ。その強烈な記録が日本語に残っているのだ。それが日本の数詞である。

は(端)ひ(一) ふ(二) へ(三) ほ(四、Four) いつ(五) む(六)
    ま(一)       み(三)   よ             む(六)

    なな(七)   やや(八)   ここ(九)    とと(十)

    じゅいち(士)じゅうに(王)とみ(玉、十三、富)とよ(十四、豊)

「まみむ」ストンヘッジ暦
日本の数詞「まみむ(一、三、六)」から判断して、ママから始まる「ま」行の「まみむ」が人類の原初的言霊のようだ。
「まみむ(一、三、六)」はミドル(緑、三土羅、中央)のアナログ(ここ、そこ、あすこ)序数である。三門(山門)とは中央にある門を言う。ここでアナログ序数とディジタル数詞の違いが分かるかな。
三河・美川(み瀬)は「まみむ」数理宇宙観の命名である。海奴は西は喜望峰から東はケープ岬まで行き来し、世界の中心と見ていた。その言い伝えが蓬莱山の仏法僧である。ギリシャのミネルバ(三奴羅羽)である。

まむ羅」音頭を歌い真室川等を遡上してくるヌー海洋民は五月蠅いし、女にもてる。マミ公とはヌー海洋民を言うのか?
何しろ、ムー大陸民は団結する必要が生まれ、定住拠点を持つようになる。その集落の象徴としてストンヘッジを建て日神暦にしたようだ。
やがて、暦の正確を期すため、日読み(こよみ)を併用し始めたようだ。この頃の日読みは数を数えるという感覚はなく、五日ごどに日読み石(おはじき)を五個一纏めにし、73(X5=365)枠に順次置いていったようだ。
毎朝、このような単純な仕事を几帳面にするのはな女の仕事で、その長が日巫か、シャーマン(佐間、サマー)になる。閏調整は日巫の気合で決めるアナログの数理宇宙観である。

「あいうお」五進日神暦
「ひふみよいむ(一二三四五六)」の成立を解析すると「あお(青)」の世界が色々と見えてくる。「まみむ」、「あいうえお」、「まみむめも」の順で言霊が生まれたのが分かる。
「あいうえお」はヌー(Noo)海洋民のNumberになりそうだ。それが海洋に記録されているのだ。
海洋民とは「アの一番」のアフリカ人のようだ。アラビア海、アンダ海(インド洋の旧称)、ア波海(太平洋)をア界と見ている。イ海(南シナ海)、ウ海(東シナ海)、エ海(日本海)、オ海(オホーツク海)と「アイウエオ」で命名している。
印度(伊土)とインド(委土)・シナの違いが分かるかな。ウ海は武漢(ウ・宇幡)・中国(Chu)海に、エ海は沿海(エ奴海)に引き継がれているのが分かるかな?
それよりも、阿蘇(九州)、伊勢、三河(美川)、恵土(江戸)、お川(雄物川)で日本を「あいみえお」で分割している。北海道をなぜ蝦夷(恵曾)と言うのが分かれば人類史も卒業である。

「あいうえお」は「あい」から始まるようだ。海洋Noo族は「あい奴」と、大陸Moo族は「いあ奴」と称したようだ。「あ田六(アダム)」と「伊部(イブ)」の話の誕生は何時になるのか?
愛(あい)と誠(真狗徒)の話は何度も蘇る。
アルファベットにもAEIOUの「あいうえお」の五母音しかない。
Aと驚き、EIと気合を入れ、OUと攻め込む三気合と見ると「あいうえお」のほうが古く、論理的である。何時の時代に生まれたのだろうか?

「ひふみほいむ」六進則月神暦
「あいうえお(一二三四五)」は五進則のアナアログ序数として始まる。五本指の掌から溢れた空間は六奴(Moon、月)が支配する空間と見ている。空間・物を固有に示す第一(1st)、第二(2nd)等は序数になる。

日神暦では単純に年364、365、366日を日読み(こよみ)していた。閏調整は日巫の気合で決めていた。
日神10日(正月)は満月になるようにこの三日間で調整できる年は日向(ひむ)歳と言ったようだ。常昼の正月である。

月神暦は月の満ち欠けのアナログ暦で、動物暦として始まる。あとは体に感じる季節感である。何時頃より、月読みして、年を追うようになったのだろうか。季節感を数字で知りたくなったようだ。
どうも日神暦を参考にし、最初は冬至を基準日にして「あいうえお」で月読みしようとしたようだ。しかし、新月が冬至に必ずしも来るとは限らない。
冬至から月読みすると端(は)月から月読みするので、「は」「ひふみほいむ(123456)」と数えていたようだ。文月(ふ・二月)から判断すると一番熱い月に盆(日・B奴)がくるように文月(不・無・弐月)にして閏調整したようだ。
閏をBissextileと言うのから判断すると年二季と見ていたようだ。「六」をSix(佐賀)と呼べば佐神の言霊で、Hexa(日賀)と呼べば日神の言霊である。六(む)の言霊は既に忘れ去られている。日神と佐神の登場で、奴(Noo)神が日(Ni)本に記録され、生き残ったようだ。

田羅干支暦
Sextile(佐賀田羅)になると農耕民族津羅奴(ツラン)のTahoo(田方)田羅宇宙観が入っている。ムー大陸民の六分(六支)紋から四分・八分のマニ車紋が生まれている。
月(津支)から分かるように津羅奴はMoonのムー大陸の原初的宇宙観を引き継いだ最後の民族のようだが生粋のムー大陸族ではない。第三族の津羅奴の登場である。そして暦数理宇宙観が多岐に分化して行く。

更に、農耕生活が始まり、生活に余裕がでてくると夜遊び好きな男どもは月読みをしだしたようだ。

魏志倭人伝には「その俗は正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を記して年紀となす。」の記述があるものとないものがある。どうも漢民族のプライドに障ったようだ。
中国六千年と言うが日本万年にはかなわない。倭国では中国四季暦より素晴らしい日佐二季暦を使っていたようだ。現代中国と言っても漢民族二千年余りの歴史しかない。

何時、「あいうえお」の「あの一番」が生まれたのか。アトランチス時代のようだ。Noon海洋民の大移動により、人類の交流が始まり、語彙が増え、「あ**」で始まるアトラス(あ土羅佐)語が大流行する。
交易は満月の日がよい。月読みの十干と十二支の干支暦はこの頃始まったようだ。
月読みを始めると冬至から夏至の半年は約6月である。また交易が始まると物を数える必要が生まれ男数として六進則が生まれ、双六、12単位のダース(田佐)が生まれたようだ。

耶神十進則暦
「イア奴」を「Year、Jahr」民と捉え、十干を「じゅう、Ju、Ja」と呼ぶようになる。

五進、六進、七進と進み聖数「七」が生まれるようだ。
閏数とは奇数を言うようだ。その中心数が神聖閏数になるようだ。
年(Year)を6月+閏月+6月の年12月(閏13月と見るようになる。それが耶(Ja)神数理宇宙観である。

半年6月閏7月の「7」と月(29.5日)を四分(田羅)し、ミル(目羅)数「7」日が生まれる。この聖数7に拘るのがユダヤ暦である。週7日暦の誕生である。

今年は西暦2012年で、ユダヤ暦5773年頃になる。よく中国六千年と言うがこの頃こそ、耶神六千年の人類文明が黎明した頃である。所謂、四大文明の黎明期である。海奴がいる以上は世界文明など、三年位で全世界に伝わる。人類こそ、真似上手な動物である。
この事実を日本書紀を編纂した舎人親王は知っていたようだ。大化の改新(645年)を基点にして、人類の体内時計を1300年と見ている。半分の650年前が紀元前5年で、キリストの誕生年と見ている。皇紀元年は紀元前660年であり、その2600年後に太平洋戦争が始まる。

 舎人親王は魏志倭人伝に登場する馬氏の末裔であり、
       誰だ、歴史を面白くするため騎馬民族征服説を唱えるのは!!!

今年は皇紀2672年で、その2600年前が5272年で、その650年前が5922年になり、ユダヤ暦元年の頃になる。
ユダヤ暦元年は大化の改新から見ると5200年(1300年X4、田羅)前のことである。耶神暦とはユダヤ暦で、耶幡(ジャパン)のイア奴の日神暦を見習っている。

ユダヤ暦はニサン(二三)の2−3月のカーニバル(神春)を正月にしていたようだ。月神暦なので1ヶ月間浮動する。現代は3−4月の春分を正月としている。どうも一度、大改暦があったようだ。
これが太陰暦の基本で、民族により春正月が異なる。中国では春節で、立春正月で、1−2月に渡り浮動する。ローマ太陰暦では3月正月である。西欧のクリスチャン カレンダーは復活祭正月で、3−4月の弥生(耶世井)正月である。

このように耶神暦の登場により、人類はJahr(耶羅、一年)を通し12月・閏13月で見ようとする。すると閏理論が複雑になる。数理宇宙観で男どもが論理的に追い始める。これが科学の発展である。
ユダヤ暦の正月「二三」を「ニサン」と読めば耶読みである。
このようにして、イチ、ニイ、サン・・・・ハチ、キュ、ジュウの数詞はユダヤ暦の序数から始まるようだ。そして、デジィタル(田日田羅)数理理論で閏を真剣に追及し始めたようだ。今では宇宙の彼方まで追っているようだ。秒暦の閏時代である。

しかし、閏とは地球の自転・公転の揺らぎであり、正確さはない。もっとも正確な時間の刻みこそ、神の鼓動として宇宙秒が制定されるだろう。その時こそ、第三千年紀のタイムウエイブゼロである。秒暦の閏処理がなくなる。宇宙秒が単調に過ぎて行く時代である。
エジプト太陽暦とイスラム太陰暦は神の鼓動として、日読み、月読みしてきた。宇宙秒はコンピュータが読むのだろうか。すると神とは何んなのか?

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 日本の歳時記には人類の歴史が記録されている。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

[あ日賀]