我、突き抜けていく者為り(仮、誤字訂正版)


自由になりたくて 孤独になりたくない……


♪放っておいて欲しい 見捨てないで欲しい

 中島みゆき さんの「風にならないか」という曲の一節なんですけど、そのあとは……

♪望みはすばしこく何処にでも毒をまく
 やがて自分の飲む水とも知らないで

と続きます。
 まぁ 大抵の人には「自由を求め過ぎると孤独になってしまうよ」という捉え方になると思うんですけど、 僕にとっては「自由でいるためには 孤独も致し方なし。放っておいて欲しいから、見捨てて欲しい。」となる訳です。
 まぁ、どうやら僕が突飛な人間であるからなんでしょうけど……


あの北極星まで自分を届かせるんだ!!

 「今から、そこの公園まで行かない?」と親しい人から誘われれば行くこともあるでしょう。「今度の日曜日にあの広場でみんな集まろう!」とリーダーシップのある人から言われれば集まることもあるでしょう。 しかし、「あの北極星まで自分を届かせるんだ!!」と言っても 「そんなこと出来る訳ない」と誰もついて来てはくれないですよね。  ……いや まぁ、『北極星に行く方法』なんて現代の地球には無いんだから当たり前なんですけど。
 でも、コロンブスやマゼランが『西回りでインドに到達しよう』と話した時、人々の反応はそんなものだったんじゃないでしょうかね。
 『人々を説得して、全ての人に理解してもらってからでないと物事を進められない』となると ハッキリ言って物事は全く進まなくなる。 今までの理解の範囲でしか物事を進められないのなら、根本的な部分で違う新たな発想に基づいた発明、理論なんて永久に理解されない。進められない。
 他人はそれを努力して理解しようとはしてくれない。面倒だから…… 不安に感じるから……
 だから、自分の考えた事が、人々に反対されても、それを何百回と考え直して自分が正しいと信じられるなら、人に迷惑をかけない範囲でなら、  …時に孤独を恐れずに突き進む必要もあると思います。


僕より上の世代の方達がメデイアなどで……

話されてるのを聴いていると、その時代の社会には他人との違いを受け入れる“ゆとり”があったようですね。
 ちょっと位“変わったコト”をしても“面白いヤツ”と思ってもらえた様です。

 でも、僕の世代では他人と違うコトをすると攻撃の対象になってしまう可能性がありました。余計な事をするなと指導されました。 現代の若い人ともなると「他人と違うコトは一切できない」という感覚なんじゃないでしょうか?  (……うっ、少し言い過ぎでしょうか?)

 だから「孤独になんてなる必要ない」と言われても納得できないのです。 そりゃ 僕だって無理矢理 孤独になんてなりたくないですよ。 でも、仕方ないじゃないですか、僕は自身の考えを捨てる気はないし、周りの人たちは“自分とは考えが違う人”を放っておいてはくれない。 その人たちは“自分とは考えが違う人がいる”というだけで不安になってしまうから。

 上の世代の人たちから「自分はこれで上手くいった」と言われても、時代が違えば周りの反応も、指導者の行動も違います。
 まっ正直に言うと指導者の言うことに従っていい結果が出た試しはないですね。 「そんなことは 判っていた。その先の不安に対処するために、悩んでいるんだ」と思っているのに「さぁ、悩む必要なんて無かっただろう」と陳腐な回答で納得させようと されてしまうんですからね。


人と繋がる事の出来る社会は素晴らしいのかもしれない……

でも、人と繋がらなければならない社会は息苦しい
 人と繋がる事で救われた方も沢山いらっしゃるでしょう。それを否定するつもりはありません。 しかし、人と繋がらなければ救われない訳では無いと思います。 時には“人とは繋がらなければならない”と される事で余計に苦しくなる人もいると理解していただきたいのです。『僕もそんな中の一人だった』と 今なら言う事が出来ます。
 これは以前 心療内科の主治医の先生に話した事でもあるんですけど、「『僕自身の安心感』のためには人との繋がりを薄くする必要がある」のです。


現代の教育とは「優秀な追従者」を育てる事の様です

 対して僕は、優秀かどうかは別として、クリエイティブ要素の強い人間なのだと思います。 それが僕が子供の頃から苦しんで来た理由だったと悟った時…… いえ、世の中の多くの人は「“自身がクリエイティブな存在でありたい”とは思っていない」と悟った時、僕はやっと呪縛から解放されたのだと思います。
 世の中の多くの人は『出来るかどうか判らない事』に挑戦して失敗するより、『確実に出来ると判っている事』だけをしたいのでしょうね。 まぁ、その方が効率的ではありますよね。

 でも僕は、「テストで100点取る」より、「突飛な発想で人を『アッ』と言わせたい」それが50点としか評価されないとしても……   (ショーモないダジャレだったとしても……   いえ、むしろそちらの方が快感………)
 今の教育とは『決められた課題をいかに正確にこなすか』それに尽きるんじゃないでしょうか? そこではクリエイティブ要素は評価されない。むしろ、「余計なことを言って邪魔をする。」と言われかねない。

 所ジョージさんのテレビ番組を見ていると面白いですよね。特に BSフジの「所さんの世田谷ベース」だとか…… スゴくクリエイティブ要素の高い方だと思います。
 よく「失敗してもイイんだョ!! やってみるんだョ!!」という意味のことを言われますが本当にそうだと思います。“効率”だとか、“失敗しないでおこう”なんて思ったら、人をアッと言わせるようなコトなんて出来っこないと思います。


これからは個性を育てる教育が大事だ……

とか言われていますけど、僕は「なんだかな~」って思ってしまいます。
 こんな時の“個性”って、実は“ホンのちょとした差異”程度なんですよ、きっと。根本的な所から違うと受け入れられない。
 ちょうど『男物の服のデザイン』のようなモノだと思ってもらえれば良いでしょうかね。“男物の服”って デザインと言っても、基本的な形って大して変わらないんですよね。ちょっと、ポケットの形が違うとか、色の使い方が違うとか、そんな程度の“差異”でしかないんですよね。
 対して、“女物の服”って基本的な形から たくさん種類がありますよね。 まぁ、僕が言いたい“個性”とはそういう事なんですよ。根本的な部分での違いも受け止めてあげる教育をお願いしたいですね。
 う~ん、それより まず『個性を殺さない教育』が出来る様にならなきゃね……


アシモフの「プロフェッション」という……

僕の大好きなSF短編の中で、「―――“きみには創造能力がある。創造したまえ”と言ったってだめなのさ。それより、“ぼくには創造能力がある。あんたが何と言おうと、ぼくは創造する”と言わせたほうがいいんだ。―――」という、主人公の指導者のセリフがあるんですけど(ハヤカワ文庫「停滞空間」/風見 潤訳)、これが その後の僕の信念になりました。
 まぁ、そういう事ですよ。『型に嵌めて個性を育てよう』なんて、なにを無理なことをしようとしているんです。そんな難しい事をしようとしないで放っておいてあげれば良いんですョ。


結局、人は面倒なことが嫌いなんです

 難しい事、新しい考え方に無理矢理 頭を使うより、「そんなコト出来ない」と言ってしまって うっちゃって置くのがラクな道なんです。 もちろん 本当に出来ないコト をやろうとしても出来ないんですけど…… 「こういう風に考え直せば出来るんじゃないか?」と考える事まで止めてしまったら、ちょっとしたきっかけで出来るようになる事まで出来なくなってしまうんです。


 これから突き抜けて行こうとする人は孤独に為らざるを得ない。
    人と繋がらなければならない社会は、突き抜けて行こうとする人には足枷にしかならない。


自分のしようとしている事が周りの人たちに理解されなくても……

何度も考え直して自分が正しいと思うなら 突き進んでしまう事です。
 コンピューター開発者のアラン・ケイ氏は(宝塚の安蘭けい さんではない)「未来を予測する最良の方法は、それを発明してしまうことである(鶴岡雄二 訳/ASCII BOOK「アラン・ケイ」)」と言っています。 いちいち、反対する人がいなくなるのを待っていたら、そんなの何時になるか分からない。


僕だって面倒なことは嫌いです

 でも、「それじゃ、こういう事が起きた時、どうするの?」と考えた事に、それなりの答えがないと安心出来なのです。 いえ、“考えた事”というより“閃いた事”と言う方が良いかもしれませんね。無理矢理 考え出そうとなんかしてないです。
 今まで、自分が経験してきた事がそうさせるのでしょう。いえ、『目を覆わんばかりの大失敗』なんて経験してないですよ。 子供の頃からの日曜大工で“ケガをした”とか、“いろいろ考えて作ってみたけど出来なかった”とか、“あの時、出来なかったけど こう考え直せば出来るんじゃないか”とか、そういった小さな失敗や成功の経験がいろいろと閃かせてくれるんだと思います。


人と違うことをしなければ安心だ というのは怖いものです

 『みんなと同じであれば安心だ』というのは「正常性バイアス」の一端だと思います。 でも、「みんなと一緒なら安心だ」と思っていると「みんなと一緒に酷い目に遭う」ことになりかねないですかね?



20121/07/20
2021/08/07 誤字訂正



近況報告

 昨年の9月ごろより、母の心臓病であちこち動き回り、手術後も色々と問題が起こり、同じ頃、自宅のすぐ横の空き地が資材置き場にされ毎日早朝から重機の騒音、振動に悩まされたりとか……

 病院に入院して血糖値低下、塩分不足って どういう事?!
 思い当たる事が……  母は糖尿病、高血圧であると入院前に伝えていましたが、近頃は食事に特に気を使うことなく生活できているとも伝えていました。それなのに、“糖尿病、高血圧の標準的な食事”を摂らされていたとしたら……

 検査入院以降、母は3回ほど死にかけました。1度は本当に心臓が止まりました。
 退院後、『母の様子がおかしい意識が朦朧としている時がある』と三日後に当の病院に連れて行ったら、「退院後の食事に問題があったんじゃないですか」とまで言われました。「三日くらいの食事で低血糖になる訳ないだろう!! 退院の前からおかしかった!! (実際、退院前に飲む薬を間違えて看護師に散々な言われ方をしたそうです。)」と医者に怒鳴ってやりました。

 騒音問題で市役所に相談したら係の職員から「企業が使っている土地の中どう使おうと行政が口出し出来ない。建設会社の住所を教えるので後はご自分で対処してください。」とまで言われました。いや僕の家、僕の部屋から ほんの数メートル先で重機を動かされて何も言えないなんてどういう事?! 物事には優先順序というモノがあるヤロ!! (「ナァ、言い訳さえつけたラ 何してエエ訳ヤ ないヤロ!!」って、思いっきり噛みついてやりました。)

 いやホント、今の日本は『言い訳社会』ですね。言い訳さえ出来れば何を為出かすか分からない……  上から下まで……

 更に僕自身が抱えていたものがあって、ここ数年、「頭のスッキリしない状況」だったので余計、苦しかったですね。よく倒れずに済んだものだと思っています。

 まぁ、そんなこんなで長い間、このサイトを更新できずにいました……


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