ある老人の話
ある5月の週末の日、琵琶湖の別荘に泊まり、いつもの通り早朝サイクリングとしゃれました。東に100m、琵琶湖湖岸、約30分ほど自転車で西のほうに行くと比良山系にたどり着きます。北には函館山、このあたりには、本当に田舎で田園が広がっています。こちらも奈良ほど多くの古い大きなお寺がありませんが、日本海と京都の古の街道が通じていたので沢山なお寺が散在しています。サイクリングマップを手にしながら或るお寺を訪ねていく途中、竹が鬱蒼と茂って、ヨーロッパの大きな教会を思い出すようなアーチ状になった竹やぶにたどり着きました。何だかタイムマシンで別世界に吸い込まれそうな雰囲気でした。
薄暗いその山道の入り口に、一人のお百姓さんが昔懐かしい肥えたご(汲み取り式の便所より汲み出した人糞を入れた桶)で畑に肥やしを撒いていました。
若い皆さん方はこのような風景は余り知らないでしょう。途中、お寺に行く道を尋ねるとお爺さんは親切に教えてくれました。お年に似合わずしっかりした口調でお寺の説明までしてくれました。
「今は無人で誰も居られませんよ、毎月20日には大祭が行われ、沢山な檀家の人々がお参りに来られます。」
何かしらお百姓さんい相応しくない、どちらかと言うと退職された学校の先生か、お寺のお坊さんの様な上品な趣き、何時ものとおり話を聞きだすのが好きな小生、また見知らぬ人と話を聞きだすのが趣味、困った性格ですが、相手も話好き、二人とも立ち話、あたりには人糞の匂いが一面に立ちこめていましたが、その匂いも気にかからず、話に花がさきました。丁度子供の頃の田舎の雰囲気を回顧しながら幼い頃を思い出していました。
お年は83歳、今市町の吉村さん、今は無き小生の友人。二月堂の寺僧でおられ、不思議なめぐり合わせ、何かしら親しみを感じました。
世間話の途中、「私たちは神さまに、生かされているのです。人は死ぬ時何も持っていけないのです。生まれてくるのも死んでいくのも神さまのお考えです。」
あら! と思いました。まさかクリスチャンではないだろうな。こんな姿で、まあ思い切って聞いてみよう。
「あなたは若しかしてクリスチャンですか?」
「はい、そうです。」
本当に驚きました。松原湖で合ったあのご夫人のような雰囲気の人との再会。
「私は16歳で洗礼をうけました。」
これから彼の素晴らしいお話がはじまります。
彼は地元の小学校を出て満州に行きました。満州は今の中国東北部です。
歴史を紐解きますと当時イギリス製の世界最大の鋼鉄の軍艦2隻を持った清国、日本には自分の国で作れる鋼鉄の船はありませんでした。今の中国、世界は誰もこの小さな日本が清国との戦争に勝つとは思っていなかったのですが、
その清国に簡単に勝ってしまったのです。ロシアもアジア征服を狙っていました。その勢いでロシアのアジア征服を止めたのが日本です。日露戦争です。そして満州を手に入れ満州国を設立しました。あの旅順港の要塞はドイツがロシアの要望に応えて作った世界で1番難攻不落の要塞です。
日本軍がこれも陥れ世界が本当に吃驚しました。植民地を狙っていた西洋の列強の国々も之には吃驚し、やっと日本も世界に認めてもらい列強の仲間入りをしました。
東洋の小さな国の田舎者が日清日露の大戦争に買って台湾、樺太、満州を手に入れたのです。 貧乏な日本人が一攫千金を夢見て国中の人々が満州にわたりました。満鉄に勤務し、多くの日本人は国内では考えられない位の優雅な生活、たくさんな女中を雇い贅沢三昧を満喫していたそうです。
それもつかの間、第2次世界大戦が勃発しました。吉村さんも戦争に参加、そして敗戦、何時ものとおり、汚いロシアの勝手な協定破棄により満州も彼らの手に渡りました。
数十万人の日本の兵隊さんがシベリアに抑留され、零下40度の中、材木の伐採に刈り出され、毎日黒パン1個の食事、之では生き延びるのは到底無理、ロシアにとっては日露戦争の復習の意味もあり、それこそ、この世の地獄。 20万人以上の日本兵が栄養失調で、凍死していきました。恰も棒ダラのように、コチンコチンで魚市場の魚のように広場に並べられました。
兵隊さんたちは彼らの軍服や衣類を脱がし自分たちの寒さを防ぐためそれを羽織り、馬車で死体を運び、つるはしの立たないほどの陶土に埋葬しました。しばらくして彼も栄養失調にかかり、まず目が見えなくくなって行きました。ビタミンAの欠乏です。月がぼんやり見えるそうです。兵隊さんたちは最後に日本の国がある東のほうを望み、最後の一言、『お母さん。』
そして息を引き取っていきました。吉村さんは最後の一兵になろうとも生きて、生きて生きのび故国に生きて帰る事を友に誓い、手厚く葬むったのでした。
『ウツの地にヨブという名の人がいた。この人が潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。彼には7人の息子と3人の娘が生まれた。
彼は羊7,000頭、駱駝3,000等、牛500くびき、雌ろば500頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでもこの人は東の人々の中で1番の富豪であった。』
みなさん、ご存知のヨブ紀です、1章1節から3節までです。
「この潔白で正しく、神を畏れ、悪から遠ざかっているものは一人も地上にいない。」
と神に言わしめたほどの敬虔なヨブに神はサタンの申し出により彼の信仰がどれほどまでに真実であるかどうか試されました。
サタンは神の許しを得て彼に襲い掛かりました。
ヨブの僕たちが殺され、焼き尽くされ、そしてその上自分の子供たちまで殺され、あれほどの富豪であったヨブは全財産を失いました。
それでも、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり地にひれ伏して礼拝し、そして言った。
「私は裸で母の胎から出てきた。
また、裸でわたしはかしこに帰ろう。
主は与え、主はとられる。
主の御名はほむべきかなあ。」
この潔白で正しく、信仰深いヨブに又サタンが襲い掛かりました。頭の先から足の裏まで悪性の腫れ物に侵されたのです。
ヨブは土器のかけらを取って自分の身を掻き、また灰の中に坐ったとかいてあるので、疥癬だった様な気がします。この病気は疥癬虫が皮膚の表層にトンネルを掘って寄生することにより起こる粟粒大程の、かゆみの強い病変である、
今では薬で治りますが当時は衛生状態も悪く大変だったと思います。
ヨブは最愛の妻にもののしられても、それでもなお主をのろわず、主をあがめて罪を犯さなかったのです。
3人の友人が彼を慰めに来て彼が受けた苦難の原因に関してヨブと長い論争をし、更に一人が加わったが、互いに譲らなかった。
最後に主がヨブに語りかけた事により、ヨブは神の全能性と自分の無知を認め悔い改めた。主はヨブの後半生を前半生に勝って祝福し、彼は140年長寿を全うした。
この話は吉村さんが私にしてくれた話をもう一度、聖書のヨブ記を読み直しまとめたものです。吉村さんも子供の頃読んだヨブ記を心に呼び戻しながら忍耐を学んだのでしょう。
吉村さんは主の導きにより腫れて故国に帰ることが出来ました。しかし帰った家は貧しく食べるものも無く、明日からどうしておばあちゃん、お母さん、3人の兄弟姉妹を食べさせていこう。 母親は本当に途方に暮れていましたが彼は「大丈夫だ。私が頑張るから安心しなさい。」と家族を励ましました。
まず第一に考えたことは日本の復興でした。大都市は総て焼け野原、そのため生きていくためにいろいろな仕事をやってきたと言っておられました。たとえ警察に捕まって、刑務所に入れられようとも毎日食事が与えられ、暖かいところで、寝ることが出来る。ロシアの収容所のことを考えれば天国だ。と言っておられました。苦しい経験の後、最後に日本の復興に必要なのは建築材料だと気がつき、大阪まで毎日建築材料を仕入れに行き、それを行商して家計を支えて行ったのです。今では大きな建材屋を営み、息子さん、娘さんは総て大学院を出し、静かな生活を送っておられます。ヨブ記が彼の支えになり本当の信仰を悟られたのです。
人間の信仰はすべて物質的であり、精神的であり、功利主義的なものである。ヨブが「清潔で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」人物であったとしても、そこには必ず人間本意の根拠があるとサタンは主張している。
私たちは普通、病気が治ったとか。不幸な生活から回復したとか、目にみえる物質的な反映と安定のバロメーターで、神との関係を推測しますが、実際は苦難そのものの中で神への認識は鈍化され、信仰も人間中心的な信仰ではなく、神中心の信仰に変えていかなければならないと思います。
ヨブの友達3人は遠いところから犠牲と苦労をいとわず、友情に満ち、ヨブを慰めるためにやって来ました。友人の苦悩を見て嘆き悲しみ、苦痛をも共有しようとする姿勢をもっていた。しかし彼らは逆にヨブを傷つけ怒らせた。なぜならばエリファは教師タイプ、ピルデダハは総てを簡略化するタイプ、更にツオファルは感情むき出しにしている。
しかしエリファの場合は違っていた。彼はまず「待つ」ことの出来る人であり、次に謙虚であり、公平な立場を保持することが、出来る人であった。彼はヨブと同じように神により造られた造られたものに過ぎないという共通の基盤に立ち、相手への同情と理解を伴いつつ、養育係との立場で神へ導く働きをしたのです。こうしてヨブに真実を告げる局面を切り開くことができたのです。
私たちはヨブの3人のような因果応報説が最も取り易い方法でありますが、このような一般的な方法を退け、徹底的な唯一神信仰を保持しながら、人間の苦悩をぎりぎりまで問い詰めたこのヨブ記をもっともっと深く考察していきたいとおもいます。
吉村さんに逢って彼の人生はヨブ記に支えられていることを知り、いい教えをいただきました。もっともっといろいろなことを勉強させられましたが、仏教についても博学、まるで宗教学者の様でありますが、話が聖職者より分かりやすいと大評判、至るところから講演に駆り出されておられるそうです。
彼の長寿を願ってこのお話を終わります。
1999・6・20 池上 八郎
アメージング・グレース
ニューヨーク市マンハッタン北部にあるハーレムの日曜日は、独特の活気に包まれる、地域にある250もの教会で一斉に礼拝が行われ、コンサート会場ではないかと思うほど、パワフルなゴスペル(賛美歌)がタンバリンのリズムや手拍子とともに歌われる。
「驚くほどの恵み、何と甘い響き、私のようなものも、救われた・・・・」。
賑やかな曲ばかりではなく、少し哀調を帯びた賛美歌「アメージング・グレース」も定番の一つだ、
ハーレムの「ニューホープ・コミュ二テイ・チャーチ」のテレンス・ケネデイ牧師は「苦難に翻弄された者が神の恵みで自分の道を見出す、奴隷として米国に連れてこられたわれわれの祖先の経験が映し出されている」とこの歌がアフリカ系米人(黒人)の「心の歌」となった背景を説明する、
「心の歌」としてきたのは、黒人たちにとどまらない、「人種や宗教に関係なく人を結びつける歌」とケネデイ牧師も指摘するように、2001年の米中枢同時テロ、2005年のハリケーン惨禍の現場などで繰り返し歌われ、レーガン元大統領は自分の葬儀でこれを演奏するように遺言した、
米国の第2の国家ともいわれる「アメージング・グレース」の根源はしかし、意外にも英国にある、作者のジョン・ニュウトンは英国国教会の牧師である、若いころ奴隷船の船長だった彼の経験から、曲は生まれた、
ある日、彼の乗った船が嵐に遭って難破しかける、必死に守に祈り、奇跡的に助かったニュートンは「神はわたしのようなものを救ってくれた、」と改心して、十数年後に牧師になり、多数の賛美歌を残した、
メロディーはスコットランド民謡ともアイルランド民謡とも言われ、アイルランドからの移民、黒人を通して、米国中に広まったという、
「米国を動かした賛美歌の物語」の著者、エース・コリンズ氏は「神への祝福や信者向けの『公式ソング』でなく、個人の経験を通じて作られた、初めての賛美歌」と位置ずけ、「いのりを通じて神とつながることが出来る」という『個人と神の関係』を綴ったこの歌は既存の権威を否定し、開拓、独立精神持って米国にやってきた人たちの心をとらえた」と米建国精神と合致した点を指摘する、
その後も1950〜60年代の公民権運動では、プロテスと・ソングとなったほか、同時テロなど第2次大戦後の「米国の激動期」(コリンズ氏)に歌われ、人々の魂を揺さぶり続けてきた、
同氏は「神は常にあなたを見守っていてひとりではないという歌のメッセージに多くの人が救いを見出すのだろう、『アメージング・グレース』は不安にさいなまれる米国を包み込む毛布のような存在」と評した。
歌のきっかけともなった奴隷貿易を、英国が廃止してから3月25日で200年、全米では目下、奴隷貿易に尽力した英政治家ウイルバーフォースとニュートンを描いた「アメージング・グレース」が公開中だ。
ニューヨーク 長門 雅子氏 執筆、
産経新聞 2007年4月2日 朝刊より、
心を癒してくれるこの曲は私の友だ、
英日両文を掲載しておく、
Amazing Grace! How sweet the sound
That saved a wretch like me!
I once was lost, but now am found,
Was blind, but now I see.
Twas grace that taught my heart to fear,
And grace my fears relieved;
How precious did that grace appesr,
The hour I first believed!
Through many dabgers, toils and snares,
I have already come;
'Tis grace has brought me safe thus far,
And grace will lead me home.
The Lord has promised good to me,
His word my hope secures;
He will my Shield and Portion be,
As long as life endures.
Yes,when this flesh and heart shall fall,
And mortal life shall cease;
I shall possess, within the evil,
A life of joy and peace.
The earth shall soon dissolve like snow,
The sun forbear to shine;
but God, Who called me here below,
Will be forever mine.
When we've been there ten thiusand years,
Bright shining as the sun,
We've no less days to sing God's praise
Than when we'd first begun.
驚くばかりの恵みなりき、
この身の穢れを知れる我に、
恵みは我の恐れを消し
まかせる心を起こさせたり、
危険をもわなをも避けえたるは
恵みのみわざというほかなし、
御国に着く朝いよよ高く
恵みの御神を称えまつらん。
式と会の区別を説いた校長
産経新聞平成19年3月19日(月)朝刊
「談話室」にこんなすばらしい記事が掲載されていました、
先日私は地区内の中学校の卒業式に出席しました、「蛍の光」を在校生が合唱し、卒業生が「仰げば尊し」を歌った、もちろん開式の言葉の後に国家斉唱があり、最後は蛍の光の曲で卒業生が退場して行った。式典終了後、待合室で来賓を前に校長先生が挨拶した、
「市内で蛍の光と仰げば尊しを共に歌うのは本校だけだと思います、しかし、この中学校の伝統として歌いました、多少肩苦しかったかもしれませんが、式と会とは違うことを校長の私も教頭も教務も何度も子供たちに話してきました、
式典は厳粛に、会は楽しくこのことを子供たちも理解してくれたと思います、そして、この違いを教えることが、この中学校を卒業して社会人となり、国際人となるとき、恥をかかせないことだと信じているからです、」
期せずして拍手が起きました、こういう場で拍手をもらったのは初めてです、といい、来賓は口々にそういうことを教えてくれなくっちゃという意味のことを言った、
式典と会とが混同され、それが当たり前のようになり、楽しければ良いような風潮さへ見られるが、子供たちは教えられて始めて分かるのである、私はすばらしい卒業式であったと、感謝すると同時に、教育者の重要性を再認識した、
千葉県習志野市の主婦、小泉栄子さんの投書ですがすばらしい校長先生ですね、私ももう一度この中学校に入学したくなりました、式典は厳粛に、会は楽しく、これで卒業式のあり方がはっきりしました、ありがとうございました、
産経新聞さん、小泉さん、記事を勝手に拝借させていただきました、どうかお許しください、
同体の大悲
今年の父の日に私は素晴らしい本に出会いました、
「本文」
中学一年生の時から不登校に傾き始めた強君は、神経内科の森下先生のお世話になりますが、真面目過ぎるほど真面目な性格が災いして、卒業後のアルバイトも長続きでず、とうとう自らの命を絶とうと思うようになります、
20歳になったある日、先生を尋ねてきた彼は、
「ねえ、先生、ぼくみたいなものを人間扱いしてくれて有り難う、これ、僕の記念や、」
と言って、熊の顔のついたキーホルダーをさしだしました。
先生はすぐ彼のお父さんに電話して、『お父さん、ごめん。私の力ではもう強くんを支えきれんようになった。彼、今夜、死ぬで!お父さん!頼むで!」と、
その晩、強くんはガソリンをかぶった、我が子の行動を見守っていた父親は、その瞬間、息子をしっかりと抱きしめた、父親もガソリンまみれになった、
「強!火をつけろ!」
父親は我が子を強く強く抱きしめた、父親の中で、強くんはオイオイと泣いた、父親も声を上げて泣いた、(森下 一著「不登校が教えてくれたもの」グラフ社刊。
このようにして強くんは生き延びたのでありますが「おまえが死ぬなら父さんも死ぬ」というこの父親の尊い姿に、私は同体の大悲という阿弥陀さまのお心を重ねていました。
「本文」おわり、
出典:石川欣也住職著
本願寺派布教師、大和郡山市高田町489、善正寺住職著書「同体の大悲」
他に「こころのともしび」「歌集、曼荼羅」「いのちたまわりて」
私にも2男1女が居りますが、今から考えると自分個人の小さな経験と僅かな知識の世界で子育てをしてきたように思います、子供には親に理解できない世界があり行き詰まったことも多々あったことと思いますが、子供にとっては私達両親は決して良き師ではなかったかもしれませんが、良く自立してくれました。子供は神様から授かったもの、決して親の所有物ではなく神様のものである、授かりものであることを自覚して子育てに励まなくてはならない。
石川先生、勝手に本文を借用しもうしわけありません、すさんだ世相を見るにつけ先生のお言葉を頂戴しました。有り難うございました。
日本人とは?
チャーチルの「第二次世界大戦回顧録」に日本人について次のような文がある、
日本人は無理な要求をしても怒らない、笑みを浮かべて要求を呑んでくれる、
しかしこれでは困る、反論する相手をねじ伏せてこそ、政治家としての点数があがるのだが、日本人にはそれが出来ない、
それでもう一度、さらなる要求難題を要求する、これもまた呑んでくる、
そこで議会は、いままで以上の要求をしろという、
無理を承知でさらなる要求をしてみる、すると今度は笑みを浮かべていた日本人とはまったく別の顔になって、「こちらがこれほど譲歩しているのに、そんな呑めない要求までしてくるとは、あなたは話の分からない人だ、ことここにいたっては、私たちはあなた方と刺し違えるしかない、」と問答無用の態度で突っかかってくる、
これは昭和16年(1941年)12月10日、当時の英国海軍が世界に誇った戦艦プリンス・オブ・ウエールスとレバルスの2隻を、マレー半島クアンタン沖合いで、撃沈された時の日記である、
チャーチルはこの時、これによってシンガポールを失い、さらにインドでも大英帝国の威信を失うのではないかと心を痛めながら書いていた、
そしてチャーチルはこうも書いている、
日本にプリンス・オブ・ウエールスとレバルスという二大戦艦を沈めるほどの力があったら、なぜもっとその力を誇示して交渉しなかったのか、
チャーチルはいう、外交は誠意だけでは何如ともし難い、外交は駆け引きであり、ゲームである、日本人は相手に礼儀を尽くしているだけで外交をしているだけである、
以上はチャーチルの日記である、
聖徳太子の「和を以って尊しとなす」が延々として続いているのである、
相手を気遣う心は言葉にも表れ我が民族の誇りでもあり、世界から日本人には『徳』があると言わしめる所以である、