よ な ば り |
吉隠のマスコットキャラクター かえでちゃん |
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〇 「よなばり」の地名 | 吉隠の里山風景 日当りの良いこんもりとした谷あいに棚田と民家が 点在します。 |
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吉隠と書いて「よなばり」と読みます。 ちょっとそのままでは読めないですね。 古い地名には、その土地の形や特徴を表しているものが多いといわれています。「よなばり」の地名の起こりも、元々はそうしたものであったのかもしれません。 それでは、なぜ「よなばり」が吉隠となったのでしょうか。誰か知識のある人が意図してわざわざ字を充てたと思われますが、その由来は定かではありません。 吉(よ)は、よいという意味。 隠(なばり)は、「隠れる」の古語で隠る(なばる)という言葉に由来しているとされています。 初瀬谷の奥、少し開けた空間にある山里は、こんもりとした山に囲まれて住みやすそうな「よき隠れ里」であったからかもしれません。 <トップに戻る> |
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〇 持統天皇の行幸 | 高塚山付近からの眺望 高塚山の西側、尾根の先からは、大和三山とその真ん中に藤原京址(黄色の点線部分)が見えます。 東から藤原京を眺めるにはまさに絶好の場所です。 |
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日本書紀には、持統天皇9年(西暦695年)の10月、菟田吉隠に行幸し、翌日宮に帰ったことが記されています。これは吉隠の地名が登場する最も古い文献資料です。 また、壬申の乱(西暦672年)のとき、持統天皇の夫、大海人皇子(後の天武天皇)は妻やわずかな伴を連れ吉野を抜け出し、宇陀の地をへて美濃へと向ったという記述があります。 吉隠の上方、鳥見山から西へ延びる稜線の先端にあたる高塚山付近から東を望むと、その時辿った吉野や宇陀の山々が一望できます。西方は眼下に初瀬谷が見え、その先は奈良盆地、大和三山とその真ん中に位置する藤原京を真正面に眺めることができます。 持統天皇の行幸は、夫と共に苦難を乗り越えた壬申の乱の足跡を偲ぶためであったのでしょうか。 それとも、完成したばかりの藤原京の眺望を楽しむためだったのでしょうか。 <トップに戻る> |
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〇 吉隠の猪養の岡 | 市立吉隠公民館前の万葉歌碑 公民館の前の広場には、小説家・評論家で初代文化 庁長官であった今日出海揮毫による穂積皇子の万葉歌 碑が建立されています。 吉隠のマスコットキャラクター かえでちゃん 吉隠で生まれて、猪養の岡 の楓(かえで)に因んで名前 を付けてもらいました。 |
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吉隠の猪養の岡は、万葉集に詠まれた地名として知られています。 穂積皇子の「降る雪はあはりな降りそ吉隠の猪養い岡の塞なさまくに(寒からまくに)」の歌には、但馬皇女が亡くなられて後、皇女の墓所を遥かに望み、涙を流しながら詠まれた歌と記されています。藤原京から東を望むと、初瀬谷の奥に吉隠の山々が見えます。 冬、雪が降り谷間が霞んで見えなくなってしまう様は、まさにこの歌の情景そのものです。 また、万葉集の代表的な歌人の一人である大伴坂上郎女の歌にも、吉隠の猪養の岡を詠んだものがあります。 では、猪養の岡は、どのあたりにあったのでしょうか。 江戸時代に出版された『大和名所図会』には、「猪飼山、吉隠の上方にあり。山中に楓樹多し、秋の末爛漫の時は、蜀錦を翻に似さり」と記されていて「紅葉の名所」でもあったようです。 今は、かつての「紅葉の名所」の面影はあまりありませんが、吉隠の上方、鳥見山から高塚山に続くなだらかな稜線上に猪養の岡があったと思われます。 また、高塚山あたりには、中世、高束城というお城がありました。 鳥見山から稜線を通る間道と眼下の初瀬街道を監視し西は初瀬谷から奈良盆地、東は宇陀、吉野方面を望むことができる要衝の地です。今も当時の縄張りが良く残り間道は、東海自然歩道となっています。 <トップに戻る> |
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〇 初瀬(伊勢)街道 | 旧初瀬街道の道標 この道標は、初瀬街道と吉隠の村の中へ入る猫坂と の辻に建てられていました。 |
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初瀬街道は、慈恩寺(桜井市)の追分から長谷寺を経て青山峠を越え伊勢の六軒追分(松阪市)までの道です。古代からの道であり、現在も大和と伊勢を結ぶ重要な道として利用されています。 飛鳥時代以前の奈良盆地の南東部は、我が国の生い立ちに関わるヤマト王権の根拠地となっていました。初瀬谷の入り口や三輪山山麓にかけては歴代の大王が営んだ宮跡の伝承地がいくつもあります。 当然のことながらこの道は、伊勢や東海をはじめ東の国々を結ぶ主要道であり、幾多の歴史の物語の舞台となりました。 飛鳥・藤原の時代に伊勢の斎宮に奉仕した斎王の行列も、この道を通って伊勢の国へ向かいました。 また、壬申の乱では、近江朝廷軍との緒戦に敗れた大伴吹負が逃れた道で、大海人皇子が派遣した援軍と榛原の墨坂で出会い再びこの道を駆け下って、箸墓で朝廷軍を破ったとされています。 江戸時代になると、街道には宿場が発達して人々の往来も盛んとなりました。特に、初瀬街道は、お伊勢まいりと長谷寺詣での人々でにぎわいました。このころの吉隠は戸数も多く、峠の途中の休憩場所でもあったようです。 旧街道筋には、「右いせ」と刻まれた道標など、往時を偲ぶ佇まいが残されています。 <トップに戻る> |
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〇 『菅笠日記』と吉隠 | 往時の面影が残る旧初瀬街道 初瀬街道は、近世お伊勢参りや長谷寺詣での人々で 賑わったそうです。 宣長一行もこの道を歩いて大和に入りました。 |
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本居宣長は、三重県松阪の生まれで江戸時代の国学者として知られています。『菅笠日記』は、宣長が43歳の明和9年(西暦1772年)の春、松阪から吉野の桜見物を兼ねて長谷寺や多武峯、飛鳥周辺や三輪などを訪ねた10日間の旅日記です。 宣長の他、友人や門人など計7人の道中でちょうど桜が見ごろになる時を見計らって出発をしています。宣長にとってこの桜見物は、長年の思いであったようです。 さて、一行は、初瀬街道を一路西へ、1日目は青山峠を越え伊勢路宿で泊まり、2日目には榛原(油屋とされている)に泊まって、3日目の朝に吉隠を通ります。 先日来の雨で道がぬかるんでいるので、宿の主人に籠に乗るよう勧められ一行はそれぞれ籠に乗って出発しました。 籠について宣長は、中は狭いし尻が痛くて身動きも取れない。具合がわるい嫌な乗り物、と言いつつ歩くよりはましと感じるのが不思議、とその感想を記しています。 西峠、角柄を経て吉隠に到着。 宣長は、日本書紀や万葉集など古書にでている里なので心にとどめておきたいとの思いで、あれこれ駕籠かきや村人に聞いたところが、誰も知るものがなく残念だと綴っています。 また、万葉集に、吉隠のことを「ふなはり」とカナがふられているのはわかりにくいし、吉隠という文字からもそう読めない。 今の里人に聞いてもただここは「よなばり」と言うばかりで、この文字のことは知らない。吉隠に対する思い入れが、つい「筆を走らせた」と記しています。 街道は、この先も険しい山道であったようで、初瀬も近くなって初めて耳成山や畝傍山が見え始め、日記にはふるさとへ帰ったような気持ちになり、親しく思ったと綴られています。 <トップに戻る> |
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