吉野鉄道株式会社

 吉野山地に鉄道を敷設する第一歩は土倉庄三郎さんの木材を中心とする物資輸送の計画に端を発します。その「吉野鉄道株式会社」は明治32年に政府によって認可されるのですが資金の調達が思うに任せず会社解散に至ったのです。明治41年になって大淀村の森栄蔵さんによる「馬車鉄道」の計画に至るのですが、43年に軽便鉄道法の制定に便乗して軽便鉄道として請願をしたのですが、これまた資金調達思うに任せず断念となりました。この状況を見ていた吉野郡長の谷原岸松さんの鉄道が郡の発展に結び付くとの決意を固め郡の有力者である阪本仙次さんを口説くと共に鉄道建設の必要性を説き明治44年6月12日の工事認可に繋がっていきます

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 当初の吉野軽便鉄道は吉野口、下市口、吉野(現在の六田)の3駅から出発しました。しかし吉野軽便鉄道の持つ駅は下市口と吉野だけで、吉野口駅は国鉄の駅を利用させて頂いておりました。大正2年5月に吉野鉄道と名称を改め線路の延長と電化へと進んでいきます。大正12年12月5日に吉野口~橿原神宮前間が開通、昭和3年3月25日に六田~吉野間が営業開始となりました。

 大阪阿部野橋から吉野へは直行便があるのですが、なぜ京都からは直行便がないのでしょうか。この疑問は軌条幅を見ると解決をします。機関車の発明者であるスチーブンソンが主張した4フィート8インチ半(1.435m)のゲージを標準軌としていますが、京都線は標準軌を使い、阿部野橋から吉野のそれは標準軌より小さい3フィート6インチ(1.067m)の狭軌である為運行が出来ません。因みに新幹線や大手の私鉄の一部が標準軌を使用していますが、旧国鉄(JR)の在来線は狭軌を使用しています。シベリア鉄道(1.524m)やスペインの鉄道(1.668m)は標準軌よりも広いので広軌と呼ばれています。

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貴重な写真の一部

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新聞記事から

★最も軽便鉄道らしい鉄道である天理軽便鉄道の記事が産経新聞に掲載されました。

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天理軽便鉄道

天保9年天理教が盛んとなり地域の情勢を背景に法隆寺から直線で天理に到達できる軽便鉄道の必要性が説かれたことが始まりです。 
«奈良朗報»によると以下に示されます。
生駒郡北倭村県会議員 杉本久三郎 他九名の発企に係る、法隆寺・丹波市間五哩四〇鎖(九粁余り)資本金二五万円の天理軽便鉄道は、去る四日付を以って、その筋より免許状を下付せられたり。
とあります。                        (文献 松藤貞人 著 奈良県の軽便鉄道より)

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