マドリードの歴史 |
「首都マドリード」 |
ピレネー山脈を越え、上空より見下ろすスペインは、灰白色の山脈が険しい岩肌を露出し、幾重にも横切っている。 国土面積は日本の約1.2倍でイベリア半島の約5分の4を占め、北のピレネー山脈より地中海まで、南北約1,000kmに及び、西にポルトガル、北はフランスに隣接している。 半島のほぼ中央に位置する首都マドリードは、人ロ約287万人(マドリード州総人□、500万人)、面積は約6.1万ヘクタール、海抜約646mの高原台地(メセタ)にある。 緯度は日本の青森県にあたり、内陸性気候で冬は厳しい寒さだが、雪はほとんど降らず、春・秋に雨が多い。 夏は気温が40度を超えることもあるが、湿度が低く乾燥しているので、日陰は涼しく、心地よい。 街並みは、威厳ある歴史建築物と近代高層ビルが調和し、噴水はギリシャ神話を題材にした彫刻で飾られ、四季折々の花に彩られた散歩道、青々と茂るプラタナスやアカシアの街路樹、まさに過去の栄光と現在の繁栄を包含した大都市といえるだろう。 マドリードの歴史は11世紀未、マンサナーレス川沿いの高台に築かれた城塞を、アルフォンソ2世カスティーリャ王率いるレコンキスタ(国土回復運動)を目指したキリスト教徒勢力が占領した時から始まった。 再入植者たちの手によって作られた中世時代の町は、城壁の門より東に向かって敷かれた石畳のマヨール通りと共に栄えた。 ハプスブルグ王朝時代になると、マヨール広場から放射状に拡張を続け、さらにブルボン王朝時代には装飾重視の建物や彫刻などが絶頂を極め、都市計画で飛躍的な成長と変貌を成し遂げた。 まずはスペイン広場へ、そこには世界的に有名な古典文学の主人公、ドン・キホーテとサンチョ・パンサの銅像とその作者ミゲル・セルバンテスの石像がある。 続いてプラド美美術館で王侯貴族のコレクション絵画に圧倒され、マヨール広場で17世紀の面影を残す回廊を歩き、きらに2,800室を有する王宮を観ると、世界史に残るスペイン帝国時代のハプスブルグ王朝、ブルボン王朝の偉大さに驚き、その歴史の魅力ヘと引き込まれていく。 |
![]() ![]() |
「マドリードとフェリーペ2世」 |
16世紀中期以降、スペインの政治の中心は、トレドからマドリードに変遷した。 国王フェリーペ2世(在位1556〜98)はマドリード市会に1561年5月8日、王室書簡で移転通知を出している。 国王は書簡を出した3日後の5月11日にマドリードに住居を移した。 さらに同年6月3日付の記録によると、この時既に王室会議がトレドからマドリードに移り、政治の中心地となったことが記されている。 国王フェリーペ2世の書簡にはマドリードに一時住居を置くと記されているが、首都と定めるとの記述はない。 マドリードに移したのは国王の「きまぐれ」であったと言われているが、その真意については定かではない。 歴史家たちの見解では、1557年8月1O日ヨーロッパにおけるスペインの優越を決するパリ近郊都市サン・カンタンの戦いで、スペイン軍がフランス軍に勝利した。 国王はそれを記念してマドリードの近郊(北西約50km)に、父カルロス5世神聖ローマ皇帝の墓所と歴代王の霊廟を併設したエル・エスコリアル宮殿(1563〜84)を建設することを決めた。 国王は威信を賭けたこの工事を自ら陣頭指揮を執るのにはトレドでは地理的に遠いことや、常に水不足に悩み、きらにヨーロッパとの外交の場としてスペイン帝国の首都とするにはトレドでは地理的に条件が適さなかったこと、さらに、国王の3度目の妻、14歳で嫁いできたフランス生まれのイザベル・デ・ヴァルアが病気がちのため、トレドの気候風土が合わなかったことなどを理由としてあげている。 それに比べマドリードは水も豊富で過ごしやすい気候に加え、地理的にも都市計画の立地条件が整った場所であり、まさに黄金時代のスペインにふさわしい町であった。 国王は政治的な理由から、息子カルロス王子(1568没、ヴェルディの歌劇、シラーの戯曲「ドン・カルロス」の悲劇の主人公、フェリーペ2世の最初の妻マヌヱラ・デ・ポルトガル王妃との間に生まれる)の婚約者であった結婚寸前のイザベル・デ・ヴァルアを横取りするようなかたちで妻に迎えたことになんらか負い目があったのであろうか、移転理由の最大の要因は書簡から推測すると、幼い病弱な王妃への気遣いであったと思われる。 |
![]() |
平成10年はフェリーペ2世の没後400年に当たり、王を偲びスペイン国内で様々な企画展が催された。 |