厳格であろうとするから喋れない英語になるんだ!


 みんさん誤解していらっしゃる「日本語の単語を英語に置き換えて文法に従って順番を入れ替えれば英語を話せる。」と……。中学、高校の英語教育では“文法”に厳格でなければならないと教育している様です。(あ〜、僕が英語の教育を受けたのはずいぶん前なので現状は違うのかもしれませんね。でも、それほど かけ離れたことは言ってないと思うんですケド……。)


僕はある小説でこんなのを読んだことがあります

「、、、英文法とは、すなわちこれ例外の集大成だからね。、、、」(注)。そうであるなら、現在の教育で英語を話すためには その例外の集大成を全て完全に覚えて、それを喋ろうとする瞬間に適切なところを思い出しながら適用していかなければ ならないことになります。 “喋りながら”ですよ。10分も20分もかかって 適切な所を思い出すまで話し相手に待ってもらうなんてできますか?
 ハッキリ言っておきます。現在の学校の英語教育は「喋るための英語教育」では無いのです。「テストで点数を点けるための英語教育」です。


なぜ厳格でなければならないかと言うとテストのためです

 もっと ハッキリ言うと「テストで点数を点ける側が批判されないため」です。教師の安心感のためですね。それも手抜きの……。テストの点数を点ける際に基準が曖昧だと同じ答えを書いているのに点数が違うとなると点数を点けた人間が批判されてしまいます。採点する人間が違えば基準は尚更曖昧になります。テストの点数が人生を左右しかねないとなると大問題です。
 だから教師は厳格であろうとするし、生徒には厳格でなければ ならないと教えるのです。


厳格であろうとする事に集中し過ぎると

かえって見落とす物が出て来るのだと思います。ある事柄を自分が向かっている方向からしか見ていないと間違いに気づかない事があります。頭を柔らかくしてそれを横からの視点で見ると案外 簡単に間違いに気づくことがあります。
 日本語を英単語で置き換えることしか頭に無いと 「そんな言い方したら、全く別の意味に受け取られてしまう。」と言う事になりかねません。
 もっとも 間違いに気付ける様になるためには相当繰り返して練習しなければならないでしょうけどね。


あと、言い回しまで“訳そう”として無いですか

 テレビなんかで時に見かけるのが 日本語の“言い回し”として言っている事まで単語置き換え法で英語にしようとしている人。
 例えば “Buddha’s face is three time only.”と言ったところで言わんとしていることは何も伝わらないんです。本人は多分、「仏の顔も三度まで」と言いたいんでしょうけどそれじゃダメなんです。 元の日本語の“言い回し”を知っていないと全く意味が通じません。「訳さなきゃいけない」と集中するあまり、それがどんな風に受け取られるのかを見失ってしまっているのでしょうね。
 「英語ではこんな風に言うんだ。」と言うものを まるまる覚えてしまえばいいんですよ。と、言うより 覚えなきゃいけないんです。 先の例で言えば“You can only go so far.”とか“Even the patience of a saint has limits.”と言うべきなんです。(言うべきなんだそうです。すみません。本当は僕も知らなかったんです。ネット検索で出て来ました。“Yahoo!Japan知恵袋”からです。Yahoo!Japan様、回答されていた方 ありがとうございます。)
 だから僕は ラジオなんかで英語の出来るDJさんが「それは英語ではこんな風に表現するんですよ」と言うのにすごく興味があります。


何故、日本ではこの様な勉強の仕方になったのでしょう

 僕が考えるに それは昔からの勉強法を引きずっているからではないでしょうか? その昔、明治から戦前…… いえ、昭和の中頃までは普通の人が『英語で喋る』可能性なんてほとんど無かったんじゃないですか? つまり英語を勉強するのは 紙に書かれた物を読む時に辞書と突き合わせて時間をかけて訳することが出来ればそれでいいと……。その頃の勉強法を引きずっているので今だに「文法、文法」なんでしょうね。
 言葉とは本来“感覚的なモノ”のはずです。英語で喋るためにはもっと“感覚的なモノ”を大事にした方がいいと思います。



2018/02/22



(注)
アイザック・アシモフ のミステリ短編集「黒後家蜘蛛の会 3 ・よくよく見れば (池 央耿 訳・創元推理文庫)」より引用



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