厳格なルールと総合判断
学校で、職場で、役所で、何かと厳格な規則を守ることが求められています。厳格な規則が数値で示され、それを厳密に満たすことが必要とされています。でも、厳格な規則を守っていればそれで良いのでしょうか?
いえ、規則を守ることは大切なことです。でも、そこから得られた結果は果たして満足できるものでしょうか?
例えば、「生活保護」を受けるためには厳格な規則があります。不正をしようとする人に支給されないためには必要なことです。でも、新聞などに生活保護を受けることが出来ずに亡くなられた方の話が載ることがあります。(ご本人の意思(プライド)で受けられなかった場合もあるでしょうが……)
この場合、不正をしようとする人を排除するための厳格な規則が「本来、助けるべき人を助けられなくしている」と言う本末転倒な結果になってしまっています。それで良いのでしょうか。
厳格な規則を厳密に守ることは大変なことです
守らなければならない規則の数が少ない時は全てを厳密に守ることは それほど難しいことでは無いかもしれません。しかし、守らなければならない規則の数が20、30となった時に全てを厳密に満たすことは可能でしょうか?
また、規則には優先度と言うものもあると思います。厳密に守らなければならない事柄も 規則に近い数値が出ていれば良い事柄もあると思うのです。それを一律に並べて全てを満たそうとすると余計に大変になります。
大変な様で手抜きである
「厳格な規則を守っている、守らせている。」と言えば立派な事をしていると思ってもらえます。また、何かと規則の数値や境界線を決めることを求める人達がいます。規則が数値や境界が示されていれば 「それさえ守っていれば大丈夫」と“安心”出来るのです。
逆に規則の範囲や境界線がはっきりと示されていないと他人から批判されやしないかと不安になるのです。厳格さを求める人たちとは規則を守らせている人間が手を抜いても批判されないと言う安心感を得ようとしているのに過ぎないのかもしれません。つまり他人から批判されないと判っていれば“ラク”なのです。
学校の教育でも厳格さが求められています
例えば英語教育。やれ文法だ、綴りだと、直訳的な翻訳だと厳格さを求めてないですか? 言葉なんて感覚的な物なのに厳格なルールを適用する事を教えているから
喋れない英語になってしまうんじゃないですか?
厳格さは一体誰のための厳格さですか? 生徒のためですか? テストで点数を点けるための厳格さになっていないですか?
校則、クラブ活動……厳格さが求められることばかりです。でもそれは 誰のための厳格さですか? もしかしてそれは 教師が自身を批判されないための厳格さじゃないんですか?
会社の経営でも何かと厳密なルールで安心してないですか
現代の会社経営では マーケティングだ、統計だと、数値化された物で経営判断の基として、それを厳格に運用している様です。でも世の中、数値化されているものが全てでは無いのだと思うのです。
全ての事柄が数値化されている訳ではないのに、数値化されている事柄だけを経営判断の規則として それを厳格に運用するから意図している方向に進まないのだと思います。そう言った
アメリカ流の数値化による経営手法を大々的に取り入れた企業ほど かつての輝きを失っている気がします(……すみません。何の裏付けもありません。僕がそんな気がしているだけ?)。
もっとも、数値化による経営に頼るなら、それを厳格に実行すれば良かったのだと思います。最悪なのは厳格な規則に則っている様で、その実 数値をデッチ上げてデタラメな経営に成り下がってしまう事です。そんな風にして崩れてしまった大企業もある様ですね。
そう言えば、お役所の箱物行政でもそれに似た様なことがありますね。市場調査と称して希望観測的な数値をデッチ上げて事業を実行に移し結局 失敗に終わってしまう。厳格な規則に則っている様に見えるだけに止めようが無い……。
時として、厳密な規則運用より
「カン」と言うものが大事になることもあると思うのです。単に「カン」と言ってしまうと印象は悪いですが意外と真理を付いていることもあると思うのです。
あるSF小説の中で主人公の「カンとは何だ。カンとは自分ではそうと知らずに事実を言い当てることだ。」と言うセリフがあります。これを読んだ時、僕は「なるほど」と思いました。
僕はこのセリフを「『カン』と言っても『あてずっぽうのカン』では無くて『経験に基づいた言葉では表せない何か』である。」と言おうとしていると理解したのです。
「カン」で何かを感じている時とは
いちいち、一つ一つの事柄に理由をつけて説明するのではなくて、全体を一時に見渡してそれが表しているものを見ているのだと思うのです。そこには意識せずに見ている事柄も含まれていると思うのです。それが「経験に基づいた『カン』」というものだと思うのです。
個別に数値を満たしていればそれで良いのではなくて、それぞれが絡み合い全体として何かを表す。「全体を大きく見渡した総合判断」と言うことも出来るでしょう。
厳格な規則で縛ってしまうと この「カン」という物を働かせる所がなくなってしまうと思うのです。
「カン」を働かせられる人を育てるのは時間がかかります
そうでしょう。「有効なカン」とは経験に基づいているのだから、経験がなければ「有効なカン」などあり得ません。そして経験がなければその「カン」が「有効なカン」なのか、「希望的観測」なのかを判断することもできません。
経験を積むには時間がかかります。経験のない人に判断させようとするから規則を単純化して それを厳格に運用しようとするのです。
カンによる判断には不安が付き纏います
だから、人は物事を数値化してそれを厳格に守ることで
安心感を得ようとします。でも、世の中、数値化できることが全てではないのです。数値で全てを判断してしまうと、
数値化できないものは無視されてしまいます。でも実は 数値化できない事柄にも大切な事が含まれている事もあるのです。
では厳格な規則はダメなのでしょうか
いいえ違います。厳格な規則は大事です。ただ、厳格な規則が大事なのではなくて その規則を守ることによって得られる結果が大事なのです。
規則を守ることばかりに集中してしまって それによって起きた結果を省みることがなかったり、規則を守っている様に見える事を隠れ蓑にしてはいけません。時には規則そのものを見直すことも必要だと思います。
厳格な規則も経験に基づく総合判断も両方大事です。厳格な規則だけに頼ると本来 意図している物を見失ってしまうかもしれません。経験に基づいた判断だけに頼ると「希望的観測」を「有効なカン」と取り違えて「カンの暴走」を許してしまいます。両方を鑑みて総合的に判断するのが良いんじゃないでしょうか。
2017/06/09
2017/06/27 一部改筆