アメリカ流の経営論は正義か?


 今、企業の経営の拠り所になっているのは あらゆる事柄を数値で表し何事もそれを元に判断している様に思われます。市場調査の集計だとか、何トカ率だとか、何トカの順位だとか、そう言った数値で企業の内部を表し、それを判断の基準にしている様に思われます。 アメリカ流の経営論とでも言う物でしょうか。アメリカのビジネスマンはMBA(Master of Business Administration)を取得しているのが必須条件だとか……。もちろんそれは経営学の権威ある人がよく研究を重ねられた上での理論でしょうから間違いのない理論なのでしょう。


しかしそれは あくまで企業の内部を評価することしか出来ていないのでは無いでしょうか?

 何を言いたいのかというと 「もし、企業の活動が経済全体に影響を及ぼした場合、果たして それ以前の業績より 良い物を得られているのだろうか?」ということです。  ???  つまり、大企業が経営論を根拠にコストカットに走って経済停滞をもたらした場合、その利益は経済停滞より前より良い物なのでしょうか? と言うことです。
 経済が停滞していたとしても 大企業の経営者は「不景気なのだから仕方がない」「同業者の中でシェアを維持できているから それで良い」「利益率は以前よりも上がっている」と言われる事でしょう。しかし、当の大企業が得た利益の額は減っているかも知れませんね。
 まあ、一企業の浮沈など関わりの無い個人には どうでも良いことです。しかし、その過程で社会全体が不景気に見舞われています。大企業のマネーゲームのために多くの人が苦しい思いをして生活せざるを得なくなっています。


一企業が経済全体に影響を及ぼし得るのか?

 たとえ大企業だとしても直接的に雇用している人の数や売り上げそのものだけでは 日本の経済に影響を与える割合は低いでしょう。しかし、その国を代表する大企業ともなるとその裾野の広がりはとても大きいと思うのです。企業の内部だけでは完結せずに社会全体に影響を及ぼし得るのではないでしょうか? 
 直接 大企業に納められている部品メーカーはもとより 2次受け、3次受けの下請け企業、さらには汎用の小さな部品 例えばネジなどを作られている企業、そしてそれらの企業に原材料、加工のための資材などを納められている企業。もっと言うと そこで働かれている人のご家族が買われる趣味の物を作られている企業まで含めて考えるとその影響はとてつもなく大きいと思うのです。 それなのに大企業がコストカットと称して下請け企業へ支払いを抑えてしまうと……


結局、経営論の目的は同じ売り上げの中から より多くの利益を搾り出すことだと思います

 その最も手っ取り早い方法として実行されるのがコストカットでしょう。本当の意味でのコストカットなら良いのです。しかし現実に行われているのは立場の弱い取引企業に代金の値引きを迫り自社の負担を転化しているだけに過ぎないのでは無いでしょうか?
 一社が関与する範囲の中で収まれば問題は大きくないのかもしれません。しかし、一社が下請け企業に値引きを迫れば同業他社も同じ要求をするかもしれません。企業トップのお付き合いとか そう言った繋がりの中で全く関係のない業種の他社にもその手法が伝搬するかもしれません。
 多くの大企業がコストカットに走ってしまうと経済規模そのものが縮小してしまうのではないでしょうか? アメリカ流の経営論とはこの様な事態も論じられているのでしょうか? 自らの経済活動が経済全体にどの様に影響を与え、自らに跳ね返って来るかは考慮されていないのかもしれません(……本当は考慮しているの? 僕が知らないだけ?……)


日本の企業のトップはこの理論の真髄と問題点を理解していられるのでしょうか?

 数字で何かを表すと言うのは説得力があります。それは、安心感をもたらします。しかし、人間とは手抜きをしたがる生き物です。聞きかじりの経営論を解った気になって、何かの数字を弾き出し それが経営論の言うところに合致していれば大丈夫と安心していないでしょうか?
 そして、世の中とはすべて数字で表せる物なのでしょうか? いえ、出来るかも知れません。しかし、現在、利用されている数字で本当に全てを現せているのでしょうか? 数字で表すことが出来ていない事柄があるなら、それは無視されていることになります。
 また、数字を弾き出すことに集中し過ぎて その数字が意味する物を考えることを忘れてはいないでしょうか?


日本の大企業が厳格に経営論を実行してしまったから

社会全体の景気が低迷しているのでは無いでしょうか。日本は何かと厳格にルールを適用する国です。アメリカも経営論に沿って企業を厳格に運用している様です。しかし、両国とも貧富の格差が広がっていると思われます。
 「イタリアは財政は破綻しているが人々の生活は豊かである。」と聞いたことがあります。世界の職人さんを取材されるテレビ番組でもイタリアでは小さな工房を構えられている親方が そこそこ豊かな生活をされている様です。もしかしたらそれは 社会全体に“緩さ”があるからかも知れません。(本当に? 実は日本より厳格? 僕が知らないだけ?) “緩さ”と言わず “ゆとり”と言った方がいいかも知れません。
 社会に“ゆとり”があるから、小さな工房といえども その労働が正当に評価されるのでしょう。却って、日本の経済界は経営論をガチガチに実行して“ゆとり”が無いから下請け企業の労働を正当に評価される事がないのでしょう。


アメリカ流の経営論は正義なのか?

 多分、正義なのでしょう。その企業が経済全体に影響を及ぼさない規模であれば……
 しかし、企業が経済全体に影響を及ぼしうる時、果たしてこの経営論は有効なのでしょうか?
短期的には当の企業はより大きな利益を得られるでしょう。しかし、下請け企業に対する支払いが巡り巡って自社に跳ね返って来ることが論じられていないなら、社会全体を不景気に巻き込んで結果として当の企業を衰退させるでしょう。
 「労働は資本に負け続けたのである」とは朝日新聞の経済コラム「経済気象台」(2017年10月17日朝刊)からの引用です。多分そうなんでしょう。真面目に働いた普通の人々が十分な給料を受け取ることが出来ないと言うのは、労働が資本に負け続けた結果でしょう。 しかし、資本(大企業の利益)は労働よって支えられているのです。「消費者は労働者で、労働者は消費者です」。 大企業が自分たちのために働いてくれた人たちに十分な支払いをしなかったから不景気を招いたのです。そしていくつかの大企業は崩れてしまいました。因果応報。自分たちで蒔いた種です。仕方のないことです。
 経済とは案外 鈍重な物なのでしょう。昔々に始まったコストカットの流れが 今になって大企業にも影響を及ぼしていると思われます。そして、その原因が古くからあるために、何が経済の停滞を招いたのか結びつけることが出来ないのでしょう。



2017/10/24



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