居合道の歴史と概要

居合道の始祖、林崎甚助重信

 居合道の始祖とされる林崎甚助重信は、奥州の生まれとも相模国の人ともいわれていますが定かではなく、没年没地も不詳です。
甚助数え年十五歳の頃、闇討ちにあった父の仇討ちを祈願して出羽山形楯岡の林崎明神に参籠し、満願の日に神託を得て夢中に居合の妙技を授かり、後年仇討ちの本懐を遂げたとされています。林崎明神は「林崎居合神社」として、山形県村山市大字本飯田193番地に現存しています。
  林崎甚助重信が編み出した刀術は「林崎流」「神夢想流」「重信流」と称されて伝えられ、その門人には田宮平兵衛業正(田宮流開祖)、片山伯耆守久安(伯耆流開祖)、関口柔心(関口流開祖)などがおり、今日の居合術の根元をなしています。


明治から昭和

 明治維新後、新政府の政策により居合術は衰退しましたが、明治28年(1895年)に大日本武徳会が結成され、他の武術と共に居合術の振興が図られました。大日本武徳会は、優れた居合術の演武をした者に精錬証(のち錬士)及び教士、範士の称号を授与しました。また、当時は居合道より居合術という呼び方が一般的であり、大日本武徳会では居合術と呼称していました。

 昭和20年(1945年)、太平洋戦争で日本が敗戦した後、大日本武徳会は占領軍指令により解散し、日本刀も多くが没収・廃棄されました。

 占領が解除された昭和27年(1952年)、大日本武徳会の事実上の後継団体として全日本剣道連盟が創設され、昭和31年(1956年)には、全日本剣道連盟内に居合道部が創設されました。

居合道の流派

 各連盟に加盟している流派は、無双直伝英信流及び夢想神伝流が多数を占めます。次いで伯耆流、田宮流、無外流等が多く、水鴎流、立身流、新陰流、神道無念流、夢想神伝流と全国に数多くの流派があり今も継承されています。

居合の技法とその特徴
 刀を抜いて向かい合い、試合することを「立合(たちあい)」といいます。
これに対して座った状態で刀を鞘から抜く前、つまり「居合わせた」状態から敵に相対し、抜刀により勝敗を決することを「居合(いあい)」といいます。
すなわち、居合道の生命は鞘放れの一刀にあり、抜刀してからの攻防は「立合」ですので、今日わたしたちが受け継いでいる居合道には立ち合いの要素も含まれていると見なすことができます。
 抜刀から納刀に至るまでを含めた技術を一つの独立した武道と成している国は、全世界でも日本のみで実は非常に稀有なものです。

 居合道は剣道のような打ち合いや激しい運動ではないため、老若男女を問わず学べる武道です。また、居合道初段取得者のうち女性は約3割を占めます。

 抜刀道との相違点は、抜刀道は刀を抜いた状態から藁束等を試し切りしますが、居合道は型稽古を中心に行い試し切りを行うことは少ないという点です。

居合道の稽古

 居合道の稽古は各技の想定する場面で仮想敵を相手に行います。しかし、敵を実際において行う組太刀稽古も敵との間合いや、抜刀のタイミング等を修錬するのに重要です。

 居合の技は各流派ごとに様々な場面と仮想敵を想定して行われるので、多種多様にあります。そこで、全日本剣道連盟(全剣連)は各流派の技を参考にして、居合の基本となる技を12本制定しました。これを全日本剣道連盟居合といいます。居合を修行して全日本剣道連盟の居合道段位を取得する人は、この形と各流派の形(古流)を並行して稽古することになります。


服装と用具

 道着、袴を着用します。高段者は正装として紋付、仙台平の袴を着用することもあります。

 一般には居合刀(模擬刀)を使用することが多いが、上級者では日本刀(真剣)を使用することもあります。

試合

 試合は実際に斬りあうのではなく、段位ごとに全日本剣道連盟居合の規定技や各流派(古流)の技を演武し、審判員の旗の掲示による多数決や採点で評価し勝敗を判定します。1964年東京オリンピックの体操競技を見て採点方法のヒントを得た政岡壹實が、居合道普及の一策として考案しました。

 また、神社などで技を披露する奉納演武を行うこともあります。