COLUMN
 
Martin Luther King, Jr.
"I have a dream."

非暴力を掲げて黒人開放に尽くしながら暗殺されたマーチン・ルーサー・キング・ジュニアー牧師の有名な演説、
百万人が泣いたあのスピーチ、
 
「1863年のリンカーン大統領の奴隷解放宣言以来100年が過ぎたが、黒人はいまだに基本的な権利を獲得していない。あたかも平等という小切手を与えられた黒人がそれを現金化しようとすると、残高不足としてつき返されてしまったかのようだ。この焼け付くような不平等の夏は、穏やかな正義の秋を早急に迎える必要があるのだ。しかし自由を望むあまりに、間違ったコップから渇きを癒す水を飲んではいけない。我々は非暴力を貫きながら、前進するのだ。」
 
I say to you today my friends--so even though we face the difficulties of today and tommorow, I still have a dream.
It is a dream deeply rooted in the American dream.
I have a dream that one day this nation will rise up and live out the true meaning of its creed: "We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal.
I have a dream that one day on the red hills of Georgia the sons of former slaves and the some of former slave owners will be able to sit down together at the table 0f brother hood.
I hae a dream that one day even the state of Mississippi, a state swelterring with the heat of injustice, swaltering with the head of 0ppression. , will be transformed into an oasis of freedom and justice.
 
I have a dream that my four little children will one day liver in a nation where they will not be judged by the colour of their skin but be the contact skin but by the content of their character.
 
I have a dream today.
I have a dream that one day in Arabama, with its governor having his lips dripping with the words of interpositin and nullification--one day right there in Alabamalittle black boys and black girls will be able to join hands with little whitegirls as sisters and brothers.
 
I have a dream today.
I have a dream that one day every valley shall be exalted, and every hill and mountain shall be made low, the rough places will be made plain, and the crooked places will be made straight, and the glory of the Lord shall be revealed and all flesh shall see it together.
 
This is our hope. This is the faith that I go back to the South with.
With this faith we will be able to hew out of the mountain of despire a stone of hope.
With this faith we will be able to transform the jangling discords of our nation into a beautiful symphony of brotherhood.
With this faith we will be able to work together , to pray together, to struggle together, to go to jail together, to stand up for freedom together, knowing that we will be free one day.
 
(from " I have a dream," Washington D.C.,August 28.1963)

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1  幸せとは?
2007.06.28 Thu.
GNP(国民総生産)が一つの豊かさを示す数値であるとすれば、「物質的な幸せには際限がない、たとえば良い電化製品を買って更に最新の機器が出ればそちらが欲しくなる、給料が上がっても隣人の方がもっと高ければ羨ましく思う、此れでは世界一の金持ちにならねば欲望は達成できず、幸せにならない、」
 
此れに対してブータンの首都、国立ブータン文化研究所で「GNH」を研究しているカルマ・グレイ氏は「物質的な幸せではなく精神的な幸せを提唱している、
私達はGNH(国民総幸福量)を数値化したいと考えている、
カルマ氏が賛同したのが、かって日本の仏教家が示した一つの数式だった、
 
幸せ=財/欲望
 
これは日銀幹部から仏教信仰財団理事長に転身された故、井上信一氏が考案されたもので、分子を大きくして幸せになろうとするのが欧米式であり、分母を小さくしようと考えるのが東洋式・仏教式の考え方であるという、
もっと分りやすく突き詰めて言えば、
「例えば、ペットボトルの水が売れればGNPは上がるが、川の水が飲めるような国になればGNHが上がる。
 
(産経新聞:05・06・22より抜粋)、
 
 

2  青春
2005.04.02 Sat.
青春とは人生のある期間ではなく、
心の持ち方を言う、
薔薇の面差し、紅(くれない)の唇、しなやかなああ手足ではなく、
たくましい意志、ゆたかな想像力、炎える情熱をさす、
青春とは人生の深い泉の斬新さをいう、
 
青春とは臆病さを退ける勇気、
安きにつく気持ちを振り捨てる冒険心を意味する、
ときには、20歳の青年よりも60歳の人にも青春がある、
年を重ねただけでは人は老いない、
理想を失うと始めて老いる、
歳月は皮膚に皺を増すが、情熱を失えば心はしぼむ、
苦悩、恐怖、失意により気力は地に這い、精神は芥になる、
 
60歳であろうと、16歳であろうと、人の胸には、
驚異に魅かれる心、幼子のような未知への探求心、
人生への興味の歓喜がある、
君にも吾にも見えざる駅道が心にある、
人から神から美、希望、よろこび、勇気、力の
霊感を受ける限り君は若い、
 
霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ、
悲嘆の氷にとざされる時、
20歳であろうと人は老いる、
頭を高く上げ、希望の波をとらえる限り、
80歳であろうと人は青春にして巳む、
 
         サミュエル ウルマン

3  最上のわざー人生の秋に
2007.06.28 Thu.
この世の最上の技は何、
美しい心で年をとり
働きたいけれど休み
喋りたいけれど黙り
失望しそうなときに希望し
従順に平静に、おのれの十字架を担う、
 
若者が元気1杯で、神の道を歩むのを見て妬まず、
人々のために働くよりも、謙虚に人の世話になり
弱って、もはや人のために役立たずとも
親切で柔和であること、
 
老いの重荷は神の賜物
古びた心に、これで最後の磨きをかける、
まことのふるさとに行くために
おのれをこの世につなぐ鎖を
少しずつ離していくのは、まことにえらい仕事、
こうして何も出来なくなれば、それを謙虚に承諾すつのだ、
神は最後にいちばん良い仕事を残してくださる、
それは祈りだ、
 
手は何も出来ないけれども
最後まで合掌できる、
愛するすべての人の上に
神の恵みを求めるために
すべて成し終えたら
臨終の床に神の声を聞くだろう
「来れ、我が友よ、我、汝を見捨てじ」 と、
 
ヘルマン・ホイベルス随筆集「人生の秋に」

4  第二の人生を思いっきり愉しむ
2005.03.05 Sat.
多くの場合,第二の人生を意識し始めるのは50代に入ってから、そして定年が近づいてくると老後の準備を真剣にするようになり、60歳前後で新しい人生のスターとを切るのが一般的ではないでしょうか、
 
ただ,人生80年の時代です、60歳で定年退職してもまだ20年、長生き出来ると30年以上もの時間が残されています、
昔のように「余生をのんびり暮らしたい」というには、余りにも時間がありすぎ、体力も気力もまだまだ旺盛なため、老後の生き方にとまどう人が増えているようです,
 
60歳からはゴールデンエイジ、75歳からはプラチナエイジの時代、社会的にも家庭的にも役割を果たして、本当に自分の意思だけで、自分の人生を自由に決められる状況が生まれるのが60代です。
ここからが本当に面白い人生の始まりだといっても過言ではありません、
「もう年だから」と自ら消極的になるのではなく、第二の人生をどう愉しむかを積極的に考えるべきです。
 
元薬剤師の内田敏子さん(71歳)は、定年後に5大大陸の山々の登頂に挑戦して,僅か六年で達成、8,000m級の高峰を世界中で成功させました、彼女は「老後とか病気のこととかあれこれ考えず、のうてんきに過ごしてきたから、ずっと健康でいられて、山も登れたのかもしれません、」と話しています、
 
このように「若い時の夢を実現させたい、」「一度やってみたかったことに挑戦してみたい」と、老後になってから新しいことにチャレンジしたり、夢を行動に移す人は、たくさんいます、
 
有名な話ですが、子供のころに父親から聞かされた伝説に心を動かされたハインリッヒ・シュリーマンは、大実業家として成功したあと、子供のころ夢を実現するために私財を投入して、あのトロイの遺跡の発掘に成功しました、60歳の時です、彼はその後も数々の遺跡発掘を行い、晩年は憧れの職業であった考古学者としてくらしたのです、
 
アメリカにも元気な婦人がいました、
80歳で著名な画家になったグランマ・モーゼスは、70歳になってから新しい人生を始めた人です、農家に嫁ぎ、働き詰めの毎日だった彼女は、子供達が結婚して家を離れ、夫にも先立たれたとき、娘に勧められて絵筆を執りました。75歳で見習です、そして80歳の時に開いた個展で一躍世界的に有名になり、多くの人々から賞賛されるプロの画家になったのです、
 
また哲学者でノーベル賞受賞者のバーランド・ラッセルは、80歳で4度目の結婚をし、88歳の時には核兵器反対運動を行って1週間の投獄に処せられました、それでも懲りずに92歳のときにはベトナム戦争に反対し、96歳でチェコスロバキアへのソ連軍の侵入に対して世界的な抗議運動を起こしてその名を馳せました、
 
このようにおいて益々盛んな人たちを見ると、人間生きている限り、何歳になっても、またどのような形であっても新しい人生を始めることが出来るのだと痛感させられます、
ここにあげた人達のような真似は普通の人にはとうていできそうにもありませ¥んが、それでも定年後に、若いときに出来なかった愉しみに挑戦してみたり、何か新しい習い事や興味のあることを始めてみたりすることは、その気さへあれば誰にだって出来るのです、
そのような前向きな気持ちを持つ子とこそが、老後を心豊かに生きる秘訣ではないでしょうか。
(ノシアス理想都タウン、田舎暮らし大学セミナー記事より、)2005・3.20

5  不思議な国にやって来たピーター
2007.06.28 Thu.
2003年夏、JICAの隊員として単身働いている次男,王士が元宗主国フランスに出張する機会を利用して,彼の家族、桃子,憧耶と我輩,家内の4人が渡仏、ドイツの国境に近い日本人も余り来ないミュリュージュに宿泊したときにスイスはルチェルン在のピーターが200kmのアウトバーンを家族全員の土産を一杯提げてシトロエンで飛ばしてきてくれ、ドイツの料理をおごってくれました。翌日フランス東北部を案内してくれました、
彼とは10年前、法隆寺をヴォランチアーガイドで案内したドイツのドクターの招待で彼の家にホームステイしドイツ旅行を楽しんだときにある教会で知り合った自転車夫婦です、
阪神大震災のため来日延期、やっと今回の日本の旅となったのです。がしかし彼の最愛の妻は昨年不治の病にて天国に召されま帰らぬ人となったのです、家内と同い年、悲しい思いでです、
 
第一日目、
 
8名のツアーにて日本の旅、15日間の旅も終わり、一人東京から新幹線で京都に来ました、
家内と娘は日独電子辞書を片手に京都駅までピーターを迎えに行きました、
小さな我が家を見て、「旅館,旅館」と言って喜んでいました、この彼の旅行のタイトルは「詩情豊かな日本の旅」ホテルはもちろん中国地方の田舎の旅館にも泊まってきたのです、畳の和室を見て言ったのでしょう、
2時ごろ帰宅した我輩は彼の旅の草鞋も解けぬうちに薬師寺へサイクリング、昨年講堂も新しくなり、見事に見違えるようになりました、写真好きな彼は新しく買ったソニーのデジカメで沢山な写真を撮っていました、構図の撮り方も素晴らしく長年やっている我輩も教えられました、
薬師寺講堂では高田管長の伝統を引き継ぎお坊さんの楽しい説教が語られていました、
夕食はピーター来日ウエルカムパーテイ、と還暦のお祝い、彼は10月25日誕生日、60歳になったので還暦のお祝いをしてあげました。
日本では赤い帽子に,赤いチャンチャコ、その代わりに姪っ子の裕子にお願いしてわが筆によるピーターの名前入り”飛太”の赤いTシャツをプレゼントしました、彼と二人のお嬢様,そして記念に我が輩用、都合4着、良いのが出来ました、家内は寿司大好きピーターに寿司のミニチュア―セット、ご丁寧に小さな銚子とおちょこ、がついていました、都美は日本人形の携帯のストラップ、王士はジーザス誕生のガラス絵、クリスチャンアーテイストである彼の傑作、
プレゼントも終わり、還暦の文字入りのケーキにナイフを入れピーターの還暦を祝いました。
鯛、鱧の高級魚の鍋、てんぷら、おにぎり、サラダ等盛りだくさん、箸の使いも素晴らしく沢山平らげてくれました、
先日友人の神元家を訪れたフロリダのご夫人はおいしい寿司もフォアグラも食べずにサラダばかり食べていました、
ナイフ,フォークが無く,箸だけでは食べにくかったのかなあ、
それに引き換えピーターは何でもおいしく沢山食べてくれました、
今はドイツに帰った旧友アレックスの食べ方を思い出していました、何でもおいしく食べてくれ、好き嫌いなしのヨーロッパ人、頼もしい、
家族全員にお土産、我輩には好きなルチェルンの表紙のカレンダー、自家製の強精酒、にんにくとワインをブレンドしたピーターのラベルが貼付してありました、
小さなカップに一杯,毎日飲むようにとのありがたき心遣い、それにカールマイの冒険小説日本語翻訳版、「アパッチの酋長、ヴィネットゥー1」、カぺル橋の大型カレンダー、絵葉書一杯、
家内には、スイスのの有名な作家のガラスの精巧なオイルキャンドル、これは素晴らしい、電気を消して暗くして火をつけると「マッチ売りの少女」を思い出した、
長男はスイスのフォークソングのCD,都美はスイスアルペンのダイアリー、
本当に良く気がつくピーターである、
 
第二日
 
7時半琵琶湖の別荘に向けラシーンにて出発、9時半琵琶湖大橋の手前にある佐川急便のホテルにつきました、ハワイのような景色の見えるホテルのレストランで和食朝食、このレストランには良く立ち寄り、マネージャーの山本美也子さんとは懇意である、会社の山本さんと米田美也子さんを合わせたような名前なので忘れることが無いでしょう、
湖西は志賀町のBSCウオータースポーツセンターに立ち寄る、今日はお休みで本当に静か、社長は一人で事務所でお仕事、そっと覗いただけなのに見つかってしまい、ピーターと3人で英語でトーク、あの夏の賑わいは何処えやら、波が静かにうねっている、
11時ごろ別荘に着き、早速デッキよりカヤックを取り出し、ピーターとタンデムカヤック、運動神経抜群、すぐ漕ぎ方をマスター,、上手にパドリングをしている、
都美に沢山記念にヴィデオをとってもらう、
岸から少し離れたところにある杭を回ってくるレースをした、やはり腕力にはかなわない、1分40秒、1秒の差で我輩かろうじて勝つ、危ない,危ない、日本、スイス対抗レースは日本の勝ち、面目がたった。
昼食は安曇川駅前の100円寿司、外国人はこれが楽しいらしい、おいしそうに食べる彼に食欲が旺盛、4人で30皿平らげました。来日前、スイスのルチェルンから皿に盛った数個のにぎりの寿司の写真入りのメールを送ってくれました、
返信に大きなお皿の寿司盛り合わせの写真を送っておきました、彼は驚いていました、
午後彼とサイクリング、別荘には自転車3台があり、夕方まで高島町散策、立派な中国の陽明門があり、夕日に映えて鏡池にその影映し出している、カメラ狂の彼は小さな覗き窓から公園全体像を撮ってみたり工夫を凝らしている、
日も翳ってきたので、辺り一面刈り入れの終わった田んぼの農道を急ぎ、帰路に着きました、
疲れを家庭風呂で癒し、さあ夕食です、近江牛によるすき焼き、ピーターの口に合ったのかお酒も進み、話しも進み、お互い9時にダウン、和室でふとん、二人部屋、横になったらすぐにいびきの私を見て、私も同じだよと言っていました、
いびきが相当やかましかったらしい、
 
第三日目、
 
家内がちょっと椎間板ヘルニヤがすっかり治ってないので今回は成るべく外食接待、
7時半に別荘出発、コンビニで食料を調達、一人旅のカヤックのときも、自転車旅行のときも、本当にコンビには重宝だ、食事に苦労することも無く旅が続けられる、
海津大崎につき、朝日を見ながらの朝食、本当にピクニック気分、からすの多い琵琶湖、木の上から我らのブレックファストを狙っている、東屋の上にバナナを2本載せてみた、警戒してすぐ食べに来なかったが仲間を呼んでいる、
琵琶湖の最北端、菅浦には藁葺の神社がある、バス停の終点でもあり、こぎれいな広場であり、すぐ前が湖岸、ここまで来ると湖水が澄んでいる。絶好の写真ポイントである、琵琶湖の眺めも前に竹生島が手の届きそうなところにあり、絶景である、
ピーターがしきりにシャッターを切っている。つるし柿を剥いている夫婦に出会う、せっかく採った柿を持って帰れという、
この辺りは大きな吊るし柿でも有名なところらしい、家内を呼び頂くことにする。
所さんの第一村人発見!よろしく話しに花が咲く、
私はここが始めてではなく、以前2年前カヤックできて、近くの田舎の何でもやさん、いわゆる昔のコンビに屋さん、食料品やさんにカヤックを預けたことがあるといったら、「ああ,あのカヤックの人、」この辺の隣人は誰でも知っている有名な人になっている、まるで小林旭の日活映画の世界である、
ハイヒールのブーツを履いた美人がバスに急いでいる、賎が岳の合戦の絵がボデイ1杯に描いている、ピーターが写真を撮っている、聞けば何処そこの何々ちゃん、本当に人情豊かな村人達である、こんなところに贅沢にも住んでみたいと思っていたら,偶然売り家がアル、バス停の前で琵琶湖一望、帰路娘が何でいくらか聞いてこなかったんと言い出す、最近六年間辞めた介護施設の退職金を全部吐き出すという、まるで電気製品や車感覚、いまごろの若者は恐ろしい、新旭に別荘があるやんか、
奥琵琶湖パークウエイに上り、彦根城に飛ばす、
運良く今日は彦根城の無料開放日、以前ドイツ人のアレックスに連れてもらってきたことがあるが、流石、井伊直弼殿様の居城、天空に映えている、紅葉には少し早かったが、天守閣からの琵琶湖の眺めは絶景、新しく整備された江戸時代の再現、城下町の通りは他では見ることが出来ない、本当に運が良く天候にも恵まれ時代行列が行われた、勇ましい侍、あでやかな女官の行列、子供達の鼓笛隊と馬上の殿様が立派なものだ、若き俳優が颯爽と鞭を打っている、
消防隊員の?梯子曲芸のパフォーマンス、落下しませんように、はらはら、どきどき、無事終了、ヴィデオ回しぱなし、
近江八幡の山の上で小休止、海中にヨットを浮かべているレストラン、絶景である、撮影も終わり,信楽の予約したスイスのレストランに車を飛ばす、
南郷の堰からいつもより逆のコース、
何度も道を間違え,無事六時半、スイスアルピナレストランに到着、シェフの家族に迎えられ、フォンジュ,スイス料理をオーダーする、ピーターの目が輝いている、如何に食するかを教授願い、10年前のスイス旅行を思い浮かべながら2時間が立ちました、
シェフ家族は根っからのスイスファン、時折スイスに出かけ料理を勉強してくるようだ、
ピーターはスイスのルチェルン出身、我輩もルチェルン大好き、あの木造の歴史的な長いカぺル橋は夢にまで見る、シェフの奥様もこの街道が一番好きだと申しておられる、30席ぐらいある席も老若男女で満員、ここは12歳までのお子様は入場お断り、
予約制で静かに料理を味わって欲しいとのシェフのきついお達し、
夜なので暗くてはっきり分らなかったがアルプスの少女ハイジとペーターの大きな壁画がスポットライトに照らされ、おとぎの国のようだ、道を挟んでこれは本当に立派、スイスの登山列車、ヒュッテの本物そっくりの大きな模型が作られている、レストランから道を挟んで眺めるだけで、近づくことが出来ない、本当に良く出来ている、
昼間に来て、写真を撮りたいものである、
 
第四日
 
奈良までサイクリングと言うとピーターのお望みどうり、郡山市内観光を兼ねて郡山城に登る、正面の天守閣に今まで無かった白亜の城が出現、驚き、何時の間に出来たのだろう、コンクリートでなく本物志向の郡山城、後何年掛かることだろう、
11月3日のおやこ祭りのために、プラスチックと紙で作ったらしい、
台風も去り、丁度良い時期に完成、
滅多に撮れない郡山の天守閣の写真、永久保存だ、本当にピーターはラッキーだ、
薬師寺も新しい講堂が完成し、多くの修学旅行生で賑わっている、ここでは他では見られないお坊様の楽しい説教が聴かれることだ、やはりこういう楽しいのがいい、
本当にカラフルな寺院である、それに引き換え唐招提寺は静かな厳かさを感じる、
平城旧跡の朱雀門を尋ねる、その奥にどでかい大極殿が建設されている、数年後には
”青丹によし、奈良の都は咲く花の、
  匂うがごとく、いまさかりなり。
が再現されることでしょう、
郡山に羅城門の跡があり、ここが平城京の南の端、都の大きさが伺い知れる、
奈良市役所では菊花展が開かれている、
東大寺の大仏様に感嘆し、残念ながら大仏様の鼻の穴と同じ大きさの柱の穴の通りぬけは出来ませんでした、
二月堂では今は無き友人の二月堂,堂僧の吉村さんを思いだし、ピーターと木魚をたたき、般若心経を唱える、
春日神社では七五三のお稚児さんに会いピーターにはもの珍しいお参りの写真をデジカメで撮っている、
猿沢池に降り、古い町並みを再現された奈良町を散策、絶好の被写体である、
もう何百枚と写真を撮っていることだろう、
彼は小さなボックスのハードデイスクを持っており毎日そこに入れている、したがって毎日新しいチップで沢山なショットが撮れるんです、
我輩はヴィデオムービー、ナショナルのカメラは静止画も撮れ,240MBなのでそこそこの画像が撮れる、その上一眼レフ、どうしてもフィルムでなければいけないところがあるので,大きな荷物になる、
お互い趣味や性格が似ているんでしょうね、いい友人である、
今日で4日目、彼にすれば来日19日目である、日本を堪能したことでしょう、
紅葉の時期には少し早すぎ残念でしたが、良い旅を満喫したことと思います、
3時半家につき、奇しくも紀子と都美が車での買い物から帰ってきたのと同時に家についた、
明日はピーターとお別れである、
お別れパーテイはピーターの大好きな、上にぎりのお寿司の大盛りである、えびチリ、ハム、サラミ, サラダ、お袋の味の定番、肉じゃが、ドイツ,スイスではソフトボール大のポテトがある、
お酒も回り、ドイツ語,英語、日本語が飛び交う。と言っても,ダンケ,ビッテのみ?、日独電子辞書が大いに役立つ、
奥様がおられたらもっと、もっと楽しいのに、本当に可愛そうでたまりません、、残念です、
 
第5日目、
 
11時オーストリア航空にて出発のため,7時過ぎ家を出る、隣の史朗に駅まで送ってもらう、バックサックにはテデイベアが負ぶさっている、ピーターの最愛の奥様の可愛がっていたぬいぐるみである、20日間日本をピーターと共に旅をしたのである、優しい心の旦那さん、私はもちろん日本人の旦那さん達が見習わねばならない、奥さんを大事にしなくっちゃと改めて感じた出来事である,天王寺から特急はるかに乗車、半時間ほどで9時前関空につく、搭乗前少し時間があり喫茶店でお茶を飲む、ピーターは日本茶を所望、もう日本とお別れである、
We miss you so much.
簡単だが日本語には無い英語である。
See you, take care and have a nice trip.
Keep in touch and see you soon in your country or our country,
           了
 
家内は料理が好きである、暇があれば一日中キッチンに立っている、
ピーターのスイスから持ってきてくれたお土産の一覧である、家族一人一人に夫々気を利かした粋なお土産である、
(写真の説明)
   ↓
 
 


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