言うまでもなく、音楽家にとって「身体」というものは重要なテーマです。音楽と身体との関係を考えていくと、それはそれは深い哲学のようなものにもなってしまいますが、とりあえずは上達のために身体をどう開発するべきなのか?という基本的なところから考えていくといいでしょう。
「言うまでもなく」と書きましたが、音楽の業界では「身体」というものに対する認識がまだまだ低いと言わざるを得ません。スポーツや武道・武術、舞踊などの業界と比べても、やはり遅れをとっているように思います。
伝統芸能的な世界では、どうしても一流のパフォーマーに対して「本場とは歴史が違う」「センスの問題」「天才だから」などの言葉で片づけられてしまうという傾向があります。しかし、そのパフォーマンスの秘密は何なのか?という追及をあきらめてはいけません。
一流演奏家の身体の使い方などを分析すると、その違いに気づくことがあります。比較的分かりやすいところでは、ヴァイオリンなどの弦楽器奏者や、指揮者もそうなのですが、肩甲骨から腕を動かしているかどうかでレベルが違ってきます。肩甲骨は意識しにくいパーツで、そのまわりの筋肉も固まってしまっていることが多いのですが、トレーニングで必ず開発することができます。仮にそれだけを練習したとしても、その点に関しては一流のレベルに少しずつ近づいているわけです。その他、様々な要素でトレーニングを重ねれば確実に上達できるはずなのです。
ただ、苦しい努力を根性で続ければいいというわけではありません。身体の使い方が上達すればするほど、快適で気持ちよくなって、故障も少なくなります。肘や肩、腰などを痛めることが、職業病だとして当たり前のように思っている人もいる一方、いくつになっても平気な人だっているわけです。やはり、理にかなった「気持ちいい」身体の使い方を身につけるべきなのですね。
「音楽家の“身体”のウォーミングアップ」
歌手や楽器を演奏する人にとってのウォーミングアップには、大きく分けて二通りあると思います。一つは、歌手の場合は実際に声を出して行うもの、楽器の演奏家の場合はその楽器を使って行うウォーミングアップ。楽に出せる音域からゆっくりと声帯や唇、指などをならしていくようにすると思います。管楽器だとロングトーンやリップスラーなどを使ったりだとか、ピアノだとハノンの最初のあたりだとか、それぞれ工夫してやっていることだと思います。
もう一つは、楽器を持たずに行う、歌手の場合は声を出さずに行う”身体”のウォーミングアップです。こちらに関しては、音楽の世界では意識の薄い人が多いように思えます。楽器や声を使うウォーミングアップをまったくせずに、いきなり曲を練習するという人はあまりいないでしょう。しかし、”身体”だけのウォーミングアップは、まったくしないという人も珍しくなさそうです。ちょっとしたストレッチや、肩を回すなどの簡単な体操を申し訳程度にする、というくらいの人も多いのでは。
せっかくするのであれば、トップアスリートにも対応できるような、質の高いものがいいでしょう。単なる準備運動の枠を超えて、よりいっそうのレベルアップにつながるようなものであるべきです。ストレッチを取り入れてもいいと思いますが、限界があるということは分かっておいた方がいいでしょう。たとえば、手のひらの筋肉をほぐすストレッチをやっていますか?前腕部の、特に2本ある骨の間はどうでしょう?肩甲骨の回りは?背骨回りの細かい複雑な筋肉群は?横隔膜や肋間筋などの呼吸筋は?などと考えていくと、ストレッチではかなり限られた大きな筋肉しかほぐせていない、ということが多いでしょう。
「ゆる体操」は、インナーマッスルも含めた身体の細かい筋肉までアプローチすることができます。呼吸筋に効く「息ゆる」と呼んでいるいくつかの体操もあります。身体の軸が通るなど、さらなるレベルアップにつながるような体操もあります。というわけでオススメです!
「なぜいい音が出るのか?」
根本的な問題ほどイマイチよく分からず、あまり考えないことにしているというものごとは多いものです。一流の演奏家が、なぜいい音を鳴らすことができるのか?あらためて考えてみると、実はなかなか難しい問題ですよね。好きなアーティストの音をイメージして練習しているという人も多いでしょう。でも、それで何が変わるのか、と言われれば説明するのは難しい。ということは、練習のやり方を考えるのも難しいということのはずです。
ここでは、歌手と管楽器奏者の場合を考えましょう。ヴォイストレーニングでは、特にのどの後ろのあたりの力を抜いて開くようにするということがあります。このことは、管楽器でも同じことが言えると思います。のどの力を抜いて開くようにイメージする、というだけでも効果はあるでしょうが、もともとそのあたりの筋肉が固まっていないかどうか、うまく脱力できるかどうか、という差が能力の違いを生みだします。ということは、積極的にそのあたりの筋肉をほぐしておけばいいと考えられるのではないでしょうか。ベースとなる身体のレベルがアップするわけです。
いい音のためにはいい呼吸、ということも言うまでもないことなのかもしれませんが、いい呼吸がいい音につながる理由をちゃんと説明することも難しいことだと思います。私は、身体全体の様々なパーツ同士が固まらずに、バラバラに分かれているような状態になることで音の振動が伝わって「身体全体が響く」ようになることを目指すべきだと考えています。
歌手の場合は、背中側に響かせるように、ということが言われますが、そのようにイメージしたとしても、そもそも背骨のひとつひとつが固まっていないかどうかで差がついてしまうのです。その差が「センス」などと言われてしまうのですね。実際に、本来鎖のような背骨が一本の棒のようになっている人は多いです。これも、積極的に身体をバラバラにするトレーニングをした方がいいでしょう。そして、呼吸をしたときに無駄な力が入る、あるいは恒常的に固まっているパーツがあることによって、響きを止めてしまわないような身体づくりをするべきなのです。
「指揮者の身体」
指揮者はアスリートのようなもの、などと言われるくらいで、やはり高い身体能力が必要であるわけですが、本当は身体能力という言葉では表現しきれないものが求められます。ここでは長くなってしまうので深入りできませんが、オーケストラのプレーヤーは、リハーサルが始まる前に、指揮台に立ったその瞬間の雰囲気や「オーラ」と呼ばれるようなものを感じ取って、一瞬でその能力を判断するとも言われていますから、身体が発するものを確かに受信しているのだと思います。その身体のベースとなるのは、やはり脱力とセンター(軸)なのだと思います。
亡くなって半世紀以上経ってもなお、伝説の指揮者として人気の衰えることのないヴィルヘルム・フルトヴェングラーの指揮についてあるプレーヤーは、固さとは無縁で常に弛緩して立っていた、頭がゆらゆら揺れていたほどだったと語っています。それくらいの脱力した状態をいいことだとプラスに評価しているわけです。ベルリンフィルの芸術監督を務めたクラウディオ・アバドに対しても、あるプレーヤーがテレビのインタヴューで指揮の秘密をたずねられて、真っ先に「立ち姿が美しい」ということを挙げていました。いずれも立ち姿で見抜いているというエピソードで、さすがはベルリンフィルのプレーヤー「本質は身体にあり」ということをしっかり感じ取っているわけです。
私が高校を卒業した年に、初めてベルリンフィルのコンサートの行ったとき、演奏が始まる前にステージに並んで立っているオケのメンバーの姿を見て「カッコええなぁ。なんか様になっているなぁ。」と思った記憶があります。それは、脱力してセンターの通った美しい姿勢というものを、そのときはまだ専門的な身体に関する知識のなかった私でも、確かに感じていたということなのです。
指揮者もプレーヤーも、脱力と軸が大切であることに変わりなないのですが、やはり指導する立場の人はお手本となるように身体の開発につとめるといいでしょう。日本全国のブラスバンドや合唱団の指導者の身体のセンターが通れば、必ずや音楽文化の向上につながるはず!
「演奏とリラクセーション」
音楽の世界に限った話ではありませんが「リラックスすることが大事!」ということはよく言われることですよね。スポーツ心理学などでも、リラクセーションとコンセントレーション(集中力)の両方を高めることが必要だとされ、たとえばオリンピックの舞台で自己ベストを更新するような「ピーク・パフォーマンス」を発揮するときは、その二つの要素が最大限に高まった結果なのですね。
演奏もまったく同じで、超名演が生まれるときのプレーヤーもやはりその二つが高まった状態にあるわけですね。よく言われる誤解をまねく表現が「緊張と弛緩のほどよいバランス」などという言い方。リラクセーションもコンセントレーションも「そこそこ」でいいはずがなく、めちゃめちゃ高いレベルのリラックスと集中力が求められるわけです。
この二つは、どちらかが高まればどちらかが落ちてしまいやすいという傾向があって、その両方を高めることは非常に難しいことなのです。クラシックの演奏家の場合は、コンセントレーションのレベルは比較的高いという傾向がありますが、リラクセーションのレベルは低いことが多いと思います。
たとえば、ベルリンフィルはその二つの要素も当然ハイレベルなオーケストラなのですけど、バランス的にはやはりコンセントレーションの方が高いことが多く、リラクセーションのレベルは少し落ちるのです。そのために、リミッターがぽんっとはずれて、潜在的なポテンシャルが引き出されるような演奏には、彼らにしてもなかなかならないものなのです。逆に、実力としてはベルリンフィルに遠く及ばなくても、その二つが高まればある種のトランス状態というか、スポーツ選手がよく言う「ゾーン」のような感覚をお客さんと共有できるような演奏がまれにですが生まれます。そんな演奏に出会うということが生のコンサートの魅力の一つなのですね。
録音や映像ではその感覚はかなりそがれてしまうものですが、リラクセーションとコンセントレーションが高まった演奏を楽しめるDVDとして『ベルリンフィル ヴァルトビューネ1996 イタリアンナイト』を紹介します。毎年恒例の野外でお客さんもくつろぎながら楽しむことができるコンサートで、リラクセーションのレベルがクラシックのコンサートでは滅多にないくらいに高まります。脱力のレベルの高いアバドがが指揮を振っているので、この年は一段とリラックス度が高い。そしてさすがはベルリンフィル、コンセントレーションのレベルは落とすことがない。コンサート終盤になると、もともとハイレベルな弦楽器奏者の弓を操る右手の動きなどが、普段以上によくなっているのです。雰囲気的なものだけでなく、技術的なレベルが上がっているわけなのです。
では、どうやってその二つを高めるか。実は「ゆる体操」は、リラクセーションとコンセントレーションが両方高められるように開発されているのです。集中力も「ゆるんだ」身体から生まれるものなのですね。
「リハーサルに”笑い”を」
日本を代表するドラマーである、村上”ポンタ”秀一が、ライヴで曲の開始を全然違うリズムで叩きはじめ、まわりのメンバーにツッコまれているということがありました。本人は「てへへ、間違えちゃった」とか言っていたのですが、あるニュース番組に出演したときに「わざと」間違えるということを話していました。お客さんやメンバーの雰囲気が固いときに、リラックスさせるために意図的にそういうことをするそうで、本当の職人だなぁと感じました。
クラシックのコンサートの本番では、一旦始まってしまうと固まった雰囲気をほぐすということは難しい。しかし、リハーサルではユーモアを交えたりして、よりリラックスした雰囲気の中で練習するということならば、意識的にできるのではないでしょうか。
名指揮者、エリアフ・インバルとベルリン交響楽団のリハーサルを見学したときのこと。みんながフレーズを弾き終わって休符のときに、一人ふざけてウィーンとグリッサンドで変な音を出しているヴァイオリンのオッサンがいて、大多数のメンバーは「またやりおった」みたいな感じでしらーっとしていましたが、後ろを向いて何やらツッコんでいるオッサンもいてという、日本のオケのリハではありえない面白い一コマでした。真面目なキャラのインバルは見向きもせず「ちょっと、ホンマにええかげんにしーや!」とかツッコんだりはしませんでしたねぁ。毎度のことでうんざりしてたのかもしれませんね。
このヴァイオリニストは、多分ポンタさんのような意図をもってやったのではなく、単にひょうきんな性格なのでしょうけど、そんなオッサンが許容されている(のかな?)ということは、場をリラックスさせるためにある種の役割を果たしているのだと思います。どんな職場でも、真面目一辺倒のモーレツ仕事人間ばかり集めても、必ずしもパフォーマンスが上がるとは限らないということと同じです。
ベルリン響のリハとは対照的な、ある日本人の指揮者と日本のオーケストラのリハでのこと。曲はバルトークの「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」(通称「弦チェレ」)でした。その指揮者は野性味のあるグロテスクな感じを引き出そうとして、変な格好で左右にぴょんぴょん飛び跳ねながら「こんな感じでやって」と言ったりしていましたが、オケのメンバーはほとんど無反応。気の毒に○○先生、完全にスベっていましたねぇ。そのおどけた仕草をくすっとでも笑えるような雰囲気があれば、演奏ももっとよくなったのに、と残念に思います。日本人て本当に真面目なんですね。
最近では、”笑い”というものの健康効果、リラックス効果などの研究が進んでいますが、演奏においては、爆笑したあとは呼吸能力が格段にアップしたりなど、普段の練習では高められないくらいの効果さえ期待できるのです。”笑い”によってパフォーマンスが上がるのであれば、積極的にそれを取り入れるということが真のプロ意識だとも考えられるわけです。音楽の世界でも、もっと”笑う”ことが許容されてほしいものですね。(笑)