身体の話

「筋肉そのものをやわらかく」

 身体がやわらかいとはどういうことか?一般的には、前屈して手がぺたーっと地面に付くとか、脚が大きく開いたり上がったり、などというイメージでしょう。これは、関節の可動域が広いということです。もう一つの意味は、筋肉そのものがやわらかいということ。触ってみて、つきたてのお餅のようにトロトロふわふわであればいい筋肉だということです。この2種類のやわらかさは、リンクはするものの別々の要素としても考えられます。

 身体が「ゆるんでいる」とは、筋肉そのものがやわらかいということです。一般の方は、脚がめっちゃ開くなどといったことよりも「ゆるみ」の方が圧倒的に求められると思います。専門種目をお持ちの方でも、たとえばクラシックバレエなど可動域が広いことが必須である分野もありますが「ゆるんでいる」ことは、あらゆる身体文化に共通して大切なことなのですね。

 トップアスリートでも、意外と可動域が狭い人がいます。マラソンの高橋尚子は、テレビで「私身体固いんですよーっ」とか言いながら前屈していましたが、手から足先まで20cmくらい開いていました。バレーボールの木村沙織も見た目からもふわっとした印象がありますし、柔軟性があるためにケガが少なかったということが指摘されていますが、前屈をさせるとチームで一番固かったとこれもテレビで言われていました。

 これは推測になりますが、骨に対しての筋肉の長さは個人差がありますから、この両選手は筋肉が短いタイプなのかもしれません。前屈がぺたーっとできるようにならなくても、ゆるませることには成功していたわけですし、それぞれの競技力は発揮できたわけですから結果的としてはOKでしょう。

 ストレッチにもゆるめる効果はありますが、可動域を広げることを主な目的としていることが多いでしょう。しかし、可動域を広げることばかりを頑張ってしまうと、むしろ痛めてしまうこともあります。アスリートでも競技中ではなく、アップ中に故障することが意外にも多いのです。ケガを減らすためのストレッチでケガをしてしまっては本末転倒ですよね。

 一般の方は身体を「ゆるませる」ことによって、自然に可動域も少しずつ広がっていくというくらいが、故障しにくく健康的でいいと思います。広い可動域が必要となるスポーツやバレエなどに取り組んでいる方も「ゆるませる」ことを優先させながら、細心の注意を払いながらトレーニングすることが求められます。くれぐれも、可動域を広げることばかりを頑張り過ぎないようにしてください。

「ゆる体操」にもストレッチ的な要素も入っていますから、安全に可動域も広げることもできます。「ゆるトレ」も「ゆるケアサイズ」も、故障することのないように開発されていますから、一般の方も専門をお持ちの方も安全に取り組んでいただけるのです。安全第一!

「筋肉だけを見習うべからず」

 マッチョな身体に憧れる人は多いですよね。私も、ウェイトトレーニングをやっていた時期がありました。一般の人は見た目や健康のため、スポーツをしている人はそのパフォーマンス向上のために筋トレに励んでいることでしょう。人間も動物ですから、本能的に筋肉を使うようにできていますので、筋トレをすることは、とりあえずいいことです。

 しかし、それ以上に大切なのは身体を「ゆるめる」ことです。見た目はともかく、本当に健康になろうと思えば、あるいは本当に身体能力を高めたければ、身体がゆるむことによる代謝の改善などが求められます。内臓のやわらかさも肝腎ですが、筋肉に限った話をしても、量的な問題もありますがその質を気にするべきなのです。

 そして、一般的なイメージは逆かもしれませんが、筋肉をつけることよりもゆるませることの方がよほど難しいのです。もちろん個人差はあるものの、筋肉は正しい負荷ややり方を守って「頑張って続けさえすれば」ついてくれます。要するに、やる気と根性などといった問題で何とかなるのです。実際に、筋トレ大好きでマッチョな身体づくりに成功している人って、皆さんの周りでも珍しくないでしょう。(かつての私もそうでした。)

 アスリートでも、よりマッチョであることと選手としてのレベルは相関しないということは、冷静に考えれば分かることだと思います。一般人でもマッチョにはなれるわけです。トップアスリートとそうでないアスリートとの差が、筋肉の少なくとも量の問題ではないことは分かると思います。

 しかし、マッチョな身体をしているかどうかは、自分自身でも他人から見てもとにかく分かりやすい。テレビでも、アスリートが自慢の筋肉を披露して、周りの出演者が「わー凄い!触ってもいいですか?」などというやり取りをよく見かけますよね。ですから「よーし!筋トレやるぞっ!」というモチベーションに圧倒的になりやすいのでしょう。

 クリスティアーノ・ロナウドの筋肉は、サッカー選手のみならず、憧れる人も多いでしょう。(ロナウドって脱ぐの大好きみたいですね。)しかし、そのマッチョな身体がプレーのレベルの高さの、少なくとも決定的な要因ではないことは確かだと言っていいと思います。ロナウドに限らずトップアスリートの共通することですが、ゆるみ度のレベルが高い。そして、身体のセンターがスパーッと通っているのですが、素人目に見るとしなやかさよりも強靭さを感じてしまうということがあるでしょう。筋肉をたくさんつけたほかの選手がロナウドに及ばない理由が「ゆるみ」や「センター」であるならば、見習うべきは筋肉の量ではなくそこなのです。

 単純な式で表すと、筋力×技術×精神力=パフォーマンス、というような考え方をしている人が多いのでしょう。それぞれの要素が独立していると考えると、筋力が高まればパフォーマンスは上がるということになります。しかし、その筋力を鍛えるトレーニングをすることによって、ほかの要素が落ちてしまうことはないのか、ということには思い至らないということが多いのです。

 ただでさえ、身体をゆるめることは難しいわけですが、筋トレをガンガンするほど固まりやすく、ストレッチなどを念入りに行っても追いつかないという人が多いのです。そうなると、むしろ技術の上達を妨げたり精神面にも悪影響を及ぼす可能性もあるのです。トップアスリートは、同じ筋トレをやっていてもほかの要素を落とさないようにできるということが天才的であるわけなのですね。

 トップアスリート同士は脱力の勝負になっていると言われます。脱力のレベルを高めるように筋トレをするという、一見矛盾するような方向でトレーニングをするべきなのです。一般の方でも、筋トレをするならば方向性としては同じことが求められます。あくまでも、優先は「ゆるめる」ことですので、まず「ゆる体操」に取り組んで、ある程度故障しにくい身体ができてから筋トレをやってみてもいいと思いますよ。 ←オススメ本のページも参考に

「子供の身体の固さについて」

 子供の身体能力、体力、柔軟性は低下傾向にありますし、運動の得意な子とそうでない子が二極化しているとも言われています。身体にも格差が生まれているとすれば、それは大きな問題でしょう。今時の子供は、しゃがむことができない、片足立ちでふらつく、まっすぐ走れない、あぐらすらかけないなど、ちょっとびっくりするような話が聞こえてきます。いくらなんでも、ひどいのでは。

 スポーツをしている子供でもそのような傾向が見られるということです。外で木登りをしたりなどの遊びによって行われる複雑で自由な運動を、スポーツでは出来ていなくて、偏った運動になってしまっているということなのでしょう。このような子供たちが、大人になってさらに高齢者となるころには・・・と考えると恐ろしさすら感じます。もう少し大きな問題として、メディアでも教育現場でも行政でも扱うべきではないでしょうか。

 子供の教育論については、色々なことが言われています。それぞれが何かしらの理論に基づいていて、一理あるものも多いとは思います。しかし、1日24時間であることは変わることはありません。何かを選択することは何かを選択しないということでもあります。英語の勉強でも何でもいいですが、同じ効率で行ったとしたら、何かの時間をプラスすれば、何かが犠牲になっているはずです。勉強はした方がいいに決まっていますけど、現代では運動する量も減っているし、質としても落ちているということを勘定に入れて、どんな時間の使い方をするかを選択しなくてはいけません。

 身体の問題は、単に運動能力の低下にとどまりません。日本人の知性の劣化ということも昨今よく言われることですが、これは身体の問題と関係があるというか、不可分に結びついていると考えた方がいいと思います。「身体を通した知性」「身体を使った学び」などということを本格的に見直さなくてはいけない時代にきているという認識が必要でしょう。私がこのサイトで紹介している先生方は、みなさん武術など身体文化のバックグラウンドをお持ちであったり、身体性というものが知性の土台にある方ばかりです。身体を軽視した社会では、本当の知性が生まれないのではないでしょうか。

 都市環境や学校教育の問題は、今すぐには変えることはできません。そんな中で個人や家族単位でも、スマホなどのデジタル機器とどう付き合うのかなど、社会環境から「身を守る」手段も考えないといけません。こんな時代であるからこそ、何らかの身体文化に接するということの価値も高まるべきでしょう。そして、その身体文化の恩恵を子供たちが格差なく享受できるような社会を目指すべきだと思います。

「スポーツによるケガは勲章か?」

 昔スポーツや空手などの武道をやっていたという人に話を聞くと、ほとんどといっていいほど何かしらのケガをしています。(それをちょっと自慢気なニュアンスで話すものですよね。)そのスポーツをやめてしまった原因がケガであることもかなり多いです。その後完治したのならまだいいのですが、腰や肩、肘、膝などに痛みが残っていたり、ちょっとしたことで再発してしまったりする、というような話もよく聞きます。一般の人よりも若いイメージがあるかもしれないアスリートの身体も実は、むしろ「老化」が進行していることが多いようなのです。

 そんな人たちは「スポーツにケガはつきもの」だと言いますし、「ケガは勲章」などというちょっと美化し過ぎだと思われる言い方もよく使われますよね。確かに、ケガを100%防ぐことは出来ません。もらい事故のような不運なケガもあるでしょう。しかし、スポーツで身体を痛めるのは当たり前のこと、しょうがないことだと思われ過ぎていないでしょうか。スポーツをする目的の中でも、健康的な元気な身体をつくるということが何よりも大切であるはずです。当たり前のように慢性的な痛みなどをかかえてしまったりするのであれば、一体何のためのスポーツなのか?ということにもなりかねません。

 長く現役を続けているようなスポーツ選手は、当然ケガをしにくい身体、あるいは回復しやすい身体を持っています。たとえば、イチローはしなやかでクッション性の高い身体をしているのでケガが少なく、そんな身体であるからこそパフォーマンスが高い。ケガのしにくさと選手としてのレベルの高さは相関すると言っていいわけです。ということは、ケガをしにくい身体づくりのためのトレーニングを優先的に行うべきなのです。

 より長い距離を走る、筋トレの回数を多くこなす、厳しい練習メニューをこなす、といったことはそれを実践した人は努力した、頑張ったということで褒められますし、逆にそこまでしなかった人は努力をしなかったということになります。しかし、問題なのは同じ量の努力をしても身体が壊れてしまう人や、回復の遅い人、慢性的に故障を残してしまう人がいることです。そんな人は、「量的」な課題をこなすより、そもそも故障しにくい身体をつくることや、無駄のないランニング・フォームやその競技の身体の使い方など、「質的」な練習が求められるのです。それも、立派な努力です。量的なトレーニングをこなすことも大切な努力ですが、その努力をしても壊れない身体をつくるための努力を先にした方がいいということです。

 スポーツに情熱を燃やしていた人は、「死んでもいい」というくらいの気持ちで大会に臨んだりしたと話します。人間は期間限定ならば、身体を守るためのリミッターをはずして、無理が利いてしまう。ですから、適切な負荷を大幅に超えて、ボロボロになるくらいに無理をしてしまうこともあるわけです。指導者は、選手のその先の長い人生を考えて、できるだけ身体にダメージを残さないための練習法やウォーミングアップの仕方などを研究するべきでしょう。

「ケガの功名、もしくは転ばぬ先の杖」

 養生法と呼ばれるものは、その創始者自身が身体を壊したことをきっかけに生まれたものも多いものです。音楽家で取り組んでいる人の多いアレクサンダー・テクニークも、シェイクスピア俳優であった創始者が声が出なくなったことをきっかけに生まれたものです。そのおかげで多くの人が救われているのならば、まさに「ケガの功名」です。

 何らかのエクササイズに取り組んでいるという人も、身体の故障を改善するために始めて、やってるうちに痛める前よりいい状態になったり、スポーツや演奏などのレベルがぐんと上達した、というようなこれまた「ケガの功名」です。さらに、ハマってたくさんの人に伝えてあげたいと思うようになり、その指導者になってしまった、ということもよくあるパターンです。私は違いますが、「ゆる体操」を指導している人も、もともとスポーツなどで身体を痛めたことをきっかけに始めた、という理由も多いようです。

 人間にとって自然な、故障のしにくい身体づくりの方法を知ってしまった立場からすれば、多くの方に痛める前にそれを知ってほしいと願っています。「ケガの功名」ではなく、「転ばぬ先の杖」にしていただいた方が当然いいわけです。スポーツや演奏でも、一般の方でもそうなのですが、身体の劣化や悪いクセなどといったことも、本格的に痛めるまで気付かなかったり、年を重ねれば衰えるのが当たり前だと考えてしまって、ギリギリまで放っておいてしまうという人が多いわけです。

 多くの人が、本当はもっと快適に身体を動かして元気に生活を送れるはずですし、スポーツや演奏でも思っている以上のポテンシャルが身体に眠っている可能性があるのです。ぜひ、故障する前に、自分の身体の可能性を引き出すメソッドに出会ってください。「転ばぬ先の杖」のさらに先の可能性を求めて。

「ゆるマッチョになろう」

 たくましい身体って好きですか?アスリートの身体は目指すべきたくましさの象徴なのかもしれませんね。アスリートの身体を見るとき、着衣での印象というものが参考になるでしょう。裸だと筋肉ばかりに目がいきがちです。アスリートであれば、その競技に必要な筋肉は付けているでしょうし、適正な体脂肪率まで落としていることでしょう。ですから、基本的に脱いだらスゴイのは当たり前ですが、サッカー選手など意外とそうでもなかったりします。

 羽生結弦は細マッチョな身体ですけど、ガチッ、ムキッとした感じ、たくましさって全然ないでしょう。ちなみにこの文章、羽生選手の平昌オリンピック金メダルの日に書いています。(T_T) 同じく細マッチョなネイマールもたくましさとは逆の印象ですよね。メッシだって、どちらかと言えばふわっとした印象があるくらい。近年では、野生動物のようなやわらかさと雰囲気を私は感じます。

 イチローがオリックス時代当時のシーズン最多安打記録を打ち立てたときの身体なんて、なよっとして頼りない感じがするくらいです。メジャーに行ってウェイトアップしても、ほかの選手に比べれば細い方だし、たくましい印象はまったくない。田中将大も、やわらかいぬいぐるみのような印象がありませんか?現役時代の工藤公康も山本昌もぽちゃっとした印象があるでしょう。そんな選手が誰よりも長く現役を続けられたんです。

 歴代のホームラン数ランキングは、1位から順に、王貞治、野村克也、門田博光、山本浩二、清原和博、落合博満・・・となっていますが、王、山本は長距離打者としては細身なタイプ、野村、門田、落合はぽちゃっとタイプですよね。清原もプロ入りしてから何年かくらいは意外なほどたくましさはなかったですよ。後年身体を固める方向で筋肉を鍛えてしまいギシギシになってしまいました。

 私たちは、トップアスリートだという先入観で選手を見ますし、上背はありますからたくましい身体をしているもんだ、と思ってしまっています。でも実は、知らない人が見ればアスリートだとは思われないような印象の選手がトップアスリートほど多いのです。パワー系のスポーツである野球の、しかも瞬発系の太い筋肉が必要な長距離打者ですらそのような印象を受けるのです。野村、門田、落合なんて素人目に見れば、ちょっと太ったその辺のオッサンにしか見えないですよ。(失礼!)

 なぜ、そのような印象を受けるのか?まず、筋肉そのものがしなやかでやわらかいこと。そして、常に必要な筋肉だけを収縮させて、それ以外の筋肉は脱力している。それはたとえば、プレー中以外でも、立っているだけ、歩いているだけでも、必要最小限の筋収縮しかしていないからなのです。そのような身体の使い方ができていると、そもそも余計な筋肉はつかない。トップアスリートほど、身体の「ゆるみ」と「脱力」のレベルが高いので「たくましくない」印象になるわけですね。

 一般の方でもアスリートでも、服を着ていてもガチッ、ムキッとした印象がするような人はまだまだですぞ!目指せゆるマッチョ!

「スポーツや音楽を楽しめる身体」

 スポーツや音楽のファンであれば、それらを楽しむことの感度が上がってより感動が増すのであれば、とてもハッピーですよね。スポーツなどをやる側のレベルアップは想像しやすいですけど、観る側のレベルアップとは何でしょうか。たくさんの、一流のパフォーマンスを見続けていると、比べる対象が増えることによって違いが分かるようになります。知識が増えることで、観るポイントが変わるというようなこともあるでしょう。

 私は、スポーツや音楽を観る目(と耳)を育てるためには、自分の身体をレベルアップさせることが肝心だと考えています。逆に、自分の身体が変わらないことには、本質的なものを感じ取れる能力は、実は成長していないということなのです。身体の感度のレベルアップと知識とがリンクして高まることが求められるわけですね。知識だけで分かることは実はかなり狭いエリアなのです。

「ゆる体操」や「ゆるトレ」と呼んでいるトレーニングの数々を行うようになってから、あらゆるスポーツを観ることが楽しくてたまらなくなりました。たとえば、身体のセンター(軸)というものは、自分にセンターができてくると人のセンターも見えるようになります。これは、知識で分かるのとは違うわけです。かなり分かりやすいところでは、フィギュアスケートやクラシックバレエのターンをする回転軸がブレずにできているときのセンターの美しさを感じることができます。そこまで分かりやすくセンターが使われている局面でなくても、恒常的に発揮されているセンターを感じることができるようになるのです。

 それは、気品であったり、凛とした美しさなどという言葉でも表現されるようなものですが、本当のトップアスリートからはそのような身体が生み出す奥深さを感じるものなのです。自分のセンターができてくると、それを感じる感度もアップするのですね。本当に観る目が成長するとは、そのようなことを指すのではないかと私は考えています。

 音楽の場合は、身体そのものを直接的に見せる文化ではありません。ですが、演奏を支える身体の感覚、それはセンターであったり熱いハートであったりハラの据わった感じであったりしますが、それらを「身に沁みて」感じることができるのです。それは、意味を理解することとは次元が違います。もちろん、意味を考える聴き方が悪いというわけではありませんが、身体の感覚とリンクして脳を使えるということが肝心なのです。

 スポーツや音楽などを愛好する人たちが、身体を通してそれらを楽しみ評価するようになれば、その文化は格段に成長するのではないでしょうか。身体をゆるめてセンターを通せば、快適で健康になって、その上スポーツや音楽をより深く感動できるようになります。文化を楽しめる身体になろう!