“解らないモノ”は保留にしておくと言う選択肢
……があってもいいと思うのです。
2020年12月3日の朝日新聞 一面のコラム『折々のことば』で「……そのわからなさを面白がる中に道は開けてくる。」と書かれていましたが僕は『解らない事は一時 保留にして置く』と言う感覚ですね。
“解らない事”も “取り敢えず解っている事”、“解るのに必要になると思う事”を頭に詰め込んで気には留めながら保留にしておけば何かの弾みで「あぁ、そうなのか。そうだったんだ」と 急に解る事があるんですよね。
理解の仕方が閃めくというか……
それに時には『知識が揃うのを待つ』事も必要ですしね。
咀嚼して、反芻して……
頭の中で“熟成される”とか“発酵する”とかそんな感覚で急に解る様になる事があるんです。その時の感覚は まさに『
緊張と その緩和』ですね。
時折メディアで取り上げられる学生さんの話から想像するに、今の若い人は「他人から話を聞けば 即、理解できる。出来なければ、ハイ それまで。」という感覚なんじゃないでしょうかね。
だから、簡単に「解らない」「難しい」と音を上げてしまうんじゃないでしょうか。
でも、そんな感覚だと理解できる範囲って すごく狭いものでしか なくなると思うんです。
そうじゃないですよ。今まで無かったモノ、全く新しいモノ、そんなのを理解するためには頭を柔らかくして、いろんな考え方を応用して取り組まないと……
そのためには時間をかけて『理解できるのを待つ』という姿勢も必要だと思うのです。
僕がコンピュータに興味を持った頃の……
コンピュータの雑誌ってプログラミングの仕方とか技術的な解説とかそんなのが中心でしたね。
(本当に一番最初に読んでたのは“電子工作の雑誌のマイコンのコーナー”だったんですけどね。)
雑誌に載った簡単なゲームだとかツールなんかを入力して遊んだり、自分で考えた「この方法でプログラム組めばこう言う結果が出るよね」とか やってましたね。
本当にたわいの無いコトを出来た、出来なかった。こう直せば動いた。とかそれで喜んでいました。
(いや~、誌面に載ったプログラムを入力するだけでも 打ち間違いとかで一発で動くなんて無いんですよ~、お客さん。)
(悪名高き)“行番号付きBASIC”は割合簡単に理解できたんですけど、“マシン語”と言うものは全く理解できませんでした。
“マシン語”というのは、コンピュータの一番中心になる“CPU”が直接実行できる命令を記述する方法なんですけど
(それ以外の“言語”は人が読みやすい方法で記述してそれを“CPU”が実行できる命令に変換しています。)、
ナゼこれでプログラムが実行できるのか全く理解できませんでした。いえ、解説されている言葉とか構造とかは理解できました。
しかし、ナゼこれで実行できるのか実感がわかないというか……
でも、ある時 閃いたんです。『そうか、なるほど そういうコトか!!』って……
キモは “プログラム カウンター”の理解でした。「プログラム カウンターはメモリー上にあるマシン語コードの実行している所を指しているんだ。それが、読み込まれる度に増えていくんだ!!」そう理解できた時は、凍りついて固まっていた何かが解けていくような感覚でしたね。
そんな風に、解らないコトも、気に留めながらも保留にしておくと、ある時急に理解できる時があるかもしれないと思うのです。
この感覚は人から教えられるだけでは解らないと思います。ごく簡単な事でも実際に自分でやってみて初めて実感できるモノだと思います。
逆にこういった事を一度でも経験していると「あの時みたいに解る様になる時が来る。」と待っていられるのだと思います。
世の中で求められるのは……
『聞いたコトことはその場で「理解しました」と言う』そんなヒトの様です。
「たとえ理解できてなくても『理解できました』と言っておいて、後で調べるんだ!!」そんな話をよく聞きます。
でも、その考え方は危ないですね。それでは『理解したと勝手に思い込んでいるだけ』になりかねないんです。
僕なんか仕事の仕方の説明を他人にした時、相手が怪訝そうな表情をしていたら不安になりますけどね。
得心していないなら 表情だけでも表してもらえた方が良いんです。「こう言えば理解してもらえるかな?」と説明し直す事も出来ます。
後でトラブルになってから、『間違って理解していた』と分るより、時間がかかってもその場で理解してもらえた方がずっと良い。少なくとも僕は……
逆に
「『理解した』と言え!!」という指導者は その方が『自分はラクだから』なんじゃないですか?
相手が間違ったコトを『理解した』と思ってしまわないか不安にならないんですかね。
もしかしたら その指導者も『本当は理解していない』からかも知れませんね。
テスト社会の弊害
世の中、何かというと直ぐ「テスト、テスト、テスト」です。
でも、結局のところ“テスト”というの『この設問に答えられますか?』という形ですよね。つまり“答え”というモノが必ずある。
学校でのテストは
(大学のことは知らない……)少し手を伸ばせば手が届くモノでしかない。
実際はそうじゃないですよね。答えはあるとは限らないし、あったとしても特定の条件が前提だとか。
そういう風に学生時代を過ごされた方は『何か答え
(っポイ物)に行き当ればそれが正解である』と早合点される事が多いんじゃないでしょうか?
最近、テレビや新聞で「取材で聞いた話を記者が早合点されているな」と思うことが多くなりました。
『自分はこういう風に理解したけど それで良いのかな?』と確かめる事をされていないと言うか……
僕の知っている事からすると、「それはちょっと違うんですけど……」と思うことが時折あります
『答えとは聴けばそれで解るモノである』と 無意識にしろ、思っている間は「……そのわからなさを面白がる中に道は開けてくる。」という心構えには成れないのではないでしょうか。
“テストのための勉強”ではなくて……
“理屈を理解する勉強”をされていれば もう少し違った形になっていたんじゃないかと思います。
『本当に理屈を理解する』のためには「この理解の仕方でいいのかな?」と確かめなきゃいけないですし、勉強を始めたからといって すぐに『理屈が理解できる』訳でもありません。
時には理解できるまで時間がかかってしまうこともあります。
でも、そういう風にして『理解できた事』は応用が効くんですよね。「ここまでは大丈夫」と自信を持てたり、「いや~、コレは危ないよ」とブレーキになったり……
そして、そういう風な勉強をした経験が多くあると“理解した”、“出来ていない”にも
『カン』が働きますし、理解するため何が必要かを探るのも楽にできるようになります。そして、『どうすれば確かめることが出来るのか』も思いつきやすくなるんですよね。
2022/10/18