八郎のホームページ
貴重な時間を無駄に過ごさないように。
Don't waste time over trifles.

人生の楽園を捜し求めて
 
Looking for the Garden of Eden.
 
 
 
 

| Back | Index | Next |

H25年2月27日(水)
郡山城の予備知識、
織田信長が大和唯一の城として残すために明智光秀に検分させ城主として筒井順慶に築かせた、
その後豊臣秀長(秀吉公の弟)により紀伊、和泉、大和の百万石の城として整備拡張された。
 
幾度も城主の変遷の後、甲斐より柳澤家が入り、幕末を迎える、
現在も柳澤神社と柳澤文庫がある、
 
写真は十年前有志によって天守閣が築城されたのだが仮のもの、私のスイスの友人が遊びに来た時に偶然発見、良い記念になった、
 
5月26日の産経新聞に
「郡山城石垣積み替えへ」
天主台から眺望可能に」
 
400年前に築城された郡山城の天主台の石垣を積み替える整備事業に平成25年に着手、28年度に完成を目指す、
 
郡山は大阪城を守る上で重要な土地で郡山城では大規模な城郭つくりが秀長により進められた、
 
天主台の石垣の整備に乗り出す、
ご存知のように県内では石材が産出せず、逆さ地蔵、平城京の礎石などのように多くの石が借用されている、
 
早く写真のような五層の天守閣が築かれるよう期待しています、
H25年2月25日(月)
太閤さんの幟旗
昨日の続きの記事です、
援軍山様にお願いしていた秀吉公のの幟旗、170cmX60cm、
やや大きすぎ、郡山の春に陣には持ち運びが少し無理かも、
余りにも大きすぎ目立ちすぎで陣屋に鎮座させて置こうっと思う、
左側の小さいのが丁度良いかもと思う、
 
H25年2月24日(日)
太閤さん、梅の花に酔う@大阪城梅花苑。
援軍山のYさんから連絡が入り、今日豊国神社でお勤めをするとのこと、その時お願いしておいた太閣秀吉公の幟旗が完成し持参するとのこと、喜び勇んで出陣、
 
いつの間にかこのメンバーが集まっており驚き、若者のチャンバラ殺陣の会の催しもあり見学させていただきました、
二組に別れユーモアのアルチャンバラ、若き男女の交流、楽しい一時でした、
 
大阪城梅林公園、まだ梅の花も満開ではないが観光客やカメラマンが多数ご来場、
この4人組は瞬時の組み合わせ、上手く纏まりカメラマン、観光客と楽しい一時、のぼり旗はなかったがやはり大阪城に来られるお客様は時代劇に詳しく明るく楽しいお喋りが出来ました、
 
今日も可也寒く最高気温6度ぐらいかなあ、寒さも吹っ飛んでしまいました、
H25年2月23日(土)
大阪冬の陣、夏の陣シンポジウム@柏原市
大阪は柏原市リビエホールで柏原の郷土史を探る会主催の、「大阪冬の陣、夏の陣」シンポジウムが開かれました、
 
午後2時から5時まで多くの大阪の陣の歴史に興味のあるファンがおいでになり、わが甲冑隊も12名の精鋭が馳せ散じました、
 
昨年の11月3日の道明寺合戦祭でのウオークラリーで現地説明をしていただいた皆様が主催されました、
 
前大阪城天守閣館長の中村博司先生が大阪の陣を考えるという題名で1時間半の貴重な講演があり、参加者は勿論わが隊員も大いに勉強をさせていただきました、
この先生によってわが大阪城甲冑隊が誕生したのであります、
 
第2部はこの先生を中心として、創設者の河井計実氏、大阪芸術大学の池田 和さんの講演もすばらしく、さらに事務局長の桝谷政則先生、阪南大学の先生達によりシンポジウムが盛り上がりました、
 
大阪夏の陣では道明寺合戦が可也の比重を占めることになり、重要な意味を持つことに成ります、
 
この写真の太閤さんは真っ赤な甲冑のサムライさんとは少し時代がずれますが、出陣並びに講演では同居させていただき、有難く感謝しております、
 
 
 
H25年2月19日(火)
豊臣秀吉全8巻読了
12月6日に購入した歴史文庫・山岡宗八著「豊臣秀吉全八巻」やっと読了いたしました、
 
感無量です、
 
日本を制した関白太政大臣豊臣秀吉の目は大陸に向かった、
だが2度にわたる朝鮮出兵は大誤算、自らも病に倒れた、
幼い秀頼の行末、武将達の不和、運命の急激な下り坂にあせりもがきながら太閤は、62歳の生涯を閉じた、
 
露とおき
  露と消えぬるわが身かな、
浪速のことも
  夢のまた夢
           (伝辞世)
 
醍醐の花見が大閣殿下の最後を飾りました、
 
H25年2月17日(日)
梅の花@大阪城公園
大阪城の太閤さんも梅の花が似合いますね、
梅一輪 一輪ほどの 暖かさ、
             服部 嵐雪
 
三日前に奈良公園に参りましたがまだまだ梅の花は蕾以前でした、
大阪城は16日朝は北風も強くこの立派な太閤さんの甲冑姿も寒さでこたえましたが矢張り天下の大阪城、その南、梅花公園は風も温かく香ばしい梅の花で身体を包んでくれました、
 
多くの観光客とツーショット、皆様も生の太閤さんに会い?言葉を交わし大阪城にて本当に楽しい思い出を描くことが出来たことでしょうね、
 
 
 
 
 
H25年2月16日(土)
大阪城甲冑隊2月定例会
気温まだまだ低く、大阪城公園も北風が強く、定例の清掃活動もママならず、
といってもある国がなぜか日本を遠ざかり大阪城も少し寂しくなりましたが、ゴミも少し少なくくなりました??
 
相変らず私と同い年、お互い大阪城は一番乗り、彼は清掃道具を準備し、こまめにゴミを拾っている、到底真似が出来ない、
 
新しく入隊される方が少し増えてきたようだ、矢張り新聞の記事の影響かなあ??
こんな独立国、米国に負んぶに抱っこ、少しは目を覚まさねば、お母さんのお膝に抱っこ、こんな乳飲み子のようでは状態では必死に生きている近辺のアジアの国はほっとかないでしょうね、
 
今日はこの辺で?
 
 
H25年2月14日(木)
奈良公園の梅、
友人から大阪城公園の梅が咲きだしたとのメールを受信、奈良公園も負けじと自転車で追っかける、
場所は春日神社の一の鳥居の東南一帯、
 
矢張りまだカメラマンもお見えにならず、月末が開花始まりかも、
紅梅の蕾より白梅のほうが早い、
 
郡山から生駒の実家、兄達の家を回るつもりだったが富雄から奈良に向け方向変換、
今日の外気温は10度、もう汗びっしょり、厚着なので下着一枚を脱ぎ、スカッとする、もう春ですねえ?こんな流行歌がはやりましたね、
走行距離31km、
 
 
H25年2月13日(水)
バレンタインデー
左後から金箔の吟醸酒、Happy Joy MACCHA(御列ができるほどのおいしいお菓子)、慶長小判のチョコレート、
左前からFukuFuku BIYORI,その右が舶来のFOUCHER Paris GALERIE DE CHOCOLAT、
 
子供や孫達、甲冑隊のお子さんからも頂きました、
本当に有難う、感謝です、
 
 
 
H25年2月12日(火)
石切神社参拝
近鉄奈良線で生駒トンネルを越えると石切神社がある、
生駒山山麓には全国一の占い師さんが住んでおられる、
この参道にも軒並み占い師さんがお店を構えておられる、
妹と家内と三人で石切神社を散歩しある占い師にお会いする、
商人の町大阪に近く商売の神様として多くの信者さんに支えられ本当に久し振りにお参りに来ました、
 
学生時代は良く阪本漢方の赤マムシを買いに来たのだがあれから石切に来る機会もなく本当に久し振り、もう回りの畑も見ることがなく住宅や店舗で覆われている、
 
阪本漢方のお店もなく少し寂しかったが昨日までは連休、人で賑わっていたそうだが今日は少し静かであった、
お店の方も昔のままの親切さ、お昼ご飯もおいしく楽しい石切の1日を過ごせました、
 
沢山ご利益がありますように、
H25年2月11日(月)
バリアフリーな街・布施
みんな一緒に「ささえあい」を感じるとき、
バリアフリーな町 布施、
高齢者や介護が必要な方、障害のある方のための楽しい集いが行われました、
 
昨年に引き続き今年も大阪城甲冑隊の元気なサムライさんがクレアホール 布施に出演。
 
12時よりイベント開始、わが隊はこのイベントに先立って旧布施市内商店街を真っ赤な甲冑と忍びの猛者とともに太閤さんは市民とともに行軍、多くの人たちの声援に支えられ今年のこの冬の寒さをものともせず乗り越えました、
 
第1部 記念ホーラム 「緑を育む、親子の絆を考える」
第2部 音楽・パホーマンス
第3部 ケアホームBAMBOO開設レセプション&パーテイ
 
第2部のパホーマンスでは3人による殺陣の実演、観客を驚かし、続いて12名の隊員による大阪城のお話と隊員の紹介、最後に古年兵3名による終戦当時?の童謡他を熱唱、
観客と一体になって大いに会場を沸かしました、
 
わが隊以外に数社の協賛がありミュージックや演奏、パホーマンスに今年も盛り上がりました、
 
披露パーテイでは立食パーテイ・マジックショー・サプライズゲストも出演され、
陣内さんの特別ショーも楽しめました、
 
バリアフリーとは段差をなくしたり、手すりをつけたりすることだけではありません、
みんなが繋がって支えあいの輪を広げることも大切なバリアフリーです、
(この会のテーマより)
 
最後にうれしい贈り物がありました、
今日はバレンタインデー。前列右から3列目のくのいちサムライさんから「福ふく日和」というおいしいチョコレートを頂きました、太閤さんにとっては生まれて初めてのチョコレートですね、歴史に残りますよ、
 
優しい心遣い、大きくなったら素晴らしいお嫁さんにならはることでしょう、
有難うございました、
 
 
 
H25年2月9日(土)
五十肩の治療に→山下医院@木津
今朝は気温も低く5度、北風がきつい、
しかし20kmのサイクリングで木津は山下医院に到着、1時間半のサイクリング、
身体もあったまった、
 
早速治療を受けると、レントゲンも撮らずに「頚椎症性神経根症」と宣告される、
必ず治ると元気をつけていただく、
注射を一本、又一週間後に再訪、
投薬ありシップと内服薬、
 
2年前には右肩、これは簡単に治ったが今回は地元のお医者さんにお願いしているが、時間が掛かりすぎ、
 
現役時代はお世話になりっぱなし、私自身の良きお得意様なので、またドクターの友人がサイクリングにはまっているので先生もベンツを時折お休みし、彼と木津、嵐山自転車道路を快走!
いつかは先生達と走りたいと思っている、
 
先生も私の自転車を見て「GIANTだなあ」
先日GIANTのTV放送あり同じ番組を先生と見ていたことになる、
 
医療事務の方がこられご主人も自転車にはまっているようだ、
私のブログの愛読者、まさかと思っていたが1月の最終日にその前に大阪城で話していた俳優さんのお名前をクイズにしておいたがわたしはすっかり忘れてしまっていたのだが、彼女、「はるな愛ちゃんでしょう」と応えてくれた、
正解である、しかしあのくたびれた姿から「はるな愛」チャンは想像も出来ない、
素晴らしい頭脳の持ち主、病院の事務も大変なのに良く覚えてくれたんですね、
この方は背が高く少し日本人離れした美人である、
本当に有難う、
 
 
 
 
 
 
H25年2月7日(木)
通院@藤井整形
昨夜は可也の痛さ、なかなか五十肩が治らない、
ももう3ヶ月ぐらいかなあ、この種の痛みは夜間就寝時に起きる、筋肉を休ますと筋肉痛が発生、
まあ時期が来るまで持久戦かなあ、
H25年2月6日(水)
豊臣秀吉8冊のうち7冊読了@山岡宗八
天下の主導権を握った秀吉は、大阪に古今未曾有の巨城を築いて威を誇った、
残るライバルは徳川家康ただ一人、
だが尾張の小牧、長久手に出陣したものの、巧に長期戦に持ち込む家康に、秀吉は翻弄される、
家康懐柔に用いた苦肉の策は、姥桜の妹朝日を彼の妻に押し付けることだった、
 
何かと多忙の中8巻のうち7巻読了、
斜め読みの部分もあったが秀吉公の素晴らしい働きを少しは理解できたと思う、
 
後一巻、日本を制した秀吉公が大陸に向かっていった、
どんな戦いだったのか楽しみである、
 
 
H25年2月4日(月)
サムライ4人・秀吉公を尋ねて(2月3日の記事です)
京都の豊国神社の唐門より本殿を望んでいる写真であるがやはり本社、大阪の豊国神社とは違った趣がある、
 
この唐門は国宝であり伏見城の遺構である、
豪華な気風を表現した桃山建築中でも代表的なものであると言われている、従来の規格に捉われず自由奔放な手法が見られる、
 
この記事は昨日の続きなので日にちがずれ込んでいるがご容赦願いたい、
素晴らしい一日を秀吉公とともに楽しむことが出来ました、
援軍山の大将、何かと気を遣っていただき感謝です、有難うございました、
H25年2月3日(日)
サムライ4人京都の旅、その一
寒さも少し和らぎ写真の4人は京都散歩としゃれました、
まず始めに京都は八幡の岩清水八幡宮におまいりしました、今日は立春で午後から参拝客も多くなり、早めに参拝を終えて豊国神社に参りました、
 
私の子供の頃親父に連れられてお正月の四方拝、生駒の宝山寺、大阪の成田さん、八幡の岩清水八幡さん、伏見のお稲荷さんは初詣に参りました、
信仰深い親父さんの信仰は篤く、伏見さんではお昼になり、料理屋さんで雀の照り焼きが有名で頂いたことが思い出されます、
 
今日はこの八幡さんをケーブルで上り下り、山頂から素晴らしい木津川、淀川の景色を見ることが出来ました、
 
この東のほうの木津川には木津から京都の嵐山までのサイクリング道路が通じており、時折愛車のGIANTのレース用で飛ばすことがあります、
しかし今回はこのサムライ達でおまいりしました、
 
この4人の役者さんのいでたち、お分かりかなあ???
 
私が一昨年の後半から秀吉公の配役が時折あり、いつの間にかこんな格好になってしまいました、
大阪の夏の陣の催しが此処2年続いていますのでそれまで元気でお勤めできればと思っています、
 
皆様のご立派なお姿、感謝しております、
 
秀吉公が慶長3年(1598)八月十八日、今日と伏見城でその生涯を追え遺命により東山連峰の秀峰「阿弥陀が峰」に埋葬された、豊国廟におまいりするには565段登らねばならず、若い隊員三人は元気に登り参拝されました、
私は又時期を見て登って見たいと思います、
 
立派な壮麗にして雄大な豊国社が建立されたのであるが、しかし豊臣家滅亡後、徳川氏の手によって完全に破却されその後250年間、むなしく草むらにうずもれて跡形も無くなってしまいました、
 
しかし明治維新により明治天皇の御沙汰により復興されました、
当初豊国神社は大阪城外に造営の運びであったが京都市民挙げての熱願により本社は京都に御治定になり、大阪へは別社が営まれることに成ったと言う経歴がある、
 
隊員の皆さんに誘っていただき良き勉強になりました、近くには三十三間堂もあり京都女子大学もある静かなたたずまいであり、秀吉公も静かに休んでおられることと思います、
 
方広寺にはあの問題になった釣鐘も鐘楼に釣り下がっており、君臣豊楽・国家安康が刻まれている、
初めて拝見させてもらいました、
これが大阪冬の陣のきっかけになったということであるが現存しているのが不思議だなあと思う、
 
H25年2月2日(土)
懐かしい従兄弟との対面@宇治と先輩からのメール、
大学の2年先輩と富山の会社で営業関係の同じグループで活動していたことがあり、入社数年後、私は関西方面に事務所を持つことになり別れ別れになってしまいました、
 
彼も私も故郷は関西、私は奈良に戻りましたが彼は富山に残りました、
会社は同じなので今まで交流は続いており、富山での毎年のOB会には必ず出席し私のことをPRしてくれています、
 
年末の彼のメールにはこんなことが書いてありました、
 
『先日のOB会で,貴男の写真を色々回覧していたら「カッコイイネ」、「貫禄だね」「とか「エーさんは、いつまでも綺麗だね」といった声が聞かれました」』
 
エーさんとは同じ会社の女の子でした、
 
彼のメールの本論は
その昔「郡山の殿様」が小生の母親の実家に宿泊されていたことがあったようです、
そのころ母親の実家は、所謂「宿屋」をしていたので、「殿様」が郡山と京都の道中に寄られたのでしょう、
今の地名は、相楽郡精華町ですが、当時は狛田村大字菱田小字宮ノ前 とよんでいたかも知れません、
とにかく、京都ー奈良間の主街道だったようです、
木津川の沿道だったし今では流れ橋も掛かっているし、源九郎狐も時々通られて居られたようです、
機会があれば郡山の小文書でもご覧ください、
 
というようなメールであり、今朝早くこの場所の確認に自転車を飛ばしました、、
この近くに妹の嫁ぎ先があり、途中下車、旦那さんも在宅で3人で調べに行きました、役場で地図を頂きましたが、もう何世紀も前の古いお話、今では新興住宅街になっており、奈良の春日神社の分社のみ確認できました、
 
流れ橋では乗馬、源九郎稲荷は義経の城狐、春の郡山の時代行列の発祥地であり、此処からお渡りが始まります、
 
又改めて調べに来ることにし、時間があったのでもう何十年も会わず、子供のころの僅かな記憶を思い出し、妹に宇治までつれてもらいました、
 
我が家の実家の近くには従兄弟が布施の校長先生をしておられる親戚があり、子供の頃私は休みになるとその親戚に遊びに行っていました、
その当時の僅かな記憶なので話は聞いているが対面は本当に懐かしかったです、
 
まさか今日こんな形で合えるとは思っていなかったので写真の方も(いとこ、またいとこ?)驚き、このあと弟さんもお帰り、習字の先生、話が尽きずもう帰りは薄暗い、妹の家まで30分、もう真っ暗でした、
又改めて話しに花をさかしたいと思います、
明日は大事な行事があるので自転車を預けて電車で郡山まで帰りました、
 
 

| ホーム | プロフィール | コラム | リンク集 | その他 | 掲示板 | What's New | What's New |
| 日記 | その他 | コラム | リンク集 |