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--->「セアカ」のルーツを訪ねて数万キロ−


  オーストラリアへの研修出張の幕開けである。 
  「遡ること70日前」
  当時の上村課長代理から課内の環境衛生監視員に対し、「食品、環境、薬事の持ち回りで海外出張が本年度制度化された。来年度は、環境、薬事の中からレポートによる選考選抜を行う。我こそはと思う者は応募するように」との伝達があった見送り
  休み明けの3日後、「セアカゴケグモ対策」と題し、活動期を迎えるにあたっての適切な対応をとるためにオーストラリアの正確な知見と情報を得ることが必要とのレポートを提出した。幸い、課の中では「セアカ」が優先され、環境保健総務課の人事係までは届くこととなった。
  ここから待たされること1ヶ月、ほとんどあきらめていた矢先の3月26日に、課長から呼ばれ一通の決定通知をいただくこととなった。
  決定後、4月の前半は人事異動で慌ただしく時が過ぎる中で、海外出張は夏に向けての「セアカ対策の調査・研修」であったことから早急な計画と実行が迫られていた。
  出張伺いと経費支出の決裁を急ぐとともに、大阪府オーストラリア事務所の田中所長との打ち合わせが連日続く。
  何よりも幸運であったのは、オーストラリアに大阪府の駐在員事務所があり、田中所長の全面的な協力をいただいたことである。現地訪問先とのアポイントメントは全て田中所長にお任せした。 私は、面会者の要望と調査内容を伝えるだけで、ほぼ希望どおりに計画が進む。
  不安は、海外初めての一人旅に併せ、言葉が全く不自由なことであった。オーストラリアへの入国審査さえ受け答えできる自信がなく、不安を解消できないことが大きなプレツシャーとなっていた。
  計画が決まり、出発の飛行機の手配、現地での宿泊と移動の段取りが終了したのが5月2日。3、4、5、6日の4連休は不安と期待の毎日のなか、胃腸の調子がすぐれず整腸剤と胃薬を飲み続けていた。私を知る者は、そんなことあり得ないと一笑に伏されたが、宿題を追っての一人研修旅には相当の緊張感があった。
  5月7日 「出発の日」
  期待と緊張のなか、大きな旅行バッグを引き、ショルダーカバンを肩に掛けてマンションを出る。管理人に見送られ、タクシーで寝屋川市駅まで乗り付ける。京阪電車に乗り、京橋でJRの関空快速に乗り換えて75分、朝からどんよりとした曇り空のなか、関西国際空港へ向かう。
  空港では、オーストラリアドル35万円分を購入し、海上火災の海外旅行保険に加入した後、ロビーで借り物のデジタルビデオカメラを調整して時間をつぶす。
  午後6時前、職場の同僚3人と妻と二女が見送りに駆けつける。挨拶もそこそこに空港施設に入る。空港は既に夜の帳が降り始めていた。
  1時間遅れで飛行機に搭乗し、離陸はスムーズに夜の滑走路を空に舞う。乗客は9割5分方団体客で占められ、新婚旅行らしきアベックが目に付く。飲み物サービスが始まると「ビール」を注文し、揺れのない機内で食後はすぐに寝つく。
  早朝3時に朝食タイムで起こされ、食欲は無いが時間つぶしに料理を口に運ぶ。しばらくすると、ブリスベン到着の機内アナウンスがある。
  ブリスベン経由のシドニー行きかと思っていたが、ブリスベンで一旦機外に出て他の飛行機に乗り換えさせられた。
  ブリスベン着5時、快晴の日和で夜が明け始め、外の景色を楽しみながら1時間ロビーで休憩後、QF51便でシドニーへと向かう。定員120名の飛行機に搭乗者は20名と少なく、日本語の通じない初めての世界に戸惑いを覚える。シートベルト着用のランプが消えると「食事タイム」。コーンフレーク、牛乳、ジュース、果物に紅茶が運ばれる。
  シドニー着午前8時15分、定刻通りの到着である。シドニーの空は「曇り」、今まで雨が降っていたのか空路が湿っている。 シドニー空港では「EXIT」に迷い、片言の英語では要領を得ず、身ぶり手振りでどうにか「City」標識が出口に向っていることと理解する。
  次に、関空で預けたバッグをどこで受け取るのかがまた難題で、空港の職員に声をかけて引換券を示し、片隅に置かれた旅行カバンをやっと探し当て、入国審査は何事もなく無事通過する。 シドニー
  約束の空港出口で待つこと10分、携帯電話を手にした田中所長を見かけて、ほっと安堵した。
  簡単な挨拶の後、車に乗り、最初の宿泊ホテルである「ダーリングハーバー・ホテルニッコウ」にチェックインする。ホテルでは、シャワーを浴び、昼食はホテル近くのフレンチショップで、ハムとチーズ、トマトのサンドウィッチにサラダを添えた4A$の食事にありついた。
  午後1時30分にホテルロビーで田中所長と待ち合わせ、大阪府シドニー事務所に向かう。高層ビルの25階にあるオフィスで、田中所長、川崎次長と、日本とオーストラリアで調整してきた訪問個所を確認する。
  午後のフリータイムは、前半、川崎次長にシドニーの街を案内していただく。旅行雑誌に乗らない壮大な絶壁からシドニーシティを向こう岸に見る国立公園が初日の観光のハイライトであった。あとは1人でサーキュラー・キーにある有名な「オペラハウス」とその付近を見て歩き、オーストラリア最大のシドニーの街を楽しんだ。
  夜は、田中所長と川崎次長に連れられて日本食をご馳走になり、ビール3杯を飲み心地よい歓談ののちホテルで休む。9時消灯、ぐっすりと寝つく。
  5月9日 「セアカゴケグモの駆除現場へ」
  朝食を、昨日の昼食場所で取る。ホテルから歩いて3分、客はまばらで店も半分くらいしか開いていない。コーヒーと卵、ハム、チーズを乗せたサンドイッチを片言で注文し、どうにか支払いを済ませ、テーブルで今日の予定表を見ながら食する。現場
  ホテルに戻り、9時30分、田中所長と通訳の中島さんと乗車し、タロンガ動物園に向かう。
  シドニーやブリスベンでは、先週まで連日大雨が続き死者まで出たとのこと。打って変わって嘘のような好天に恵まれ、冬の訪れを前に暖かい。 タロンガズーでは、「エドさん」に迎えられ、PCO業者と簡単な打ち合わせを行う。
  本日のイベントは、シドニーの南にあるサザランド地区の家庭で、セアカゴケグモの駆除現場を見せていただく。動物園の「エドさん」は日本へも数回訪問されている大変な親日家で、「私を『江戸さん』と呼んで下さい」との通訳を受けた。この「エドさん」が今回の各所でのアポイントをほとんど取り付けていただいたき、暖かい表情に優しさがにじみでてくる人柄であった。 「エドさん」を含め、5人が3台の車に分乗し駆除現場に行く。
  駆除作業は、見学との引き換えに無償で請け負われた。約1万3千円を私のために放棄していただいたことになる。駆除の家庭は、オーストラリアでは一般的な家で庭が広い。その広い庭から薬剤の散布を始め、「イヌの遊び場」と「ガレージ」でセアカを発見する。何よりもこの目で、オーストラリアに生息するセアカを人家で確認したことを収穫として、作業現場を後にした。 遅い昼食を帰路のレストランに招待し、食事の後はPCO業者の事務所に寄り、趣味の剥製を見学し、オーストラリア版「駆除国家資格者養成テキスト」をお土産にいただいて研修第一日目を終えた。 動物園
  2日間通訳をお願いした中島さんは、大学卒業と同時に世界を渡り歩き、スイスの女性と結婚されて今はオーストラリアでの永住を考えておられる。家では、子供がドイツ語、フランス語、英語の3カ国語を話すが、日本語だけは通じないそうだ。中学高校を奈良県で過ごされ関西をよくご存知であった。職業は、オーストラリアへの日本料理紹介のパイオニアで日本レストランなどを手がけ、現在は通訳を主にコンサルの仕事もこなしておられる。
  オーストラリアは、アトランタ後の2千年にオリンピックをシドニーで迎える。環境に優しいオリンピックがテーマで、メイン会場の建設工事も徐々に進められている。車の中で聞いたオーストラリアの話をまとめると、 車の増加で道路事情が最近特に悪化し、極端な渋滞と排ガス公害が深刻化している。これは、車の排ガス規制が緩いことも大きな原因である。実際に、駆除現場からの帰路、逆方向で車の長い列が続いていた。 娯楽費が安く、ゴルフ場、ガソリン、娯楽施設使用料は日本に比べ比較にならないほど安価で、休暇が楽しめる。
  オーストラリア人の気質は、おおらかで親しみやすい反面、あきらめ易くねばり強さに欠ける。 教育は自由さがある一方で、教師と子供及び父兄との連帯感が少ない。 男女同権が行き届いており、女性が強く、離婚率も高い。 国も国民も多額の借金を抱えて生活している。また借金が苦にならない国民性がある。 検疫所
  夕刻ホテルに戻り、ラフな洋服に着替えをして、シドニーの街にくり出す。ホテルを出て向こう岸のショッピング店を見て歩き、市内を循環するモノレールに乗る。日本人の団体客が2A$50セントの運賃を2A$に値切るのを見て、私も2A$に交渉して改札をくぐる。 シドニータワー前で降り、結婚20年を迎える妻に羊皮のハンドバッグを土産に買って夜の街をホテルまで歩いて帰る。
  5月10日 「動物園と検疫所の見学」
  2日目の朝、眠気を覚ますため、浴槽にお湯を入れ、歯磨き、髭を剃り体と髪を洗うことから始める。さっぱりして、「ニッコウホテル」を引き払う準備である。 ロビーに降りると大阪事務所の川崎さんと通訳2日目をお願いする中島さんがスタンバイしていてくれる。チェックアウトし、全ての荷物を車に積んで2泊したホテルを出発する。
  今日は、午前中タロンガズーへ、午後は検疫事務所への訪問が予定され、まずは3人で昨日の「エドさん」が待ち受ける事務所へ急ぐ。
  ドクターギレスさんの歓迎を受け、簡単なミーティングの後、園内を案内していただく。真っ先に、東京の都市博で公開が予定されていた「かものはし」(プラツトパス)の飼育場を見せていただく。雄と雌の2頭が飼われ8月の交配の時期を楽しみにされていた。子供は双子で生まれ1頭は育たないといわれている。卵で生まれ、乳で育つ2種類しかいない哺乳動物で100万年を超える年月に生きてきたとの説明を受けた。 ニューサウスウェールズ州は東京都と姉妹関係にあり、シドニーは名古屋市と姉妹都市である。ちなみに大阪市はメルボルンと姉妹都市の関係を結んでいる。オーストラリアと日本は強い絆で結ばれており、日本にとって数少ない貿易赤字国の1つでもある。交戦国日本に対する感情を残しながらも、戦後50年で世代が変わり日本への意識も改善されてきている。昨日の「ハンクさん」といい動物園の「エドさん」といい、本当に親切にしていただき、感謝してもしきれない思いを残し、タロンガ動物園を後にする。 キャンベラ
  午後は、政府のAQISに案内してもらう。検疫事務所では、「ジェイムスさん」と「アンドレウさん」にオーストラリアの検疫体制について話を聞く。「ジェイムスさん」の専門は「虫」で、興味ある昆虫博士がここにいれば2、3日は飽きない話と虫の標本を披露していただいた。 明後日の12日は「母の日」とのこと。世界的に5月の第2週は母の日なのか?!。検疫作業所の一角に花束にした花が積まれ検査されていた。農業害虫の検疫だそうだ。1時間30分の会談と見学を終え、3時半にAQISを後にする。
  2日に渡るシドニーでの研修は、天気に恵まれ、会う人に恵まれ楽しく成果の大きい最初の訪問地であった。 川崎さんにシドニー空港まで送っていただき、次の訪問地キャンベラ行きの飛行機に乗る。飛行機は20分前から搭乗手続きが始まり、定刻の出発で離陸体勢からすぐに平行飛行に移る。軽食が運ばれ、ビールを飲み食事が終わった頃、着陸のアナウンスがマイクから聞こえる。
  6時40分、すっかり暮れた「キャンベラ空港」に降り立つ。ここでは出口も迷うことなく荷物も簡単に受け取り、空港に並ぶタクシーに乗って約20分、11A$で「シティ・ヒル」にある「キャピタルパークロィヤル」が今日と明日2泊のホテルである。ホテルの玄関前でポーターが荷物を受け取り、クロークでチェックインし、314号室へとエレベーターに乗る。ホテルはシドニーの「ニッコウ」と遜色無くすばらしく、広いツインのベットで着替えをして国会議事堂体を伸ばす。 落ちついたところで、G階にあるレストランに行き、明日の朝食と夕食の予約をする。といっても言葉が通じるわけでなく、「ブレックファーストエンドディナーリザベーション?」だけでは要領を得ず、機転をきかしたウェイトレスさんが日本語が少し分かるボーイさんを連れてきて、お互いの片言でどうにか明日の食事の段取りを終えた。 部屋に引き上げ、シャワーを浴びて冷蔵庫からビールを取り出して、4A$50セントのビールを飲み干す。味は日本のビールとそうかわらない。シドニーの疲れをとり、明日への体力を養うため、この日も早々と9時には就寝する。
  5月11日 土曜日  「首都キャンベラの1日」
  夜中に何度か目が覚めながら、うとうととして時計見ると8時が過ぎ、慌てて窓のカーテンを開ける。今日も天気は良く、キャンベラの街の散策にはもってこいの日よりとの予感がする。 貴重品とカメラを確認し、ショルダーバックを肩にかけ、部屋を出る。朝食は1階レストランで、バイキング料理を楽しみ、いよいよ首都キャンベラの街をウォーキング。
  地理は迷うことなく、まずキャプテンクックの噴水を目指して歩き始める。道案内は、一枚の地図が頼りで、ゆっくりと景色を楽しみながら歩く。遠からず湾の中に20m以上も吹き上げる噴水が目に入る。 人はまばらで3組の親子とすれ違う。
  噴水を後に湾のブリッジを渡り「シティ・ヒル」から「キャピタル・ヒル」街へ向かう。向こう岸には真っ先に国立図書館が見える。橋を渡り中に入ると、外の静けさとはうってかわり、椅子にいっすいの余地のないほど若年から壮年層が座り、コンピュータや書籍と睨めっこしている。 図書館の隣の科学センターには、「Japan」の文字が写る。日本の会社が設立したセンターのようで8A$を払って中に入る。子供連れの家族が多く訪れていた。みやげ物を2つ3つ購入し写真をしたためて後にする。次は国立美術館の入り口まで、ここの見学は後回しにして、先に決めていた昼食場所を目指して歩くことにする。地図をたよりに1時間、迷ったかなと思ったところで、「エキスキュズミー」「アイウォントゴーここ」と地図を指さして道を尋ねる。「この車に乗りなさい」とのジェスチャーで何の疑いもなく助手席にオンする。「マイネイムイズ」「カムフロムジャパニーズオオサカ」「オーストラリアイズビューティフルアンドワイド」と話しかけ昼食場所の日本料理店「浅草」のある場所で降ろしてもらう。「サンキューベリィマッチ」と握手を残して飲食街の中にある「浅草」を探し当てたが、何と「クローズ」、何カ月も前に店を閉めている雰囲気で旅行案内書のいいかげんさが暴露された。仕方なく、コーラ1本を1A$50セントで買って飲み、本日最大の目的地「国会議事堂」へと向かう。
  40分近く歩くと国会議事堂にはためく国旗が見えてくる。この間、晩秋の枯葉舞う景色を楽しみ、飲食街にたむろする異国の人々の姿を写真に収め、気持ちはさわやかであった。旗は見えども議事堂の入り口が見つからない。外周道路から内側にある林の道を歩き、入場は無理かと思い始めたころ、正面入口に到達する。何とビューティフルと思ったのは歩き疲れやっと探し当てたことが原因ではない。キャンベラの中心の高台にそびえ自然と調和した超近代的な建物である。
  ここから眺めるキャンペラの景色も美しければ、キャンベラの街から眺める国会議事堂も調和がとれて際だっている。韓国からの団体旅行客の一人に写真を取ってもらい、議事堂の中に入る。簡単な荷物のチェックがあり、案内カウンターに行きジャパニーズと言うと、うれしいかな日本語の「案内しおり」が手渡され、手振りでのくわしい説明に感激した。下院上院議場やホール、写真展示場などを見てまわり、ただ感嘆して議事堂を出る。午後2時40分、「キャピタル・ヒル」の視察を終え、風が枯葉を吹き上げ紅葉した秋の景色を楽しみながら徐々に小さくなる議事堂を背にして、朝通ってきたキャプテンクックの噴水が吹き 上げるブリッジへと向かう。来るときは左歩道を、帰りは右歩道を渡り、湾の水と緑の飽くこと無い景色にみとれながらゆっくりとホテルのある「シティ・ヒル」へ進む。途中、ショッピングセンターに寄り、アサヒスーパードライ375ml入り瓶ビール(2A$50セント)とつまみを少し買った。
  ホテルでは、浴槽に湯をはり、汚れを洗い流し、疲れを癒す。予約の7時にホテル地階のレストランへ、昨夜の片言日本語ボーイさんが呼ばれ席へ案内される。ワインとビールを注文し、早速バイキング。肉、魚、ライス、カキ、エビ、ハム、ポテトetc を何回か取りに歩き、デザートはケーキとアイスクリーム。
  1時間30分の食事の後はホテルに隣接する「カジノ」を覗く。オーストラリアのカジノは、国が設置し業者に委託して運営している公のギャンブルである。一睡の余地もなく各テーブルにホテルの客が遊んでいる。周辺では洋酒のサービスもあり雰囲気はまさに映画でみた「高級 カジノバー」である。遊び始めたら止められなくなりそうで、30分見学してホテルの部屋に帰る。 さて、明日は第三の訪問地「メルボルン」、体力、気力併せて運とも絶好調である。
  5月12日 「メルボルンの日曜日」
  クラマリン空港からタクシーで約30分(25A$)で「メルボルン・ヒルトン・オン・ザ・パーク」へ到着する。
  12時少し前にチェックインして、部屋で荷物の整理をし、ジーンズとセーターで半日のメルボルン見学に出かける。 外は小雨、ホテルの前の「トラム」待合い所で見知らぬ人から乗り方を教えられ、路面電車に飛び乗る。車内では20才位いの女性の車掌さんから、丁寧な英語で行き先と料金の説明を受ける。「フリンダース通り駅」まで1A$50セントを渡したあともそばを離れず、降りる駅まで見送ってくれた。降車後の信号で、日本語で「どこに行くの」と声をかけられる。土産物店の店員らしく、チャイナタウンへの道を尋ね、帰りに店に寄ることを約束して昼食地のチャイナタウンに向かう。どの店も中国人、朝鮮人、日本人で一杯で、入り口で席が空くのを並んで待っている店もある。
  2〜3回往復し、鉄板焼レストラン「銀座」に入る。威勢の良い日本人らしい兄ちゃんが客に芸を見せながら調理している。ウェイトレスも着物を着た人が3人いて言葉を心配せず注文できた。
  食後はメルボルン最大のショッピング街「メルボルン・セントラル」を目標に進む。とてつもなくノッポのジャパンビルに「大丸」が入っている。日曜日のせいもあってか日本の休日の百貨店と同じ賑わいを見せている。1階の食料品売場では米、寿司、化学調味料、カップラーメン等の日本食品が所狭しと並んでいる。大丸の次はメルボルンの繁華街を散策し、ステーション駅を経由してホテルまで歩いて帰る。ほぼ雨も止み(傘を10A$で買った)、濡れて気持ちの良い公園の緑の中を通り抜けてホテルにたどり着く。キャンベラが「新しい都市」の典型であれば、メルボルンは歴史のある「古い街」との印象が強い。「トラム」が街中を走り、信号の多い古い建物が交差する街並みが哀愁を漂わせる姿は、発展的な街ではなく、過去にすがる街のような気がした。 寝る直前、メルボルンでの通訳をお願いした「メイヤーさん」から電話が入る。明日10時ロビーでの待ち合わせを約束する。
  さて、明日は月曜日、仕事に戻って研修のメイン「サザランド博士」との面談である。
  5月13日 「休日明けの月曜  メルボルン大学へ」 メルボルン大学
  シャワーと洗面を済ませ、10時までの時間をホテルに隣接する公園で遊ぶ。朝早い時間に通勤者が足を早めて通りすぎる。暫くすると空模様が怪しくなり、小雨がぱらつく。強い雨に遭わないうちにとホテルに急ぐ。
  9時55分部屋を出て、14階からG階ロビーに降りる。ロビーの応接で通訳の「メイヤーさん」と簡単な挨拶を済ませ、タクシーでメルボルン大学に向かう。大学構内は広く、何度も学生さんに道を訪ねつつ約30分歩いてやっと「ミクロテクノロジー」のサザランド博士の建物にたどり着く。
  最初は部長室に案内され、日本人留学生を含む4人のメンバーを紹介され、早速ミーティングに入る。 部長とサザランド博士の話を伺いながらも矢継ぎ早の質問を浴びせる。何しろ、今回の研修目的の多くはサザランド博士との会話にあるとの意気込みがあった。
  途中、部長に「この大学の学生もMr Kitazumiほど熱心であったら!!」と言わしめた。
  併せて、「この大学の毒性病理学を大阪でPRしていただきたい、特にヴィクトリア州及び大阪のオーストラリア領事館で今回のことを話していただければ、もっと毒性予算がつくかもしれない、是非PRをお願いしたい。」「変わりに Mr Kitazumiが非常に熱心な特筆すべき者であることを大阪府と日本国に伝える」との話しいただいた。 サザランド博士は59歳。この博士に「日本のセアカゴケグモは共生か駆除か」の選択を問うたところ、即座に「駆除を」という答えが帰ってきた。日本での見解であった 1)問題を抱えているクモであること 2)日本に生息しない生態系を壊す動物であることの2点かサザランド教授ら駆除が望ましいと話された。反面、いついてしまえば、何よりも教育により解決するしかないとの考えも指摘された。
  オーストラリアでは、1957年の血清の整備により被害が少なくなってきたことから、日本も血清を常備すれば大きな問題には至らないだろうとのことだ。この先、日本とオーストラリアのセアカの比較毒性試験には奥野先生と連絡し実施していければと期待を込めて話された。
  サザランド博士からは毒性の話と文献等の資料をいただき、CLS社へ自らの運転で案内していただいた。
  CLS社は元々政府の機関であったものが、2年前に民営化され、病理保健的調査研究を行う国内最重点の機関である。ここで、サザランド博士からCLS社の「リンさん」にバトンタッチされ、昼食をよばれながら懇談をする。 杭毒血清の製造はCLS社の一つの分野で、あらゆる人体に関する薬剤、動物の駆除剤を製造し販売を一手に引き受けている半国家組織の民営会社である。敷地も1200uを有し、規模と成果はオーストラリア唯一のものと聞いた。その中で、杭毒血清を担当している「ミック」さんを紹介され、実際のクモ毒を抽出し血清を生成するむ現場に立ち会わせていただく。
  幸運にも、先週末にクモが届き、今日が毒素を抽出する作業に入る日であり、こんなチャンスは月に1回も無いとのことだ。頭に帽子を、靴にオーバー靴下を、体には白衣を着用して作業室の中に入る。セアカが解体され、毒素を取り出す行程から見学させてもらう。写真撮影は禁止され、メイヤーさんと目と耳で実地経験する。毒性の研究はクモを始め、魚、ヘビなど多岐にわたり、ヘビ毒では世界最大の研究実績を誇っているそうだ。何しろ、毒性の強い1位から11位までのヘビがオーストラリアに存在している。クモを購入する業者は現在では一人しかなく、最近では年を取り体がついていかず、クモの養殖を考えているとの話に、大阪で購入したオーストラリアのセアカも養殖ではとお聞きしたところ、「そんなことはない、あれは自然のもの」と反論を受けた。それでも今後、血清をつくるセアカの取得は養殖に頼らざるを得ないようだ。幾多の実りある経験と知識を得てCLS社を後にして通訳の「メイヤーさん」とホテルに戻る。
  ホテルでは、明日午前の観光の予約を取っていただき、レストランでしばし会話する。 メイヤーさんは、福祉部門が得意とのことで、日本とオーストラリアのターミナルケアの大きな差を嘆いておられた。「オーストラリアでの福祉予算は25%に達し福祉施策が充実していることに比べ、日本の10年後の高齢化社会を容易ならざる社会と思っている。」「オーストラリアでの福祉施策の実態を国、府及び市の行政機関のリーダーが学んで欲しい。」と願っておられた。 シドニーで聞いた借金地獄の庶民生活がどこからきているのかが幾分分かった気がした。何よりも政府が高齢者や弱者の面倒を見てくれる制度が徹底している。老後に蓄えをすれば税金にもっていかれ、なければないなりに公的援助が受けられる国であるのだ。メルボルンの古風さは日本の下町的で、人の良いところが多く、会う人がおだやかな印象を受CSL社けてメイヤーさんと別れた。
  夜は、日本レストランで夕食をしようと4時頃にホテルを出てシティに向かう。時間が早く、徒歩で景色をカメラとビデオに納めながらゆっくりとメルボルンの中心街へ歩く。緑が美しく、縦横に走る「トラム」と古い教会が目に写る。時間を調整して、6時5分、レストラン「くに」のドアを押す。開店間がなく、本日初めての客のようある。カウンターに案内され、まずビールを注文する。従業員はほとんど東洋人で、日本人と中国人の半々が勤めている。親しく話しかけられ、話が弾む。カウンターの中の板さんは、阪神ファンで不振を嘆いておられた。この店は「トラベル本」には紹介されておらず、口コミで一部の日本人に非常に好評を得ている。この店を知ったのもシドニーでの通訳の中島さんから推奨していだいた。とにかく料理がおいしい。キスの天ぷら、白身の味噌漬け焼き、若鳥、刺身の盛り合わせ、イカと野菜の炒め物、つけもの、アサリの味噌汁、最後にお寿司、ビール酒込みで計85A$(日本円で7000円強)を支払った。 帰りはタクシーを勧められたが、ホテルまで散歩することにし、すっかり日の暮れた道を歩く。ホテル近くの公園で見たのがリスに似た動物で、昼間は隠れているかわいいリスが10匹以上遊んでいる。写真をとっても逃げず、手を出すと噛みついてくる。しばらく遊んでホテルのドアボーイに何の動物と聞くと「パッサムズ」?と聞こえた。そのまま、部屋に戻り、日記をしたためながら眠りにつく。
  5月14日 「古都メルボルンの視察」
  朝3時に目が覚め眠れず荷物の確認をしたり、本を読んだり路面電車して朝まで時間をつぶす。
  6時にシャワーを浴び、服を着替えてレストランでブレックファースト、料理の味ないが果物とジュースは物足りは味が良かった。朝食後、荷物の再チェックをし、ポーターを呼んでチェックアウトする。 大きなボストンバックは夕方までホテルで預かってもらうことにし、ホテル前で半日観光のバスを待つ。
  予定より3分遅れて8時23分、他の観光客と混じってバスに乗る。ホテル巡りで観光客を拾い、バスターミナネで一旦降ろされ、観光コースに分け各バスに分乗させられた。 9時にスタート、最初はメルボルン市内を一周する。ガイドは運転手が兼ね、ときたまジョークを言うのか客が一斉に笑う。意味は分からないが雰囲気は楽しそうである。
  一周後に、「キャプテンクックの家」がある「フィッツロイ庭園」に降りる。オーストラリアでは各地に「キャプテンクック」にちなんだ施設や名称が多くある。「王立植物園」、「ビクトリア国立美術館」の景色と施設見学に続き、海岸線を通り、「ヤラライン」を跨ぐ橋を往復する。ブリッジの上から見るシティの景色が綺麗である。シドニーやキャンベラがそうだが、オーストラリアでは、郊外から高層ビルの林立する中心街を眺めることが一つの売り物の景色となっているようだ。
  3時間を堪能し、予定の12時30分にバスターミナルに戻る。
  午後の視察には、料理店大文字の仲居さんに聞いた、サーモンより少し濃い茶色の「City Cerclle」と掲示された無料トラムに乗る。一周約40分を2週、睡眠不足からうとうととほとんど寝入り、元気が戻った「ステーション前」で下車し市役所を覗きにいく。噴水の前で若者がスケードボートで遊んでいる。市役所のそばを通り抜森けホテルに帰る道すがら、昨日約束した土産物店内に入り、義理で土産物を1つ購入した。呼び止めた女性は大阪の人で、後2〜3週間で帰るとのこと。セアカの話をレジですると日本のおばさんが、こちらのテレビで何度か話題になっていたとは話された。店を出て、何度か通った公園を横切りホテルにたどり着く。地下のゲームセンターで2A$ほど遊び4時にホテル前からタクシーに乗る。
  向かうは「クラマリンエアポート」である。運転手が話しかけてくけるが意味が通じず、途中で話題が途切れる。
  次回、海外に行くときは日常の英会話程度は話せるようにと切実に思ったこの数日である。空港では、待たされる間もなく飛行機内へ。1時間でオーストラリア最後の都市、ブリスベンに到着する。
  5月15日 研修最後のクィーンランドミュージアム
  悔いのない最後の一日をと願いホテルの部屋を出る。昨夜遅くに約束した午前9時30分に、通訳の「杉山さん」がホテルのロビーに到着される。
  簡単な打ち合わせの後に、レイビン博士がおられるクィーンランド博物館に向かう。
  ミュージアムの受付でびっくりしたのが、ロビーに張られた糸とセアカの大型模型である。天井から吊され、訪れる人の目に付く位置にセアカが飾られている。しばらく写真とビデオ取りに専念し、取り終わる頃、レイビン博士が降りてこられ、挨拶もそこそこに館長室に伺う。館長が楽しい雰囲気の方で、気を使って話題を提供していただく。日本にも1度来られており、この8月セアカ模型にも「いわき市」に公務で来日されるそうだ。当然ながら、玄関の入り口で見たセアカのことが話題となり、「どれくらいの期間展示するのですか?」とお聞きしたところ、「テンイャー」と笑いながら答えられ、すかさずレイビン博士が訂正されて後2週間で取り払われると答えられた。
  私の来館のために飾ったと冗談とも本気とも分からない話をお聞きする。 来館の歓迎を深く感謝してレイビン博士の研究室に行く。部屋は整然としている一方でクモが所狭しとあちこちに巣を作っている。それも生きているクモが飼われている。窓際に糸を張っているクモ、子供用の椅子の下に住み着いているセアカ、昆虫箱の中に入れられた猛毒タランチネなど。併せてクモのグッズも並べられている。クモづくしの博士である。着用のネクタイもクモ模様、コンピュータの中もクモ情報が集中して管理されている。パソコンを使いオーストラリア全土の生息プロットや写真等が入力され、これが何とインターネットのホームページである。これなら日本でも見ることができると喜び、早速ホームページのアドレスを聞く。
  オーストラリアで、また世界でセアカに関しては第一人者との貫禄である。今は、セアカの天敵の研究とDNAによるクモの出身地の判定を研究テーマとされている。 話の途中、突然にサイレンが鳴り響き、避難訓練が始まる。来館者全員が参加しなければならず、私と通訳の杉山さんも非常階段で一階まで降りる。避難場所への集合はご遠慮し、博士とセアカの生息しそうな場所を歩く。
  セアカは金属を好むようで、金属製のごみ箱や排水溝の裏、レイビン教授廃車、金網のフェンスなどに生息しやすいと説明を受ける。暖かい場所がすみかの条件になるなど日本の生息状況と全く一致する。避難訓練の終わる時間を見計らい、再び博士の研究室に戻る。別室でクモの「ポスター」と「ファネルウェブの標本」をいただいた。 昼食をご一緒にとお誘いし、博士の希望で日本食レストラン「千成」に行く。道中もクモの生息しやすい場所を教えていただき、ついにカジノ施設の周辺で「ハイイロゴケグモ」を発見する。ハイイロは、政府の御用達業者が建設造園工事をしたところに必ず見つかると話された。定食(博士はさしみ定食)と一品料理を2品、併せてビールと「げきからの升酒」を注文する。博士は良く利用されるそうで日本人のマスターとも懇意であった。この席で約1時間30分、食事の合間を縫って話を伺った。貴重な話と資料は言うに及ばず、クモ模様のネクタイと物入れ、トレーナーをいただき、感謝しきれぬ気持ちを胸に博士と名残りを惜しんで別れた。 オーストラリア最後の予定は、午前中に博物館、昼からゴールドコーストに観光をと思っていたがレイビン博士との話が弾み、ブリスベンで一日を過ごすこととした。ゴールドコーストの観光は次の機会に残して、今日の楽しかった会話に満足し、ブリスベンの周遊バスに乗ることとした。杉山さんには、午前のみの通訳をお願いしていたのに、午後もすぎ無償の時間延長もいとわずお付き合いいただいた。
  その杉山さんに停留所まで案内していただき、3時発のバスに乗る。1週15A$でここでも運転手がガイド役である。 今回の研修で、セアカは怖いものだとの認識を新たに覚えた。住民感情はそうでなくとも、怖いとの認識を植え付けることが何よりも大切で、次に駆除は継続して徹底して行うべきだのと思いがする。日本全国に広がれば、問題はより大きくなる。生息域を広がらせず、繁殖を防ぐ効果的な方策を講ずべきである。
  5月16日 「数々の感慨を胸に帰国の途へ」
  短かった8日間、楽しく充実感あるオーストラリアの日々であった。
  朝4時にモーニングコールで目を醒まし、最後のシャワーを浴びる。荷物の大半は昨夜整理していたので、後は洗面とセット用品を詰め込む。冷蔵庫からビールを取り出し、これも最後のオーストラリア産ビールを味わう。
  ホテルの窓からまだ明けない外の景色を眺めながらしばらく時間をつぶして洗って乾かない靴下にアイロンをかける。どのホテルもアイロン台とアイロンが用意されている。ワイシャツを着、ネクタイを締め、スーツを着用して出発の準備をする。
  5時20分、バックを運んでくれるよう電話で頼み、「G」階で2日間の精算を済ます。「G」階はグランドの意味で、日本の2階が1階になる。請求は、ビール3本分15A$強の支払い、杉山さんが来られるのを待つ。朝の早い時間に通訳の方空港まで見送っていただけるとは予想もしなかった。申し訳ないと思いつつも空港での手続きに心配がなく、安心して出国できると心強い。 5時30分、杉山さんがホテルにみえる。「子供の夜泣きでご主人が来られなくなった。主人も楽しみにしていたのに」とおっしゃっていた。杉山さんとタクシーに乗り、ブリスベン空港に向かう。20A$を払い、空港内のチェックインカウンターへ。杉山さんに搭乗手続きをお願いし、ブリスベンからシドニーへ、シドニーから関西国際空港までの座席が確保される。
  搭乗までの30分間、杉山さんにコーヒーとパンをご馳走になり、お土産もいただく。何か間違っているのではないかと恐縮しつつ、再びこの地を訪れ、お会いできることを約束して「さようなら」をする。 今度は観光に家族で来たいと思った。ゴールドコーストで1週間くらい海を楽しむのも良いかもしれない。
  朝早い空の旅、そういえばオーストラリアに最初に降り立ったのもブリスベンであった。ブリスベンからシドニーへ約1時間。シドニー空港では、国内線からインターナショナルエアポートまでバスで移動する。9時10分の出発まで20分しかない。出発ゲートを25番と確認して、サイフに残っているオーストラリアドルをチョコレートにかえ、10A$を残して使い切る。 駆け足で慌ただしくカンタス航空機に乗り、10分もしないうちに飛行機が動き始める。これで無事、関西国際空港までは帰れそうである。機内は随分と空いており、座席2人分をゆったりと使う。機内の免税品販売で残った10A$と足りない500円を日本円で支払い、今回の旅行で7回も利用したカンタス機の模型を購入する。
  午後3時、早い夕食が用意され、飛行機は後2時間30分で大阪に着く。

<私記 環境衛生課主査 北角 彰>